「五十、六十鼻垂れ小僧」と昔聞いた時、何を仰っているのか、ご老人の戯言くらいに思っていた。しかしどうだろう。自分がその領域に入ってくると、まだ何も始まっていないことに気付く。もちろん、すでにやりつくしたと考えている方もおられるだろう。私の場合はとてもそのような心境には至っていない。これまでが何か準備期間のように思えてきてしようがない。錯覚でないことを願うが、。
------------------------------
夜、ある本を探すために本棚を覗いていたら 「独特老人」 なる3年ほど前に買った本が出てきた。ページを開いたところ何という偶然だろうか、「植田正治」 の名前と顔写真が出てきた。この人がインタビューされていたのだ。買った当時は気にもかけていなかった。少し読んでみると、アマチュア写真家の批判を繰り返している。景色やお祭りなどばかり撮っていないで、もっと勉強しろと言っている。
こういう偶然なので他のところも少し読んでみた。「堀田善衛」の中には次の言葉が。
「徳川時代には字の読めない人というのが非常に少なかった。今でもそうだと思いますけど、徳川時代からね、日本の識字率ってのが世界一だったろうと思いますよ。...
ところが、二十世紀の近代戦争においては、やっぱり日本の軍人たちというものが実に無教養だった。それこそ江戸時代の知的水準とかさ、それ以前の知的水準なんかよりもずーっと低かったでしょう。とにかくあの知的水準の低さっていうものは、それは日本の歴史の中でも驚くべき低さですよ。」
彼は7年ほどバルセロナに住んでいたが、不思議なつながりを感じるこんな記述がでてくる。
「日本人が亡命できるか? できないことは全然ないよ。でも、僕はしないよ(笑)。...それからたとえば、バルセロナで僕の家の近所に住んでいたのが、バルガス=リョサって言ったかな、ペルーかどっかの作家ですね。いろんな南米の作家たちが家持ってました。」
------------------------------
この本、30人ほどの老人へのインタビューからなる。その序文は次のように始まる。
「人の魅力とは何だろうか? 今の世の中のように、社会に飼いならされながら歳をとっても、それはその人を少しも魅力的にしない。」
その後に線がついているところがある。
「人が正しく生きるとは、年齢を重ねるにしたがって、解放されてゆくことだと思う。当たり前にこわいものがなくなり、よりこわい領域に入る。それは、ある意味では、人から逸脱してゆくことになる。かつて江戸の文人は『奇なくして趣なし』と言ったが、人の魅力とは、『奇』であり、言いかえればその人を突き動かす『妄想』である。妄想なくして魅力なし。」
「独特とは、円満な境地の中に現れない。むしろ『奇』『狂』『偏』の中にこそ現れる。したがって彼らは皆『野』の人である。通俗的な『権威』『名声』とは無縁、それを超えている。たとえ評価を得たとしても、結果に過ぎず、すぐさま破り捨ててしまう。手がつけられないのである。」
他にも面白そうな話が満載の趣。ゆっくりと噛みながら味わってみたい。
どのように自分に始末をつけるのか、それが目下のところ大きな問題です。
はじめまして。
毎日こちらにお邪魔するのが
最近の日課となっています。
本日のエントリーをきっかけに
購入しました。
「独特老人」他、同じ著書の本1冊。
近すぎてよく見えない今の自分を省みつつ、
老人と呼んでいいものか、
熟した大人達?の言葉を
追い掛けてみたいと思っております。
明日には届く予定です。
なんとも待ち遠しい。
おもしろそうな本の紹介、
ありがとうございました。