写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

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野町和嘉『写真』とは(2) ー 未来の写真 ー

2016年09月02日 | 野町和嘉『写真』
前回の、「野町和嘉『写真』とは(1)ー写真論からのアプローチー 」で、
カメラは、レンズに映るものは何でも写す自由意志を持ち、同時に、被写体の意思と無意識、撮影者の意思と無意識をも写してしまう。とお話ししました。

また、野町の撮影法について
ある目的を持ってその地に向かいます。しかし、風景を撮影する場合、地球があって、大地から垂直に、人、動物、木、山、川、砂丘、建物、そして大気や空がある。そして自分自身も。そんな地球の重力と肉体との根源的なバランス感(重力感覚)のみを撮影の意思(無意識)にします。さらに目的もその無意識の領域に沈み込ませてしまい(旅人感を無くす)、その他はカメラの自由意志に任せるという方法です。
とお話ししました。
さらに
普通には、重力感覚の効果とは、まったく自然に見えると言うことだけなのですが、でも良い写真とは、「地球の重力の中心に向かい垂直であるという重力感覚」がはっきりと写っている写真です。それが欠けていれば、山や女性は、カタチが写っているだけで、美しいけれど、山には地表から盛り上がる屹立感が、女性には血肉が通っているようには見えないものになってしまうのです。
そこで、カメラマンは強くその「重力感覚」を意思して、写真に写し込まなければなりません。

とお話ししました。

一般に、絵画や写真の芸術とは、自然や人物を被写体として写し取ったり、被写体や作者の心情をビジュアル表現で画面に表したり、言葉の物語を画面にビジュアル化したりなど、物事であれ心情であれ、自分のものであれ、他のものであれ、作者がそれらを写し取り画面に表現することで制作されると理解されています。
特に写真とは、「写真」と名称されるように、被写体を写し取ることがその機能の全てであると考えられています。

しかし、絵画には、もう一つの究極の目的目標があるようなのです。

葛飾北斎が言っています。
『70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。
ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。
そして、100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。』

画家は、究極には、対象を写し取り描くのではなく、紙やキャンバス上に、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創り出したいと願う者のようなのです。

では、その「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)とは、何なのでしょうか。母親は、体内から赤子を産み「リアルな存在や物体」を創り出します。火山は、地球内から溶岩を噴き出し、岩石を創り出します。空は、空中から雲を創り出します。
つまり、その様な創造者になりたいと、画家は願うものなのでしょうか。

一方、絵画を鑑賞する側、つまり我々にとって、その創造物「リアルな存在や物体」とは、何なのでしょうか。
現前にある創造物「リアルな存在や物体」に、「赤子」「岩石」「雲」と言葉のラベルを貼り、抽象化し、言葉の記憶として認知保存する。やがてそれは「リアルな存在や物体」であった。と、鑑賞作業は終了し、それが、創造物「リアルな存在や物体」を感じ理解したということになるのでしょうか。
否、生まれ出た「赤子」は、愛くるしく愛おしく、見ているだけで次々に新しい驚きと歓びの情報を、我々の五感に送り続けてきます。無限に与えられる贈与の様に、いつまでも見ていたいと感じてしまいます。「岩石」「雲」も、その表面の複雑さや形の面白さ、動きの変化には、認識を止めない限り、いつまでも見飽きることが有りません。
「リアルな存在や物体」とは、単に「赤子」「岩石」「雲」と、言葉のラベルを張り、抽象の彼方に押しやりってしまうような、単純なものではありません。
我々には、言語思考を発動し、対象に言葉のラベルを貼る以前に、感覚と認識の、飽きることのない探索、探求、受動が動いています。この、我々の脳の好奇心を楽しませる、意識認識の先に 「リアルな存在や物体」は有る。と、北斎は、思ったのではないでしょうか。

絵を眺めるていると、次々に新しい情報や思いがけない情報が、その絵の方から贈与される様に流れ来て、飽きることがない。そんなリアルな絵を、100歳になったら、北斎は描くことが出来ると思ったのではないでしょうか。

松尾芭蕉の句に
「荒海や 佐渡に横たふ 天の川」
があります。
新潟の海岸に立ち佐渡を眺めると、必ず浮かんでくる俳句です。しかし、私は都会人ですから、天の川は、写真や動画では見たことはあっても、本物は見た事がありません。荒海も電車の車窓から見た事はあっても、海岸に立ち、強風と潮の香、激しい波の音、波飛沫を浴びての経験はありません。 だからこれが名句と言われても、よく分からないのです。本物の荒海や天の川、佐渡の夜空に架かる天の川をリアルに見た事がある人は、自分の頭脳にある言語記憶アーカイブの中から、その記憶を呼び出し、この名句を味わい尽くす事が出来るのかと思うと、残念でなりません。
確かに、自分の言語記憶(知識)や、他の人の言語記憶である知識をbookやネットの写真で探し出し、歴史を学び、奥の細道を読み、芭蕉の心情を推し測るなどして、言語思考を楽しむこともできます。しかし、芭蕉は果たしてこのような楽しみの提供を目指したのでしょうか。

松尾芭蕉には、申し訳ないのですが、これが言葉の、言語思考の限界なのです。しかし、松尾芭蕉は、この限界を理解していたのかも知れません。
「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」
枯野には、汲めど尽きない「リアルな存在や物体」 が溢れています。
果して、記憶ではなく、言葉によって、現前に手で触れられる「リアルな存在や物体」が立ち現われることがあるのでしょうか。

歴史上には、北斎のように「キャンバスにリアルな存在や物体を創り出そうとした」画家がいます。そしてその意思で描かれた絵画があります。

レオナルド・ダ・ビンチの「モナリザ」。雪舟の「冬景山水図」。ゴッホの「カラスのいる麦畑」。デュシャンのあの「泉」と題された「便器」。ポロックの「アクション・ペインティング」。などです。

「リアルな存在や物体」とは、記憶を手繰りして描く、脳内に展開される夢のように実体が無いものなどではなく、手で触れば触ることができ、見る人の好奇心に向け、情報が次々に止めどなく、そのものから、贈与されるように溢れでてきて、見飽きることがないリアルな物を言います。つまりその存在感は、分子や原子できている自然の物質から受ける感覚と違わないものになります。
そうだとすれば、それを創り出だす行為とは、錬金術であり、分子生物学であり、理化学であり、唯物論ということにもなります。

そしてまた、「リアルな存在や物体」を創り出す作業では、通常の技術や方法だけでは叶いません。そこには独自の技術や新技術が介在します。

先ず、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」です。
「モナリザ」では、顔は、肌に薄く何度も塗り重ねができる絵具によるスフマート技法で描かれます。
先回、絵画は、画家の描こうとする意思を、何時間も何日もあるいは何ヶ月、何年も持続させながら、筆で、絵具とその意思を掬い、キャンバスに塗り込める方法を取る。とお話ししましたが、スフマート技法は、その究極になります。
その前に、顔や人体とは、表面の薄い皮膚をひっぺがしてしまえば、どこの誰とも、動物とも見分けがつかない、フライジャル(壊れやすい)な感覚認識をベースにしています。レオナルド・ダ・ビンチは死体の解剖を行っていましたので、解剖の反対、肉塊を粘土細工のように精巧に人間のカタチに造り替える、つまり肉体の構造を、人体を描くために熟知していたであろうし、人間の、「朝に紅顔、夕に白骨」のフライジャルも十分に理解しただろうと思われます。

だいたい、表面をひっぺがしたら、それが元は何かと分かるモノは、世の中には、ほとんどありません。絵具のカドミウム・イエローは、顔料であり、硫化カドミウム(CdS)というカドミウムと硫黄の化合物であり、黄色の結晶構造をしています。カドミウムと硫黄の結合をひっぺがすと、色が消え、絵具とは認識できなくなります。さらに、そこから先は物理学の分野で、分子→原子→原子核、電子→陽子、中性子→クオーク→超ひも。と細かくなって行きます。
また、顔の皮膚の場合、細かく見ると、毛穴や皺がある上皮組織が見え、上皮組織をさらに細かく見ると体細胞があります。細胞は、細胞膜、染色体、リボソーム、細胞質(原形質)で構成されていて、この細胞を眺めても、これが皮膚であるとは判断できません。そしてさらに、細胞を細かく見て行くと、絵具のカドミウム・イエローと同じ、分子→原子→の構造形態と同一になって行きます。
このように「リアルな存在や物体」とは、意識認識の好奇心が続けば、永遠に情報が尽きない「複雑構造」を持つことを言います。

しかし、人の認識意識が認識した「複雑構造」を抽象化し、言葉により「人体構造」とラベリングして、脳の言語記憶装置に収納してしまうと、そこで認識意識の好奇心は中断させられてしまいます。さらに複雑さを追求したい好奇心は僅かに残るのですが、ここまででも認識意識は十分に納得して(騙されて)、それは「リアルな存在や物体」であると普通は思ってしまいます。
一般に画家は、そこで筆を止めるのですが、もし、鑑賞者の一人でもが、それを「複雑構造」ではないと感じれば「リアルな存在や物体」ではなく、単なる写しとしか認識しないことになるので、「キャンバスにリアルな存在や物体を創り出そうとした」レオナルド・ダ・ビンチは、スフマーフ技法で、自分を含め万人が「リアルな存在や物体」と感じて納得するレベルまで、複雑さを描き尽くすため、終生モナリザを手元に置き、筆を入れ続けていたのです。

そのモナリザの顔の複雑構造は、絵画にはどんな効果をもたらすのでしょうか。対極にあるのは、写楽や歌麿が描いた、大首絵の浮世絵です。浮世絵の美人画の顔は、一筆のシンプルな「輪郭線」で描かれています。
「モナ・リザ」を鑑賞する場合、先ず彼女の表情に惹かれます。さらに、皮膚の柔らかさ、きめ細かさなど、顔の肌合いがどうなっているのだろうかと、現実の生きた女性、つまり「リアルな存在や物体」を目の前にしている鑑賞を我々はしてしまいます。つまり「モナ・リザ」の鑑賞とは、恋人や新妻の顔、むしろ電車にたまたま乗り合わせた見知らぬ美人を、まじまじと見つめることと、あまり違いはありません。

一方、歌麿の美人画は、「輪郭線」で描かれているだけで、肌合いのマチエールはありませんから、同じく、まじまじと見つめるにしても、「モナ・リザ」の鑑賞とは違ってきます。
それは、「輪郭線」で浮かぶ美人のイメージに触発され、それに似た「記憶の美人」を求めて、鑑賞者は、頭脳や心の中を「旅」するということになります。
江戸時代の「プロマイド」として町民の娯楽であった浮世絵から、時を越え現代人にも感動が生まれるとすれば、「記憶の美人」を求める「旅」が、昔人も現代人も人間であれば等しく共有できる「DNAの記憶」へと誘われ、普遍的な魅力を感じてしまう、そんな能力が、浮世絵にはあるということになります。

モナリザは、現実の物への好奇心、つまり即物的な複雑構造に、浮世絵は、脳や心の記憶の中に。そこには、抽象化により認識意識の好奇心を中断させる言葉の記憶もありますが、それよりも、無意識、潜在意識、映像感覚、身体感覚が深く覚えている記憶の複雑構造に、見る人を誘います。

次は雪舟です。雪舟は、水墨画ですから、線描の表現になります。
モナリザの分析から見て、「リアルな存在や物体」とは、現実に目の前にある物、モナリザのような「即物的な複雑構造」であると思われます。では、雪舟は、線描で、どんな方法で「リアルな存在や物体」を描がこう=創ろうとしたのでしょうか。
雪舟の複雑構造の描き方について、例えば岩や岩壁の描き方は、岩肌の複雑さ、岩の重なりの複雑さ、陰影の複雑さなどの複雑な表情こそ、岩の存在感であると捉えて、これでもかと幾重にも折り重なる岩と岩肌を、墨と筆で執拗に線描で描き尽くす方法を取ります。
でもこの墨と筆による線描では、複雑さに限界があります。単なる写しとしか認識されない恐れがあります。そこでさらに画面を塗りつぶしてしまうほど線描を重ねて描いた結果、浮かび上がって来たのは、欲っしていた岩の「リアルな存在や物体」感ではなく、「墨」の黒々とした「物質」としての「リアルな存在や物体」感でした。そしてその体験から生まれ出たのが、次の有名な冬景山水図の真ん中に描かれた一本の墨の縦の折れ線でした。この線は岩肌の割れ目を描いたものと説明されますが、黒々とした墨の線の物質的存在感の方が際立っていて、周りの写しで描かれた風景との対比で、墨を「リアルな存在や物体」と感じてしまうのは、雪舟の技術的終着点なのではないでしょうか。

「リアルな存在や物体」を描く=創るろうとする意思。その努力の結果が、それを描く道具である墨の物質感=「リアルな存在や物体」であったとは。

絵画とは、描かれる人や物や自然、そして画家個人。それらが抱える物語や意思や心情を、モチーフとして汲み取り、画家は、人物や物、自然の姿に投影させて写し取り描く。つまり様々な心情や意思や物語が、絵具や筆でキャンバスに写し取られ絵になっていて、額縁に入れ、その出来栄えを楽しむのが一般に絵画と言われています。この機能は写真でも同じで、写真も絵画と同じ鑑賞がされています。

ですから、雪舟の冬景山水画の、あの中央に描かれた一本の縦の折れ線は、岩肌の割れ目だとか、雪舟の晩年の境地の象徴だとか、鑑賞者は、そこに塗り込められた心情や意思を類推しようとします。しかし、そこにはそんな心情や意思などはありません。「リアルな存在や物体」を描く=創ろうとする意思。があるのでは、と貴方は言うかもしれません。でもそう思ってしまったら、「リアルな存在や物体」はたちまちに消えてしまい。鑑賞者は、真の雪舟には会えなくなってしまいます。

次は、ゴッホの遺作「カラスのいる麦畑」です。
ゴッホの描画法は基本的には線描です。印象派の色と光の分析である …自然の中の色や光線には、様々な色が混じり単色を構成している。画面に多色を散りばめれば、その配合が、人間の視覚網膜で混色されて、人は自然な単色を感じる。(視覚混合)… の法則により、ゴッホは、多色の線描でその効果を表現しています。この意味では印象派の画家ですが、ゴッホは、ゴーギャンと別れ、耳を切り落とした頃には、この技法で対象を写し取り描くという目的の絵画は、完成を迎えていたと思います。
画家が、絵を「写し絵が描く」から「リアルな存在や物体を創り出そう」と考え、その意思を始めるのは何故なのか?。興味のあるところですが、ゴッホの場合、この頃に「リアルな存在や物体」を描く=創り出したい。その思いに目覚めたものと思われます。
さらに、この頃から死を迎えるまで、濃青の空の絵が多くなります。線描が太く逞しく描かれ、印象派風の色の混合技法はほとんど見られなくなります。画面は、空の濃青と地上の黄色の景色の二色の対比で極端に描かれることになり、丹念に複雑に自然を写し取り描こうとする気が全くないことがわかります。
そして雪舟が、黒々とした墨の物質としての「リアルな存在や物体」に惹かれていったように、筆で絵具を逞しく掬い取り、画面に線を引いて行く、その盛り上がった絵具の艶やかさ柔らかさが、「リアルな存在や物体」感を輝かせていることに、ゴッホは魅了されていったのです。
遺作と言われる「カラスのいる麦畑」の黒色のカラスの描画。これは、自分の心情を、寂しいカラスに擬え描いたのではなく、艶やかな物質としての黒色絵具の「リアルな存在や物体」を、カラスに似せて見せたかっただけような気がします。
さらに、この絵の寂寥感を、これは「極度の悲しみと孤独」で描いた。と、ゴッホが言ったとか言われていますが、このような文学的想像力は、天才画家にとって、絵を描く時には、一番遠くにある無縁のもののように思います。

次のデュシャンは、アイロニーのアーチストです。
絵画には、画家と対象の人や物などの心情や意思や物語が、絵具や筆で掬い取られキャンバスに写し取られていて、その出来栄えを楽しむのが絵画と言われます。一般に公開される絵画展では、鑑賞者は、絵画に塗り込められた、その心情や意思を、ビジュアルを通して、あれやこれや推量し楽しむということになります。しかし、このように、画家と描かれる対象との交合、さらには鑑賞者自身の心情や意思もそこに加えて楽しむなど。人に見られて食事をしているような恥ずかしい事が、高尚な芸術であるとは到底思えません。そしてそこには、流通価値として値段がつけられ、メディアの喧伝により社会的価値までもがつけられるとは…。
このような有様に、デュシャンは「泉」と題して、展覧会に出品される絵画に交じり、いわゆる本物の便器というアイロニーを出品しました。単なるアイロニーのみを意図したのであれば、蝋細工か3Dプリンター製の本物そっくりの便器の方が、今日的には、さらにアイロニーの効果が増したのではと思います。
しかし、デュシャンは、もっと別の事も意図していたのだと思います。デュシャンは、画家で出発したのですが、途中で画家を放棄し、このアイロニーのアーチストに変身しました。
デュシャンの絵画は、キュービズムの技法で、人の歩みの連続を描く、つまり時間を圧縮して写し取った絵などがありますが、しかし、自然をどれだけ上手く写し取っても、本物にはならない、つまり「リアルな存在や物体」を創ることにはならないと気づいたのだと思います。そこから思考が始まります。便器という、単なる既製品の道具であり、作者や対象物や鑑賞者の心情や意思を後から写し込む余地などありようがない既製品であり、しかしそれは、確実に「リアルな存在や物体」であり、もし便器に心情や意思があるとすれば、それは常に水が満たされている「泉」であろう。と名付け、作品として展覧会に出品することを考えたのです。
我々鑑賞者は、展示された「泉」と名付けられた便器を眺めるとき、先ず嫌悪や疑問と共に、便器に「リアルな存在や物体」を感じ、同時に自身や肉体が、同じく「リアルな存在や物体」であると気づかされ、ギョッとしてしまうのです。そしてそれから漸くそのデュシャンのアイロニーに気付くのです。

「リアルな存在や物体」とは、「複雑構造」であると言いましたが、それも底なしの「複雑構造」です。
道端に転がる小石でも、手に取り仔細に眺めると、表面の複雑な表情の中に、目を移して行くと次々と新しい要素が発見できます。飽きがきて中断するか、これは「道端の小石」であると言語思考がラベリングし、認識を中断するまで、欲すれば永遠に眺め続けることができる「複雑構造」なのです。
絵画では、「複雑構造」である自然を上手に絵に写し取ったと思っても、永遠に眺め続けられる「複雑構造」は絵の上には創れないのです。天才と言われる画家達には、それが我慢ならなかったのだと思います。そこで、「リアルな存在や物体」を絵の中で創ってやろうとしたところ、その材料である絵具の「リアルな存在や物体」を目立たせる結果になるとは、デュシャンの便器を見て、自分や自分の肉体が「リアルな存在や物体」であると気づかされることと、少し似ています。

次は、ポロックです。
「リアルな存在や物体」を創るために、それを妨げる要素を、ポロックは除くことを考えました。
画家の心情や意思が筆で絵画に塗り込めるられることを避けるために、アクション・ペインティングという、床にひいたキャンバスに、刷毛やコテで空中から絵具を滴らせる方法をとりました。この方法で、画家の心情や意思のほとんどは、遮断することができました。しかし、すべての心情や意思を遮断してしまうと、自然の風雨に晒され、錆びて穴が空いたトタン板と変わらないことになるので、ただ自由落下に任せるのではなく、微妙に絵具の量とスピードと位置をコントロールしています。そうすれば「リアルな存在や物体」を創りたいポロックの強い意思のみが、画面に塗り込められることになるからです。後年、インスタレーションと称し、錆びたトタン板を展示会に並べるアートが登場しますが、ポロックとの違いがお分かり頂けるかと思います。
またこのポロックの方法には、風景や人物など、写し取る対象と心情や意思が初めからありません、絵具の物質の「リアルな存在や物体」だけが画面に俎上されることになります。デュシャンが絵画を描くことを止め、代わりに便器を「リアルな存在や物体」のために使ったことから進歩し、ポロックは、絵具のみで「リアルな存在や物体」を創ることに成功したのです。

ポロックのアクション・ペインティングの絵画を眺める時、アクション・ペインティングの名前から受ける躍動感や騒がしさとは反対の、静謐や奥床しさを感じます。親しい人と手を握り合った時の、安心感、安堵、平静を感じます。感じるというより、自分自身の「リアルな存在や物体」と、ポロックの絵の「リアルな存在や物体」が出会って生まれる、物質としてお互いが共同の認識を持っていて安心と思ってしまう存在様式です。

人によっては、セックで、男女が裸で最初に抱き合った時の、蕩けるような安堵感かもしれません。「リアルな存在や物体」とは、出会うと常にエロティックを感じさせる存在なのです。

癒しとは、自分自身が、単に自分も「リアルな存在や物体」だったと感じて安堵する瞬間ですが、「リアルな存在や物体」が他の「リアルな存在や物体」と出会う瞬間とは、垣根なく自分が広がっていて、外にある他の「リアルな存在や物体」と自分自身の「リアルな存在や物体」の一部を交換しても構わない、あるいは、同じ部品を共有しているのではないかと思う程に根源的な安堵感なのです。これを、エロチックな状態と言いますが、人々は日常的にこのことを確認し続けています。西洋人では、握手したり、キスで挨拶を交わしたり、ハグをしたりと直接的ですが、日本人でも、さりげなく、手と手を触れ合ったり、お辞儀をしたり、相手の瞳を覗き込んだりして、その交接を味わっています。

ポロック以降に「リアルな存在や物体」を描く=創ろうとする画家アーチストは今日まで出現してはいません。
これは「言葉での理解が、理解の全てになっている。」現代の風潮と深く関係しています。現代で「リアルな存在や物体」とは、言葉で書かれた【リアルな存在や物体】以上のものではなく、本物の「リアルな存在や物体」との出会いでエロチックなものを感じても、それを言葉に出来なければ(ラベリングされなければ)、それが理解であるとは認められないからです。言葉に出来なければ、流通媒体には載らず、価格が付けられることもなく、情報として社会に流通することもありません。例えば、今日の日本では、ビジュアルアートであっても、ライバルが小説家の村上春樹ということになってしまうのです。

最初の方で、…「リアルな存在や物体」を創り出す作業では、通常の技術や方法だけでは叶いません。そこには独自の技術や新技術が介在します。…とお話ししました。
レオナルドダビンチは、スフマート技法で、雪舟は、特別の筆と墨。ゴッホは、持ち運びが便利なチューブ絵具。デュシャンは既製品。そして、ポロックはアクション・ペインティングです。

野町和嘉の場合は、
Canonデジタルカメラ EOS 5Ds 約5060万画素 + 大型カラープリンターです。
デジタルカメラとデジタルプリンターの急速な発展で、大画面で高精密な画像の写真が登場することは予想されていました。解像度が高まり、さらに大画面になるので、細部が更に細かく再現され本物の繊細さに近づくと、原理としては分かっていたのですが、現実の画面で体験して、何が予想通りで、何が予想外なのか、興味がありました。

2016年1月17日から31日の期間 「Gallery916」(浜松町)で開催された、野町和嘉写真展「天空の渚」でその新技術の成果を体験する事ができました。
詳しくは→野町和嘉写真展「天空の渚」


一言で言うと、写真の新しい扉が開けた思いがしました。画像技術が一つ上に進んだことは勿論、撮影技術にも、芸術としての可能性にも、新しい何かがやって来ていました。後年、約100年の写真の歴史の後に起きた革命であったと、回想されることになるかもしれません。

では、この事について、お話ししたいと思います。

横約3m、縦約2.5m 絵画で言えばF500号サイズに近い大画面のカラー写真が、約35点も展示される写真展は、現像紙焼きの時代からは、技術的にも費用的にも時間的にも想像がつきません。
デジタルカメラの高画質化は、これからもさらに進み、次のステップに向かい進歩するのは確かなのですが、テレビの4K、8Kなどの透過光画像技術が進むと、反射光画像のデジタルカラープリンターは、モノクロ写真の運命を辿るかもしれません。
しかし、大画面で高画質化しているのに、カラー再現性が向上し反射光画像も進歩しています。これが進めばデジタルプリンターは、モノクロ写真と同じ運命を辿ることにはならないかも知れません。

前回の、「野町和嘉『写真』とは(1)ー写真論からのアプローチー 」で、
レンズは、映るものは何でも写す自由意志を持ち、同時に、被写体の意思と無意識、撮影者の意思と無意識をも写してしまう。とお話ししました。

また、野町和嘉の撮影法について
ある目的を持ってその地に向かいます。しかし、風景を撮影する場合、地球があって、大地から垂直に、人、動物、木、山、川、砂丘、建物、そして大気や空がある。そして自分自身も。そんな地球の重力と肉体との根源的なバランス感(重力感覚)のみを撮影の意思(無意識)にします。さらに目的もその無意識の領域に沈み込ませてしまい(旅人感を無くす)、その他はカメラの自由意志に任せるという方法です。
とお話ししました。(詳しくは、前回の「野町和嘉『写真』とは(1)ー写真論からのアプローチー 」をご覧ください。)

写し込む心情や意思を、地球の重力と肉体との根源的なバランス感(重力感覚)のみに止め、後はレンズの自由意志に任せ撮影する。この野町和嘉の撮影法は、上記のポロックで見た…画家の心情や意思が、筆で絵画に取り込まれることを避けるために、アクション・ペインティングの方法を使った。…と言う、先に見た、ポロックの方法と似ています。
ポロックのアクション・ペインティングでは、心情や意思のほとんどを遮断し、ただ「リアルな存在や物体」を創りたい強い意思のみを取り込ませるために、絵具をコントロールしながら、ほとんどは自由落下に任せました。野町和嘉は、「重力感覚」のみを意思にして、後はレンズに映るものは何でも写すレンズの自由意志に任せました。この方法で、「リアルな存在や物体」を創り出す方法に近づいたのです。

野町和嘉写真展「天空の渚」は、メキシコ、ボリビア、アルゼンチン、チリを巡る旅です。
サンタマリア・トナンツィントラ教会。雨期のウユニ塩湖、標高4000メートルの原野に林立する砂の柱。生きた氷河と呼ばれるアルゼンチンのベリト・モレノ氷河。などで撮影された写真には、今までの写真では見たことがない「リアルな存在や物体」の創造が体験できます。

一般に写真とは、その言葉の通りに対象を写し撮る芸術であり、そのビジュアルの他に、撮影者と被写体、その両方の心情や意思をも画面に写し撮ります。
例えば、祈る人を撮影する場合、レンズは、手を合わせ首を垂れる被写体の表情や姿勢のビジュアルを、さらに、激しく願い祈る被写体の心情や意思をも写し撮ります。そして、その真摯な様子に心動かされ、簡単なスナップでは済ますことができない、撮影者の心情や意思をも写し撮ってしまいます。
しかし魅力的なビジュアルであっても、祈りの心情や意思が強く写ってしまえば、例えば「激しく祈る人」と題され、その文学的要素で良い写真ということになってしまい、心情や情動以外の、目を喜ばせるビジュアルとしての中立的な魅力はあまり顧みられなくなってしまいます。

絵画で「リアルな存在や物体」を描く=創るということは、いつまでも見飽きることがなく、限りなく情報を発信する「複雑構造」を描くことです。、絵画上の、その「リアルな存在や物体」と鑑賞者が出会うと、自身も「リアルな存在や物体」であることを意識させられ、そこからお互い、物質として共同の認識を持っていて安心と感じてしまう、甘美な存在様式が生まれます。つまり手と手を握り合えるようなエロティックな関係が持てそうな感覚になります。これは普通には、控えめに、絵画を見て心動かされた。という表現になります。

このような絵画でも難しいことが、写真では出来るでしょうか。

野町和嘉写真展「天空の渚」の出展写真の中でも、サンタマリア・トナンツィントラ教会の天井装飾。標高4000メートルの原野に林立する砂の柱。 生きた氷河と呼ばれるアルゼンチンのベリト・モレノ氷河の氷山の写真などには、野町和嘉独特の撮影法が徹底され、画面には、野町の「重力感覚」の意思のみが取り込まれ、他は、レンズの自由意志が働き、いつまでも見飽きることがなく、限りなく情報を発信する「複雑構造」が「リアルな存在や物体」として表現されています。
横約3m、縦約2.5m の大画面のどの部分の10cm角を見ても、ピントが合っていて、粒子の粗れや解像度不足のボケなどは見えず、目で追っていけば、1mm単位の物質の表情も捕らえられる程に「複雑構造」が表現できています。

これからは、5060万画素のデジタルカメラと大型カラープリンターで大画面写真を作れば、誰でもこのような「複雑構造」が表現できることになるのですが、だが誰でも簡単に「リアルな存在や物体」 を撮れる=創れることにはなりません。絵画では、少数の天才画家しかしできなかったように、写真家にとっても同じです。しかし、絵具や筆の難しい扱いを学ぶこと比べ、そこへ出かけて行って、写真はただ一瞬のシャターで出来るのが魅力です。
そこで「リアルな存在や物体」を画面上に創れる魅力に目覚めたアーチストが、写真家より先にこの技術を使い始めるかも知れません。

写真は、複製芸術です。今は、アルバムの中に、机上の写真立てに、壁の飾りに、各種印刷物に、TVやネットや携帯の小さな画面の中に、透過光と反射光画像の両方で、時と場所を選ばず鑑賞できます。しかし、「リアルな存在や物体」を写真で鑑賞するには、大型デジタルプリンターの高解像度で出力された「複雑構造」が見える画面でなければなりません。そのためには、絵画鑑賞のように、写真展に出かけ実物を鑑賞しなければなりません。
家庭で見る4K、8Kの大型液晶モニターや有機LDモニターの技術では力不足のようです。次代のマイクロLEDディスプレイではどうでしょうか。同じ反射光画像である絵画の進歩の延長に、新写真が存在するが自然な感じなのですが、透過光画像では3DやVRも進歩するので、簡単に誰でも「リアルな存在や物体」を撮る=創ることが本当に可能になるかも知れません。

写真で「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を撮る=創る方法は、野町和嘉の撮影方法で輪郭は説明できたかと思うのですが、撮影の前に、撮影者の意思を心の中で創り、育て、強く確かなものにしなければなりません。野町和嘉の場合は「重力感覚」を無意識に強く意思できる才能があります。また、レンズの自由意志に任せて、それでも作画ができる撮影感もあります。
後は、「リアルな存在や物体」つまり「モノ」とは何か、どう捉えるかと言うことになります。
「言葉での理解が理解の全て」と考える。あるいはそう教育されている現代人には、「モノ」とは言葉のラベルを貼ることと同じですから 、「リアルな存在や物体」とラベリングしてしまえば、理解したことになって、真の理解への道が閉ざされてしまうでしょう。
それを避けるため、岡本太郎をはじめ「縄文の心に帰れ」と言ったりしますが、縄文時代の土偶や祭壇土器は、紛れもなく言葉に邪魔されず、人が創った「リアルな存在や物体」であることは確かです。
なぜ、写真という道具を使うのだろうか。日々、どんな思考ツールを使っているのだろうか、言葉での理解か、それとも無意識に心を動かす名無しの感覚や思考器官でか、同じ楽曲の同じ音符でも、サックスとピアノでは、演奏(思考結果)に違いが出るのは自明です。どんな思考ツールを使うのかが重要で、結果が違ってきます。高画質デジタルカメラのレンズの自由意志を選べる今日の写真家は、言葉での理解しか知らない現代人に、それこそ革命を起こすことになるかも知れません。
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成仏の方法(7)

2016年06月07日 | 成仏について
言語思考には思考ルールがあります。そのルールを外れて、考えたことを言葉で説明しようとすると、訳がわからなってくる。
第一義諦と世俗諦を説くナーガールジュナ(龍樹)や、存在と意識を説く唯識論を、読み進むと複雑怪奇でやがて徒労がやって来ることから、それは、わかっていた事なのですが、やはり、このブログも読み返してみると、書いた本人にも難解で鬱陶しいものになってしまいました。つまり、釈迦の沈黙が一番正しいと分かるのですが、それでも釈迦には口を開いて欲しいのです。でも、人間の理解ツールが言語にとどまっている限りは、釈迦は沈黙を続けなければならないようにも思います。
稲垣足穂が言うように、十字路交差点の電車道に九十度の方向から同時に二台の電車が来たとします。でも交差点で一瞬に、お互いをすり抜け、二台の電車は、架線ポールから青い火花を散らし、走り去って行った。という風には、言語思考では解決できないのです。有様を言葉は表現できているのにです。

綴る言葉の論理の辻褄が合わなくなっても良いというのであれば、先に進めるのですが、それは、言葉と言葉の間に、読者の勝手な、独創的な、又は、常識的な論理を挟み込むことを期待することになるのですが、それで私は論理を通す難解な筋立てを放棄できる事になるのです。

今回は、そんな難しいけれど実は、頭をめぐらしてしまえば単純なお話しをする事になると思います。

あれこれ言う前に、今回は、この方法をトライしてみようと思います。

成仏するためには、「身」も「口」も「意」も全て「空」でなければならない。
なかでも「身」の「空」が一番、難しそうだ。

「身」の「空」を実現するために、瞑想や修行と呼ばれるトレーニングが何千年もの間、数多く考案されて来ました。成就が難しい故か、手段が目的になってしまい、それから先には進めなくなってしまうものも多く存在しています。

密教やヨガ、タオには、肉体を「空」に導く修行が沢山あります。密教には、先に「身」の「空」を成就させ、それをテコに「意」と「口」を「空」に導く方法(密教の究竟次第)。先に「意」の「空」を成就させ、「身」の「空」の成就を容易にする方法(生起次第)があります。
そして成就した二つ(生起次第と究竟次第)を合体させると成仏への道が開きます。

自己の内なる三密と外なる仏(宇宙)の三密を、相応合体させ、成仏を得る「三密加持」も同じ方法です。
タオの、陰の気を排除し身体を真火で練り上げ純陽化し、真我を得て、不老不死になる方法もあります。

「身」と「意」と「口」の三密は、一つのものを三つの方向から眺めたものなので、三つは一緒。一つを語っていてもいつの間にか他を語っているようにと、相即相入で境がありません。ですから、言葉での説明も行ったり来たり、三つのものを同時に考えたりと、論理を破り、言葉のルールを逸脱し、言語思考を越え、さらに人間の認識能力からはみ出す理解を強いることになります。ですから「身」のことを語っていてもいつの間にか「意」を語っているという風になってしまいます。

密教、ヨガ、タオに共通するのは、身体を巡る「気」と「気」をコントロールする呼吸法です。
色と音と光が呼吸法を助けます。

エネルギーの流れと量を「身」の感覚センサーが感じ、「口」がその意識をフォーカスしコントロールします。

言葉が表す「気」は、エネルギーを指差す指先(言葉)であって、エネルギーそのものではありません。
これを量子論で言えば、「気」と言葉で表わされた時は、粒子であり、言語思考(粗雑な意識)で捉えられますが、身体を流れる「生な気」は、流体(波動)であり「繊細な意識」でしか捉える事ができません。そのため、「口」がエネルギーにフォーカスして「気」を動かすには「繊細な意識」を使います。しかし、「口」がエネルギーへのフォーカスを言語化し、存在の輪郭を露わにしてしまうと(気→粒子化)、ダイナミックな運動性が消え失せてしまい、コントロールが難しくなります。
前に、存在について、「意」は、本来、融通無碍で制限がなく、「意」の対称性が「口」により破られ、存在が意識に発生するとお話ししましたが。これと同じようにエネルギーは、つまり「気」は、本来、融通無碍で制限がなく、対称性にあると考えられます。

先ず自分にどんなエネルギーが有るのか、作り出せるのか、その量と強度を確かめなければなりません。

「意」の意思で「身」がエネルギーを生み、「口」が、エネルギーに意識をフォーカスし流れをコントロールします。

怒り、嫉み、恐れ、セックスは大きなエネルギーを発生させます。さらに、外部から、人、動物、植物、大地、山、川、風、雷、地球、太陽、月、星など、あらゆる自然現象からもエネルギーを取り入れる方法があります。

取り入れる前に必要な事は、自分の肉体がそれらのエネルギーを受け入れられる剛性耐性と容量があるかどうかの確認。そのキャパシティを高める努力と方法。そして、エネルギーコントロールの修得です。

怒り、嫉み、恐れ、セックスなど、体内で発生するエネルギーは、出来るだけ体外に漏らさぬ事が肝要です。怒り嫉み怖れのエネルギーは自己を痛める悪いエネルギーですから、体内で良いエネルギーに変化させる方法が必要になります。出来ればこのようなエネルギーは摂らない方が良く、憤怒尊や静寂尊への瞑想は、悪いエネルギーを浄化する方法の一つです。また、布教で善行を説くのは、この防止の為でもあります。

セックスのエネルギーは、想念次第で良いエネルギーにも悪いエネルギーにもなります。両性相和し快楽を高めそれぞれに発生するエネルギーを、お互いが協力して二つの肉体の間に循環させ外に漏らさないようにする事が肝要です。快楽を高めることと快楽に引かれ多くを漏らすことは別です。多くを漏らせば、健康を害します。
更に、快楽を極限まで高めることで自分の肉体のエネルギーの耐性と容量を知り、身体が覚えると、さらにその上の強度に臨むことができます。ここでは強力なエネルギーが得られるとともに、外部からのエネルギーを取り込む時、効率を高める要領が学べます。

エネルギーは、「身」を「空」にする為の原動力です。自分のエネルギーのことをよく知りコントロールする事が、一番重要です。セックスの方法は比較的安全ですが、トレーニングに、怒りや嫉み、恐れのエネルギーを使う事は危険です。

エネルギーは常に社会との関係を生じさせます。怒りは犯罪や戦争を生み、嫉みはイジメや復讐を生み、悲しみは自傷を生み、セックスは家族関係と倫理を生み、それぞれが連なって社会の因習、習慣、規範、法律を生んでいきます。

仏教の成仏は、エネルギーを扱います。扱いを間違うことがあります。ほとんどの場合間違います。そこで宗教の戒律は、そこから生まれる障害を防止する役割を担っています。

「気」とは、常に動いて止まないエネルギーに意識をフォーカスさせる「口」の働きのメタファーです。「気」とは、エネルギーそのものであると同時に、流れや強度をコントロールするものでもあります。

前述の言語思考をベースにする「粗い意識」と、対称性をベースにする「繊細な意識」の連動連結がクリアな修行の進行を生みます。しかし、最後まで「粗い意識」と「繊細な意識」の混同と、そこから生まれる矛盾が、有史以来、全ての東洋思想の根底に溜まり続けています。あたかも意識の煩悩と呼べる程にです。

「意」を悩ませるこの問題は、結局、両者ともに「空」だと知ることで終わるのですが、さてその先は…。

「気」により、身体の全能化を目指しますが、やがて全能にはなれない身体の限界を知る事になります。身体の全能化が成仏であるとすると、解決方法は「身」の「空」で終わりではなく、「意」にある事が分かってきます。

道教(タオ)では、「気」には陰と陽があり、「陽の気」で身体を練り上げ、身体の純陽化を目標にします。そして、純陽化した身体を太陽の光に溶け合わせてしまうというように、仏教の「空」の方法論に近くなってきます。

ヨガは古代インドに始まります。ヨガの修行の中心は身体の鍛錬と思われていますが、それは手段で、こころの作用を止滅させ、真我を本来の状態にとどめることを目標にしています。この、こころを「粗い意識」。真我を「繊細な意識」に置き換えると、仏教の方法と同じです。

「気」の考え方、開発の手順について。タオ、密教、ヨガの三者は共に同じです。影響し合ったとはいえ、場所を違え個別発生したものがたまたま同じだったとは考えにくく、それぞれの祖先である原始宗教にまで遡る多神教の基本原理のようにも思います。

クンダリーニの開発など、「気」開発の基本メソッドは、タオ、密教、ヨガの中から、自分の感覚にあったものを選べば良く、それぞれの良いとこ取りをするなど、囚われを少なくした方が良いようです。

クンダリーニの開発は、通過点てす。例えば、タオでは、全身の純陽化を目指しますので、全身の細胞一つ一つにまで、「気」を巡らす必要があります。前述の小さな小人になり、全身の細胞の探索と認識をしておけば、ヨガの方法でクンダリーニの開発をし、「気」が頭頂に達すれば、ここで小人の学習が役立ち、たちどころに全身の細胞一つ一つにまで「気」が巡って滞りがありません。これは、タオの存思の方法の根本原理です。

インドの後期密教やチベット密教からは、身体が「空」に変化する為に必要なエネルギーについて、その発生と方法、量と強度、さらに、エネルギーを受け止める身体の反応と耐性について学べます。

エネルギーには、良いものと悪いものがあります。「意」は、それを十分に知らなければなりません。世俗の倫理や論理で正しいものが、必ずしも良いエネルギーであるとは限りません。例えば愛は、執着や嫉みを生み、一人殺せば殺人。一万人殺せば英雄。や、平和と戦争の二元論は、怒りと悲しみを生みます。

怒り、嫉み、恐れ、セックスからは、想像を超えるエネルギーが発生します。如来になるには、それそれが最大パワーをいちどきに発する程のエネルギーが必要になります。

チベット仏教や秘密集会タントラにある過激な表現。例えば、男女の和合と怒りを結合させた父母尊と憤怒尊。糞と尿と精液と経血と人肉で如来を供養する女陰に住まう菩薩。妬みのエネルギーを浄化する静寂尊。などは、実際にこのエネルギーの発生と浄化を実行する「身」や「口」に向け、「意」が最大限の過激表現で不退転の決意を述べたものです。

日本の密教にも、過酷な千日回峰行などがあります。

では、過酷な修行は、生理的に何をもたらすのでしょうか。
瞑想や修行による、身体への意識の集中や過激な負荷は、肉体と頭脳に刺激を与えます。それにより「身」と「意」が変化します。脳の可塑性がようやく科学では認知され始めていますが、肉体への刺激で、筋肉、骨格、内臓が変化強化されるように、瞑想による脳への意識の集中刺激は、生理的レベルで脳の細胞を変化させ、身体への意識の集中刺激は、身体の細胞や構造その機能をも変化させます。

身体には「免疫機能」や、体温や鼓動を一定に保つ「ホメオスタシス」などの機能があります。
この機能を解除するかスルーすることができなければ、瞑想や修行は、精々スポーツトレーニングで、筋肉が強くなったとか、俊敏さが増したとか、記憶力が良くなったか程度の効果に止まります。

密教やヨガでは、薄着で雪の上に寝る。つまり、体温を自由にコントロールする。心臓の鼓動を遅くしたり止めたりする。呼吸や肉体の代謝機能を低下させ仮死状態にする。などの修行があります。
これらは、「免疫機能」や「ホメオスタシス」の機能をスルーする事で達成されますが、
これら全ての修行は、身体は「空」。であることを実感するために行われます。

そしてこの「空」は、この修行の目的になるだけでなく、実行のメソッドにも組み込まれています。
「空」が組み込まれたメソッドとはなんでしょう。
ここでは「意」が全体を主導します。前述の釈迦の教え。

物事には必ず原因(因)があって条件(縁)があって結果(存在、現象)がある。(因縁)
因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)
因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)
カルマがつくる煩悩。 煩悩がつくるカルマ。それがつくる輪廻転生から脱することが、成仏である。(四聖諦)

を、実行する事が、目的でもありメソッドになります。

その方法について、お話しします。
「空」とは、物事には実体が無い。ことであり、変化して止まない「因」と「縁」で生まれてきます。言語思考は「意」の対称性を破り「存在」という「実体がある」を創り出しますから、「空」を扱う思考ツールとしては不適切です。
一方「繊細な意識」は、対称性に止まり、永遠無限全知全能な情報にアクセスが可能な思考ツールですから、「空」の認識理解には適しています。
最終的には「繊細な意識」も「空」により実体が無いとされ、資格を失う事になるかも知れませんが(所知障?)、それよりも、今は言葉を使っているので、どうしても言語の「粗雑な意識」を贔屓にしてしまい、対称性ベースの「繊細な意識」との混同とそこから生まれる矛盾が、思考を妨げ、論理を濁らせてしまいます。

「繊細な意識」は、純粋状態なら一即多、多即一、相即相入ですから、部分を考えていても全体を、全体を考えていても部分を考えている事になります。
つまり、言語思考の記憶では、言語記憶アーカイブの大脳皮質記憶装置が必要でしたが、「一即多、多即一、相即相入」状態の「繊細な意識」では、過去現在未来の情報の全てを、部分と全体とが共に担うので、記憶という概念が必要ない事になります。事実、例の小人にになって体内を巡る「繊細な意識」では、既視感があり、新しい体験は既視感にどんどん組み込まれ学習されていきます。その意識を「口」がフォーカスし言語化はできるのですが、面倒で、「繊細な意識」の既視感の方が早く鮮明で具体的な「記憶?」の様に感じてしまいます。

身体には、外部からの攻撃に対応する「免疫機能」や、体温や鼓動を正常に維持しようとする「ホメオスタシス」など、制限機能が備わっています。身体を変化させる修行の成就には、この制限機能をスルーする必要があります。

では、その機能制限と「繊細な意識」のと関係はどうなのでしょうか。

新しい神経生理学に「オートポイエンス」という考え方があります。

「神経システム内で活動が起こされる時、外界は引き金の役割しかはたしていない」です。
従来の考え方では、生物の進化を例にとると、外界の刺激により遺伝子はダイレクトに突然変異させられ、次代にその変化が遺伝継承されるという、いわゆるダーウインの進化論が一般的でした。

しかし、「精神はそれ自身が創造したものの創造物である」です。
外部のメカニズムに関係なく、自身のメカニズムで、みずからの構成要素を創り続け、統一体としての閉鎖系を創り出し、境界の自己決定をする。

「オートポイエーシスのシステムは入力と出力を持たない」
外部とのエネルギーのやり取りが組織構成を決定するものではない。もし、外部から何らかの介入が生じた場合、それは単にシステム自体の損傷を意味するだけである。つまり、外界からの刺激に順応し、遺伝子が変化するのではなく、自己の都合で遺伝子は変化する。とするそんな進化論になる。これを「入力と出力を持たない」と表現しました。

この「入力と出力を持たない」という、呪文に似た言葉は、「色即是空、空即是色」に似ています。言語思考的には、論理破綻していますが、この二つは言語思考を機能不全にして、背後をうかがおうとする方法になります。

言語思考の二項分類(対立)で、「意」の対称性が破れ、超越的第三者の下、「外部(環境)」と「内部(自己)」という二つの「存在」が意識に創出されると、そこでやりとりされるエネルギーは、「入力と出力」の言葉で説明せざるを得なくなり、これは言語思考の科学的説明になります。一方、言語思考を機能不全にして透明で見ると、「存在」が意識に創出されることがない対称性が見えて来て、そこでは、例えば空海の「重重帝網」状態では、意識を媒体に、部分と全体の間を、エネルギーは行き交っているのですが、「存在」として意識に現れていないので、言語思考からは、それは入力と出力を持たない現象のように見えるのです。

これは、瞑想や座禅で生ずる活動を説明しています。
外部からみると、瞑想や座禅は、静かに息を潜めエネルギーを発しないように見えます。事実「入力と出力」と表現されるような明らさまエネルギーを抑え、静かに瞑想や座禅をすることが修行であると説明されています。

しかし、成仏は、「身」「口」「意」の「仏」への変化を求めますので、エネルギーを潜めていては、変化はいつまでもやっては来ません。
前述の小人になって、体内を巡る探索は、目的の部位に意識を集中すると、そこに熱が発生し、エネルギーのやりとりを「繊細な意識」で実感できます。そこに「口」が意識をフォーカスし、現象を言語化すれば、エネルギーが入力出力していると「粗い意識」は理解することはできます。でもそれは理解にとどまります。「繊細な意識」なら、わざわざ存在という言葉を創出しなくても、全体が瞬時に実感で分かるという感じです。

ここまでくるとお分かりのように、「繊細な意識」を使えば、「免疫機能」も「ホメオスタシス」もコントロールできる事がわかります。
コントロールというより、スルーするという方法です。
「免疫機能」や「ホメオスタシス」の身体の制御機能はそのままに、別ルートを取るような、あるいは、制御機能に気付かれず、ニュートリノのように自由にすり抜けてしまうような方法です。

薄着で雪の上に寝る。つまり、体温を自由にコントロールする方法は、密教では、トゥムモと呼ばれます。呼吸を使い丹田に「気」を集めると、下腹部が熱く熱を帯びてきます。その熱を尾てい骨のクンダリニーに送り、督脈を通し、各部のチャクラを温めながら、頂点の泥丸まで送りここでしばし温浴します。続けて、その「気」を眉間、喉を通じ、任脈で丹田まで降ろします。「気」は喉より上に行くと、清涼になりますが、再び胸まで降りてくると、上昇時より熱くなっているのがわかります。その循環を繰り返します、その循環の途中何回かを、丹田に降ろした「気」を反対に帯脈で胸まで上げ、頭頂から降りてくる「気」と胸で混ぜ合わせると、「気」は陽化が高まり真火となり、さらに丹田まで降ろし温浴します。これは小周天と言われまが、これに前述の小人で体内を巡る探索に熟達していれば、丹田の「熱い気」が体の全体に、沁みるように広がり、風呂上がりの体のように、全体がポカポカ暖かくなって来ます。意識しなくても、この循環を体が自動的に行えるようになれば、持続して、濡れた肌着が乾く程に、身体全体の熱を高める事ができます。熟達すれば薄着で雪の上に寝ることが可能になります。

大まかに方法を書きましたが、作業をオペレートしている「繊細な意識」は、その間旺盛な情報力を発揮し、質や量が違う様々な情報、気づきを、遮るものなくもたらし、さらにそれをフィードバックして、オートポイエーシス的な自己創作をするというように、目的実現のための、言葉では書ききれない様々な工夫を生み、マニアルを学ばなくても、この体験から自然に全てを学ぶことが出来ようになります。

感覚器官や意識は、普通それが所属する個体の個性により、取得する情報も個性化されるのですが、「繊細な意識」の気づきと流れる質と量が、個体の個性量を越え、個性を凌駕すると、大楽と言われる恍惚の状態がやってきます。怒りや嫉み、快楽が、脳の細胞のニューロンとシナプスを変化させ、同時に身体の細胞や機能を変化させるように、大楽の恍惚感は、身体と頭脳を純に変化させます。大楽の場合、「繊細な意識」が純な場合にしか発生しませんので、麻薬にような中毒性はありません。正しく行えば、宗教が自己暗示や妄想と言われる原因になることもありません。純でければ「空」ではなく、不純な結果を招くので、思い込みの大楽と分かります。「意」は常に「空」なることを意識していなければなりません。

しかしこの動きは、自己内では、言語思考の「粗雑な意識」と対称性の「繊細な意識」。両者、お互いに了解はできているのですが、社会(世俗)は言語思考で構成されているので、他人の「粗雑な意識」にとって他者の「繊細な意識」は、それに衝動とか妄想とかラベリングする、不穏な動きに他なりません。

世俗との摩擦を避け瞑想修行に集中するため、出家とか隠遁とかになるのは、数々の摩擦の歴史を経て、当然の帰結のように思います。

しかし、今日では、「オートポイエーシス」の考え方のように、「繊細な意識」の存在を、「粗雑な意識」でどう捉え表現してゆくか、つまり、科学と宗教の融合という視点で、考えられ始めています。

これまでお話ししてきた「成仏への道」は、対称性の性質を持つ「繊細な意識」の発見と強化でしたが、一方、「繊細な意識」から「粗雑な意識」への働き掛けもあります。それは「菩提心」と言われ、仏教の教えの大きな柱の一つになっています。


ここまで分析を進めてくると、如来に変化する「成仏の道」(出家修行)とは、様々な制限や個性(特殊)をスルーしてゆく道程であるなら、「繊細な意識」は、今のところ最良の思考ツールであると考えられます。

今回は、長くなってしまいました。次回は、「繊細な意識」を、更に深く高くするとどうなるのかを続けて行きたいと思います。
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成仏の方法(6)

2016年05月10日 | 成仏について
「身」つまり身体と「成仏」とはどんな関係にあるのでしょうか。
輪廻転生や即身成仏で、肉体はどうなるのだろうか?。
輪廻転生で、人は死ぬと、死から49日の中陰の間に、次の女性の子宮に入り転生するか、成仏して仏になれと言われます。するとその中陰の間は、魂や霊体のような身体が無いものになるだろうか。
即身成仏では、生身の肉体が生きている間に、生物学的身体を持つ如来に変質するのだろうか。
これらの疑問が、「成仏」という教えに首を傾げざるをえない原因であるかと思います。

先回もお話ししたように、科学とは、対称性の真空の世界から、ビッグバンの何度かの対生成、対消滅を経て、反物質が消え物質だらけの存在になった世界、そしてその世界の全物質と存在、つまりそれら物事の消息を、分析研究している言語思考であると言いました。
その反物質が消えて物質だらけの存在になった世界で、魂や霊体とは、つまりそれは、万人の感覚器官には、もちろん科学的観測機器にも捉えられないので、観念的想像ではないのか?。
即身成仏で仏に変化した肉体は、今まで確認されたことがないので、科学的対象にならないのではないか。だからそれらは、物質などではなく、存在していないのではないか。
宗教とはそんな怪しげなものを扱う、精神世界だけのお話ではないのか。もしや科学の可能性として考えるなら、まだ十分研究が進んでいない反物質か、かっては物質だったが対称性に戻ってしまったものなど。つまりそれらを研究する学説や科学的観測機器が開発されていない、未知の存在物などではないかと…。
事実、科学、特に素粒子論や宇宙論、中でも量子論の進歩が、これまで仏教が説いてきた存在論と似たことを言いだして来ているので、仏教の教えを、科学の理論で説明できることが多くなっています。当ブログでも、対称性の破れ、対生成、対消滅などの科学の理論を借りて説明していますが、気をつけなければならないのは、言葉の中に言葉の意味を求めることです。「言葉の理解が理解の全てになっている」現代では、特にそれが強く。言葉は、月を指差す指先であり、本当の月では無いことを忘れがちになっています。なぜそうなったかは、これまでお話ししてきましたが、でも肝心の「言葉の理解ではない理解」とは何か。をお話ししなければ、それも単なる空論ということになってしまいます。

成仏の方法(4)で、言語思考以外の意識思考理解には、無意識、対称性の思考などがあり、例えば「気づき」「深い瞑想」「自己犠牲の祈り」「アハ体験」「以心伝心」「セレンディピティ」「シンクロニシティ」「神話の思考」「野生の思考」などの思考行為は、砂糖が溶ける時間を待つことなくスピーディーで、遮るものなく直ぐ「意」のものになり、二項分類(対立)などに囚われることもなく自由に、「意」本来の能力を表します。と言いました。
「意」も「口」も「身」も、本来、融通無碍で制限がなく透明で対称性の状態なのですが、何故そうなのか?、この状態では、能力もエネルギーも存在も、全知全能無限永遠の存在である「仏」と同じ能力の可能性を秘めている。と、思われるからなのです。
言葉は月を指差す指先なので、言葉の中に意味を求めても、言葉以上の意味は存在してはいません。言葉は「全知全能無限永遠」と表現はするけれど、言葉に求めても言葉からは、「全知全能無限永遠」の理解は得られないのです。

ここは、「身」についてお話ししているので、本来、融通無碍で制限がなく、透明で対称性の状態とは何か。そしてそれを実現する方法は何か。は、「身」によって、お話しすることにします。
先ず、「身」とは何かを考えてみます。分析には、理解ツールの選択が肝心とお話ししてきました。また、言葉での理解は言葉の範囲を超えては不可能である。この認識は、言葉の理解でも合意できると思いますので、この先、理解ツールを言葉で説明するのが難しくなることが予想されます、そこで論理の飛躍や破綻があっても、言葉での理解を超えた理解で補っていただくことに期待する事になると思います。
ここで、注意をして欲しいのは、「意」にも「口」にも「身」にも、言葉を越えた意識や認識の能力があるということです。、何しろ、本来は、融通無碍で制限がなく透明で対称性の状態ですから、言語思考を離れた立場で客観的に分析できて、それが出来ないとなれば、人は、生まれながらに言葉理解の無間地獄に囚われていて、言葉がいう如来などにはなれないということになるからです。

では、「身」の分析認識ツールの吟味から始めたいと思います。
お腹が痛い時、無意識に痛いと認識してその部分に手を当てたりします。しばらくして「お腹」「痛い」の言葉が意識に浮かぶのですが、浮かぶまでの間は無意識が働き、その間の認識は感触も意味も位置も時間も無意識流に分かっています。お腹が痛いという物事には、無意識と言語意識の二つの認識理解が交互に関係しているのです。現代では、「口」による意識へのフォーカスが、直ぐに、言葉の二項分類(対立)での理解(言語思考)に繋がってしまい、社会生活ではそれが多くを占めますので、お腹が痛いは、言葉での「お腹が」痛いのみを認識し、その前に無意識の痛いがあったことを忘れてしまいがちになっています。

そしてここでは、言葉での理解を超えた理解認識を得るために、その無意識の痛いを認識する能力について考えていきたいと思います。

「身」とは何かを言う前に、身体の隅々まで、知らなければなりません。肉体は一番身近にある物体であるのに、我々は多くを知りません。例えば、足親指の先の小さな細胞一つ一つを意識認識をしているでしょうか。心臓の弁が動くのを感じるでしょうか。脳の細胞の一つ一つが、どんな機能を働かせているのか分かるでしょうか。自分の外部にある自動車の構造やコンピュータ回路、その部品の一つ一つの構造や動き働きなどには、学んだり調べ組み立てたり、夢中であるのに、自分の体の骨や臓器、筋肉、神経、循環している血液、細胞の一つ一つ、生命がそれらを動き出させている様子など、日々、生きた意識で認識をしているでしょうか。せいぜいが、肉体の解剖図、骨の構造図、神経のネットワーク図で、個人的にはレントゲンやCTIの画像で、内臓の形、そこには血液が流れていて、脳の自律神経で心臓が動き血液を循環させている。脳は脳脊髄神経で筋肉を働かせ身体を操っている。などなど、本で読んだ、つまり言葉で与えられた静的な医学の知識レベルで認識しているように思います。
しかし、本当は、「身」の感覚は、刻々と「センサー」を働かせていて、肉体の情報を得ています。急にお腹が痛くなった時などは、言葉で「痛い」を認識するので、その感覚センサーの存在を意識はできるのですが、普通は言葉の意識の裏に隠れて(隠されて)、無意識とラベリングされて、感覚センサーは無意識下で動いています。
そこで、この感覚センサーを意識的に働かせることができれば、自分の肉体の細胞の一つ一つまでも隈なく意識し認識できることになるのではと考えられます。

自分が小さな小さな細胞レベルの小人になって、身体中を巡ると思ってください。思うというより感じてください。体内を通り(血管や骨髄、神経の中を通ってもいい)足の親指の先に小人が到達したら、辺りを見回し、小人の感覚センサーで一つ一つの細胞がどうなっているのか、小人の目で見て触り感じてみてください。小人はつまり自分ですから、自分の感覚で感じることができます。心臓の中に入って、血液の流れを感じたり、弁の動きを見たり感じたり、弁そのものに入り込んで、一緒に動いてみてください。手塚治虫の漫画にあるように、小人になって体内に逃げ込んだ犯人を捜すように、また観光旅行の気分で、全身隈なく、できれば細胞レベルまで、見て感じてください。今日は親指、明日は腎臓とろっ骨というように、毎日続けると、各部にその都度様々な体験が待っていて、さらに続けると感覚のセンサーも慣れてきて、楽しみに変わり、やがて右足の親指を感じただけで、親指全体の細胞レベルの構造や動きと働きが瞬時に繊細に把握できるようになってきます。何日も何日も、例えば就寝のベットで眠りに入る一時を使うなど、根気よく続け、肉体の7、8割作業が進むと、やがて身体の部分部分と全体とが常に連帯し呼応する、前述の、空海の「重々帝網」のようなネットワークとして感じられるようになります。さらに全身に及び熟達すると、肉体の各部の働きと連携、その滞り、全身の様子が瞬時に理解できて、病気のシグナルなどもわかる様になってきます。
感覚センサーには、前に眺めた箇所でも、調べれば調べるだけその都度新しい情報が与えられてきて、限りなく情報の贈与を受けている感じになり飽くことがありません。無限に続きます。永遠無限とは、こんな感じなのかもしれません。
これは無意識の感覚センサーを意識的に動かす方法なのですが、ここでは「口」の意識へのフォーカスも働いていて、そのフォーカスが「言葉」を意識すると、言語アーカイブから対応する言葉が取り出され、対応が無い場合、新しい言葉や言葉の組み合わせが創られ、言語記憶アーカイブに記憶されていきます。
言語思考は、科学的解剖の成果から、情報を認識しビジュアル化し、肉体の解剖図、骨の構造図、神経のネットワーク図などで外部記憶として残しています。これは言語記憶アーカイブによる成果ですが、それを探求し推進する初期段階では、感覚センサーや意識をフォーカスする力が寄与しています。
そのため、肉体の解剖図から、心臓の構造を思い浮かべ、小人の感覚センサーに重ねて、心臓の中を探求する方法が、効果を高めます。それは無意識で動いていた感覚センサーが意識化されることにはなるのですが、それでただちに感覚センサーが対象を離れ言語化される訳ではありません。
感覚センサーの意識と言語の意識は、全く別物です。言語は、物事の全てをラベリングし言語化しようとしますが、感覚センサーの情報量は、常に言語思考を越えていて、言語ですべてをコピーできる訳ではありません。抽象化が行われます。言語は、月を指差す指である。と言われる所以です。
そしてさらに感覚センサーで一度体験し、言語記憶アーカイブにそれが記憶されたので、体験の総ては言葉に全部記憶された。と考えるのが「言葉での理解が理解の全てになっている現代」の特徴なのです。

ここで、整理をしてみます。
「身」の感覚センサーが働き、意識が始まる。「口」がその意識をフォーカス。言語化されれば「意」の対称性が破れ、言語思考により「存在」が発生する。一方、言語化せず、意識をフォーカスしたまま、感覚センサーを働かせば、「意」も「身」も「口」も対称性を維持したまま感覚センサーから続けて際限なく情報を得ることができる。つまり「言葉の理解ではない理解」とは、「繊細な意識」という事になります。

密教では、前者の言語思考による意識認識を「粗雑な意識」。後者の対称性を維持したままの意識認識を「繊細な意識」と区別しています。
現実では、両者ともに必要な意識なので、「粗雑な意識」と「繊細な意識」は交互に現れ、お互いがお互いを利用するバイロジックな状態にあります。
仏教で「悟り」と言われる状態は、日頃意識されることが少ない「繊細な意識」に、長くとどまり、深化させ、永遠無限全知全能を感じられる程に、つまり成仏を実感できる状態にとどまり続けることを言います。
密教の教えとは、その「繊細な意識」の説明、分析、進化について学び、実践することに他なりません。ですから、言葉で書かれた仏典は、読むと言語思考する事になるのですが、内容は言語思考意識ではなく「繊細な意識」を知り学ぶ事になり、読み進むと、理解の端から理解のツールである言語思考を切り捨てていかなければならない、奇妙なそして命の生存としては心細い状態になってしまうのです。継続には余程の自覚が求められます。
ここまでくると漸く、入口の門にさしかかった思いがします。しかし実際は、この先厳しい修行を、例えば何遍も輪廻転生を繰り返し言語思考を捨て去る修行をしたとしても、上手くいかないと言うのが現実で、上手く行く方法を求めて、さらに万巻の経典が表されるという事になります。

次回からは、言葉を綴って行くと、その言語の理解の端からその言語の思考を切り捨てて行く事になるのですが、釈迦は、これら因縁で生じたものは、実体がない、「空」であると言っているので、そんな心細い話にならないのではないか。それとも釈迦が、言葉では表せないと言うような、もっと厳しい事になるのか。言葉であるブログでは表せないことになるかも知れません。
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成仏の方法(5)

2016年03月14日 | 成仏について
直感や以心伝心に優る能力が言葉にもあると良いのですが、最近では、コンピュータのプログラミング言語で能力が拡張され優れたものになってはいるのですが、それで返って言葉の能力不足が、皮肉にも分かるようになってきて、この今日的問題もお話ししたいのですが、多分、成仏のお話を続けると、これも分かるようになると思っています。

「意」についてお話しします。
釈迦の教えを、要約し言葉で表すと、次のようになります。

物事には必ず原因(因)があって条件(縁)があって結果(存在、現象)がある。(因縁)
因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)
因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)
カルマがつくる煩悩。 煩悩がつくるカルマ。それがつくる輪廻転生から脱することが、成仏である。(四聖諦)
そしてこれらは同時に存在し、常に動き続けています。

この教えを「意」「口」「身」で理解し実践、徹底すれば、成仏できることになります。しかし言葉の理解だけでこれを徹底出来れば良いのですが、それは不可能です。知能指数が高くても、つまり言語思考的に長けていても不可能です。
「意」は、本来、融通無碍で制限がなく透明である。とお話ししてきました。「意」の対称性が「口」により破られ、存在が意識に発生すると言いました。言葉の二項分類(対立)思考が超越的第三者を必要としていて、それが存在に客観性を付与している(意識していてもいなくても存在は客観的に存在している)とも言いました。そうすると「意」の融通無碍で制限がなく透明な状態とは、対称性の状態という事になり、対称性の意味をGoogleで調べれば「意」とは何かが分かることになってきます。この手順は学習と言われ、我々の日常の理解活動で正しいということになります。
でも、対称性や融通無碍、無制限、透明のなどの言葉は、言葉での理解を容易にするため、素粒子の働きの説明を借りて選んだ言葉に過ぎません。言葉の意味を別の言葉の中から探そうと努力しても多分発見できないと思います。書物や言語記憶アーカイブにある言葉から意味を探し求めて、一生を費やす人も多くいます。魚釣りをするのと同じで、探し求めるには、先ず、道具の吟味選択から始めなければなりません。
「意」から見て「口」や「身」は、日常では道具の立場になることが多くあります。「意」は、仏の、因縁縁起、諸行無常、空などの教えをしっかり得心保持し、「口」や「身」にも同様であることを徹底させなければなりません。同様というのは「口」や「身」も本来は融通無碍で制限がないのですが、そのため、身の丈に勝る能力を持っていて、自発的に自身や他の融通無碍で無制限で透明な対称性を破ってしまう性質を持っているからです。このブログでは、仏教の教え「人間は仏になれる。成仏できる。」を前提にお話ししているので、仏の全知全能の力が人間にも備わっていて(そのはず)、もしそれがなければ叶わないことになるので、この隠れた力を発見するか、身につくトレーニングを実践するにはどうしたら良いかを考えるのが、常識からは妄想のようですが、仏教が古来から続けてきた成仏の方法という事なのです。そのためには「意」は、道具として「口」や「身」を使うことを学ばなければなりません。前述からの「口」による言葉の働きや成果を否定するのではなく、道具としての能力と限界を知り、有用に活用することを考えなければなりません。
その中でも、現代で物事の存在を分析し理解する能力に長けているのは科学です。科学は言語思考をベースに、「口」の能力である言葉のルールが開発した、最高の分析理解ツールであり、成仏の実現にも十分活用できます。しなければなりません。

ビッグバンの何度かの対生成、対消滅を経て、反物質が消えて物質だらけの存在になった世界が、「縁」により我々が生まれ出てきた世界です。そしてその世界の全物質と存在、つまり物事の消息を、今、分析研究しているのが科学であると言えます。仏教の例で言うと、曼荼羅の「胎蔵界」が、その物質だらけの我々が生きる世界の物事の消息やルールを説明しています。一方、「金剛界」は9個の世界を表しています。(胎蔵界もその中の一つ)、「縁」によって我々が生まれ出なかった別の世界、科学で言えば、反物質の世界、あるいはブラックホールの先の世界、又は、5次元、6次元などのような、未知の世界を表しています。
「胎蔵界」は如来を頂点とするツリー構造のネットワークをしています。あたかも如来が全てに超越的第三者であるかの様で、「口」による存在の出現が超越的第三者を必要としていることと符合しています。(これが今生のルールである)
つまり、仏教では、我々が住むこの宇宙も、一つの特殊世界であると考えています。
成仏とは、つまり、今の宇宙と比べちょっとマシな世界に行くことなのかも知れませんが、その世界の有り様について、華厳思考や大日金剛思考が、日本では空海が教えてくれています。

即身成仏義で、「重重帝網なるを即身と名づく 無礙」の「重重帝網」がそれになります。
一即多、多即一。相即相入。マトリックス。などの言葉がその部分的作用を表しています。
最近流行のビックデータもその状態の一側面を説明しています。一般にビッグデータとは、例えばマーケティングデーターとして、ある集団の顧客性向を知るために用いられますが、本来は集団の行動様式を知る目的ではなく、集団の個人一人一人の行動が集団全体にどんな影響を及ぼすか、例えば電車を降り出口に向かう乗客の流れの中で、一人が転んだとします。すると、集団の流れが変わる。この個人の影響を測定するために開発されたものなのです。集団の動向は、必ず一個人が発生源であるからです。集団が右に動くから集団の中の一個人が右に動くのではなく、個々人が右に動くから集団が右に動くのです。これが示すことは、一即多、多即一。です。個人の行動を調べれば集団の行動が分かる仕組みです。個人の情報が瞬時に他の個々人に伝わり、個々人の情報が瞬時に他の個々人に伝わる、相即相入。の状態です。また、個々人それぞれが鏡の球体をしていて、個々人それぞれの鏡に集団全体の情報が等しく写り込んでいる、貴方は私、私は貴方のネットワークであるような、マトリックス。の状態です。そしてこれらは同時に起きていて、動きを止めません。さらにこの現象は、個々人を、社会に、物質に、物事に、その他全てのものに置き換えても成立しています。
ここでは超越的第三者は存在せず、必要とあらば誰もが超越的第三者になれます。だから我々一人一人が如来に、成仏ができる世界であり、その状態を今生のルール、ツリー構造を導く言語思考で描き表したものが「胎蔵界」の曼荼羅なのです。
空海はこれを「重重帝網」と表現し『重重帝網なるを即身と名づく』と、即身成仏の道を説いています。
我々が、物質として存在として、人間として、社会として国家として宗教として、あるいは会社として家族として普通に考えていることが、実は唯一無二ではなく、変化が可能な、ある特殊な状態であると知らなければなりません。科学も唯一無二と信じてこの世界の物事の分析から始まりましたが、素粒子理論やスーパーストリングス理論で多次元を取り入れたり、ブラックホールの先を考えたり、ビックバン以前を考え始めると、科学も我々が住むこの宇宙は、一つの特殊な世界であると認識せざるを得なくなってきています。

我々の思考の限界を一つお話しします。
紙に、鉛筆で一本の線を引きます。2次元の表現です。それを、紙から引き剥がすと、紐になります。3次元の表現です。ここまでは言語脳である左脳が働きます。脳内に意識を向ければ左脳が少し熱くなっているのが分かります。次に、3次元の紐を次の4次元さらに5次元になるとどうなるかを考えることになるのですが、左脳は、この思考方法ではもう理解も表現にも役に立たなくなっていることが分かると思います。
もう一つ、素粒子論で素粒子は粒子と波動の二つの性質を持ちます。それは観測者の意識によって、と量子論は言いますが、科学ではもちろん量子論でも、時間と空間の全てを見渡す超越的第三者が、客観として観測者を超え存在しますので、超越的第三者から、粒子と波動以外の別の性質の第三のものあるのでは?。の質問が成り立つて来ます。否、その可能性の検証も含め粒子と波動の2つになったのだ。と言われたとしても、超越的第三者にはまた次の新しい超越的第三者が現れるので、質問が尽きないことになります。
この状況を回避するには、5シグマの確率(99.9999%正しい)の検証があれば、超越的第三者の意見は、聞かないことにしようと合議するか、或いはまた、超越的第三者が登場しない思考方法を見つけようということになります。後者は、人類が皆、超越的第三者つまり如来になれるとする、仏教の方法になってきます。
多分、現在ある脳の能力では理解は不可能なのです。理解ツールの選択を科学は間違えているのです。例えば、釈迦の三十二相にある、頭頂が髻のように膨らむ「頂髻相」のように、脳が新しい機能能力を身につけ、パラダイムシフトを考えるなどで…。これが道具の吟味選択から始めなければならないと言う理由になります。
と、ここまで、世界、存在、人間、物質、物事の有り様をお話ししてきましたが、しかし釈迦は続けて、これら因縁で生じたものは、実体がない、「空」であると言うのです。どうしたらいいのでしょうか。悲観的に捉え、もう何も考えられなくなった。とするか、楽観的に、何でも考えられ、豊かで自由になった。と捉えるか。私は楽観的なのでこうしてブログを書いている次第です。
次回は、「意」の道具としての「身」について、お話ししたいと思います。
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成仏の方法(4)

2016年02月12日 | 成仏について
これまで、長々と言葉の言語思考のツールとしての限界と欠陥をお話しして来ましたが、では、それに変わるツールや思考方法が見つかったかどうか、しかしそれを言葉で説明するとなると、また難しさが二乗してしまう事になるので、何か表現のブレークスルーが必要になるのですが、それもまた長くなりそうで、今はとりあえず、分かり難くても言葉での説明を完結まで進めてみたいと思います。

先回は、「意」は、本来、融通無碍で制限がなく透明なのですが、「身」の視覚などの感覚器官が感じ、「口」がその意識にフォーカス、「意」の対称性が破られ(フォーカスしなければ対称性は破れない)、「口」は注視した情報をもとに、言語記憶アーカイブから「言葉」を選び出し、物事の輪郭と存在を「意」と「身」に向け発現させる。つまり、対称性が破れると「特定の物事」と「それ以外の全物事」の二項分類(対立)で、存在が成立してくる。とお話ししました。
さらにもう一つの存在認知、有と無、明と暗などの言葉の二項分類(対立)による存在の出現があります。「意」は、本来、融通無碍で制限がなく透明なのですが、日常、目覚めて活動している場合、「意」の意識や「身」の感覚は常に動いていて、その活動刺激で「口による意識のフォーカス」も活発に働き、「意」の対称性は常に破られている状態になっています。
対称性が破られている状態では、「意」や「身」の活動要請で、「口」は言語アーカイブから言葉を自動的に選択し、話し、読み、聞く、あるいは沈黙を「身」に命じます。しかし言葉記憶アーカイブにある言葉は、アプリオリに存在を認知されているので、一つ一つに意識をフォーカスし存在を出現させる手順をとることもなく語句を綴ることができます。しかし、話の間の特定の刺激、例えば「明るい」の存在を意識すると、「口」は直ちにフォーカスを発動させ、言語記憶アーカイブと交信し、「暗い」との二項分類(対立)で、「意」にその特定の物事の存在「明るい」を発現、「意」や「身」に存在意識を与えます。

以上は、日常の意識や思考、感情の動きを、「意」「口」「身」の分類に当てはめ、一般に使われる論理方法で分析したものです。しかしこの方法には、次に説明する「口」の「常に超越ポジションを確保し、客観を暗黙に自称する。」の働きが深く関わっています。

二項分類(対立)で互いの存在を保証し合う、前述の「特定の物事」と「それ以外の全物事」の関係。つまり「明るい」と「暗い」の関係。それは「暗い」がなければ「明るい」が、「明るい」がなければ「暗い」が存在しない関係ですが、それが実行されるには「明るい」と「暗い」を同時に認知し判定する者(視点)が論理的には必要になってきます。それは誰なのでしょうか。二項分類(対立)を実行成立させている「口」つまり「私」なのでしょうか。それとも、超越的な第三者(客観を自称する)なのでしょうか。つまり、二項分類(対立)思考は二項ではなく、私又は超越的な第三者を含めた三項分類(対立)のシステムなのです。
まとめると、われわれが日常何気に話す言葉、その言葉の先の物事の存在保証には、その物事と、二項分類(対立)される物事、そしてその二項を認知判定する第三者、その三項分類(対立)が、常に存在することになります。

日常の意識や思考行動で、朝、目覚めの時、窓の朝日の「明るい」に意識をフォーカス。私自らが超越的ポジションで物事の存在の二項分類(対立)を判定することもあるのですが、日中になるとそれが頻繁に繰返されるので、「意」や「身」の意思や感覚の強い要請が無くても、「口」は意識のフォーカスを自動的に働かせてしまい、あわせて言語記憶アーカイブも自動運転になり、無意識の領域では、あたかも超越的な第三者が、自動的に判定を下している感覚を覚えてしまいます。言葉による物事の存在が環境に量産されると、そこから客観という概念が生まれて来ます。高じるとそれを行うのは神の御心である。と言ったりするようになります。このような物事の存在を量産する「言葉」の発生は、10万年前とも3万5千年前ともと言われていますが、約2千年前ごろの有史には、言葉で書かれたもののみを真実とする聖書やコーランの神が、こうして「言葉」とともに生まれてきました。

砂漠で一神教は始まったと言われますが、砂漠では、青空と砂、大気や砂の匂い、自分の体臭などの認知がほとんどで、言葉にできる物事の存在が少なく、そこからフォーカス意識の希薄。欠けている物事の存在への渇望。特に命をつなぐ水や食料への渇望、日常的にそれら渇望が続くと、自分の命をはじめ今目の前にある物事が、がかけがえのない存在であると感じるようになる。やがてそれは無意識の領域に、超越的な第三者を現わす。つまり神が、それら全部を創り、われわれに与えてくださっていると思うようになる。さらにその意識は、水や食料に限らず、目にふれるオアシスの緑、空気の存在、昼と夜、砂の感触など、砂漠のすべての自然に及び、その物事すべての存在を保証する超越的な神が、日常的に運命的に、われわれの中に頻繁に出現することになります。多くの人によるこの経験や消息は、キリストの生誕やムハンマドの教えとして凝縮昇華され、言葉で聖書やコーランが表わされ、さらに経験の共鳴が人々の信仰を集め、複雑化する社会との交わりでさらに強化され、教えは絶対的な言葉として、心のよりどころになってきました。

しかしこれは、仏教でも同じなのでは?。空海が、声字実相義の冒頭で、「如来の説法は必ず文字による。」あるいは又「明教の興りは声字にあらされば成ぜず。」と述べています。しかし一方、成仏の真理について、釈迦は沈黙し、空海は言葉では表現できない。とも言っています。
説法(言葉)で弟子に教えを伝えた釈迦、成仏の教えを墨文字で書き綴った空海、言葉や言語思考のことを仏教はどう考えていたのでしょうか。
キリスト教やイスラム教での聖書やコーランは、不可侵で絶対的な教えであり、命の救済の目的になるのですが、仏典では、釈迦が発した言葉であっても、空海が書き記した言葉であっても、成仏に至るための解説、つまり手段の表現になります。人類は有史以来、延べ何千億、何兆人が生まれてきたのでしょうか、人それぞれに成仏の方法がありますから、その成仏を目指す人々にあわせ、万巻の仏典がこれまでもこれからも出現するのが仏教の方法なのです。
仏教では、自らが成仏して仏(如来)になることが目的ですから、超越的な第三者で、全部を与えてくれる神のような存在は存在しません。でも如来や菩薩はそのような超越的な唯一の第三者(神)なのではないのか?の疑問があるかと思います。しかしそうだとすると、成仏とは、一人一人がそれぞれ無量無限の存在(創造主にもなり得る)になることですから、神が唯一の絶対的創造主であることに反してしまいます。仏教では、釈迦の前にも何人もの如来がいて、五十六億七千万年後には弥勒如来が出現するという予言まであるので、仏が唯一の超越的な第三者であるとする説明が成り立たちません。

「口」による「意識をフォーカスさせ、対称性を破り、言葉の二項分類(対立)で物事の存在と輪郭を発現させる。そしてそれには、超越的な第三者の判定と認知が必要になる。」この基本の働きは、一神教でも仏教でも変わりません。
しかし、一神教では、そこから生まれた超越的な第三者を、救済の神として敬い、仏教では、二項分類(対立)で発現する存在や、言葉の必要から生まれた超越的な第三者などは、全てに実体がなく「空」であり、克服しなければならない煩悩であるとします。

ますます、成仏とは何かが分からなくなってきました。
成仏への道とは、転生輪廻を繰り返し、その間の修行努力で悟りに近づき、菩薩となり、遂には成仏に至る。と言われます。この道について、ここでは成仏を観念的心情的に考えるのではなく、まだ実感が得られていない「輪廻転生」を始めに、まずイメージを成熟化し具体化する作業から、成仏に近づいていきたいと思います。

例えば、水は水蒸気になったり氷になったりしますが、輪廻(生死)とは、そのような循環のようなものではないかと考えてみます。

もし自分が水だとして、水蒸気に気化したら、水蒸気は元の水であったことを覚えているかどうか。
また冷えて水に戻っても、水蒸気であったことや前の前は水であったことも覚えているかどうか。水も水蒸気も氷もお互いが何者であるのかが分からない。同類であることも分からない。
氷に変化すれば南極なら何万年も生きられて、つまり不老不死ということになるかもしれない。しかし、成仏すれば、仏は全知全能ですから超越的な第三者にもなれ、全てが分かることになる。しかし、超高温になると水もプラズマとなってしまい、人間の仏では、存在も確定できなくなってくるのでは。人の死と生をめぐる輪廻転生はこの様に想像できます。

ここでの問題は、人間は、前世ましてや前々世のことなど覚えてはいないと初めから思っていることです。超越的な第三者がいれば、それが分かり論理的に考えられるかもしれないと思っていることなのです。
つまり輪廻を理解するには、「輪廻」という現世言葉の表現でスタートする言語思考の方法ではなく、別の思考方法が必要になることがわかります。

釈迦の「前世のことを知るには現在を知ればいい。来世のことを知るには現在を知ればいい」の因縁生起や、「すべては実体がなく「空」である」に別の思考へのヒントがある様に思います。

ここまでやはり、難しいことを長々と綴ることになりました。
釈迦は沈黙を選び、空海は言葉では表せない。と言っていながら、引き続き言葉で説明を続けていて、そうすると、同じことの繰り返しで長くなることは、釈迦も空海も龍樹も想像できていたことだと思うのですが…。
次回は、言葉の説明では展開が苦しくなる「口」働きの説明を離れ、「意」や「身」についてお話ししたいと思います。
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