マイリビングダイアりぃ

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ご存じでしたか?「徳川御三家」の実は・・

2024-05-13 | カルチャー 見聞

今回は番組「歴史探偵」より「そうだったの?」っていう「御三家」のことです。

全く知らなかったのですが、「家光」の叔父さん達って年齢的に同世代だったんですね~~

「家康」はこの三人の事が歳をとってからの子供だったからか可愛がっていたそうです。

「尾張」には特に「名古屋城」を与え清須の街をお城近くに移した・・ということでした。

「義直」は関ヶ原の戦いの後「家康」が59歳の時に生まれたそうです。海上に「御殿」を作ってるんですね~

此方にも御殿を作ってます~

「家光」に対しての威厳のようです。さらに・・

「家康公」の為の専用空間らしいです

そしてわが地域の「紀州徳川家」は・・

「紀州東照宮」です「関西の日光」とも言われているようですが、行ったことなくて・・108段の急な階段(侍坂)を「和歌祭り」で「神輿」を担いで下って行かれる様子がニュースになっています。

「左甚五郎」作の彫刻も流石ですね。

「頼宜さん」は「捕鯨」や「戦術」が好きだったようです。

将軍には「尾張 紀州から・・」という「家康」の遺言もあったようです。

では水戸は?二家はそこそこの「石」を与えられてたようですが、水戸は少し格下だったのですねでも・・

「家光」と、「頼房」は年が近かったせいか、あとの二家は脅威でもあってか、仲が良くて「小石川後楽園」の「腰掛石」に座ってよく話をされていたそうです。

水戸城は「石垣造り」ではなかったようで・・

家光が石垣にしろ・・と「頼房」に勧めても「地層」がいいので今のままでいいといっていたそうです。

「石丁場」もあったようですが・・

この「那珂川」が難所だったようで頓挫したようです。

で、2代水戸藩主の「光圀さん」の時から「御三家」システムができていくのですね。

紀州藩は2人も・・でも「御三家」として始まった水戸藩から「最後の将軍」が出たということですね。できました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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