毎年、夏が来ると沖縄の戦跡を思い出します・・。摩文仁の丘の平和の礎(いしじ)に名前が刻まれている20万人もの尊い命が失われた地上戦の悲惨さと、ひめゆりの塔のひめゆり平和記念資料館の展示室にある200余名のまだあどけなさが残る少女達の遺影を忘れることができません。 ひめゆり学徒隊の方のお話を訊きながら、若い人たちも涙する姿をみて もっとすべての日本人が、世界の人々がこうした戦争の悲劇をきちんと知るべきだと思いました。
沖縄糸満市の旧海軍司令壕跡を訪れた時、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ワンコトヲ」という電文を残して 昭和20年6月13日に自決なさった大田実司令官のお人柄にも心打たれ、司令壕跡を訪れた時、まるで何かに誘われるようにそこの売店で大田さんのご子息様が書かれた本を買い、帰りの飛行機の中で一気に読みました。(大田英雄 著 父は沖縄で死んだ―沖縄海軍部隊司令官とその息子の歩いた道)
<<大学生活(広島大学教育学部)の最初は恥ずかしいことだらけである。(中略)
三つ目は 姉の結婚式に出席しなかったことだ。四姉、昭子がニュージーランドに嫁ぐことになり大学二年の五月、英連邦軍の教会で挙式することになった。いろいろあったけれど家族みんなが参列し祝福したのに私だけは ヘソを曲げて 列席を拒んだ。どうしてそうしたのか いまだに自分でもよくわからないが、たぶん、忘れていた「父の仇」意識が頭をもたげたのか、それとも当時流行だった「戦争花嫁」への反発があったのかもしれない。(本より抜粋)>>
大田さんのお嬢様の大田昭子さんが(1930年生まれ) ニュージーランドの方とご結婚なさったことが書かれてあったのを旅行後、何気無く、今は亡き父に話しましたら、私が生まれるずっと以前の昭和28年(1953年)に若かりし頃の父がオーストラリアに 仕事で船で行った時、大田司令官のお嬢様ご夫妻と船で乗り合わせ 昭子さんに英会話を指導してもらったり、お話をしたということをその時初めて父から訊いて、不思議な思いを感じたのです・・・。(当時の船旅はとても長いものでした)(青山 淳平【著】海にかける虹―大田中将遺児アキコの歳月)
父が亡き後 父の当時のアルバムを発見して、オーストラリアの新聞に大田さんのお嬢様の来豪された写真記事と仕事で訪れた父たちの写真が掲載されている記事の切り抜きを見つけました。それまでも沖縄上陸戦のことはもちろん知っていましたが大田実司令官のお名前はあのときの旅で初めて知ったのです。20年近く前にも同じ地を訪れたことがあったのですが、その時はただ戦跡めぐり・・・というだけで 大田さんの名前すら記憶に残ることもなかったのです・・。でもそれ以来、大好きな沖縄を何度も訪れる度に、この美しいサンゴの海で多くの方々が亡くなられた事をまず心に刻んで心で手をあわせてから遊ばせていただくようになりました。
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海にかける虹~プロローグ~
「ただちにオークランドのシェラトン・ホテルへ直行願いたい。日本の小渕首相がお待ちになっています。」ニュージーランドの首都、ウェリントンで暮らすオーモンドソン・大田アキコに、日本大使館から緊急の以来があったのは、1999年(平成11年)9月13日のことだった。
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父の1953年のアルバムでは サザーランド夫妻とあるのに、何故 オーモンドソン・・なのかな?とページをめくっていくと・・ニュージーランドの将校であったゴードン・サザーランド氏とは3人のお子さんに恵まれたものの 後に離婚なさっておられ、お子さんが成長後 日本語教師と生徒として知り合った空軍パイロットのエリック・オーモンドソン氏と再婚なさっていたことをこの本で初めて知りました。ページを追っていくと・・思ったとおり!
1953年に 神戸港からニュージーランドに嫁ぐためにサザーランド氏と一緒にオーストラリアへと向かった船でのことも書かれていたのです!私の父の話や アルバムの写真とぴったり重なるのでした・・。
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1953年(昭和28年)9月2日に神戸港を出航した貨客船は、太平洋を南下し、フィリピンのマニラを経由して、シンガポールへ入港した。ここで積荷の半分を降ろすと、船は進路を南東の方角へとった。そしてパプアニューギニアのポートモレスピーの沖合いで南転して珊瑚海へ入り、右舷にオーストラリア大陸をかいま見ながら、船は南半球の海原を一直線に下っていった。海を眺めることが好きなアキコにとって、船旅は快適だった。十数人の乗客ともすぐに打ち解けて仲良くなった。この中には、オーストラリアへ視察に行く○○省の役人がいて、彼ら4人がアキコに英会話のレッスンを申し込んだ。教えることは初めての経験だったが、アキコは思い切って引き受けた。すると生活の中で体験する具体的な事例中心の英会話教室は、船旅の退屈さも手伝ってすぐ評判になり船長までも参加する人気の講座になった。
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思いがけず(こころのどこかでは期待しておりましたが)、この本で父に出会ったことに 涙が出そうになりました・・。本の帯には・・
戦前の日本で育ち、戦後をずっと外国で生きてきた者はみんな、歴史の教訓を決して忘れようとしない外国人の歴史認識の厳しさを知っています。外国で生きていても、日本の歴史に責任を持たなければならないのです。独立から半世紀を越えた今、日本がどこへ行こうとしているのか。なんであれ、歴史の教訓を 忘れないでほしい。
とありました・・。
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大田昭子さんは 2000年11月3日
長年にわたる日本とニュージランドの友好親善に貢献した功績(ウェリントン・ジャパン・ソサエティー副会長) が認められ
日本政府から勲五等瑞宝章を授かっておられます。
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先日も 沖縄の宮古島に遊びに行きましたがあのどこまでも美しい青いエメラルドグリーンのサンゴの海をみるたびに沖縄の声 が聴こえるような気がします・・。宮古島は地上戦こそ免れましたが連日の空襲や日本軍の移住などで多くの犠牲者を出したと 帰り際に訪れたおすし屋さんのご主人からお話を伺いました。
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ざわわ・・ ざわわ・・
ざわわ・・ ざわわ・・
今でも沖縄本島などのさとうきび畑の下には、無数の戦没者の遺骨が埋もれたままになっているのだそうです・・・。戦争を知らない私たちではあるけれど、戦争の恐ろしさや悲しみは子供たちにも伝えていかなければならないと、平和であることに感謝したいと 大田さんのご命日である今日も思うのです。 合掌
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父のアルバムから。1953年(昭和28年)に オーストラリアへの船旅の途中、ラバウルに立ち寄った写真が「湾を臨む山上には 日本軍の要塞砲が空しく海に向かっていた」というコメントともに何枚もあり その中には 日本人の名前が刻まれた 墓標もたくさんありました・・。もしかしたらこの日本兵の方々の遺族の方さえも こうしてお名前が刻まれたお墓が作られていることを御存知ない方もいらっしゃるのでは・・と思わずにいられません・・。この時、大田昭子さんサザランドご夫妻もラバウルの光景をご覧になられており、昭子さんはどんな思いでいらしたことでしょう・・。
お父様が沖縄戦で自決なさり そのすぐ後に ニュージーランドの方とご結婚なさったことについて後にこのような記事をみつけました・・。
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以下 1996年 琉球新報ニュースより
◆NZでの沖縄芸能紹介に尽力 大田昭子さん
8月にニュージーランドで開催された日本祭に琉球舞踊団が参加したが、招待に力を入れたのがウエリントン市日本祭実行委員会委員のオーモンドソン・大田昭子さん(当時65才 サザランド氏とは離婚されオーモンドソン氏と再婚されていらっしゃいます)。大田さんは、沖縄戦で「沖縄県民斯ク戦ヘリ」と打電して自決した大田実海軍司令官の4女で、「ふるさとのように思っている沖縄の芸能を、ニュージーランドの人に紹介することができて大変幸せです」と涙を流しながら喜んでいた。大田さんは1953年にニュージーランド人と結婚して同国へ。「父親が沖縄で戦死しているのだから」「大田の家のことを考えなさい」と母や親せきに大反対されたが「戦争は敵がいるから起きる。いろんな国の人が仲良くなるのが大事。だから国際結婚をして飛び込んでいったんです」と当時を振り返る。ニュージーランドでは日本大使館などに勤務し、大阪万博や沖縄海洋博覧会などニュージーランドと日本の文化交流などに携わってきた。ウエリントンの日本祭は今年2回目で、2年おきに開催されている。1回目は友好都市の堺市から多数参加し、今年は他の地域からの参加を呼び掛けることになり、以前から沖縄の伝統芸能を紹介したいと考えていた大田さんは、知人を通して東京事務所に参加を打診。今年2月に正式な公演参加の依頼文書が県に届き、舞踊団のニュージーランド公演が実現した。公演は大成功で、舞台を見た大田さんは感激で涙を流し、ラストのカチャーシーも「泣き顔では踊れない」と舞台に上がれなかったほど。大田さんは「沖縄は父の墓もあるし、母の骨も分骨して一緒です。だから沖縄は私のふるさとのように思っている。舞踊団の人も私の家族のようで、夢が実現できてうれしい」と話していた。
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沖縄に熱い思い、サミット開催を決断/小渕内閣の足跡
小渕氏と沖縄のつながりは深い。1960年の春と夏、早稲田大学雄弁会のメンバーの一人として来沖。それ以来、たびたび摩文仁の南部戦跡を訪れ、遺骨収集を行っている。その後、沖縄問題を研究する沖縄文化協会で活動。79年、42歳で沖縄開発庁長官に就任。「(本土と)一体化が進めば、本土国民の沖縄への意識が薄れるのは、やむをえない面がある。しかしなお、多くの国民の理解を得て、沖縄の問題に対処しなければならない。沖縄の課題は多い」と指摘している。 沖縄サミット決定について野中広務幹事長代理は「小渕総理は琉球処分以来の沖縄の歴史の痛みにこたえ、自立経済の足掛かりにしようとした。地上戦を経験した沖縄の痛みと、戦後も米軍専用施設の75%という過重な負担を負わせていながら、沖縄を知っている日本人が少なくなっている。もう一度、沖縄を知ってもらおうという意図があった」と語っている。
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●サミット沖縄決定の裏話
小渕総理は、大田実中将の沖縄戦最後のとき、「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」という電文をよく覚えておりまして、お聞きしますと、小渕総理は海外で大田中将のお嬢さんに会ったそうなのです。お嬢さんは、第二次大戦直後、かの国の将校と結婚して向こうでずっと生活されておりまして、そのとき、こういわれたそうです。
「私は、日本軍の将校の娘であるとして、大変な迫害を受けました。しかし、父から聞いた沖縄県民の犠牲はより大きいものがございました。どうぞ小渕先生、政治家として先生がこれからも活躍していかれるなら、沖縄の地に特段の配慮を賜ることをお願いします」
小渕総理はこの話を何度もされて、何とか沖縄を考えられないだろうかと訴えられました。鈴木宗男自民党総務局長は、沖縄戦で自決した大田実海軍中将の決別電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」について触れ、小渕氏が海外在住の大田中将の娘から「後世、沖縄県民に特別の配慮を求めた父の思いを実現してほしい」と要請されていたことを明かす。「沖縄サミット開催は、小渕総理が大田中将の決別電文にこたえた結果でもあった」
という。
***2010年 7月 追記*****
亡き父のアルバムを整理していたら 昭和51(1976年)年7月に 父が仕事でニュージーランドに訪れた時に 昭子さんと ウェリントンの日本文化センターで 23年ぶりの再開をした時の写真があり 「23年前の新婚さんも 御年46歳」という コメントが書かれていました 。
今年6月6日
40周年記念 特別企画 ニュージーランドの首都ウェリントンからウェリントン・ジャパン・ソサエティ副会長 オーモンドソン・大田昭子さんを迎えて」 講演「私の日本、私のNZ」
というイベントがあり 大田昭子さんが 来日されたことを後で知って 昭子さんにお会いしたかったなあ・・・ととても残念でなりません。
☆ オーモンドソン・昭子さんを迎えて 講演「私の日本、私のNZ」全文
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なんくるなく、ない―沖縄(ちょっとだけ奄美)旅の日記ほか よしもとばなな