-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

それは細野村の167年前の出来事を物語りました。

2017-04-26 18:49:41 | 歴史

 平成29年4月23日(日)、御堂森登山を終わって帰路において、畑沢の岡田沢から元細野分校へ通じる山道を調べたくなりました。体はへとへとに疲れていたのですが、折角、細野に来た機会を有効に使いたくなりました。

 登山の閉会式会場から北西に進んで、峰岸地区にある細野地区生涯学習推進センター前に車を止めました。センターの写真を撮っていたところ、消防団の羽織を着ていた若い人が、親切に声をかけてくれました。何か調べるにも、地元の人からお話を聞けることは、何にも勝る力になります。ところが、山道などはかなり昔のことなので、近くの家に行き年配の御婦人に聞いて下さいました。ここでも私は恵まれました。この方も親切に教えてくださいました。そこで分かった山道のお話については、後日、畑沢の歴史として投稿いたします。

 今回は、山道のお話が終わったところで、さらに行き当たりばったりに質問したお話になります。山道の方向を眺めているうち、田んぼに囲まれた農道の脇に墓石のような物が建っていました。御婦人に聞きました。

「あれは何ですか」

 

「昔、飢饉があった時に、この私の家に腹を空かした大勢の人たちがやってきたそうだ」

「私の家では、大きな鍋に食べ物を煮て、飢えて助けを求めてきた人たちに施しをしていた」

「ところが、折角、細野まで辿り着きながら、あの石が立っている場所で死んでしまった」

「その人を憐れんで建てたのがあれだと言われている」

 細野村の人達は、昔から心優しい人がいたようです。嘉永六年(1853年)に畑沢村が「背中炙り峠一件」において、尾花沢宿、本飯田宿及び土生田宿の言い分に反論する時も、畑沢に味方をしてくれました。早速、石の所に行ってみました。高さは1mの小ぶりなものです。 墓石ではなくて、石仏でした。石材は朧気川で産する火山岩です。凝灰岩と比べて硬い石材ですので、文字を刻むのは大変な労力になります。

文字はかなり見えにくくなっていますが、どうにかほぼ読み取ることができました。

 右側に「嘉永三☐☐☐」と刻んであります。☐部分は文字が消えかかっています。嘉永は六年までですから、嘉永三年に間違いないようです。そうすると、「☐☐☐」は、嘉永三年の干支になりますので、「庚戌年」となると思います。

 中央は、「地蔵大菩薩」のようです。

 左側は、「八月吉日」です。

 つまり、嘉永三年(西暦1850年)の八月に造立した地蔵大菩薩の石仏であることが分かりました。ところで、飢饉と言えば宝暦、天明、天保の大飢饉を思い浮かべますが、嘉永年間の飢饉を聞いたことがありません。嘉永三年ごろにも飢饉はあったのでしょうか。資料がありました。横沢昭男氏が編集した「尾花沢市史の研究」の213ページに次のようなことが書いてあります。

   嘉永 三 一八五〇 八月一八、一九大雨にて大洪水となる

                 畑方九分通り浸水、天保四以来のこと

 ちょうど嘉永三年にも大きな自然災害がありました。この石仏は飢えて死んだ直ぐ後に造立された様です。


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2 コメント

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Unknown (通りすがりの者)
2017-04-28 16:59:05
おおぉぉ・・・細野だ・・・懐かしいです。
この石にはそんな意味があったんですね。
やはり、東北は特に飢饉で打撃を受けましたよね・・・。長い冬もありますし、特にここは内陸部で、海もなし・・・。
とても大変だったんだろうなぁ・・ご先祖様を思うと私たちは、幸せです。そういうのを忘れないようにしたいです・・。
通りすがり方へ (スビタレ)
2017-04-28 20:02:18
 もしや、通りすがりの方はあの学生さんではないかと思います。コメントありがとうございます。
 飢饉があっても、村人は助け合っていたんだろうと思います。縄文時代から続く御先祖様の魂の炎は、私たちにも燃えています。これだからこそ、「東北でよかった」ですね。

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