浄土宗は知恩院(京都)を総本山として増上寺(東京)、善光寺(長野)で
知られる平安末期の日本仏教である。画期的なのは、これまでの日本仏教は
貴族、皇族が信仰の中心だったが庶民でも救われると説いたことである。修行
や学問、寺の建立、寄付等の出家者や在家信者に課されていた人のみが往
生できる、としていた。それを法然は、ただ<南無阿弥陀仏>(なむあみだぶ
つ)と念仏を唱えるだけで救われると説いたのである。出家、在家、男女、身分
など一切関係なく成仏できると説いた事が、死後の極楽浄土での幸せを願う庶
民にまで広まった原因である。法然が43歳の時、<一心に“阿弥陀仏”の名を
讃えて念仏を唱えれば「極楽往生」できる>という 善導大師 の教えに触発さ
れて『専修念仏』=(ひたすら念仏を唱えて、他の修行をしない)という立場を確
立した。その念仏が例の「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)の念仏である。ひ
たすら唱えるだけで一切の衆生が救われると説いたのである。ひらたく言えば
「“なむあみだぶつ”と唱えるだけで心身が清められ死後、極楽へ往生でき仏に
なれる」とした。・・・苦節三十有余年、法然は比叡山を下りて大衆の中に飛び
込み「浄土宗」を開いた。“専修念仏”は、鎌倉新仏教「浄土宗」に定着するま
でには、奈良時代に中国から朝鮮を経て日本に伝わってきた歴史がある。そ
れまでは、広まらず平安末期になって、ようやく、“阿弥陀仏信仰”で知られるよ
うになった。その頃、庶民の間にも念仏が唱えられるようになった。時を待たず
に法然は、ひたすら念仏を唱えれば衆生一切が救われると説いた。―(時期、
タイミングが良かったのである)(慧眼)―。浄土宗は平易で分かりやすくその
教えは庶民に大歓迎された。他方、旧仏教派の反発を招いた。上皇の寵愛す
る女官(法然の弟子)を出家させた法然は四国へ流罪となった。後年、許され
て上京するが、80年の苦節の生涯を閉じた。法然の死後、弟子によって「浄
土宗」は、益々、広まっていった。・・・
●付記:「南無阿弥陀仏」の意味・・・サンスクリット語(インドの古語)の発音を
中国語に置き換えたもの。日本語の漢字は当て字なので意味はない。サンス
クリット語の解釈が重要である。
分析すると・・・
“南無”は <ナマス>と発音され(屈する)という意味の「帰依」と訳され、――
心から信じる=まかせて従う――という意味になる。
“阿弥陀”は <アミターバ>と発音され(限りない命)と、(果てない光)をあらわ
す<アミターユス>という語幹で、意味は「計り知れない」を意味する。最後の
“仏”は<ブッダ>のことで、「悟りを開いた人」の意味である。総じての意味は
“南無阿弥陀仏”(なむあみだぶつ)とは・・・『計り知れない命と光(救い)の存
在である仏に、心から信じ従う』という意味になる。・・・
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