作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

歴史・エッセイ・小説・時事ニュース・・・なんでもござれのブログです。どうぞよろしく。

【 不毛地帯(3) 】

2010-01-12 16:09:30 | 02 華麗な生活

どこの会社でもそうだろうが、社員一人を育てるのに
タイヘンな費用と時間がかかる。
「作業」なら話は別だろうが「作業」と「仕事」とは自ずから
異なる。
「仕事」がこなせるようになって、社員ははじめて役に立つ
人間となる。

糸偏の繊維商社上がりの丁稚根性で何ができるとうそぶく
東京商事の鮫島。
そのモデルは日商の海部八郎氏だと前に書いたが、他社の
人間の間でも商社マンの鏡として、目標とする人物だった。

何も航空機・船舶の担当でなくても海部氏の歩む道の踏襲
はできる。小説「炎の商社マン」の主人公、中原は海部氏
よりも、もっと視野も広く臨機応変に働ける男。
商社でなくっても、サラリーマン全体に刺激を与えうる存在
であると自認する。



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【 不毛地帯(2) 】

2010-01-12 12:02:38 | 02 華麗な生活

年末年始のテレビ特番がいまだに続いていて、毎週木曜日
に放映されていた「不毛地帯」も続きを見ることができずにいます。

さて劇中で壱岐正として登場する元大本営参謀は誰が見ても
実在した瀬島龍三氏がモデル。
原作者の山崎豊子さんが、いくら「頭の中で創った人」と
言っても、「そのまんま」じゃないというだけで、これは作家
としての道義の主張。

ボクの「炎の商社マン」にも大勢の人物が登場するが、
その殆どにモデルらしい人物が存在した。
モデルなしに人物像を一から創り出すのはムリですよ。

さて近畿商事ならぬ伊藤忠に入社した瀬島氏はいきなり
繊維部に配属された。
その意味不明かつ何の意義もない。
原作者の書くとおり、大阪船場の小商人相手の丁稚・手代の
小商売。
伊藤忠の越後正一社長が瀬島参謀を敢えて繊維部に入れた
としたら、こんな労働集約的な商売に多くの人間を使っている
現状の虚しさを知らせたかっただけであったろう。

ボクは殆ど同時期に22歳で伊藤忠の同業の一社に入社
したのだが、社員の半数以上が繊維部門配属で労働集約的
な非近代ビジネスだったことに変わりない。

伊藤忠との違いは内地ビジネスが少なく、その分輸出が
多かったぐらい。
輸出といえば格好は良いが、大勢派遣された駐在員の
多くが、現地でインド商人やアラブ商人を相手に繊維製品や
織物を売っていた。
そんなことに貴重な外貨を無駄遣いしていた。
22歳でそのことの無意味と不合理に気が付いたのが
ボクという人間の不幸のはじまりだった。

丁稚根性の上司(ただの年長者)のイジメの対象になって
当たり前であった。
繊維部の空気を少し吸っただけで、国家防衛の大儀を担う
戦闘機ビジネスに抜擢された瀬島氏の物語もいいが、
繊維の内地ビジネスから抜け出して、ヨーロッパを舞台に、
先輩が誰もいないニュービジネスばかりをやって稼ぎ頭に
なった中原信介の物語はもっと面白いし、より多くの
サラリーマンの参考になる。


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【 新・腰痛治療日記(9) 】

2010-01-12 11:57:21 | 08 腰痛治療日記

同じ時期にボクの症状と同じ「脊柱管狭窄」で手術を受けた
人たちの何人かを知っている。

その誰もが全快はしていない。
痛みが残っている。
ボクは一昨日初めて2キロばかりを歩き、筋肉痛の後遺症も
なく、だから今朝も歩いて会社までやって来た。

これって、まる四年ぶり以上の画期的な出来事。
痛みはどこにも残っちゃいない。
ボクは幸せ者である。


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【 新・腰痛治療日記(8) 】

2010-01-12 11:55:11 | 08 腰痛治療日記

手術当日の麻酔の効きすぎで、昏睡状態から覚めず、
やむなく人工呼吸器を取り付けられて、深夜にいたりようやく
目覚めたとまでは、先述しました。
手術に要した時間は、たったの1時間半だった。
「神の手」ドクターの神技を物語っています。

さて「藤古川」とは何ぞや?
「これは苦しいやろ」と人工呼吸器を外してくれた麻酔科の
先生に、その翌日になってもボクは真顔で
「先生、ボクは藤古川の畔をさまよっていました」
「は~ァ、藤古川って、それ何ですか?」

これは訝しがる方が正常で、ボクがオカシイのです。
眠っている間は酸素量も少なくてすむ。
なまじ目が覚めて、当直のナースがやってきて何かと話し
かけるから、それに応答しようとすると人工呼吸器で供給
される酸素量では足りないわけ。

で、ボクは酸欠で大いに苦しんだ。
手術は大成功だったのに、酸欠で死んだんじゃ笑い話に
しても悲しい。
だけど、あの十時間足らずが、ホントのボクの危機。
そんな中での幻想が、ボクの意識では藤古川。
世間様では「三途の川」というらしい。
それを渡っていたら、あの世とやらに行ってしまい現世とは
サヨナラだった。

ハナシに聞いていた「お迎え」がなかった。
現れたのは甲冑姿の(戦闘中の)武士。
そやつが「この川を渡るに及ばず」と言ったからボクは渡ろう
としていたのをやめた次第。

「お迎え」があるとしたら誰が来てくれたろう。
小五で急逝した母であったか。
ソ連軍が満州になだれ込んできた8月9日。
その直後から始まった在満州の日本人の悲劇。
それを知らずに38歳で急逝した母は8月1日が命日。
だから平時のままで、葬儀もできたし火葬もできた。
引揚時にボクの胸に遺骨があった。

母は6人の子を産み、うち4人に幼児のまま死なれた。
気の毒な人生であったが、ソ連軍の暴虐の限りを見ることなく
死んだから、それが幸せと言えるだろう。

妻が言っていた「お迎えには当然お母さんが」は実現しなかった。
だから、こうしてまたブログを書いている。


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