作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 幼き日々のこと (4) 】

2007-03-24 20:01:54 | 12 幼き日々のこと


3才児で内地に還ったときは、その帰路の船内で
妹が高熱を出し、そのまま死んでしまったと聞か
された。前にも書いたが、ボクの記憶の中にこの
妹は全く存在しない。

「可愛い子は早く死ぬ」と嘆く父の言葉で、ボク
は大きく傷ついていた。どうせボクは可愛くない
もんな。

その後、ボクには双子の弟が生まれるのだが、内
一人は生後間もなく、もう一人も一年以内に死んだ
という。二人は果たして我が家に住んだことが
あったのか。病院暮らしの末の死ではなかったの
か。ともかくボクには、この二人についての記憶
も全く無いのです。ただ長い間ボクの傍に母の姿
がなかった。弟妹たちの看病で一緒に入院して
いたんだと思う。時代だから女中さんが居り、そ
の世話になっていた。

葵町時代だが、ボクは幼稚園に行っていない。
最近まで近所に幼稚園が無かったんだと思って
いた。我が家には玄関を入ってすぐ左に、一室
だけ洋室があり、ボクはその部屋のことを、
オーツセマと言っていた。応接間を聞き間違って
のこと。この部屋はボクのお気に入りの部屋で
入り浸っていた。当時は珍しかった電気蓄音機
を使ってレコードを聴きだしたのは、もっと後に
なってからだろう。

4才児の内地旅行の帰りは、初めて釜山から列車
での旅だった。ソウルだったかピョンヤンだったか
定かじゃないが、泊まった旅館の傍に小学校があり、
生徒たちが「ア~イ~ウ~エ~オ~」と節をつけて
歌うように日本語を習っている声が聞こえた。
幼児ながら何か微妙な複雑な思いがあった。

この帰国では広島・三原の祖父の兄の家に関わる
記憶が多い。この家は高台にあり、見下ろす所に
何軒かの農家が見えた。縁台の続きに離れ部屋が
あり、庭には大きな池があった。祖父の兄が大切
に飼っていた黒い鯉が夜中に跳ねて、池に架かっ
た橋にぶつかって死に、それを剛毅な祖父の兄が
大いに嘆いた。

ボクはこの祖父の兄に捕まって、湯殿に連れ込まれ
手ぬぐいを丸めて鉢巻をされ、頭から石鹸でごし
ごしと洗われた。この人には子供が出来ず、ボク
の母の弟の下の方が跡継ぎのため養子になって
いた。叔父に当たるこの人は、当時学生で三原の
家には居なかった。どうやら大阪の歯科の学校へ
行っていたんだと思う。

祖父の兄は、だから小さな子供を風呂に入れたこと
がなく、ボクは格好のオモチャにされた。祖父の
兄(言いにくいな、この呼び方)は喜んで風呂に
入ろうとするが、ボクには迷惑この上無いこと
だった。

ず~っと後になって、ボクがハンブルグに赴任する
直前、この叔父を訪ねたことがある。29年ぶり
の訪問だった。たいした高台ではなかったし、池
も小さな泉水に過ぎなかった。だが黒鯉のことは
叔父もその奥さんに当たる叔母も覚えていた。
子供の目には物事が大きく見えるのだ。

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【 幼き日々のこと (3) 】

2007-03-24 20:01:22 | 12 幼き日々のこと


父に連れられて内地に旅行をしたのは、2才児
から4才児までのことで、5才になってからは
戦時色濃厚となったからか、帰国した覚えがない。

2才児に記憶はゼロである。ただ内地から帰る
時に、大連まで船で行き、そこからの特急アジア号
の中で、満州巡業の大相撲の力士連と乗り合わせ、
羽黒山か名寄岩かに抱っこされたそうである。
双葉山も居たのに惜しいことをしたと、母だった
か、父だったかが述懐しているのを何度か聞いた。

アジア号は、満鉄が世界に誇る特急列車だった。
日本内地には無い、広軌を大連からハルピンまで
走る。満鉄は元々帝政ロシヤによって建設された。
それを日露戦争の戦利品として、大連・旅順の
管轄権と共に譲渡されたので、その満鉄自体と
沿線の防衛のために、関東軍が置かれたのである。

2才児の時は、日光にも見物に行ったという。
自分の意思なら、徳川家康を神と祭る場所なんか
に足を踏み入れることはない。

毎日のオヤツがピロシキだったのがこの頃であろう。
まだ自分の足で、パン屋さんまで行くことが出来ず、
当時家に居た女中さんに抱かれて行った。

ピロシキという名を知る道理が無い。肉パンと呼ん
でいたように思う。その頃の家は、奉天市萩町で
家を出て真っ直ぐに行き、大通りに出る角にロシヤ
人が経営するパン屋があったと、薄っすらと記憶
している。

本当は大した規模ではなかったと思うが、幼児の
目には門から玄関まで煉瓦を敷きつめた通路が長く
感じられた。父が庭に色んな花を咲かせていた。
ボクが最初に名前を覚えた花、それは松葉牡丹で
あった。

この家は途中で引越し葵町に移る。共に平安小学校
の校区であった。自分の足で、あんなに好物だった
ピロシキを買いに行った記憶が無いのはどうしたこと
だろう。萩町の家を出て、パン屋さんと逆の方に
歩いて行くと、平安小学校の裏門があり、勝手に
そこへ入って砂場で遊んでいた記憶が鮮明にある。

あるとき、砂場で遊んでいて尿意を催し、急いで家に
帰ろうとしたのだが、我慢が出来なくなって、途中
の家の塀に向かって立小便をした。何を思ったのか
よその子が、ボクの前に回り込んでしゃがみ、ボク
の小便を顔で受けた。断じてボクが命じたわけでは
ない。いきなりのことでボクは驚いたが、出始めた
オシッコは止まらない。そこへその子の父親が現れ、
その状況を目にして、ボクをこっぴどく叱りつけた。
当然だとは思うものの、ボクだってビックリしてたん
だ。言い訳の言葉も知らず呆然とした。あれは確か
に萩町時代のことだった。

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【 粋Z 】

2007-03-24 12:21:08 | 02 華麗な生活


新語である。Zという名の新しい雑誌が生まれ、
今なんでもターゲットとされる、団塊の世代を
主対象とするらしい。

そこで「新たな流行」を作る意図から「粋Z」なる
言葉を作り、これを広めようとしているわけ。

読み方は「イキ・ジー」で、お洒落な爺さんとの意。

要するに、狙われてるわけ、アパレル業界から。




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