想像するに小田の橋が架けられたのは 秀吉の命で 間の山を開通させる時であろう。
1585年に 両宮の遷宮があり、内宮にしては123年ぶりだった。
1585年のフロイスの書簡には「身分の低い平民のみならず、誓願を立てた貴族の男女もおり、伊勢神宮に行かないものは人の数に加えてもらえないと思っているようである」と書かれてるほど、誰もが その参拝者の多さに、驚愕した。
ちょうど1888年に蒲生氏郷が秀吉の命により松阪城を築城し、松阪の町をつくっていたころ、氏郷の配下にある岩出藩が
今までの、岡本の南を抜ける山麓道(今の御木本道路沿い)に加え、新たな参宮道を作るため間の山を開通させた。
間の山は、もともと、スノコ橋を通り妙見堂を抜け久世戸(くせど)のセコを下り楠部(くすべ)に降りる道があるが、狭すぎた。
今の、尾部坂(おんべさか)こと 間の山(坂)は、当時、墓地であったが、一誉坊(いちょぼ)に移し、開通させた。江戸の初期にはまだ両側に墓が残っており、山田奉行により、すべて移され、尾根道道である古市街道が 参宮道となっていった。
上記からすると。 小田の橋が架けられたのは 遷宮のあった1585年 直後か、長くても5~6年以内だと思われる。なぜなら まず橋が最初にできないと、開発ができない。
と考えると、その頃 は、まだ、三の丸殿は 若すぎ。(本能寺の変1582年の頃 8歳前後) また 氏郷の妻の妹でもあり、召されたのは、氏郷が死んだ1595年以降だろう。姫路殿も同じようなことがいえる。どう考えても 小田の局 と ダブらない。
やはり 小田のつぼね は 一刀彫師のつくり話か 尾上町の町伝説か?