先日の休み、Sの前を通りかかると、しばらく顔を出していなかったオーナーが現れたので中に入る。その日は大阪出身のA-Showさんのステージ。全く予定外の訪問だったが、すでに渋みが出てきている野太い声とそのギターから搾り出されるブルースに時間を忘れた。曲の間に入るちょっとした日常を捉えたトークも大阪の匂いを放ち、面白い。自作の歌も味があったが、横文字の歌も日本語で舞い始めると土着の唄ではないかと思うほど、全く違うものに生まれ変わっていた。
素晴らしい演奏を聞きながら、どうしてSに来るだろうかと自問していた。そして、おそらくこういう予想もしない出会いにより、自分の中にある今まで気付かなかった部分を響かせるためではないのか、という思いに至った。
人間の持つ多面性、重層性。これは想像だが、われわれの体にある感覚器の無数の受容体が外の刺激を受け取り、その情報が処理されて、体に何らかの変化が起こる。その変化が時間の経過とともにそれぞれが絡み合いながら蓄積された結果、複雑な人間が出来上がるのではないのだろうか。しかし個人レベルではそのほとんどの受容体が手付かずの状態で死に向うと思われる。逆に言うと、それこそが個性の源泉なのかもしれない。皆がすべての受容体を同じように使っていたのでは、この世は無味乾燥としたものになるだろう。
その上で、できるだけ多くの刺激を受けてみたいという思いは消えない。むしろ、先日紹介したパブロ・ネルーダが叫んでいるような意味で、できるだけ生きたいたいという思いが強まる一方だ。一人の人間が一生かかって経験できる刺激を圧倒的に超えるだけの受容体が準備されているはずだから、使わない手はないだろう。
古代ギリシャ人の言う 「劇場」 の大切さ、すなわち、日常性から脱却し、移動し、観察することこそが哲学することにつながるという彼らの発見に深く同意している自分を改めて確かめていた。