おとぎ話
教授 高槻成紀
幼い子供がおとぎ話を聞くのは、大人あるいは中学生くらい以上の人がテレビや映画のドラマを見るのとはだいぶ違うようです。大きい人はどういうストーリー展開になるかを知らないから見るので、それがわかってしまえばもう見ませんが、子供がおとぎ話しを聞くときは、もう何度も聞いていて完全にお話を知っていて、それでもまた聞こうとします。ですから、お話が終わったとたんに「もういっかい」とよく言います。そういう違いもありますし、子供はそのお話の中に完全に入ってしまい、自分が主人公になったように思うし、実際にはありえないことでも何も不思議には感じないでほんとうにあることだと信じることができます。そういう意味でも子供は大きい人と違います。それだけにおとぎ話が幼い子供の心に与える影響はとても大きいはずです。
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日本のおとぎ話にはよくおじいさんとおばあさんが出て来ますが、これは日本人の大半は農民でしたから、お父さんお母さんは田畑の仕事に忙しく、子供の相手をできるのがおじいさん、おばあさんだったために、どうしても自分たちを話しに登場させたくなるという心理が働いたのではないでしょうか。代表的なおとぎ話である「桃太郎」もそうです。おばあさんが川に洗濯に行くと上流から桃が流れて来たというところから始まります。
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私は動物や植物が環境とどういう関係をもっているかを研究しています。そういう学問を生態学といいます。ですから、いつでも環境とは何かということを考えています。おとぎ話もそういう見方をすると違った発見があります。私たちはこのおばあさんが川に洗濯に行くということをあまり不思議に思いません。私たちは家に水道があり、洗濯は洗濯機でするのを当たり前に思っていますが、八十歳くらいより年上の人が若いときは、洗濯はタライと洗濯板でしました。タライというのは直径が一メートルくらいある浅い容器です。洗濯板はまな板よりは大きい板の表面に粗い波形のでこぼこがある板で、その上に洗濯物をおいて石鹸をつけてごすごすこすったのです。だから洗濯は重労働でした。年代でそういう違いはありますが、水道や洗濯機がなかった時代があったことはわかるので、おばあさんが川に洗濯に行ったという情景は想像できます。
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私は研究のためにモンゴルに行きます。広々とした草原が広がり、空気が乾いているので遠くまで見えてとても気持ちがよい国です。人々はゲルといわれるテントのような家に暮らしています。季節に応じて移動するときはゲルをたたんで、また新しい土地で組み立てます。風呂はありません。そう聞くと、風呂に入らないなんて、なんて不潔だと思うかもしれません。でも風呂の大好きな私もモンゴルでは毎日風呂に入りたいとは感じません。それは汗をかかないため、衣類が汚れないからです。空気が乾燥しているので、汗はそのまま気化してしまします。タオルをぬらして体をふくとそれもすぐに気化するのでスッとしてとても快適です。私は調査が終わると、洗面器一杯の水をもらいタオルをぬらして体をふけばそれで十分、貴重な水を大きな容器に入れてつかるなど思いもよらないことです。
そういう国からすると、おばあさんが川に洗濯に行くということそのものがなんだかおかしなことに聞こえるはずです。そもそも川などどこにでもないのがふつうで、日本のように雨が多くていたるところに水が流れていることのほうが珍しいのです。
桃太郎を育てたおじいさん、おばあさんは山にすんでいたのでしょうか。どんぶらこと桃が流れてくるのですから、そうかもしれません。「桃太郎」ではおじいさんが柴(しば)刈りに行くとあります。柴刈りというのは芝生のシバを刈るのではありません。柴は背の低い木のことで、林の下に生えています。それを刈って来て風呂や料理の焚(た)き付けに使ったのです。ガスや電気を燃料に使うようになったのは最近のことで、日本では長いあいだ薪(まき)や炭を燃やして暖房や料理に使いました。それには柴が必要だったのです。ですからおじいさんは柴を刈るために、山に行ったのかもしれません。ただ、日本にはほんとうに深い山も多いですが、もう少し低いところ、あるいは平野と接したような場所もたくさんあります。ですから、家は平地にあって、その裏に山があって林がある「里山」と呼ばれる場所が広がっています。こういう林を雑木林(ぞうきばやし)といいます。おじいさんはそういう林に柴刈りに行ったのだと思います。雑木林はテレビなどで見る奥山のブナ林とか、アメリカの国立公園などの原生林とは違い、人が利用しながら維持して来た林です。人がくり返し利用し、毎日のように柴刈りをしても、次から次へと植物が伸びて来て、いつまでも使うことができます。それが可能なのは日本の夏が暑く、雨がたくさん降るために植物にとっては理想的な環境だからです。
そのように考えると「桃太郎」の最初に出てくる「おじいさんは柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました」という短い文章だけでも、実に日本的な環境が描かれているのだということがわかります。
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おとぎ話の中でも世界中に有名で人気があるのが「赤ずきんちゃん」でしょう。どきどきする場面があってとても引きつけられる話です。この話も環境のことでいうとおもしろいことがわかります。赤ずきんちゃんは一人で森をとことことあるいておばあさんの家に行きます。なんの不思議もないようですが、そうでもありません。どうやら赤ずきんちゃんは5歳くらいの女の子だと思われます。もし日本でそういう女の子が山のおばあさんの家に行くとしたらどうでしょう。日本の林は急斜面をのぼったり、川があったり、薮がしげっていて、大人でも道に迷います。とても5歳の女の子がひとりで歩いていけるような場所ではありません。赤ずきんちゃんは確かイチゴをつみながら、鼻歌をうたいながらおばあさんの家に行ったと思いますが、そのためには地面が平らで、木はあまり生えておらず、林の下には草が少しだけ生えていて、遠くまで見えないといけません。赤ずきんはヨーロッパの童話ですが、私はドイツの平地のブナ林を歩いたとき「ああ、こういう林だから赤ずきんの話が生まれたのだ」と納得しました。まさに大きな木がまばらに生えた平らな土地で、下草が少ししかないので、気楽に鼻歌でも歌いながら歩きたくなる林でした。
これに対して日本の林は平地にはほとんどありません。平地は田畑に使われているからです。林があるのは丘や山で、急斜面です。そして林の下には人の背丈ほどの植物がびっしり生えて一メートル先も見えないことも珍しくありません。とくにササが密生していると先に進むこともできないほどで、「薮漕ぎ」ということばがあるくらいです。手で薮を泳ぐようにかき分けないと進めないという意味です。私は東北地方の山で何度か薮漕ぎをして泣きたい思いをしたことがあります。それだけではありません。日本の林には蚊がたくさんいて刺されるとかゆいし、ハチもよくいるので、こちらは刺されたらたいへんです。それにヘビに出会うことも珍しくはありません。もっともヘビに出会ってもマムシ以外は大丈夫ですが。
「桃太郎」は動物を家来(けらい)にして鬼退治をした勇気ある青年の成長を描いたのかもしれません。「赤ずきん」はオオカミがおばあさんに化けていることを描いて、子供の心にある怖いものみたさで引きつけているような気もします。ただ私はふたつの童話のテーマについてではなく、日本とヨーロッパの違う環境が無意識のうちに童話に描かれていることをおもしろいと思い取り上げてみました。
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そういう意味でもうひとつとりあげてみましょう。具体的な話としては思い出さないのですが、北欧かロシアの童話に雪の妖精が出て来ます。そういうお話では、今まであったものが一瞬にして消え去るということがあります。それは約束を守らなかったために一瞬にしてほかの動物になってしまうとか、世界がまるで変わってしまうというようなことです。現実にはないが、夢の中であるような不思議な世界のことです。私はそういう話を創作できる文学者の想像力をすばらしいと思っていました。
ところが岩手県でシカの調査をしていたとき、必要があって冬の朝ご飯の前に山に車で行ったことがあります。前の日の夜に冷え来んだため、山の木々に空中の小さな水滴が急に冷えたために結晶としてくっついて白くなっていました。これを「霧氷(むひょう)」といいます。白い氷で枝を作ったようでした。林全体がそうした白い枝でできていたので、夢の中の世界のようでした。ただ、そのときはカメラがなかったので一度泊まっている場所に戻り、朝ご飯を食べてからカメラをもって出掛けました。ところが一時間ほどのあいだに日が昇り、枝に当たって融けてしまっていました。それはいつも見かけていた当たり前の黒い枝の集合にすぎませんでした。
「あれは夢だったのではないか」
と思うほどでした。そして思いました。雪の妖精を作った作者はすばらしい想像力を持っていたに違いないが、それでもこういう一瞬にして消えてしまうものを見ていたからそういう想像ができたのだと。
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私たちは日々の暮らしで見るものを当たり前だと思っていますが、どこかで影響を受けているのだと思います。そのことが当たり前でないかもしれないと思い直すとたくさんの発見があるように思います。
これは「教科研究国語」という雑誌に書いた原稿で、中学生を対象に想定したものです。
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