大銀杏ジュンコ  オオイチョウ・ジュンコ

女性として生きる知恵、大銀杏ジュンコがホンネで書きます。人を傷つけるためではなく、私の理解を深めるために。コメント歓迎!

悪魔代表で

2005-04-03 19:21:27 | 家族というカルト
「犬は群れを作る習性がある」という時、すべての犬は群れに属しているというのとは違いますよね。「人は群れを作る習性があるか」と問われたら、これは「ある」です。えー!私は群れるの嫌いという人も、生物の世界から見ればこの文明社会そのものが秩序ある「群れ」なんです。群れるのが嫌いと言う人は、群れの中で秩序を守る限り干渉されないという状態を、独立していると錯覚しているに過ぎないのではないでしょうか。

学校教育よりも神様の教えを守ることをを尊重する家族の中で、大銀杏ははみだしものでした。姉と兄は年が近く、物心がつくまえからお互いの存在があったからわりと連帯意識がありましたが、私は彼らにとっては新入りで、遊び仲間ではない。仲間に入れないのは悲しく悔しかったけれど、子供の成長の具合から考えれば当然だし、大銀杏には一家のベイベーという玉座がありました。人々の注目と愛情とを一身に受けていた身には、不安などなかったのです。そしてそこが自分の居場所だと思い込んでしまいました。その座を弟が生まれることによって奪われてしまうと、私の居場所は突然なくなってしまったのです。不安と不満が膨らみ、心が荒れる。

もっと大きくなった小学生のころ、教会で様々なたとえ話を聞かされるたび、そこで出てくる裏切り者や放蕩息子に自分を重ね、天の父の慈悲深さを学ぶより罪深い自分の惨めさだけに苦しみました。大銀杏には当時「味方」というのがいなかったのです。兄弟は母親の矛先を如何にして自分以外に向けるか、びくびくしながら暮らしていました。親のことを学校の先生に相談すれば「親の悪口」だと叱られ、教会では罪の告白をさせられ、自分は悪い、自分は汚い、自分は罪深い、そういう思いばかりが強くなっていったのです。

さらに私は中学生ごろまでずっと「悪魔」「悪魔の子」「悪魔みたい」「悪魔だ」と、事ある毎に母に言われました。大人になってから虐待の本を読み、よく考えてみると、母がそうやって私を悪魔と呼ぶときにはきまって辺りに誰もいませんでした。寒い廊下だったり、去り際に耳元で言ったり。とにかく母の努力の甲斐あって、私は家族という小さな群れの中で、自分を「悪魔」だと位置づけていました。そして実際に人を傷つけることでした自分の存在を見出せないでいました。家族の空気が冷たいのも自分のせい。私さえいなければ家族は仲がいいのかもしれない、自分はいないほうがいいとみんな思っているに違いない。いつも暖房のない寒い部屋で一人で丸くなって、暖かい階下から聞こえてくる笑い声を憎みながら、一方で自分はどうして悪魔になんか生まれてきたんだろうと、運命を憎みました。

母は彼女自身の心の中にある悪意の固まりを私に投影していたにすぎません。私は悪魔を見たことがないので、それがどういうものかわからないけど、彼女の心の中では私の顔をした悪魔が笑っていたのでしょう。今日私が元・悪魔として一言言わせてもらえば、「悪魔だって好きで悪魔に生まれたわけじゃない。悪魔には悪魔として存在するほかに選択肢がない。」ということです。オサマ・ビン・ラディンの写真を見ても、北朝鮮の国旗を見ても、私にはそれが悪魔には見えない。むしろテロと戦うことを聖戦のように誇り高く宣言する側の人間を見て、テロを生む原因を作った張本人が被害者の顔をして正義に酔っているように見える。そして大銀杏は「お前は本当はそれを知っているんじゃないのか?」と問いたい。彼らの中に「悪魔」とささやき続けた母の面影を見るからです。

怖くて聞けない、聞きたくない。

2005-03-30 14:39:37 | 家族というカルト
私たち姉妹は子どものころ仲がよくありませんでした。姉は優秀だけど意地悪でたくさん泣かされました。だけど大人になってから姉がいじわるだった理由も理解できるようになり、同じカルト集団にかつて所属していた被害者意識のようなものを共有するようになりました。姉もかつては私を心のそこから憎く思っていたことでしょうけど、特に私が成人してからは仲良く話すし、旅行に行ったこともあります。私は姉が嫌いではなくなるだけでなく、逆に昔のことを思い出して気の毒にすらなることすらあります。彼女もまた母によく人格そのものを否定されていたからです。

ある日、風邪を引いて熱があった姉は水銀の入った体温計を割ってしまいました。水銀の入った体温計は使う前に振って水銀を圧縮します。ガラスで出来ているので落としたりぶつけたりしたら割れ、人体に有毒な水銀が飛び出てしまうため結構危険です。水銀は空気中で気化してガスの状態でも人体に有害ですから母はすぐそれを片付けなければなりません。一日目は怒られただけで済みましたけど、なんと彼女、翌日にも新しい体温計を同じように割ってしまったのです。

なんで割ってしまったかと言うと、母にギリギリと締め上げられ、泣くまいと堪えながらやけになって体温計をぶんぶん振り回したからです。そんなイライラした状態でしたから割れてあたりまえなんですが、別にわざとやったわけじゃない。それを母がものすごい形相で「うち中の人を水銀中毒で殺す気????」と真剣に、何度も繰り返し聞くんです。んなわきゃねー・・・。

そういえば兄も同じようにやられてました。遠足で虫取りに行って蝶を捕まえてきました。翌日には放してやるように母は言いましたけど、蝶は翌日までももたずに死んでしまいました。兄に蝶を埋めるように指示し、泣きながら穴を掘っているその背中に母は「あなたが殺したのよ」と低い声で言いました。おいおい・・・もう悪いと思って泣いてるやん・・・。今ならそう思えるけど、当時の大銀杏はまだ幼稚園。その母の恐ろしさだけが心に残り、蝶は未だに苦手です。っていうか恐怖症のレベルです。気失いそうになるもん。

ま、それは本題ではなくて、その姉に未だに聞けないことがあるんです。実は大銀杏中学校の卒業文集に将来なりたい職業として「通訳」と書いたんです。人と人のコミュニケーションを橋渡しする「糸電話の糸」になりたいと書いたのです。大銀杏は今通訳ではありませんが、姉は通訳です。姉ちゃん、君が通訳になったのは、私が通訳になりたがっていたからじゃないの?それが聞けん。聞けませんよ、だって「あたりー」とか言われても嫌だし「は?何それ?」って言われても信じられないんですもの。しかもね、大銀杏自分もちょっとそういうことをしてしまう人間なんですよ。人よりちょっと要領がいいところがあるので、いけ好かない人が誰かのことを好きだと言えばちょっかいだして彼氏にしてしまったり(昔の話です)、人が何か習い事をやろうとしてたら「あー、面白そう」とか言って自分のほうが上手になって見せたり。要するに自分で本当にこれが好きということがないから、ヒマ。ヒマだから人でもからかって見るかっていう心理があるんです。

姉ちゃん、たとえそうでも別に恨まないよ。同じ親から生まれた子ども同士、ろくなもんじゃないね。

家族というカルト2

2005-03-18 18:17:06 | 家族というカルト
子供の世界は小さいです。家庭は世界、親は神。自分の世界が広がるにつれて普通はその相対的地位が下がっていくものですが、大銀杏の過程はカトリック・キリスト教。その宗教的な特徴がうんぬんというよりも、毎週教会に行って「私たちは特別です。キリストの復活は本当にあったんです。」と言われ、親も兄弟もふんふんと頷いていれば、そうかそうなんだと我も思うわけです。

まずいことに大銀杏の父親はけっこうご立派な肩書きを持っていて、母も相当なお譲なのです。ご近所からも学校でもどちらかと言えば羨望のまなざしを送られることの多い家庭を想像して下さい。子供は素直に親を誇らしく思うのです。その親が言うことを疑う余地なんかないんです。そして毎週毎週教会に行き、キリストは病人を治した、復活したと言われれば、もうそうかそうかと丸呑みですよ。

今思えばですね、キリストは偉大な指導者でありました。だけどキリストが神の子であるなら神の法、つまり物理法則を自ら破ることなんてあり得ないんです。キリスト教徒は自らの法だからこそ自らが破って見せるなんていいますが、神が神であることを人間に対して証明しなければならないと言う発想こそイカれていませんか。

いずれにせよ、大銀杏は馬鹿みたいに母を信じて馬鹿みたいに敬虔な信者になろうとしていたのです。何度も言うようですが、大銀杏のゆがんだ世界は周囲から向けられる羨望のまなざし、教会での日常、毎食・毎夜のお祈りの時間などで幾重にも補強されていました。学校の先生に何を言われても自分の母の方が正しいと信じていました。教会の日曜学校で教えられる聖書の解釈よりも母の解釈を信じました。だって私の両親は教会社会でもリスペクトされていたわけですから。

大銀杏も結構頭の回転が速いほうなので人の中では上手に立ち回っていましたが、自分の中では混乱がたくさんありました。友達と遊びでやったことすべてを母に「悪いこと」だとしかられれば罪の意識に苦しみ、恐ろしいほど激しく自分を責めました。自分の目から見える同じ世代の子供たちの生きる世界、そこから賭け離れた自分の心。それはまさにカルト世界でした。そして私が選ぶのは常に大銀杏教の歪んだ教え。だってそれが大銀杏の家庭でしたから。

そんな状況で最初に外の世界へのしっかりとした足がかりをつかんだのは学校の普通の友達の存在でした。彼女たちは明るくていたずら好きで、緊張感でいっぱいの大銀杏の兄弟よりもずっと優しかったのです。その彼女たちの笑顔は大銀杏の罪の意識にまみれた魂よりよっぽど清潔に見えました。理屈ではありません。罪人であるはずの彼女たちのほうが大銀杏よりずっと天国に近いと直感したのです。「私の友達は罪人なんかじゃない」そういう直感が、後に自分の意思を取り戻していく時の礎になっていったのです。

うそをつく子供

2005-03-15 21:40:39 | 家族というカルト
大銀杏の小学校の卒業文集には、将来の夢は「外国に永住」と書いてあります。私は幼いころ海外で過ごし、幼稚園に入るころに日本に戻ったので、幼い日の万能感や幸福感は海外の生活に直結していました。幼稚園に入る前の記憶なんてないという方も多いでしょうけど、私はそれ以前の記憶も時間や季節や前後の出来事も含めてかなり覚えています。環境が大きく変わった場合、その前と後というはっきりした大きな枠組みが頭の中にできるためでしょうか。外国に永住というのは、今思えば日本に来るまでは私は幸せだったという意味だったのです。

幼い日の記憶がある理由としてもう一つ考えられるのは、私の人生をおそらく決定付けたトラウマが作られた日を境に警戒心というものを持つようになり、周囲の世界を注意深く観察するようになったことです。母が焼いたケーキのクリームを、姉にそそのかされて一緒に舐めてしまった時、「指の跡が小さい」ということで私一人のせいにされました。ショックだったのは叱られた事ではなく、自分は最初悪いことだから止めようと言ったけど姉に言い包められた、そして自分だけがやったんじゃないという必死の訴えをまったく信じて貰えなかったことでした。

幼児が泣き叫びながら訴えたことだから言葉もうまくなかったのでしょう。だけど信頼していた母から全く信じてもらえなかったこと、姉の「やってない」という主張はすんなり受け入れられたこと、つまり自分よりも姉を信用しているということは私にとってあってはならないことでした。そしてさらに家族全員の前で謝るように強要されたこと、そういうことで私は屈辱と恐怖を同時に味わいました。母は公平な裁定者ではない、母は自分の庇護者ではない、兄弟は信頼できない、自分は信用されていない。それまで自分が生きてきた幸せな世界が壊れるのを、まさに世界が終わるような気持ちで見たのです。

傍から見ればものすごく他愛ないことですが、その時の私は「母の見ていないところで靴を履いたまま家に上がったことがどうしてバレたんだろう?本当に母が言うように母は何でもわかっているのだろうか?」という疑問と格闘中でした。この一件で答えはノー。見えないところで起きたことは本当にはわかっていないことが明らかになりました。つまり彼女はウソをついていた、姉もウソをついて罪を免れた、ウソはついたもん勝ちなんだと私は思い知ったのです。そして私はウソをつく子供になりました。

私はウソを平気でつきました。そしてそれがばれて怒られている時で、いつも「本当は見てもいないくせに」とあの時自分を責めた母を責めていました。たぶん自分も気づかないような深い深い心の奥底で、ずっと。大銀杏はまさかあの時自分を間違って叱ったことをずっと怨んでいるわけではありません。間違いは誰にでもあるでしょう。問題なのは私が母の不完全さを暴いてからもずっと、自分は絶対に正しいと振る舞い続けたことです。それをキリスト教の教理を借りて私にに信じるように強要し続けたことなんです。ウソをつき続けようとしたことなんです。私はいつも分かりやすいうそをついていました。そのウソを頭から信じない母、そのウソを責める母を見て、私は何かを確認していた気がします。

少なくとも卒業文集に書いた自分の将来「外国に永住」は、ウソじゃありませんでした。たとえそれが家族ごと日本を切り捨てるために叶えられたものだとしても。

家族というカルト1 大銀杏教

2005-03-10 08:32:31 | 家族というカルト
大銀杏の両親はカトリック・キリスト教徒です。破壊的なカルト集団ではなく、こういうことばはきっと適切ではないだろうけれど、ごく「一般的」なカトリック教会に属していました。私は土曜日には兄弟と一緒に教会学校へ、日曜日は家族総出でミサ(カトリックの儀式)に毎週休みなく通いました。

問題なのはその教会で教えられる教義ではなく、それを利用した母親の教育でした。それはまさにカルト。大銀杏の兄弟は例外なく、「母を教祖とするキリスト教系カルト集団」にの中で育ったのです。子供の世界は狭く、家庭は世界、親は神。カルト教団の問題に関して調べれば調べるほど、大銀杏は自分の家庭が優れたカルト構造を持っていたことに驚かされるのです。大銀杏家族教会の中で、私は全力で最良の信者になろうと努力してしまっていたのです。

破壊的カルトを見分ける方法について、ネットで拾ってきたものをそのまま貼ります。
1.真理はその組織に占有されており、その組織を通してのみ知ることができると主張する。
2.組織を通して与えられた情報や考え方に対しては、疑ってはならない
3.自分の頭で考えることをしないように指導する
4.世界を組織と外部とに二分する世界観を持つ
5.白黒を常にはっきりさせる傾向が強い
6.外部情報に対して強い警戒感を与え、信者の情報経路に様々な制限を加える
7.信者に対して偏った情報、偽りの情報を提供することがしばしばある
8.組織から離脱した人間からの情報に接することを禁じる
9.家庭や社会との関わりで多くのトラブルを生じている
10.社会からの迫害意識を持ち、それをかえってバネにする
11.外部に対して正体を隠す傾向がある
12.生活が細部にわたって規定される
13.組織が信者の生活のすべてになっている
14.共同体内部でのみ通用する言葉を多く持っている
15.組織からの離脱について極度の恐怖心を与える

大銀杏は3歳ぐらいまでの記憶ならかなり正確に思い起こせます。それは母が34歳のとき。つまり今の大銀杏と同じ年です。大銀杏は私の記憶の中の母と同じ年になったので、母の言動に悪意がなかったはずはない、そういいきれるのです。自分に対して証明できること。それがここ3年間の大銀杏の癒しでありました。

考えるだけでどっと疲れが出るこのテーマ、自分のために、そして今も心に疑問を持ちながら無理に家族と折り合いをつけている人のために、少しずつ書き足して行きたいと思います。