写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

「祈り」の考察-4

2007年07月03日 | 「祈り」

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「祈り」について、観察、分析、検証の科学的研究を、私は見たことがないので、言語思考の客観性を保証するサンプルは、どうしても宗教的「祈り」からの例になってしまい、今日の科学と宗教の対立から、そうすればオカルティックに思われてしまう危険があります。
また「祈り」は宗教行為だから、科学では判断して欲しくない。という宗教サイドからの意見や、また、夜、寝しなの床で手を合わせる「祈り」に似た経験が、子供を大人にしたはずなのに、「祈り」の話をするだけで、ある種のアレルギーを感じる人が多いのも、また「祈り」の社会的側面です。このように多くの相違、誤解が「祈り」にはあります。しかし、多くの誤解が生まれることを承知で、まず最初に宗教の「祈り」を例に、お話しを進めたいと思います。

仏教のなかで、最も過激な「祈り」は、菩薩の「誓願」です。
「私は、人々が等しく、苦しみを離れ幸福(仏)になることを願い活動している。私の誓願は、全人類が成仏しなければ、私は成仏しない。」です。
言語思考で言えば「菩薩の誓願」のラベリングで、理解を済ますことも出来ます。しかし「祈り」のパワーを知って貰うためにも、もう少し詳しく見てみます。

全人類の「苦しみと幸福」というのですから、一億人いれば、一億個の「苦しみと幸福」があり、その総てを感得し、理解し、対処することを意味します。一生の寿命の間では達成不可能ですから、何度も輪廻で人間に生まれ変わり、努力を続けるということになります。一方、科学では信じられないことでしょうが、その誓願を成就させるために、一億個の「苦しみと幸福」を瞬時に感得できる能力が、人間には初めから備わっていて、その能力を開発するメソッドがある。と言うのです。菩薩や如来はその能力を身につけた者である。とも言うのです。科学的には、アンドロメダ星雲にロケットを打ち上げるような話ですが、確かに、人間は次々に生まれてくるので、出生率を上回るスピードで対処する能力がなければ、総ての人類を幸福にすることは、永遠に不可能な話でもあります。つまり「誓願・祈り」のパワーが人間をここまでパワーアップするということですから、アンドロメダ星雲にロケットを打ち上げたいと思っている科学者は、是非解明を進めてみてください。アンドロメダ星雲にロケットが到着したことを、誰がどんな方法で確認するのか?。の答えが分かってくると思います。このように現代の科学は、100年前と比べ、菩薩の「誓願」の科学的解明に取り掛かる用意、その理念的な成熟に、もう少しで到達するのではと思うのですが…。


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では、社会生活レベルで行われる「祈り」には、何があるでしょうか。
「祈り」とは、自己を解体し、新しい能力を身につけた、明日の自己へと再生しようとする行為である。と言いました。
今日、社会生活レベルで、自己解体の覚悟と再生を迫る事柄というと、環境問題があります。また身近に解体再生という現象を社会体験できるのは、議員選挙です。議員選挙は議会ですが、環境問題は地球環境の解体と再生ですから、「願い」と「祈り」程の差があるように思います。しかし、政治体制の解体再生には、革命や戦争などの手段で行われ、「祈り」に匹敵するエネルギーを必要とする場合もありますので「祈り」レベルとも言えます。
また、社会生活レベルの「祈り」は、宗教と同じく利他主義と関係します。議員活動?も環境問題も、自分の為に、と同時に、多くの人々を利することでもあります。この両者には、各自の自由な欲望の発露が、いずれ程良い社会のバランスを生む。という自由主義的論議に、閉塞と行き詰まりを感じ、その解決に利他主義を持ち込もうとする動きがあります。もともと仏教で利他とは、解脱と同じ最終目的ですから、当たり前の行為なのですが、菩薩の利他とは、「人々が等しく、苦しみを離れ幸福(仏)になることを願い活動する。」ことですから、貧しい人への経済的施しや、人権擁護を助けたりなどは、その行為が、煩悩の輪廻から人類を救うことにつがれば仏教的利他と言えますが、一般的利他の認識とかなり隔たりがあると思います。環境問題は、この観点から見ると、一般的利他の認識より、菩薩の「誓願」の決意と「祈り」のエネルギーを必要とする行為に近いのではと思います。何故なら、本当に地球環境が壊れ、月に移住しなければならない事態になったら、「祈り」なんかでは、足りないことにもなるからです。

科学が、地球環境問題を提起したのなら、だからその解決を純粋に科学だけで行おうと言うのなら、しかし、社会、政治、経済、人の心の問題も包括しているのなら、科学は現有のツールだけでは、とても問題の解決はできないと思います。「祈り」は解体と再生を実現するパワーです。仏教はそのパワーを原動力に、成仏を実現しようとします。科学にも、希望のパワーである「祈り」を、環境の解体と再生のために使う、つまり「賭」に出る局面が、近い将来必ず来ると思うのですが。

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「祈り」の考察-3

2007年06月30日 | 「祈り」

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このブログでは、用語や文献の解説、背景説明、理論武装など、読んで分かりやすくなる、また面白くなる方法を極力省いてきました。つまり出来るだけ簡潔に結論だけを並べ、後は紙背を想像してもらう方法なのですが、言葉で綴ると難しい、場所と時間の設定を、野町和嘉の「写真」から始めたことで、言語思考の呪縛から僅かながら逃れられ、頭の中に納得の新経路が通じたような、理解の新しいスタイルが生まれたように思います。「写真の能力」です。
万巻の書を読み、博覧強記で文字を綴り、その文章を読む快感は、文字が生まれ、何千年もの間、人間が楽しんできた古典的エンターテーメントなのですが、それにより、人間が本来有している能力の幅や深みが限定され、限定されることにより依存が生まれ、しかし、代わりに安定が手に入り、現代を迎えているのですが、しかし、その言語思考の屋上屋を重ねたエンターテイメントだけでは、人間の「不足と欲望」を満たせなくなって来た。というのが、人類の思考の現状なのです。
そして、最新科学では、その楽しみ・快感・満足を脳のどの部分が感得し、その感得を伝達する神経細胞(ニューロン)と媒介する脳内物質とは何か、の特定にまで解明が進んでいます。「心」つまり言語思考が生んだ「認識」。のカラクリの解明が進み、言語思考に変わる?、次のエンターテイメント開催の準備が着々と始まっています。

次に、以上のような方法で、希望のパワーになる「祈り」について、お話しして行きたいと思います。
その前に、「祈り」とは、…永遠に続く悪夢のようである「不足と欲望」の関係を、根本的に解決しようとする行為であり、その解決に命を投げ出しても良いという、自己解体の覚悟であるとともに、「不足と欲望」の輪廻から逃れられない今の自己を解体し、新しい能力を身につけた、明日の自己へと再生したい。その願いでもある。…と先回、筆が滑ったかもしれない言語思考で定義して、取りあえず進めることにします。

始めに、何故人間は、自己を解体して、新しい能力を身につけたい。と願うのか。つまり「祈る」のか。です。
この問題に明快な回答と手段、結果を呈示しているのは「釈迦」です。
苦しみから逃れたい、幸福になりたいが、人間の本来の願望です。その願望を成就するための真理です。
始めに、苦とは何か。苦は何から生まれるか。どうしたら苦を無くすることが出来るか。そして、その解消方法を示しました。
以来、約2000年、その実践に、多くの人々の叡智が加えられ、宗教というジャンルの中で仏教が今日まで続いてきました。
その中で最も実践的な密教は、身・口・意の観点から、その実現プログラムを創出してきました。「口」は言語思考のことですから、仏教のメソッドは言語思考と言うことが出来ます。しかし、「不立文字」とか「教外別伝」とか、「色即是空、空即是色」とか、言語思考で思考していながら、それを止めろという無茶苦茶を言い、そのかわりに、ヨガ、曼荼羅などで、「身」、つまり人間の身体に本来は具わっているが、言語思考の乱用により見えなくなっている、能力を呼び起こし、様々な能力を獲得する。そしてそこから獲得した成果を元に、瞑想、座禅などで、「意」つまり、コントロールセンターとしての心を制御するというカリキュラムを呈示しています。


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そして、その実践の原動力を「祈り」から発生させようというのです。つまり、上手く行くかどうか分からないが、自己を解体する「賭」に出て、自身の身を焼がし「祈る」。そこまでしなければ、本当の幸福は手に入りませんよ。というのが仏教に限らず、宗教全体の主張であると思います。
宗教の「祈り」とは、このようにパワフルな行為です。総ての人間に具わった「超能力」である。と言えるかも知れません。しかし、チベットの「五体投地」巡礼や山伏の千日回峰修行などの「祈り」の実践をしたからといって、必ず手に入る「超能力」では無いことも確かです。「賭」と表現したように、人間皆、死んだ先は分からない。と同じ次元にあります。

仏教に限らず、科学でも、日常生活でも、苦しみから逃れたい、幸福になりたい、は共通です。
科学の目指すものが、宗教と同じ「幸福」であり、科学は、自己解体や再生を人に迫ったりしない、つまり、人や人生に安全?であるのが本性ですので、「祈」らなくても、幸福が実現できれば良いのですが…。歴史的には、科学より先に宗教が、「幸福」の実現には、自己を解体し再生する「賭」に出なければならないと言っています。そこで、これまでは宗教に任せてきた、「心」とは何かの問題を、科学が解明を始めようとしている今、やはり「祈り」が必要になってくるのでしょうか。

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「祈り」の考察-2

2007年06月24日 | 「祈り」

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先回のお話しから、もう2ヶ月近くが過ぎてしまいました。
「祈り」の話をしていました。
…「祈り」には、自己犠牲が絶対的条件になります。自己犠牲とは、その解決に命を投げ出しても良いという、自己解体の覚悟であるとともにに、「不足と欲望」の輪廻から逃れられない今の自己を解体し、新しい能力を身につけた、明日の自己へと再生したい。その願いでもあります。…
また、…「祈り」とは、永遠に続く悪夢のようである「不足と欲望」の関係を、根本的に解決しようとする行為ではないでしょうか。…
と思わず書いてしまいましたが、本当にそうなのかどうか、筆が滑ったのではないのか…?、反省をしていました。 
確かにこの言葉は、五体投地のように、真剣に「祈った」ことがあって、その経験からお話ししたことではありませんでした。
また、言語思考のせいにするのではないのですが、書いているうちに、言葉が自動的に言葉を紡いで、文章が綴られて行きました。言葉には、自動速記のように溢れ出てしまう、コントロール不能のオプションがあります。過去には、言葉の特殊能力として、アート制作などに盛んに利用され利用した時期もありました。しかし今では、、言語思考のバグとして、発生を極力抑えようと思っています。
では、何故これまで、私は、「願い」や「欲望」でなく、「祈り」をしてこなかったのでしょうか。端的に言うと、今の自己を解体し、新しい能力を身につけた、明日の自己へと再生などしたくなかったから。或いは、その必要が無かったから。ということになります。お金が欲しい。健康でありたい。お腹が減った。恋をしたい。という願いや欲望はあっても、解体や再生までしなくても…、が、本音のところです。
宗教は究極的に、人や人生に、解体と再生を迫り、その結果が、解脱や成仏。神の御許。を約束します。だから「祈り」が必要になってきます。しかし、科学は、解体や再生を人に迫ったりしないので、つまり、人や人生に安全?であるというのが、本性ですので、「願い」や「欲望」レベルの思考と言うことができます。ここから科学には、「祈り」の研究が皆無、つまり必要がない、というのも頷けます。
近代とは、中世からの社会の規範として機能してきた宗教が、科学に取って代わられる過程の時代でした。そして、現代とは、宗教が最後の灯火を守ろうと、テロと言われる手段で抵抗しなければならない時代になった。と言えます。でも宗教と科学は果たしてそのような対立概念なのでしょうか?
前回お話しした、
…人間は、肉体も精神も、変化し続けるのが真実であり、時間の切れ目無く、肉体的精神的に、何かの「不足」が招かれて来ていて、その「不足」を補おうとして「欲望」が出る。そして「不足と欲望」の関係は途絶えることはない。…
この変化の真実が、今では、仏教では煩悩として、科学では生体細胞の活動形態として、共通の基本認識になって来ています。この認識を宗教にあて嵌めると、例えば天国、地獄、極楽を現代人が快適と思うイメージに再構築する。つまり、天国には自動車もTVもミニスカートもあるということにしなければならず、また、科学では、量子論を始めに、原子、分子、クオークの「粒子」から「ひも(ストリングス)」というように、つまり科学思考の時間と場所に、無常を組み込もうとするなど、現象は違って見えていてもモノの裏表のような旅立ちを始めています。
この共通認識は、2000年を経てようやく同じ土俵に上がれたと言うか、違うOS間でカット&ペーストが出来るようになったというか、次はオープンソース活動が始まるのだろうか。の期待というか…。人類が希望を語れる、新しい言語思考の誕生が近いというか。協力して新しい思考の真実に近づいている予感がしています。

そしてこの協力を実現するために、その推進力として「祈り」が必要になっていると考えます。
次回からは、このような希望のパワーになる「祈り」についてお話ししていこうと思います。

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「祈り」の考察-1

2007年03月23日 | 「祈り」

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初回から当ブログをお読み頂いた方にはお分かりと思いますが、これまでお話ししてきたことは、言語思考には、綴る言葉の間からこぼれ落ちてしまうものがあって、でも、良い「写真」には、言葉からこぼれ落ちるものも写っていて、読み取れるということでした。

「祈り」も言葉にすると、綴る言葉の間からこぼれ落ちてしまうものの一つです。
野町和嘉「写真」には、初期の頃から「祈り」の写真が沢山あり、35年の野町の「写真活動」も、とうとう主題が「祈り」へと行き着きました。
そのことについて野町は次のように語っています。
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「自然と神への真摯な祈り」
 20 世紀末の世界にあって,来るべき21 世紀は宗教の世紀となることが予言されておりました。旧来の倫理観では制御できなくなった科学技術や情報洪水に翻弄されながら生きることを強いられる私たちにとって、心のよりどころとしての宗教の存在がクローズアップされるはずでした。
 ところが,2001 年9 月11 日の事件を契機に、世界は狂信と憎しみを軸とした宗教対立の世紀に突入してしまったかに見えます。力による露骨な支配の影で、神の声が、よそ者に心を閉ざすようささやきかけている視野狭窄の時代なのかも知れません。
 私は1972 年のサハラへの旅をきっかけに、いわゆる地球の辺境を主に歩いてきました。それらは、砂漠、高地、あるいはサバンナの最奥地といったところで、現代文明の浸透を容易にゆるさぬ広漠とした大地がほとんどでした。それらの地には人間を超える大いなるものが常に存在していました。人々は、大地との幾世代にもわたる関わりのなかから育んできた信仰にこだわり、祈りの原型ともいえるかたちを代々受け継いでいました。
 イスラーム、キリスト教、仏教、あるいは原始信仰と、祈りのかたちはさまざまでしたが、そこには、自然への畏れと感謝を通じて神と向き合う真摯な姿が常にありました。
 聖書をはじめとする伝承が説くように、この世界は神の意志によって創造されたものなのか、あるいは、祈りという行為の果てに、ヒトが神という幻想と遭遇してしまったに過ぎないのか、宗派や地域、あるいは個人によってとらえ方はさまざまですが、いずれにせよ、デノケートで壊れやすい頭脳を獲得したことでヒトとなった私たちは、心を預ける超越者の存在なくしては心安らかに生きてはゆけぬ宿命を背負っております。
 この30 年来,私が各地で遭遇してきたものは、ヒトがヒトであることの証しとしての、真摯な祈りのかたちでした。
< 2003 年7 月 「祈りの大地」写真展写真集>より
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宗教があるから「祈り」があるのか、「祈り」があるから宗教があるのか…。
初めに人間が誕生し、それから「宗教」が生まれて来たはずなので、先にあったのは「祈り」の方だと思うのですが、しかし現代の日本人の多くは、「祈り」は宗教から生まれてくると思っているようです。

では、そもそも「祈り」とは何なのでしょうか。
感情でしょうか。思考でしょうか。その両方でもあるような、見る、聞くなどの五感(五識)に収まらない、六感とは違うので、七感以上に分類されるのでしょうか。五感は受動的な感覚ですが、「祈り」は能動的であり受動的なので、言語思考は「祈り」を感覚に分類しなかったのでしょうか。でも、「祈る」時には、肉体のどこかの部分が確かに積極的に動いていて、人の「祈る」姿をみると、胸キュンも涌いてくる。耳や目のようなそれと分かる「祈り」の感覚器官が、人間の肉体のどこかにあるような気がするのですが、密教のチャクラのような、訓練しないと存在が分からないもののように、内部に潜んでいるのでしょうか。
さらに「祈り」のことをもっと考えたいと思いますが、その前に、皆さんにも「祈り」とは何か、を考えて頂くために、野町和嘉が撮った「祈り」の写真を見てください。




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この写真を見ると、宗教があるから「祈り」があるように見えます。しかし、寺院や教会など宗教的場所以外での、私的な「祈り」は、日本人に限らず、見られて恥ずかしことのようで、撮影が難しく、写真が少ないのはお分かりいただけると思います。

では、「欲望」や「願い」は、「祈り」とはどう違うのでしょうか。
人間とは、いつも自分の今の状態を維持しようとする者です。しかし維持しようとすると、「不足」が生まれてきます。それを補おうとして「欲望」が湧き出てきます。細胞は、一分一秒も分裂を止めることはありませんから、時間の切れ目無く、肉体的精神的に、何かの「不足」が招かれて来ていて、そこから「欲望」が出てきます。
人間は、肉体も精神も、変化し続けるのが真実ですから、「不足と欲望」の関係は途絶えることはありません。仏教ではそれを煩悩といい、苦の正体であると言っています。キリスト教の原罪もそれを言い、アダムとイブが生まれました。しかし、反対に、そうしなければ生き続けられないのが人間ですから、群れをつくり社会を形成し、欲望の暴走を押しとどめる規範のもと、その歴史は現在、民主主義のカタチにまで進展してきました。

「不足と欲望」の関係は、一億人いれば一億の「不足と欲望」があることです。その総てを人間が本来備えている、感受器官で感受することは可能ですが(如来や菩薩なら出来るであろうが)、日々感受し続けるには能力が不足しています。将来、突然変異してか、あるいはコンピューターなどの外部ツールを得るかして、その能力を獲得出来るかも知れませんが、今は、言語思考の抽象化、比喩の能力で、「一億の不足と欲望」とラベリングし、理解しておくことしかできません。

「願い」とは、人間のそんな理解レベルでの、例えば、今の平和な生活と社会がいつまでも続いて行って欲しい。と思うような行為です。でも「不足と欲望」の関係はそのままです。

しかし「祈り」とは、永遠に続く悪夢のようである「不足と欲望」の関係を、根本的に解決しようとする行為ではないでしょうか。「祈り」には自己犠牲が絶対的条件になります。自己犠牲とは、その解決に命を投げ出しても良いという、自己解体の覚悟であるとともにに、「不足と欲望」の輪廻から逃れられない今の自己を解体し、新しい能力を身につけた、明日の自己へと再生したい。その願いでもあります。

この意味で「祈り」とは、見かけの敬虔さと反対に、平穏な現状を脅かす過激な行為なのかも知れません。不足が頂点まで高り、その不足を補う「聖なる欲望」の実現には、自己を解体する「賭」に出る。つまり自分で自分の身を焼がさなければ「祈り」にならないとしたら、「祈り」は、宗教の守備範囲に止めておいた方が、社会的には無難と思うのですが…
しかし一方、各自の自由な欲望の発露が、いずれ程良い社会のバランスを生む。という自由主義的論議に、閉塞と行き詰まりを感じ、その解決に利他主義を持ち込もうとする動きがあります。環境問題などもその一つですが、しかし、利他主義は「祈り」の柔らかな別名ではないでしょうか。
環境問題という穏やかな表情を見せていながら、実は、人類に自己解体と再生を迫る恐ろしい黙示録のような形相を隠しています。本当に地球環境が壊れて、月に移住するということになったら、「祈り」なんかでは足りないことにもなるのですが、そこまで考えたくないからとりあえず「祈る」ことで、人類が遠い将来にも生き延びられれば、幸いということでしょうか。

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