写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

成仏の方法(7)

2016年06月07日 | 成仏について
言語思考には思考ルールがあります。そのルールを外れて、考えたことを言葉で説明しようとすると、訳がわからなってくる。
第一義諦と世俗諦を説くナーガールジュナ(龍樹)や、存在と意識を説く唯識論を、読み進むと複雑怪奇でやがて徒労がやって来ることから、それは、わかっていた事なのですが、やはり、このブログも読み返してみると、書いた本人にも難解で鬱陶しいものになってしまいました。つまり、釈迦の沈黙が一番正しいと分かるのですが、それでも釈迦には口を開いて欲しいのです。でも、人間の理解ツールが言語にとどまっている限りは、釈迦は沈黙を続けなければならないようにも思います。
稲垣足穂が言うように、十字路交差点の電車道に九十度の方向から同時に二台の電車が来たとします。でも交差点で一瞬に、お互いをすり抜け、二台の電車は、架線ポールから青い火花を散らし、走り去って行った。という風には、言語思考では解決できないのです。有様を言葉は表現できているのにです。

綴る言葉の論理の辻褄が合わなくなっても良いというのであれば、先に進めるのですが、それは、言葉と言葉の間に、読者の勝手な、独創的な、又は、常識的な論理を挟み込むことを期待することになるのですが、それで私は論理を通す難解な筋立てを放棄できる事になるのです。

今回は、そんな難しいけれど実は、頭をめぐらしてしまえば単純なお話しをする事になると思います。

あれこれ言う前に、今回は、この方法をトライしてみようと思います。

成仏するためには、「身」も「口」も「意」も全て「空」でなければならない。
なかでも「身」の「空」が一番、難しそうだ。

「身」の「空」を実現するために、瞑想や修行と呼ばれるトレーニングが何千年もの間、数多く考案されて来ました。成就が難しい故か、手段が目的になってしまい、それから先には進めなくなってしまうものも多く存在しています。

密教やヨガ、タオには、肉体を「空」に導く修行が沢山あります。密教には、先に「身」の「空」を成就させ、それをテコに「意」と「口」を「空」に導く方法(密教の究竟次第)。先に「意」の「空」を成就させ、「身」の「空」の成就を容易にする方法(生起次第)があります。
そして成就した二つ(生起次第と究竟次第)を合体させると成仏への道が開きます。

自己の内なる三密と外なる仏(宇宙)の三密を、相応合体させ、成仏を得る「三密加持」も同じ方法です。
タオの、陰の気を排除し身体を真火で練り上げ純陽化し、真我を得て、不老不死になる方法もあります。

「身」と「意」と「口」の三密は、一つのものを三つの方向から眺めたものなので、三つは一緒。一つを語っていてもいつの間にか他を語っているようにと、相即相入で境がありません。ですから、言葉での説明も行ったり来たり、三つのものを同時に考えたりと、論理を破り、言葉のルールを逸脱し、言語思考を越え、さらに人間の認識能力からはみ出す理解を強いることになります。ですから「身」のことを語っていてもいつの間にか「意」を語っているという風になってしまいます。

密教、ヨガ、タオに共通するのは、身体を巡る「気」と「気」をコントロールする呼吸法です。
色と音と光が呼吸法を助けます。

エネルギーの流れと量を「身」の感覚センサーが感じ、「口」がその意識をフォーカスしコントロールします。

言葉が表す「気」は、エネルギーを指差す指先(言葉)であって、エネルギーそのものではありません。
これを量子論で言えば、「気」と言葉で表わされた時は、粒子であり、言語思考(粗雑な意識)で捉えられますが、身体を流れる「生な気」は、流体(波動)であり「繊細な意識」でしか捉える事ができません。そのため、「口」がエネルギーにフォーカスして「気」を動かすには「繊細な意識」を使います。しかし、「口」がエネルギーへのフォーカスを言語化し、存在の輪郭を露わにしてしまうと(気→粒子化)、ダイナミックな運動性が消え失せてしまい、コントロールが難しくなります。
前に、存在について、「意」は、本来、融通無碍で制限がなく、「意」の対称性が「口」により破られ、存在が意識に発生するとお話ししましたが。これと同じようにエネルギーは、つまり「気」は、本来、融通無碍で制限がなく、対称性にあると考えられます。

先ず自分にどんなエネルギーが有るのか、作り出せるのか、その量と強度を確かめなければなりません。

「意」の意思で「身」がエネルギーを生み、「口」が、エネルギーに意識をフォーカスし流れをコントロールします。

怒り、嫉み、恐れ、セックスは大きなエネルギーを発生させます。さらに、外部から、人、動物、植物、大地、山、川、風、雷、地球、太陽、月、星など、あらゆる自然現象からもエネルギーを取り入れる方法があります。

取り入れる前に必要な事は、自分の肉体がそれらのエネルギーを受け入れられる剛性耐性と容量があるかどうかの確認。そのキャパシティを高める努力と方法。そして、エネルギーコントロールの修得です。

怒り、嫉み、恐れ、セックスなど、体内で発生するエネルギーは、出来るだけ体外に漏らさぬ事が肝要です。怒り嫉み怖れのエネルギーは自己を痛める悪いエネルギーですから、体内で良いエネルギーに変化させる方法が必要になります。出来ればこのようなエネルギーは摂らない方が良く、憤怒尊や静寂尊への瞑想は、悪いエネルギーを浄化する方法の一つです。また、布教で善行を説くのは、この防止の為でもあります。

セックスのエネルギーは、想念次第で良いエネルギーにも悪いエネルギーにもなります。両性相和し快楽を高めそれぞれに発生するエネルギーを、お互いが協力して二つの肉体の間に循環させ外に漏らさないようにする事が肝要です。快楽を高めることと快楽に引かれ多くを漏らすことは別です。多くを漏らせば、健康を害します。
更に、快楽を極限まで高めることで自分の肉体のエネルギーの耐性と容量を知り、身体が覚えると、さらにその上の強度に臨むことができます。ここでは強力なエネルギーが得られるとともに、外部からのエネルギーを取り込む時、効率を高める要領が学べます。

エネルギーは、「身」を「空」にする為の原動力です。自分のエネルギーのことをよく知りコントロールする事が、一番重要です。セックスの方法は比較的安全ですが、トレーニングに、怒りや嫉み、恐れのエネルギーを使う事は危険です。

エネルギーは常に社会との関係を生じさせます。怒りは犯罪や戦争を生み、嫉みはイジメや復讐を生み、悲しみは自傷を生み、セックスは家族関係と倫理を生み、それぞれが連なって社会の因習、習慣、規範、法律を生んでいきます。

仏教の成仏は、エネルギーを扱います。扱いを間違うことがあります。ほとんどの場合間違います。そこで宗教の戒律は、そこから生まれる障害を防止する役割を担っています。

「気」とは、常に動いて止まないエネルギーに意識をフォーカスさせる「口」の働きのメタファーです。「気」とは、エネルギーそのものであると同時に、流れや強度をコントロールするものでもあります。

前述の言語思考をベースにする「粗い意識」と、対称性をベースにする「繊細な意識」の連動連結がクリアな修行の進行を生みます。しかし、最後まで「粗い意識」と「繊細な意識」の混同と、そこから生まれる矛盾が、有史以来、全ての東洋思想の根底に溜まり続けています。あたかも意識の煩悩と呼べる程にです。

「意」を悩ませるこの問題は、結局、両者ともに「空」だと知ることで終わるのですが、さてその先は…。

「気」により、身体の全能化を目指しますが、やがて全能にはなれない身体の限界を知る事になります。身体の全能化が成仏であるとすると、解決方法は「身」の「空」で終わりではなく、「意」にある事が分かってきます。

道教(タオ)では、「気」には陰と陽があり、「陽の気」で身体を練り上げ、身体の純陽化を目標にします。そして、純陽化した身体を太陽の光に溶け合わせてしまうというように、仏教の「空」の方法論に近くなってきます。

ヨガは古代インドに始まります。ヨガの修行の中心は身体の鍛錬と思われていますが、それは手段で、こころの作用を止滅させ、真我を本来の状態にとどめることを目標にしています。この、こころを「粗い意識」。真我を「繊細な意識」に置き換えると、仏教の方法と同じです。

「気」の考え方、開発の手順について。タオ、密教、ヨガの三者は共に同じです。影響し合ったとはいえ、場所を違え個別発生したものがたまたま同じだったとは考えにくく、それぞれの祖先である原始宗教にまで遡る多神教の基本原理のようにも思います。

クンダリーニの開発など、「気」開発の基本メソッドは、タオ、密教、ヨガの中から、自分の感覚にあったものを選べば良く、それぞれの良いとこ取りをするなど、囚われを少なくした方が良いようです。

クンダリーニの開発は、通過点てす。例えば、タオでは、全身の純陽化を目指しますので、全身の細胞一つ一つにまで、「気」を巡らす必要があります。前述の小さな小人になり、全身の細胞の探索と認識をしておけば、ヨガの方法でクンダリーニの開発をし、「気」が頭頂に達すれば、ここで小人の学習が役立ち、たちどころに全身の細胞一つ一つにまで「気」が巡って滞りがありません。これは、タオの存思の方法の根本原理です。

インドの後期密教やチベット密教からは、身体が「空」に変化する為に必要なエネルギーについて、その発生と方法、量と強度、さらに、エネルギーを受け止める身体の反応と耐性について学べます。

エネルギーには、良いものと悪いものがあります。「意」は、それを十分に知らなければなりません。世俗の倫理や論理で正しいものが、必ずしも良いエネルギーであるとは限りません。例えば愛は、執着や嫉みを生み、一人殺せば殺人。一万人殺せば英雄。や、平和と戦争の二元論は、怒りと悲しみを生みます。

怒り、嫉み、恐れ、セックスからは、想像を超えるエネルギーが発生します。如来になるには、それそれが最大パワーをいちどきに発する程のエネルギーが必要になります。

チベット仏教や秘密集会タントラにある過激な表現。例えば、男女の和合と怒りを結合させた父母尊と憤怒尊。糞と尿と精液と経血と人肉で如来を供養する女陰に住まう菩薩。妬みのエネルギーを浄化する静寂尊。などは、実際にこのエネルギーの発生と浄化を実行する「身」や「口」に向け、「意」が最大限の過激表現で不退転の決意を述べたものです。

日本の密教にも、過酷な千日回峰行などがあります。

では、過酷な修行は、生理的に何をもたらすのでしょうか。
瞑想や修行による、身体への意識の集中や過激な負荷は、肉体と頭脳に刺激を与えます。それにより「身」と「意」が変化します。脳の可塑性がようやく科学では認知され始めていますが、肉体への刺激で、筋肉、骨格、内臓が変化強化されるように、瞑想による脳への意識の集中刺激は、生理的レベルで脳の細胞を変化させ、身体への意識の集中刺激は、身体の細胞や構造その機能をも変化させます。

身体には「免疫機能」や、体温や鼓動を一定に保つ「ホメオスタシス」などの機能があります。
この機能を解除するかスルーすることができなければ、瞑想や修行は、精々スポーツトレーニングで、筋肉が強くなったとか、俊敏さが増したとか、記憶力が良くなったか程度の効果に止まります。

密教やヨガでは、薄着で雪の上に寝る。つまり、体温を自由にコントロールする。心臓の鼓動を遅くしたり止めたりする。呼吸や肉体の代謝機能を低下させ仮死状態にする。などの修行があります。
これらは、「免疫機能」や「ホメオスタシス」の機能をスルーする事で達成されますが、
これら全ての修行は、身体は「空」。であることを実感するために行われます。

そしてこの「空」は、この修行の目的になるだけでなく、実行のメソッドにも組み込まれています。
「空」が組み込まれたメソッドとはなんでしょう。
ここでは「意」が全体を主導します。前述の釈迦の教え。

物事には必ず原因(因)があって条件(縁)があって結果(存在、現象)がある。(因縁)
因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)
因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)
カルマがつくる煩悩。 煩悩がつくるカルマ。それがつくる輪廻転生から脱することが、成仏である。(四聖諦)

を、実行する事が、目的でもありメソッドになります。

その方法について、お話しします。
「空」とは、物事には実体が無い。ことであり、変化して止まない「因」と「縁」で生まれてきます。言語思考は「意」の対称性を破り「存在」という「実体がある」を創り出しますから、「空」を扱う思考ツールとしては不適切です。
一方「繊細な意識」は、対称性に止まり、永遠無限全知全能な情報にアクセスが可能な思考ツールですから、「空」の認識理解には適しています。
最終的には「繊細な意識」も「空」により実体が無いとされ、資格を失う事になるかも知れませんが(所知障?)、それよりも、今は言葉を使っているので、どうしても言語の「粗雑な意識」を贔屓にしてしまい、対称性ベースの「繊細な意識」との混同とそこから生まれる矛盾が、思考を妨げ、論理を濁らせてしまいます。

「繊細な意識」は、純粋状態なら一即多、多即一、相即相入ですから、部分を考えていても全体を、全体を考えていても部分を考えている事になります。
つまり、言語思考の記憶では、言語記憶アーカイブの大脳皮質記憶装置が必要でしたが、「一即多、多即一、相即相入」状態の「繊細な意識」では、過去現在未来の情報の全てを、部分と全体とが共に担うので、記憶という概念が必要ない事になります。事実、例の小人にになって体内を巡る「繊細な意識」では、既視感があり、新しい体験は既視感にどんどん組み込まれ学習されていきます。その意識を「口」がフォーカスし言語化はできるのですが、面倒で、「繊細な意識」の既視感の方が早く鮮明で具体的な「記憶?」の様に感じてしまいます。

身体には、外部からの攻撃に対応する「免疫機能」や、体温や鼓動を正常に維持しようとする「ホメオスタシス」など、制限機能が備わっています。身体を変化させる修行の成就には、この制限機能をスルーする必要があります。

では、その機能制限と「繊細な意識」のと関係はどうなのでしょうか。

新しい神経生理学に「オートポイエンス」という考え方があります。

「神経システム内で活動が起こされる時、外界は引き金の役割しかはたしていない」です。
従来の考え方では、生物の進化を例にとると、外界の刺激により遺伝子はダイレクトに突然変異させられ、次代にその変化が遺伝継承されるという、いわゆるダーウインの進化論が一般的でした。

しかし、「精神はそれ自身が創造したものの創造物である」です。
外部のメカニズムに関係なく、自身のメカニズムで、みずからの構成要素を創り続け、統一体としての閉鎖系を創り出し、境界の自己決定をする。

「オートポイエーシスのシステムは入力と出力を持たない」
外部とのエネルギーのやり取りが組織構成を決定するものではない。もし、外部から何らかの介入が生じた場合、それは単にシステム自体の損傷を意味するだけである。つまり、外界からの刺激に順応し、遺伝子が変化するのではなく、自己の都合で遺伝子は変化する。とするそんな進化論になる。これを「入力と出力を持たない」と表現しました。

この「入力と出力を持たない」という、呪文に似た言葉は、「色即是空、空即是色」に似ています。言語思考的には、論理破綻していますが、この二つは言語思考を機能不全にして、背後をうかがおうとする方法になります。

言語思考の二項分類(対立)で、「意」の対称性が破れ、超越的第三者の下、「外部(環境)」と「内部(自己)」という二つの「存在」が意識に創出されると、そこでやりとりされるエネルギーは、「入力と出力」の言葉で説明せざるを得なくなり、これは言語思考の科学的説明になります。一方、言語思考を機能不全にして透明で見ると、「存在」が意識に創出されることがない対称性が見えて来て、そこでは、例えば空海の「重重帝網」状態では、意識を媒体に、部分と全体の間を、エネルギーは行き交っているのですが、「存在」として意識に現れていないので、言語思考からは、それは入力と出力を持たない現象のように見えるのです。

これは、瞑想や座禅で生ずる活動を説明しています。
外部からみると、瞑想や座禅は、静かに息を潜めエネルギーを発しないように見えます。事実「入力と出力」と表現されるような明らさまエネルギーを抑え、静かに瞑想や座禅をすることが修行であると説明されています。

しかし、成仏は、「身」「口」「意」の「仏」への変化を求めますので、エネルギーを潜めていては、変化はいつまでもやっては来ません。
前述の小人になって、体内を巡る探索は、目的の部位に意識を集中すると、そこに熱が発生し、エネルギーのやりとりを「繊細な意識」で実感できます。そこに「口」が意識をフォーカスし、現象を言語化すれば、エネルギーが入力出力していると「粗い意識」は理解することはできます。でもそれは理解にとどまります。「繊細な意識」なら、わざわざ存在という言葉を創出しなくても、全体が瞬時に実感で分かるという感じです。

ここまでくるとお分かりのように、「繊細な意識」を使えば、「免疫機能」も「ホメオスタシス」もコントロールできる事がわかります。
コントロールというより、スルーするという方法です。
「免疫機能」や「ホメオスタシス」の身体の制御機能はそのままに、別ルートを取るような、あるいは、制御機能に気付かれず、ニュートリノのように自由にすり抜けてしまうような方法です。

薄着で雪の上に寝る。つまり、体温を自由にコントロールする方法は、密教では、トゥムモと呼ばれます。呼吸を使い丹田に「気」を集めると、下腹部が熱く熱を帯びてきます。その熱を尾てい骨のクンダリニーに送り、督脈を通し、各部のチャクラを温めながら、頂点の泥丸まで送りここでしばし温浴します。続けて、その「気」を眉間、喉を通じ、任脈で丹田まで降ろします。「気」は喉より上に行くと、清涼になりますが、再び胸まで降りてくると、上昇時より熱くなっているのがわかります。その循環を繰り返します、その循環の途中何回かを、丹田に降ろした「気」を反対に帯脈で胸まで上げ、頭頂から降りてくる「気」と胸で混ぜ合わせると、「気」は陽化が高まり真火となり、さらに丹田まで降ろし温浴します。これは小周天と言われまが、これに前述の小人で体内を巡る探索に熟達していれば、丹田の「熱い気」が体の全体に、沁みるように広がり、風呂上がりの体のように、全体がポカポカ暖かくなって来ます。意識しなくても、この循環を体が自動的に行えるようになれば、持続して、濡れた肌着が乾く程に、身体全体の熱を高める事ができます。熟達すれば薄着で雪の上に寝ることが可能になります。

大まかに方法を書きましたが、作業をオペレートしている「繊細な意識」は、その間旺盛な情報力を発揮し、質や量が違う様々な情報、気づきを、遮るものなくもたらし、さらにそれをフィードバックして、オートポイエーシス的な自己創作をするというように、目的実現のための、言葉では書ききれない様々な工夫を生み、マニアルを学ばなくても、この体験から自然に全てを学ぶことが出来ようになります。

感覚器官や意識は、普通それが所属する個体の個性により、取得する情報も個性化されるのですが、「繊細な意識」の気づきと流れる質と量が、個体の個性量を越え、個性を凌駕すると、大楽と言われる恍惚の状態がやってきます。怒りや嫉み、快楽が、脳の細胞のニューロンとシナプスを変化させ、同時に身体の細胞や機能を変化させるように、大楽の恍惚感は、身体と頭脳を純に変化させます。大楽の場合、「繊細な意識」が純な場合にしか発生しませんので、麻薬にような中毒性はありません。正しく行えば、宗教が自己暗示や妄想と言われる原因になることもありません。純でければ「空」ではなく、不純な結果を招くので、思い込みの大楽と分かります。「意」は常に「空」なることを意識していなければなりません。

しかしこの動きは、自己内では、言語思考の「粗雑な意識」と対称性の「繊細な意識」。両者、お互いに了解はできているのですが、社会(世俗)は言語思考で構成されているので、他人の「粗雑な意識」にとって他者の「繊細な意識」は、それに衝動とか妄想とかラベリングする、不穏な動きに他なりません。

世俗との摩擦を避け瞑想修行に集中するため、出家とか隠遁とかになるのは、数々の摩擦の歴史を経て、当然の帰結のように思います。

しかし、今日では、「オートポイエーシス」の考え方のように、「繊細な意識」の存在を、「粗雑な意識」でどう捉え表現してゆくか、つまり、科学と宗教の融合という視点で、考えられ始めています。

これまでお話ししてきた「成仏への道」は、対称性の性質を持つ「繊細な意識」の発見と強化でしたが、一方、「繊細な意識」から「粗雑な意識」への働き掛けもあります。それは「菩提心」と言われ、仏教の教えの大きな柱の一つになっています。


ここまで分析を進めてくると、如来に変化する「成仏の道」(出家修行)とは、様々な制限や個性(特殊)をスルーしてゆく道程であるなら、「繊細な意識」は、今のところ最良の思考ツールであると考えられます。

今回は、長くなってしまいました。次回は、「繊細な意識」を、更に深く高くするとどうなるのかを続けて行きたいと思います。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。