いっそうのこと 織田信長の局や妻も調べてみました。
濃姫(帰蝶) 吉乃(きつの) お鍋 乳母 ちも(慈徳院)の四名。
吉乃 本名 類(るい)は、信長の子の徳姫・信忠・信雄・の母ですが、早くして亡くなり秀吉の時代にはいなかった。
妙心寺で、信長公夫人主催の一周忌法要を行った記録があることから、正室の濃姫が、本能寺で死んでおらず、後も生きていたのがわかります。
ただ「 妻」 の記録はあっても名前が書かれてないことから、濃姫でなく、一周忌法要の供養をしたのは、信忠の乳母の ちも の可能性もありそう。 なお 慈徳院は、信長との間に、娘(三の丸殿)を儲けており 三の丸殿の墓は妙心寺にある。
一周忌法要は、もう一つ別にあり、こちらは、秀吉が主催し、このために建造もした大徳寺で執り行われました。信長の位牌は、お鍋の方が預かり守っていた。
興雲院(きょううんいん)お鍋の方は信長にもっとも近い妻妾でした。信長との間に 信高と信吉、お振の二男一女があり 秀吉から 400石の化粧料が支払われていた。
このお鍋の方なら、貫禄もあり、お伊勢参りに来て、
松阪にいる氏郷や岩出の牧村など 元信長の子分に 伊勢山田の行政について、注文をつけられる。
つまり
小田の橋の名前にまつわるお話し つまり 一刀彫師 中村氏の お話の 中にでてくる、「おだのつぼね」 は、このお鍋が有力候補のようです。
それと、 上記以上に
お鍋と 小田と名前には繋がりが強いというか
お鍋の郷里が 小田(近江の)というところでした。
信長の側室になる前のお鍋は、現在、近江八幡市小田町にあった小田城に住んでいたそうです。 現在も 小田町にまつわる話として おなべ松とか近江の小田神社の楼門の説話があります。 その門は国の重要文化財として指定されているそうです。