いい天気だし温かい日だった。
空が青く気持ちがよかった。
同じ歳の女性に「仮説と検証で生きてるから!」と言われたことが印象に残っている。
そのあとも彼女は「そう、仮説、実証、仮説、実証なのよ。そう。」って言っていて、
僕が目の前にいるのを忘れてしまったかのようだった。
「決して依存ではない。」「ファッションとしてみる必要がある。」「0=リンゴ−リンゴ=0」「芳醇」「さみしくない」
暮らし→食べること。衣食住。その間。暮らしと仕事。ONとOFFって?物語ができている。みそ汁。軽やかなスイッチング。他者の暮らしを感じること。場所。無駄。
防波堤。野田村。100年間のメンテナンスの必要。「安心しないまちづくり」「自然はなりたい形のなるのだ」「防災とか超えている」「愛の半径」「浅草の300m」「自分の体の中に数を入れる事」建築には集団をひとかたまりに捉えるだけでなく一人一人のことを考える習性がある。普通の家。大きなテーブル。火のあるところに人は集まる。全体の仕組みを見渡し再構成すること。福島を前提に建築を考える時代。無くなったものに立ち上がってくるものへの答えを出さねばならない。「そこにいてもいいんだよ」と言ってもらえるような場所。都市そのもの。全体をイメージできるものをつくりたい。公共の福祉とは何かを考えてこなかった。三陸でシステムの逆流が起きている。
「大きな木」
都市の構成は庭を塗ることで見えてくる。自然と都市を繋ぐものとしてのランドスケープ。庭の数珠つなぎ。セラピートレイル奥多摩 少し不便にすることで生まれるコミュニケーション 目印になるものを白く塗る。 ルールで決めたことと形が誘導するもので所有の領域が決まってゆく。「土地にどうような痕跡を残すのか」「広くシンプルに建築よりも大きく」 100mと5cm。 庭は所有物のイメージ。ランドスケープは起伏をつけることができる。
群造形。大きい床があってはだめ。床を小さくして身体的に使えるようにする。相互作用によってやっと意味をもつ。生命の形と人口の形の間。新しい領域。秩序。メタボリズミムには人が描かれていない。そこが違うのか。人間がどうかかわるか。人がまとわりつくことで生きてくる。テトラポット。魚がどこを選ぶか。立体的な森。細かなものが浮かんでいる。はっきりしてないけど全体性。人の動きそれ自体が場所をつくる。人の密度で場所ができる。「ぐるぐるしているものがある」曖昧だけれど一言でできている。中心はあるということ。どの時代であろうが「人はどんなところに住むのか」ということを考える仕事。ひたすら後世に残すことができる。ハイブリッド型の構造はよくメタボリズムで使われていた。メガストラクチャーにテンション構造。方法論がメタボリズム。ルールだけを設定。あとは身を任せる。1.ステークホルダー2.プランナー3.マネージャー 東京と地方の格差+情報インフラ=創造都市化 コアメタボリズム1960→ヴォイドメタボリズム2000 エレクトリックラビリンス 構造の明快さを見せない美学の様な社会を感じる。どこに視点をおいてごろっところがしてあげれるか。デザインをするためのデザインをする。
動線体→はらっぱへ。馬見原橋→川の所で道が変形する所。橋の下にバルコニーなどを「付加する」ものが多く見られた。→むなしい気持ちに。→「道としての徹底した設計」いろんな場所を繋げるもの。橋は繋げられるものではない。→バルコニーは不純。今は橋とは交通としての機能。しかし、井戸端会議などで繋いでいるものがある。それを考えてみた。デザイン→構造がかっこいいものではない。普通の橋の下が歩けるだけで世界は変わるのではないかと思った。モニュメントは作りたくない。→でもシンボル。シンボルとは、まちで生まれ育った人が大人になって帰ってきたときに「帰ってきた」と思える場所である。モニュメントは一回見たら飽きる。屋根付きの風の吹く所。祭りの観覧席。飲み会など。→橋の上って誰のものでもないけれど。「橋とは何か」から膨らませてゆく。→動線に確信をもつ。→動線だけで建築をつくる。
歩道橋を延長してそのまま。→ほとんどが斜め。難しい建物。→反省→橋で考えたのは、人間にとって自由な空間が欲しいと思ったから。部屋とは「〜する所」というのが一般的。→窮屈。その場所で何かをしたくなって始めるような自発的な場所がつくりたかった。この建物は窮屈になってしまった。ジェットコースター的な面白さ。→不自由さを感じた。馬見原橋のような場所を作りたかったのに。→動線への疑問→はらっぱ。
ディア・センター 建築家が一生懸命つくる失敗する。→改装すると良い美術館。→そこで作家がすることを想定していない。機能がない。→タービンのためにつくられている。何のためにかが重要である。はらっぱをどうつくるのか。→意味の無いルールでいいからそれを守ってつくる。形式的な論理でつくる。人間の行為を想定していない。→プロポーションがまちまち。→スケールが消える。人間から離れる。
外壁と構造を別々に考えられないか。上に行くにつれてレイヤーが薄くなってゆく。→カーテンなど、レイヤーだから何をしたってかまわない。→ありえないものでよい。美術館が建って五年。なかなか美術館の機能が使えた感じはしない。→展示を自分で。考えれば考えるほど解説のようになってしまう。すぎとひろし。はらっぱ→ぽよよん。角がわれるようにつくっている。お膳立てはよくない。朽ちていくように。落書きしてほしい。階段もグラインダーのあと。かちっとしたもの。何気ないようなものへの興味。あなの開け方を考えてみた。→展示のお金がないから。廃棄処分しないもの。建物はできあがりが完成ではない。→防火区画などの問題。箱の中に箱をいれて空間を考えることができる。ブルーシートで嫌いな場所を隠す。「完成しないこと。層の重なり。」無意識にかちりしないものをつくっている。がっしりたってない。うごくもの。もともとあったものにちがうレイヤーを加える。そこに新しいものを入れる。ものではない。ものをわかりやすく文化するとつまらなくなる。舞台にみたてようっていう目利き。人の集団について考えるのは得意じゃない。複数に同時多発的に起こることを考えるのがすき。ブリューゲルの絵のように。この人にとってここはこういう世界っていう別々が居合わせている→都会的である。
がらんどう→からっぽのはこ。1998年バウムハウスから。いつの間にか使っていた言葉。ほどほどのものをつくるとはどういうことだ。8割の人が満足するものかもしれないもののつくり方ではほどんどの人が気に入らないものができるのではないか。はらっぱとはどう違うのか。真っ白な空間に何かなければならない。場が持っている何かを発見→居心地のよい空間、使い方をさぐる。転形劇場地の駅。あんどうともこ。人の手で掘ったものに全く関係ないものを持ち込む。現場では自由で見たい所を見ていた。テレビでは勝手にフューチャーしている。人の目、知らぬ間に自分で編集していた。がらんどうに現れた人は全ての人が自分で編集している。そんな空間を作りたい。場所の魅力を自分で編集してそれぞれ使っている。茅野市民館。諏訪大社の布橋。駅→図書館→文化会館のグラデーション。何時行っても静かな図書館ではなくていい。時間による区分でいい。天井を見て空間を会得できる。学校開放ってなんだ。
デザインとは一目瞭然にすること。一つの空間からのストーリー性。はらっぱとがらんどうの違いの一つは大谷石の採掘場を美術館としてみるか劇場として見るかではないか。興味ある人もそうでない人も一斉にいることを求める。間延びしている。なんかでかい。ダイアグラム。質をもっていない。民家などには元のキャラクターがあるがそれを即物的にプロポーションの質でとらえる。サイズの質。それで一個次元があがっている。人間から一歩離れたがらんどうにいっている。新築と改修に違いは無い。一個外周りのことから考える。なんとなくいつも激情的。いつも違う視点から。無駄と言える空間。














