■最近お天気の変化周期が非常に短いです…
お天気=神様の気分 というのは、アミニズムの発想が色濃く残る日本人らしい発想と思います。
お天気も科学的に解明されてきて、ニュースなどを聞いていると単なる熱交換の原理のように
思えてきますが…その熱交換が発生するということそのものが神の業のように感じてしまう…
科学も突き詰めていくと、”そうであるからそうである”としか言えないところへ到達し、自然の仕組みの
巧妙さに感嘆させられ、そして、神の存在を感じさせられます。
昔の人は、雷など天災は神の怒りと考えていたのですが、結局現代の科学をしても、天災は解明はできても
避けることはできない。
避けることのできない出来事の理由が分かったからと言って、起こったことを取り戻すことはできないのですから、その意味では科学は単なる気休めです。
結局、昔の人は正確な因果関係である科学的メカニズムは知らなくても、起こった事実とその結末の関係において、どうしようもないという事実は今も昔も変わらない。 天災=自然という名の神からのNOというお返事、という解釈は結局は正しかったのでは…と思えますね。
■ Grace
山に登ると神々しいほどに美しい景色に会います。そのたびに恩寵(Grace)という言葉が頭に浮かびます。
要するにハレルヤを歌いたくなる感じですね。
初めてそのような景色に会ったのは、11月の西穂独標…ほんの少しの稜線歩きでしたが、雪をかぶった稜線は信じられないほど美しく、その頃はまだ夏の山ズボンで上着はユニクロという状態でしたが、息をするのを
忘れそうでした…。
神様が山においでと誘っている(笑)! と自分に都合よく勘違い…
去年の天狗も、仙丈も、ツルネも…大晴天。お山が私を呼んでる!
山が私においでと言っている(笑)
山に登っていると、自然=神なのだ、という思いが沸き立ちます。
その神は、山麓から山頂へ行けば行くほど純粋で感情を伴わない無垢な神になる。無垢な神は、怒れる神ではなく”であるからであるだけ”の神。
厳しさも美しさも、そうであるからそうであるだけの根拠もなく、意思も持たず、相手を判断しない神。
一方山ろくへ近づけば近づくほど、神は人間っぽくなり、生活感一杯です(笑)お地蔵さんや修験道の
山岳信仰の痕跡を持ち出さずとも森の生き物の痕跡が一杯で、支えあって生きている、という社会性を
感じます。
■ 白馬の遭難のこと
お天気という名の神が荒れ狂えば人間は?
行動を続ける = 挑戦的態度
退避する = 謙虚
を意味するのか? それは見る人が置かれた状況によりますね。結果論に過ぎません。
行動を続け成功 → 賛美
行動を続け失敗 → 批判
そこは人間くさいところです。「勝てば官軍」方式です(^^;)
登山の歴史の中には、否定的環境にありながら、積極的に行動を続けることを賛美する風潮があります。
(逆境に打ち勝って登頂する記録樹立の世界の伝統)
最近、白馬のほうで遭難がありました。服装が軽装だったことが原因のように報道されていますが…
登山経験は豊富な人たち…きっと装備はもっていたでしょう…
■ あの天気図で、登山を中止にしなかったこと
それが何を意味するのか?
全員がなくなってしまったので分かりません。
しかし、自然という名の神様に対する態度の問題だったのではないかと…。分かれ目は(経験)ではなく(態度)。
古くから山をやり続けると(態度)は(登山の精神文化に培われる)のは当然のことです。
あの天気図(台風並みの勢力)で、登山を中止にしなかったこと…。
ヤマレコ
それは無謀と批判されるのは失敗したからであって、帰ってくれば賞賛を浴びたかもしれない。
登山経験の浅い私でさえ、いや浅いからでしょう、3,4日の天気図は即没。勝算はいくらも
感じられませんでした。が登山的精神文化から遠いところにいる、という点は新参者の利点かもしれません。
■ 対応力より限界点の差の認識
(経験により自然の脅威に打ち勝つことができる)…というのは、登山の場合(対応力)という言葉で表されます。
(経験が多ければ多いほど)=(対応力が大きい)
しかし、人間の対応力には限界点があり、自然の脅威のほうは限界点がない。
10分であられや雹が降り注ぎ、竜巻が来るまでたったの7分… きっと、もっと早くもっと大きくなることも可能なのでしょう…
神を畏れるべしという話にまで持っていかなくても、限界点の差の認識は、一般的な合理思考で想定しうる範囲の話になります。
原発が予備電源を米国の安全基準並みに持っていなかったことを思い出してしまいます…。
つまりは、進歩思想がもつ思想的弱点、盲点の一つなのではないか?と思います。
傲慢になったつもりはなくても、見落とすのです…それは進歩し乗り越えることを良しとし続ける限り、構造的に起こり続けます。人間の進歩の速度や限界点と自然の脅威が”競合関係”にあるからです。
易しくいうと 人としての限界を受けいれる、というような意味です。人は神にはなれない。
どんなに科学が進歩しても自然はさらにその上を行くのです・・・
■ では、そのとき、神はどこにいたのか?
山ろくへ行けば行くほど、自然という名の神は、世俗的で人間くさくなります。植生は豊かになり、それぞれが支えあい、ゴミは多少落ちても自然の風景になじんでしまい、動物達の糞は無造作にあり、食い散らかされた樹木が痛々しい姿を晒しています。生きとし生けるものすべてが全体のサプライチェーンに組み込まれている。
そこに人間臭さを見るのは、人間くささというのが、情け深さであり、弱さに対する寛容であり、打算であり、多様性だからですね。雑多な植物が共棲し、腐敗もし、争いもあり、受益で支え合っている。
社会の中で生きる。つまり人間というのは下界の住人なんだなぁ…と上に登るたびに思うのです。
人間は神の意図により、神に似姿で作られていると多くの宗教で言われます。
人間に神性があわられるというのは、きっとこういう意味なんですね…
http://bochiiko8.blog14.fc2.com/blog-entry-169.html
不屈の精神が表現されるとしたら、こういう状況においてなのだと感じました。
人間が人間らしくあるということは、情け深さ(Marcy)と許し(Forgiveness)を持つということ。
判断しない。それは神でない人間にはできないことです。けれども、起きてしまったことを判断しても
(つまり遭難者を責めても)仕方ないことは分かります。
むしろ傍観者が注目すべきことは そのとき、どこに神はいたのか? 怒れる雷雲の中ではなく、レスキュー隊の中に宿っていたのです。
■ 失われた記憶
現代は人間だけが自然の循環から切り離されています。 それは本質的な豊かさなのかどうか…
豊かになった(という仮説の中にいる?)現代人が自然回帰したがる…のは、仮説がどうも怪しいと
感じている人が多いからかもしれません。
そして、人間が神の似姿だということを思い出すため…。
今となっては、神に似ているということがどんなことだったのか人は思い出すことさえできません…
だから 人は山に登るんだろうなぁと思うのです。
失われた記憶を取り戻すため…一体我々はどう生きるべきか…という…
お天気=神様の気分 というのは、アミニズムの発想が色濃く残る日本人らしい発想と思います。
お天気も科学的に解明されてきて、ニュースなどを聞いていると単なる熱交換の原理のように
思えてきますが…その熱交換が発生するということそのものが神の業のように感じてしまう…
科学も突き詰めていくと、”そうであるからそうである”としか言えないところへ到達し、自然の仕組みの
巧妙さに感嘆させられ、そして、神の存在を感じさせられます。
昔の人は、雷など天災は神の怒りと考えていたのですが、結局現代の科学をしても、天災は解明はできても
避けることはできない。
避けることのできない出来事の理由が分かったからと言って、起こったことを取り戻すことはできないのですから、その意味では科学は単なる気休めです。
結局、昔の人は正確な因果関係である科学的メカニズムは知らなくても、起こった事実とその結末の関係において、どうしようもないという事実は今も昔も変わらない。 天災=自然という名の神からのNOというお返事、という解釈は結局は正しかったのでは…と思えますね。
■ Grace
山に登ると神々しいほどに美しい景色に会います。そのたびに恩寵(Grace)という言葉が頭に浮かびます。
要するにハレルヤを歌いたくなる感じですね。
初めてそのような景色に会ったのは、11月の西穂独標…ほんの少しの稜線歩きでしたが、雪をかぶった稜線は信じられないほど美しく、その頃はまだ夏の山ズボンで上着はユニクロという状態でしたが、息をするのを
忘れそうでした…。
神様が山においでと誘っている(笑)! と自分に都合よく勘違い…
去年の天狗も、仙丈も、ツルネも…大晴天。お山が私を呼んでる!
山が私においでと言っている(笑)
山に登っていると、自然=神なのだ、という思いが沸き立ちます。
その神は、山麓から山頂へ行けば行くほど純粋で感情を伴わない無垢な神になる。無垢な神は、怒れる神ではなく”であるからであるだけ”の神。
厳しさも美しさも、そうであるからそうであるだけの根拠もなく、意思も持たず、相手を判断しない神。
一方山ろくへ近づけば近づくほど、神は人間っぽくなり、生活感一杯です(笑)お地蔵さんや修験道の
山岳信仰の痕跡を持ち出さずとも森の生き物の痕跡が一杯で、支えあって生きている、という社会性を
感じます。
■ 白馬の遭難のこと
お天気という名の神が荒れ狂えば人間は?
行動を続ける = 挑戦的態度
退避する = 謙虚
を意味するのか? それは見る人が置かれた状況によりますね。結果論に過ぎません。
行動を続け成功 → 賛美
行動を続け失敗 → 批判
そこは人間くさいところです。「勝てば官軍」方式です(^^;)
登山の歴史の中には、否定的環境にありながら、積極的に行動を続けることを賛美する風潮があります。
(逆境に打ち勝って登頂する記録樹立の世界の伝統)
最近、白馬のほうで遭難がありました。服装が軽装だったことが原因のように報道されていますが…
登山経験は豊富な人たち…きっと装備はもっていたでしょう…
■ あの天気図で、登山を中止にしなかったこと
それが何を意味するのか?
全員がなくなってしまったので分かりません。
しかし、自然という名の神様に対する態度の問題だったのではないかと…。分かれ目は(経験)ではなく(態度)。
古くから山をやり続けると(態度)は(登山の精神文化に培われる)のは当然のことです。
あの天気図(台風並みの勢力)で、登山を中止にしなかったこと…。
ヤマレコ
それは無謀と批判されるのは失敗したからであって、帰ってくれば賞賛を浴びたかもしれない。
登山経験の浅い私でさえ、いや浅いからでしょう、3,4日の天気図は即没。勝算はいくらも
感じられませんでした。が登山的精神文化から遠いところにいる、という点は新参者の利点かもしれません。
■ 対応力より限界点の差の認識
(経験により自然の脅威に打ち勝つことができる)…というのは、登山の場合(対応力)という言葉で表されます。
(経験が多ければ多いほど)=(対応力が大きい)
しかし、人間の対応力には限界点があり、自然の脅威のほうは限界点がない。
10分であられや雹が降り注ぎ、竜巻が来るまでたったの7分… きっと、もっと早くもっと大きくなることも可能なのでしょう…
神を畏れるべしという話にまで持っていかなくても、限界点の差の認識は、一般的な合理思考で想定しうる範囲の話になります。
原発が予備電源を米国の安全基準並みに持っていなかったことを思い出してしまいます…。
つまりは、進歩思想がもつ思想的弱点、盲点の一つなのではないか?と思います。
傲慢になったつもりはなくても、見落とすのです…それは進歩し乗り越えることを良しとし続ける限り、構造的に起こり続けます。人間の進歩の速度や限界点と自然の脅威が”競合関係”にあるからです。
易しくいうと 人としての限界を受けいれる、というような意味です。人は神にはなれない。
どんなに科学が進歩しても自然はさらにその上を行くのです・・・
■ では、そのとき、神はどこにいたのか?
山ろくへ行けば行くほど、自然という名の神は、世俗的で人間くさくなります。植生は豊かになり、それぞれが支えあい、ゴミは多少落ちても自然の風景になじんでしまい、動物達の糞は無造作にあり、食い散らかされた樹木が痛々しい姿を晒しています。生きとし生けるものすべてが全体のサプライチェーンに組み込まれている。
そこに人間臭さを見るのは、人間くささというのが、情け深さであり、弱さに対する寛容であり、打算であり、多様性だからですね。雑多な植物が共棲し、腐敗もし、争いもあり、受益で支え合っている。
社会の中で生きる。つまり人間というのは下界の住人なんだなぁ…と上に登るたびに思うのです。
人間は神の意図により、神に似姿で作られていると多くの宗教で言われます。
人間に神性があわられるというのは、きっとこういう意味なんですね…
http://bochiiko8.blog14.fc2.com/blog-entry-169.html
不屈の精神が表現されるとしたら、こういう状況においてなのだと感じました。
人間が人間らしくあるということは、情け深さ(Marcy)と許し(Forgiveness)を持つということ。
判断しない。それは神でない人間にはできないことです。けれども、起きてしまったことを判断しても
(つまり遭難者を責めても)仕方ないことは分かります。
むしろ傍観者が注目すべきことは そのとき、どこに神はいたのか? 怒れる雷雲の中ではなく、レスキュー隊の中に宿っていたのです。
■ 失われた記憶
現代は人間だけが自然の循環から切り離されています。 それは本質的な豊かさなのかどうか…
豊かになった(という仮説の中にいる?)現代人が自然回帰したがる…のは、仮説がどうも怪しいと
感じている人が多いからかもしれません。
そして、人間が神の似姿だということを思い出すため…。
今となっては、神に似ているということがどんなことだったのか人は思い出すことさえできません…
だから 人は山に登るんだろうなぁと思うのです。
失われた記憶を取り戻すため…一体我々はどう生きるべきか…という…