昨年5月末に、ガンが見つかり半年の余命宣言を受けた弁護士の日隅一雄さんが12日午後8時28分に永眠されました。
日隅さんは、弁護士としても(直近では沖縄密約の情報開示の裁判など)活躍されたほかに
かつて新聞記者であった経験を生かして、ジャーナリストとしての手腕も振るっていました。
3.11の後、福島原発事故の東電の記者会見に連日参加し、フリーのジャーナリストとして鋭い質問を続けていました。
病気の発覚後も、東電の会見には参加し、追及の手を緩めず、その経緯については著書も書かれました。
治療や痛みに対しては、いろいろ勉強し工夫をし、原因の究明と対策を取って、生活の質の問題を考える、
とても模範的で、賢明な患者さんでした。これはまねできないっていうくらいでした。
そんな、大変な病のもとでも常に社会に目を向け発言と行動を続け
最後まで不正に厳しく、そして情報が適正に公開され、流されることの重要性をうったえておられました。
12日の未明に入院して同日亡くなるほどに体は大変な状態だったのに
こんなにもがんばり続けた日隅さんには、心から「お疲れ様でした」といいたいです。
NHKの番組改変問題や自衛隊の駆けつけ警護の問題など、一緒に社会に訴えたことが記憶に残っています。
病気がわかったときから、これまで日隅さんがやってきたことは誰が代わりにやれるんだろう
とそのことが心配でした。
残された者が、その何分の一かでもやっていかなければと思っています。
日隅さんは、弁護士としても(直近では沖縄密約の情報開示の裁判など)活躍されたほかに
かつて新聞記者であった経験を生かして、ジャーナリストとしての手腕も振るっていました。
3.11の後、福島原発事故の東電の記者会見に連日参加し、フリーのジャーナリストとして鋭い質問を続けていました。
病気の発覚後も、東電の会見には参加し、追及の手を緩めず、その経緯については著書も書かれました。
治療や痛みに対しては、いろいろ勉強し工夫をし、原因の究明と対策を取って、生活の質の問題を考える、
とても模範的で、賢明な患者さんでした。これはまねできないっていうくらいでした。
そんな、大変な病のもとでも常に社会に目を向け発言と行動を続け
最後まで不正に厳しく、そして情報が適正に公開され、流されることの重要性をうったえておられました。
12日の未明に入院して同日亡くなるほどに体は大変な状態だったのに
こんなにもがんばり続けた日隅さんには、心から「お疲れ様でした」といいたいです。
NHKの番組改変問題や自衛隊の駆けつけ警護の問題など、一緒に社会に訴えたことが記憶に残っています。
病気がわかったときから、これまで日隅さんがやってきたことは誰が代わりにやれるんだろう
とそのことが心配でした。
残された者が、その何分の一かでもやっていかなければと思っています。
ヤメ蚊さんがこれまで主張されていたことに関しては、ほとんど全てが同意しかねるものではありましたが、国民が主権者として政治のあり方に厳しい目を向けることの大切さや、今や"マスゴミ"と揶揄される日本のジャーナリズムへの危惧については共感しておりました。
故人のご冥福をお祈りいたします。