写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

野町和嘉『写真』とは(1) ー 写真論からのアプローチ

2013年12月30日 | 野町和嘉『写真』

野町和嘉『写真』とは何か。
写真家野町和嘉は、何を写真に写そうとしているのか。
野町和嘉『写真』には、何が写っているのか。など
核心の写真論を始める前に、そもそも「写真」とは何かから先に考えてみたいと思います。

写真の機能を簡単に説明すると、カメラには、前にレンズが有り、後ろにはフイルム又は半導体イメージセンサーがあります。シャッターを押すと、レンズを透かして映像(光)がイメージセンサーにとどき、受像する。その映像記録が「写真」であり、印画紙に写されれば反射原稿として、フイルムやモニターに写されれば透過原稿として、我々は写真を鑑賞することになります。この機能は、我々の眼の水晶体と網膜の構造と違いはありません。

また、同じ鑑賞方法で体験されるものにカンバスに絵具で描かれる絵画があります。
写真と絵画の大きな違いは、絵画は、大抵の場合、画家が絵具で一筆一筆時間をかけ、カンバスに描き、画面を埋め尽くさなければ絵画にはならないが、写真の場合、シャッターを押せば一瞬に写真映像は完成する。現在の半導体イメージセンサーの時代では、直ちにその映像をモニターで確認できます。
つまり、対象物を写し取り意思を掴みとる技術には、絵画とカメラの間には大きなスピードの差があることになります。
さらに重要な違いは、絵画の場合、大抵は画家が筆を動かし、描こうと意思したものしか画面には現れないが、写真の場合、撮影者が写そうと意思した以外のものも沢山写ってしまうことです。それはあたかも、レンズが自由意志を持っていて、レンズに映るものはなんでも総て写すという具合なのです。
また、絵画の描画方法は、画家は、描こうとする意思を何時間も何日も或は何ヶ月も何年も持続させながら、その意思と絵具を、筆で掬いキャンバスに塗り込める方法を取ります。時に、絵具をバケツから直にキャンバスに投げつけるなど、重力の気ままに任せるアバンギャルドな方法もありますが、画家の意思と重力を混ぜあわせて偶然を楽しむ方法ですが、しかし、これとて、表現の拡大と時間短縮を得たとしても、レンズの自由意志は、さらにその上を行っていて、瞬時に人間の感覚知覚を越える部分まで写し取ってしまうので、次からお話するように、人間の意思でレンズの自由意志をコントロールしなければならなくなるのです。

つまり写真撮影では、レンズの自由意志と撮影者の意思とのやりとりの濃淡で様々な撮影法が生まれることになります。

それは、
1.「広告商品写真」の方法
2.「ニュース写真」の方法
3.レンズの自由意志に無関心な方法
4.レンズの自由意志を意識しながら、でも最低限、撮影者の意思を残す方法。
5.言葉の代わりや言葉理解のサポートのための写真撮影法。
の5つです。
(詳しくは、当ブログ「レンズの自由意志」に説明がありますのでご覧ください。)

5つの分類は、撮影者の意思がレンズの自由意志をどこまで許容するかで分類されます。

先ず、レンズの自由意志を最小に制限するのは「1.広告商品写真」です。

商品写真では、商品に関係のないものが写っては困るので、画面から排除します。光をコントロールするため、暗いスタジオで、ストロボライトなどの人工光を使い、また、単色背景紙で背景写りをシンプルにしたり、光の反射で表面の色や質感が飛んでしまう時は、つや消しのスプレーをかけます。鏡面には、黒や白を写り込ませて、自然に美しく見えるように調整したりします。このような様々な工夫で、映るものは何でも写すレンズの自由意志を抑え込もうとする撮影方法です。広告の商品写真の現場では、どんな方法ならレンズの自由意志を上手に押さえ込み撮影者の意志を表現できるか、その技術が、カメラマンの腕前であるといって過言ではありません。

レンズの自由意志を最大に許容するのは、「3.レンズの自由意志に無関心な方法」です。

アマチュアカメラマンのお母さんが我が子の笑顔を撮る時の撮影法です。彼女にとってカメラとは、レンズの自由意志そのものですから、シャターを押すことは、その自由意志の発露へのほとんど無意識の期待です。そして、現像ラボから上がって来た紙焼きの中から、あるいはデジカメ写真のパソコン液晶モニターの中から、これ良いね!。と選ぶ撮影法です。
勿論、レンズの自由意志といっても、カメラは自走しませんから、撮影者が被写体にレンズを向けるその範囲での自由意思と言うことになりますが、そんな制約の中での振る舞いでも、我々人間が生きる自由と比べて、のびのびとうらやましく格段の自由ではあります。

もう一つ、人間の意思の特徴である、あるいは人間だけが持つ言語思考とレンズの自由意志との間での撮影法があります。

「5.言葉の代わりや言葉理解のサポートのための写真撮影法」です。

言語思考とは、言葉で表し、考え、理解する事です。現実の社会や生活の営みを支える現実意識になります。現実意識とは、好き嫌い、良い悪いの判断から法律や倫理、生活慣習、社会活動などの生活活動の基本にある意識で、言葉によって表され、分類され、記録(記憶)されていて、基本は、レンズの自由意志にはない、あれかこれかの2項分類(対立)の思考で行われています。
今日、我々が社会で生きてゆくためには、人や物事、移ろいへの対応を、2項を比較分類する方法で評価し、自制しルールを定め、一瞬たりともその思考を止めません。その現実意識を、言語思考が実行しているのです。

しかし、レンズの自由意志はその2項分類(対立)の思考を持っていないので、撮影者にとってその振る舞いは、自分の中にある無意識の衝動のように、目的によっては、現実意識で抑えこんでおかねばならぬ自由な意志なのです。

さらに、「5.言葉の代わりや言葉理解のサポートのための写真撮影法」をより理解するために
「1.広告商品写真の方法」と「2.ニュース写真の方法」も合わせて考えてみましょう。

これらの撮影法は、現代では、言葉での理解が理解の総てになっていることと深く関係しています。
例えばカタログ商品の細部を説明する部分写真などですが、例えば、カバンの内側を撮った写真では、「このカバンの内側は黄色です」というような、言葉の代行をしていて、写真は視覚媒体ですが、言葉の論理で理解されることになります。つまりこの撮影法でのレンズの自由意志は、撮影者の言語思考「青色ではなく黄色である」という2項分類(対立)を忠実に表現させられる事になります。

最終的には言葉の論理で理解されることになってしまうとすれば、随筆や小説の挿絵の写真、百科事典の写真なども言葉で理解するためのサポートですので大きくはそうなのかもしれません。また、説明文が無くても文字で書かれたシナリオをベースに撮影編集される組写真などもそうなのかも知れません。つまりそれは、文章で書かれたシナリオを元に、映って欲しくないものを画面から外して行く映画ドラマと同じように、言語での理解を妨げるレンズの自由意志を、画面毎に小骨を外して行くように排除し作成されるので、画像を楽しむと言うより、言語理解を楽しませる為に画像を使うエンターテイメントになってくると思います。

そしてニュース写真は、事故の現場、殺人犯の移送、ホームランの瞬間。など、予め明確な言語目的がある撮影です。でも「突然、殺人犯が警官の警護を振りきって逃げた」など、そこでは常に思いがけない偶然がつきまとうので、そうなった場合、映るものは総て写すというレンズの自由意志に任せて、シャッターを押しまくる事になります。こんなことは、言語思考の本家である新聞では、本来は限定的なのですが、時にそれが思いがけない効果を発揮したりするので、 案外、寛容になる撮影法です。

このように、撮影者の意思とレンズの自由意志の間では、様々な写真が生まれることが分かります。ではもう一つの、撮影対象となる「被写体」とレンズの自由意志との関係はどうなのでしょうか。
それは、窓ガラスに映るあなたの恋しい彼女の顔と、同じ顔を他人が写した写真の場合に置き換えてみるとわかります。
窓ガラスに映るあなたの恋人の顔は、第三者が見るとただ美しい顔ですが、あなたのカメラレンズが写した写真の中の彼女は、彼女のもの(意思)である美しさも、私が恋する女性であるという撮影者の意思もはっきり写っています。
同じように、ニュース写真では、新聞カメラマンの特ダネを撮りたい意思が、広告写真では広告カメラマンの売りたい商品への意思が映り込んでいます。
つまり、レンズの自由意志は、自分の自由意志でただわがままに振る舞っているだけでなく、「撮影者」のその時の意思も忠実に写し撮っていることになります。それは言語思考による現実意識だけでなく、わが子の笑顔を撮るお母さんの無意識の愛情も写真に映し込んでくれています。勿論、笑顔を見せているわが子の「被写体」の意思もです。

では、最後に、
写真家野町和嘉は、何を写真に写そうとしているのか。
野町和嘉『写真』には、何が写っているのか。
になります。

写真家野町和嘉の撮影方法は
「4.レンズの自由意志を意識しながら、でも最低限、撮影者の意思を残す方法。」です。

この方法は、野町和嘉などのドキュメンタリー写真家の撮影法ですが、 撮影者がある目的(意思)でその地に行きカメラを構える。目の前で起こる予想内と予想を越える出来事を、ひたすらレンズに収めてゆく。レンズの自由意志を制限したり尊重したり、あるいはそれに加えたりしながら、意図をレンズに潜り込ませようとする撮影者の意思。その意思が何であるかによって、レンズの自由意思は予想以上のものをも写真に映り込ませてくれます。。
つまりこれは、映って欲しいものだけを撮影するのが目的の「広告写真」とは、レンズの自由意志を尊重する意味で、反対の方法になります。

では、野町和嘉『写真』に写っている野町和嘉の意思とは何なのでしょうか。

野町和嘉の意思と撮影法は、シンプルです。
ある目的を持ってその地に向かうのですが、風景を撮影する場合、地球があって大地から垂直に木や山や砂丘や建物や大気や空がある。そして自分自身も。そんな肉体と地球重力との根源的なバランス感のみを撮影の意思(無意識)にしています。目的もその無意識の領域に沈み込ませてしまいます。そして、その他はカメラの自由意志に任せるという方法です。人物の場合も、人は地面に垂直に立っている。それを無意識に意思して映し込むだけです。ですからそれ以外のカタチや色や対象の魅力と意思は、レンズの自由意志が写してくれるという方法です。

地球上の総てのものは、地球の中心、重力の中心に向かって垂直に立っています。大きな山も小さなウイルスも分子も原子も例外ではありません。
どうもしかし、レンズの自由意志はその制約には囚われていないようなのです。
例えば、重力が地球の6分の1の、月面上の宇宙飛行士の写真には、6分の1の重力に囚われ垂直状態で立っている宇宙飛行士の姿勢(意思)が写っています。また、宇宙船の船外活動で無重力の中を泳ぐ飛行士の場合、今、無重力状態(意思)であることが写真に映り込んでいます。
ですから、地球上にある、人、山川、構造物、鉱物、動植物など全てのものは共通に、地球の重力の中心に向かい垂直であるという「重力感覚」を身にまとっていることになります。
そして、レンズの自由意志はそれを写します。地球上で撮影された写真であれば、漏れなく、それが写っています。必ず写り込んでいるのですが、あまりに当たり前で、普遍すぎて、気が付かないだけなのです。わずかに、月面に立つの宇宙飛行士の写真と比べて、その「重力感覚」の違い(なんだかちょっと違う感じ)が分かって頂けるかと思います。

また、レンズの自由意志は、普通にはその「地球の重力の中心に向かい垂直であるという重力感覚」を写してはくれますが、それは、被写体が地球の一員である証明という程度で、ですから、風景カメラマンは、大地からそそり立つ山々の雄大な感覚を表現するためには、カメラマンが強くその「重力感覚」を意思して、写真に写し込まなければ、その雄大はさは映ってはくれません。
ファッションカメラマンは、モデルの形の美しさを撮るだけでなく、地面から垂直に立ち、歩く、「重力感覚」をも一緒に撮らなければ、美しい地球上の女性は表現できません。
これらの効果は、まったく自然に見えると言うことだけなのですが、でも良い写真とは、「地球の重力の中心に向かい垂直であるという重力感覚」がはっきりと写っている写真であり、それが欠けていれば、山や女性のカタチが写っているだけで、美しいけれど、山には地表から盛り上がる屹立感が、女性には血肉が通っているようには見えないものになってしまうのです。

つまりレンズの凄いところ信頼ができるところは、物質や肉体と地球重力との根源的なバランス感覚を、つまり人間の無意識に感じている領域をもフイルムやイメージセンサーは写し取ってくれるということなのです。

野町和嘉の祈りや宗教への興味は、この地球上全てのものの根源的な意思である「地球の重力の中心に向かい垂直であるという重力感覚」つまり「地球により生かされている感覚」を、辺境を旅する撮影で体験させられたところにあるのかもしれません。

野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ