サイドスタンド 

 バイクが教えてくれたことなどを勝手に気ままにつづるブログです。
 少しでもバイク好きが増えてくれたらうれしいです。

こんなイメージでNUDA使う予定です。

2012年07月29日 11時34分28秒 | 日記・エッセイ・コラム

ようやく、ノーマル版のNUDAも出回り始めた(海外)ようで、うまく表現されてる動画がUPされていたので紹介します。

http://www.youtube.com/watch?v=5vJzHKqcCuE

こっちはRで、上の逆走で撮ったみたい。

http://www.youtube.com/watch?v=dD6kXp277VA

淡々と走っても、飽きず、峠ではちょっと攻め込めて、表情豊かに使える事。主役がバイクにならない相棒を期待してます。


その5 本格的なレーサーレプリカ(ある意味バブル的ブームの先駆け)

2012年07月15日 21時20分37秒 | 5.思い出のバイク

何でも有りの風穴を開けたバイク 「スズキ RG250Γ 」

250_1983

同じ寮のバイク仲間だった人が発売されたばかりのΓを買って、騒然となった。それほどインパクトのあるバイクでした。
初めてのオールアルミフレーム、フルカウル、セパハン、タコメータを中央に独立メータとしたレーサ的なパネルなどなど、保安部品での縛りは有るものの、画期的なバイクだったし、当時このクラスの価格破壊(高額な)を起こしたバイクでした。以後バイクはバブル崩壊までひたすら高額化したのです。


さて、「すげー」と垂涎のバイクを交えてツーリングに行ったデビューの峠ツーリングで残念ながら Γ はオーバランでガードレールに激突し、あえなくフロント部全損!。後でオーナーになってわかったけれど、過激な外観とは裏腹に、このΓのハンドリングは非常に保守的で、ライダー側の支配度が低く、バイクなりに乗らないと言うことを聞かない頑固なものでした。


ちょっと広めの林道のヘアピンで、出口は1車線に狭まると言う、ルール破りの道路でまだ、バイクとライダーのなじみも出ていない初めてのツーリングで不運だったかも。

で、これを修理するかどうかで当人は悩み、見積もりの高額なことも有って、当人は廃車にするとの決断に。と言うのもフロントフォーク左右交換、下ステム交換。極めつけはアルミフレームの修正、といってもステアリングストッパが折れたため、そのタブを溶接し直すという内容だったが、全バラしてフレーム単体の裸にしないと受け付けない。⇒当時(今もかな?)スズキ本社に送るしか、修理方法は無く、工賃が半端なかったのです、たしか新車買えるほどw。


で、私は半年後に転勤が決まっており、転勤先ではバイクは禁止であり、その2年間は軍隊生活のような規律でがんじがらめの生活が待っていました。そのため、最後のバイクライフという思いも有って、私はこのバイクを譲り受けることにしたのです。金額はバイク屋の下取り価格と同じだったと思います。これにパーツリスト見ながらリストアップした部品を頼んで、総額25万ぐらいで、Γが手に入ることになりました。これはRZ250を売ったお金でほぼチャラだったと記憶しています。


バイク屋に収容されていたΓを土日を使って、全バラし、段ボールに部品を分けて積み、車で寮に持って帰りました。フレームだけ裸にして、バイク屋に頼んで浜松に送ってもらいます。修理そのものは今なら街のTIG溶接出来る所に持って行けば、数千円でやってもらえたぐらいと思いますが、たしか三万何がしの請求だったと思います。ストッパのタブが溶接し直されて、シートレールがメインフレームと溶接一体構造のため、曲がったシートレールは見る限りでは矯正されたようでした。


さて、フレームが治って来るまでにエンジンのポートでも少しイジッテおこうと考えて、キャブ周りを外してリードバルブを見ましたが、ノーマルの乗り味を知らないのでここでいじっても比較する基準が無いことから、まずはノーマルで組むことにして、清掃だけで組むことに思いなおしました。


寮の2階に倉庫があり、ここに部品を持ち込んで組み上げることにしました。フレームを引き取ってから、こっそり寮の2階にフレームを持ち込み、仕事が終わってからコツコツ組み上げて行きます。バイクはほとんど新車だったので、組み上げるだけで外装を除けば新品に戻りました。フロントホイルとタイヤは新品に交換し、フロントフォークは貧乏なので、インナーチューブのみの交換で行けることが分かったので、バイク屋のおっちゃんにフォークは組み替えてもらってから入手。


たしか、2週間ぐらいで組み上げて、土曜日の早朝に倉庫からバイクを押して寮の廊下を通り、玄関に出します。途中管理人さんに見つかり、ゴニョゴニョ説明し、ま、タイヤは新品ですから、、などと言い訳してようやくシェイクダウン。エンジンは既に倉庫で確認済みで、あっさりキックで目覚め、満タンにスタンドに出かけて人間の慣らしに出かけます。


ライディングポジションが、RZと比べてもろレーサですから、足も手も窮屈でびっくり。エンジンは低速も結構あって乗りやすいけれども、やはりバンドははっきりしていて6000位回さないと、本格的なパワーは出てこない。その後、色々な乗り方を試したけれど、初めてのスズキ車は、ヤマハハンドリングとは異質で、何を狙いに仕上げてあるのかわからなかったなぁ。


メーカのハンドリングはそれぞれ個性が有って、それは多分テストライダーの好みが色濃く反映されていたのでは、、と推察いたします。また、ラジアルタイヤ以前と以後で激変しますので、そこは分けて考えてくださいね。まず、当時のハンドリングを分析すると、とその前に特性を表現する私の評価軸を先に紹介しておきますと、ラジアル以前の旧車評価でのポイントは
①旋回初期の入り込み時点
②パーシャルでの旋回特性
③後半のアクセル開けた時の挙動
この3段階で評価します。特に②は現代のラジアルでは①②と連続しており、パーシャルはほとんど使わないのですが、バイアスタイヤと低い剛性のフレーム時代は明確な②領域があったんですね。


①ホンダ:リアステアでアクセルをパーシャル時にほぼ、ニュートラル。アクセルオンとオフで余り立ちが変化しない性格。これはハンドリング性能がまだ過渡期で、直進性確保のために立ちが強く、寝かしにくかったのが、徐々に立ちを抑えても真っすぐ走るようになって来たため、旋回に入りやすく振って来たのだろうと思います。


②ヤマハ(2スト):2ストと断ったのは多分開発チームが2ストと4ストでは全くわかれていたのだろうと推察しますが、全く違う特性だったので、あえて分けました。
ハンドリングのヤマハと言われていた当時のヤマハの真髄は、個人的にですがフロントタイヤのインフォメーションが濃厚だったことだと思っています。フロントタイヤのグリップ限界が分かりやすく、また常にグリップ感が伝わるセッティングだったと思います。

スズキのGSXRに乗るようになってわかったのですが、ヤマハはセルフステアの設定がタイヤ1本分常にアンダーで、故意に本来のリアタイヤの旋回軌跡から外側にオフセットして追従するような感覚でした。このずれた分が絶えずタイヤが微小スリップしている感じでグリップ感が伝わり、また絶えずサイドフォースを出している分旋回途中での応答遅れが無い感じです。このことが雨が降ってきても「ここまでは大丈夫」という手ごたえになって、とても信頼のおけるハンドリングで好きでしたね。


③カワサキ:①と正反対の感じでリアステアの依存度が低く、バンク角のみで旋回力が変わる感じ。また、アクセルオンでも立ちは弱く、乗りこなすには邪道だと私は思うけど、ハンドルをいじる感じで乗るようなところが有ったかな。ただし所有して乗り続けたことは無いので余り詳しくないです。


④スズキ:初期Γのハンドリングと断って、これはオートマチックハンドリングというか、入り口でブレーキングしながら入り込むと、強くインを向くのですが、リアステアでの2次旋回が利きません。ブレーキングを終えて早めにリアに乗って開け優先で進入すると、曲がらない。今でいう前乗りの先駆けだったかもしれません。しかし当時フロントを信じて曲がるスタイルは始まったばかりで、VT250の16インチが登場し、これまたアプローチのモーション要らずで、顔をインに向けるだけで旋回を始めるような特性で、この頃は各社色んな変革の時期だったのでしょうね。


私はヤマハのフロントグリップ感に慣れていたため、この旋回に入ったら何もできない感じのスズキハンドリングがなじめませんでした。今乗ればまた違った評価が出せると思いますけどね。


そしてその後、ラジアルタイヤの登場で各社、バイクごとに大きく変化し、メーカの差よりも開発したバイク個体の差の方が大きい時代を経て、1990年あたりからまた各社基準を見出したんでしょうね、メーカごとの味付けが出ているように思います。ハンドリングについては、ラジアルの先駆けFZRの時にまた書きたいと思います。


こうして、自分で組み直した250Γは、最後のツーリングと称して、1週間の夏休みを利用して大阪発北陸経由秋田、青森竜飛岬経由で奥入瀬渓谷を走り、途中でくたびれて、


Rg250_2

日光、宇都宮経由で高速使って帰宅という一人旅を敢行しました。全部テントで野宿でしたが、雨で橋の下とか、お寺の境内とか、今ではちょっと無理と言うところにテント張って1800km(内500kmが高速)というような旅をして、Γとの短い付き合いは終わりました。

Rg250


後に、このΓは兄に譲り、兄もまた飛び出してきた車にぶつかると言うアクシデントで再びフロントフォーク曲げたのでした。(2012/12/2:修正) このバイクは、寮の同僚に譲り、乗ってもらいました。 兄も発売と同時にΓを買って、当時茨城?千葉?に居て、日光で合流ツーリングに行った折に、事故でフォークを曲げて、応急修理をしてなんとか松本城の待ち合わせ場所まで来てくれました。当時は携帯電話が無いので、本当に「どうした??」と心配したものです。(当方の記憶はいい加減なもので、ブログを見た同僚と兄の両方から、突っ込みが入りました(笑)。 そーかぁ、譲ったK氏がΓに乗っていたイメージが全くないために、記憶違いをしていたようです。

なんか、憑いてたのかなw。


少し前進? 【俺のNUDA900R】

2012年07月13日 21時13分19秒 | 日記・エッセイ・コラム

今日はぶっ飛んだ息子のバイク修理の件で、R店の店長に電話であれこれ話したが、その件はまた後にして、、、。


本題!。 【船が出たぞー!】と、ようやく回答が。。。。


先週末、Kさんから「10月には・・・・」との情報が有ったとのコメントを頂き、やっぱり6月末の「もう、イタリア出ましたから・・」は蕎麦屋の出前だったと確信し、圧力を掛けに行きました(笑)

 

河童:「ねぇ、3月に下取り、頭金代わりに出して、遅れても5月と言う話から、なんか10月と言う話が出てるみたいよ。そうすると、50万以上払って、半年もずれて納品しないのはどうなんでしょ?。消費者センタにでも相談してみるかなぁあ」

店長:「・・・そうですねぇ・・」

河童:「まぁ、仕入先の○○ジャパンの体たらくのせいで、店長に非が有るわけじゃないけどさ、R店としては、もっと強く○○に言ってよ、前に頼んだでしょ、イタリアを船がでたら、連絡くれと。6月末にもう出たようなこと言ってたけど、嘘だったでしょ?」

店長:「わかりました、あれからなんも情報入ってないので、ちょっと強く聞いてみます」


そして今日


店長:「○○さん、7月8日に船が出たそうです!」

河童:「やっぱり、前のは蕎麦屋の出前だったわけね!」

店長:「そうですねぇ、でもようやく7月8日には船が出たそうで、日本には8月中過ぎ、お盆の後ぐらいの予定だそうです」

 

河童:「それはどうだろ、航海1.5~2カ月と言う話だったでしょ、まず上海に揚げて、それから日本だしょ、良くて9月上旬ぐらいじゃない?」

店長:「上海はコンテナの積み替えだけらしいので、日本に8月中には大丈夫でしょう!」
河童:「だとして、マフラー取り変えるんでしょ?」
店長:「・・・その辺のことはまだわかりませんねぇ、でも既にやってるでしょうから、着いたらすぐにできるんじゃないですかね?」
河童:「甘い!、まぁ6月から対策品作ってるならね」


そういうことで、日本向け40台のNUDA900Rを積んだ船は、7月8日にイタリアを出港したそうです。・・・しかし出港した証明書でもFAXで見ないと、安心できんな。(ま、○○ジャパンの担当者を信じましょ)


日本に着いてから、登録までの難関はまだ未定です。想定ケースは
①あらかじめ、マフラー無しで日本に出発。別便で(航空便?)対策マフラーを送り、交換。
②そのまま、日本出発。日本で対策マフラー作らせて交換。
③何もせず、日本に着いたら、怪しげなバッフルはさんで終了?。
④日本に着いてから、マフラー外して改修(中にバッフル溶接)、んで元に戻す。


まぁ、①ならおお、さすがメーカだ、と思うけど、ヤクザなら②③だね。

④なら、さらに1カ月か?。これは勝手な私の妄想なので、実態はさっぱり不明。でも振動と音の問題が有るのは確かだと思います。

ちょっとyoutubeの動画で、3000から4000あたりで結構振動がひどいのと、音もひどいのがあったが、「これかぁ?」と思ったりしました。それがこれ http://www.youtube.com/watch?v=LyVtDhj3LbM 

(路面の凹凸と見分けにくいですが、よさそうな路面でも、ぶるぶる???)


もー、激しく気をもむ機体ですが、とにかく一歩前進、夏の終わりには日本に到着しそうです。


【日本人の覚醒診断】

2012年07月08日 09時58分56秒 | 6.河童のたわごと

ちょっと、ざっくり書いてみたけど、どんなもんでしょう?。


(背景)
昨日会社の飲み会で2年目になる新入社員がたまたま、隣の席で趣味の話やら盛り上がっていたら、意外と歴史に詳しくて、ジャブを入れたらネット覚醒住民だった。しかし、彼の話を聞くと残念ながらちょっとそう言う話を振ると、引かれてしまうのだとか。まだまだ極少数派どまりのようです。


そんなインスピレーションから、周りの友人たちがどの程度、今の日本の危機感を共有できているか、知るために以下のような簡単なチェックシートでも作れば面白いのでは?と思った。そして「そう言う気がしていた」という共感から、段々と「なぜ?」という好奇心に持って行って、答えは言わずに調べてもらうようにするといいんじゃなかろうかと、。


(以下、勝手な例題)


【ファーストステージ】
レベル0.5:TVの報道は中国と韓国に気を遣いすぎではないか?と思う。
①そう思う ②そうは思わない ③わからない


レベル1.0:NHKや、朝日新聞は日本を悪く言いすぎる気がする。
①そう思う ②そうは思わない ③わからない


レベル2.0:創価学会や朝鮮総連、民団など、日本で何をしてるのだろうと疑問に思う?。
①そう思う ②そうは思わない ③わからない


レベル3.0:民主党の不祥事は扱いが小さいが、自民党では漢字の読み間違いで1面だった。
①そう思う ②そうは思わない ③わからない


このレベルまでに①が続くひとは、もう一息、見込みありとみなして、仲良くなってじっくり攻める(笑)・・・そして信頼度が増したら、次のステージへ


【セカンドステージ】
レベル4.0:北方領土は降伏後の武力による侵略であり、国際法違反である。(ちなみに千島列島と南樺太)
①知っていた ②知らなかった ③もっと知りたい ④興味がない


レベル5.0:竹島は、サンフランシスコ講和条約で日本領と確認されたため、その発効直前に韓国が事実上、武力行使で侵略したもの。
①知っていた ②知らなかった ③もっと知りたい ④興味がない


レベル6.0:東京裁判は事後法で「平和に対する罪」をでっち上げ「A級戦犯」という架空の犯罪をでっち上げた。
①知っていた ②知らなかった ③もっと知りたい ④興味がない


レベル7.0:学校の教科書では、既に日本の国会でこれらA級戦犯とした判例は無効であり、名誉回復がされていることを明記していない。
①知っていた ②知らなかった ③もっと知りたい ④興味がない

レベル8.0:アメリカは国際法での「B級戦犯」の「一般市民の無差別虐殺」に該当する東京大空襲約10万人、広島原爆投下約8万人、長崎約6万人の虐殺を行ったが、知らんぷり(その記念に「過ちは 繰返しませぬから」というホワイトハウスに飾るべき記念碑を日本に置いている。
①知っていた ②知らなかった ③もっと知りたい ④興味がない


このあたりで、④以外の回答のある人には、一緒に調べ物をして、新たな事実を発見した喜びを共有できるような環境で、励めたら良いですね。


【サードステージ】
レベル9.0:真珠湾攻撃は、白人社会に台頭して来た黄色人種(日本)を排除する政略で、当時の植民地保有国が日本を追い込んで、開戦するように仕向けた戦争だった。
①知っていた ②知らなかった ③もっと知りたい ④興味がない


レベル10:第2次世界大戦はコミンテルンの「敗戦革命」のシナリオに沿って、世界中の政府機関に送り込まれた赤化スパイの工作によって資本主義陣営が踊らされた結果であり、その首謀者はスターリンであった。
①知っていた ②知らなかった ③もっと知りたい ④興味がない


このあたりはセカンドステージで述べたように、押しつけでは納得しにくいので、今まで目に触れなかった史実、本を紹介して自らが探求するようになってくれると良いですね。


レベルが上がると、加速度的に理解が深まるので、最後にはやはり日本の心柱を理解することが必要ですね。それにはやはり皇室の理解なんですね。


ある意味灯台もと暗しですが、外から見て初めて見えるものが有る。レベル10の問題を理解して行くと、皇室の位置づけがよくわかって来る。そうして世界中の「統治者」がこの存在だけは制御できないことを知って、破壊工作に明け暮れている意味が見えてきます。


日本は白人、アングロサクソンには理解できない崇高な(自然と共生し、和を持って尊しとなす)理念を持ち、「支配階級の楽園」を追及する勢力には都合が悪く、今もその思想を破壊するべく、破壊工作を続けています。


その最も革新的な部分が皇室破壊です。女系天皇を容認する発言者は「①理解の浅い善人」「②無関心でどーでもいい人」「③金で取りこまれた売国奴」「④天皇破壊工作員」のいずれかである。国民は③④を徹底して糾弾していかなければならない。その手先機関が中共の手先NHKなんですよ。


・・・・とつぶやきかけて行くと。


このような、「日本人が知っておくべき歴史の真実」をゲーム形式でクリアして行けば、誠の日本人になれるソフトをニンテンドーあたりで作ってくれないだろうか?(ねずきちさんのところにネタはいっぱいあるし)。


1年で小中高が覚醒すると思うんですがwww。


No.1 【2輪を操るメソッド 】 (自転車の乗り方)

2012年07月01日 20時38分12秒 | 3.ライディングテクノロジー

ライディングテクノロジーを始めるにあたって、最初に自転車の乗り方を述べようと思います。


これをお読みの皆さんは、どのぐらいの練習で乗れるようになったでしょうか?。


私が初めて自転車に乗ったのは、小学校の2年生ぐらいだったでしょうか?。今から40年以上も前の事です。恐らく1970年以前ですね。当時の日本は高度成長真っただ中。貧しいけれど、みんなが汗水流して、本当に汗水流す仕事が大半だった時代。


けれども今日より明日が確実に良くなる実感を得られた時期だったと思います。それこそ失うものは何もない、戦後からまだ25年程度のことです。(3丁目の夕日をイメージ(笑))


さて、前置きが長くなってしまいましたが、私はバイクに乗り始めて、うまくなりたいと考えるうちに、バイクでやっている練習の基本要素に、自転車との共通性があり、自転車の乗り方にも使える部分があるな、と気がつきました。それは自分の子供が自転車に乗る時期が来た時に、そうやって教えようかと作戦を考えた時に編み出した方法です。


実際にそれを実践して見たところ、予想以上に簡単に乗れるようになったのです。ほとんどこけることなく、ものの5分で何とか乗れるようになり、30分もすれば、十分出かけれるようになりました。これはどちらかと言えば運動音痴な息子にもかかわらず、でしたので、その方法には我ながら満足したのです。


そして2年後、2番目の娘にもまた同じ方法で教えたのですが、こちらはさらに輪を掛けて運動は苦手な女の子。ところがこちらも同じく、ものの5分ほどで乗れるようになったのです。確か1度ぐらいしかこけていないはずです。


このように、自転車の乗り方については、独自のメソッドを見出した(大げさか(笑))なので、ここで紹介しておきたいと思います。(出来たら後でPDFで説明書を添付しようと思います・・・いつになるやら)。 小さいお子さんをお持ちのご両親には、ぜひこの方法で教えて戴きたい。ほとんど怪我する事なく、朝公園に押して行って、昼前には乗って帰って来れます。本来、自転車の説明書に添付しておけばどうだろうかと思うほどですが、それだと自転車に傷も付かず、補助輪も売れないし、買い替えも伸びるから教えない、、というわけではないでしょうけど。


さておまちかね、その方法とは!


あまりに簡単で怒られそうですが、それは【真っすぐ走らせず、円を走らせる】ということです。


理由は2つ
(1)「真っすぐ走る」ということは特異現象であって、2輪は「絶えず曲がって走る」乗り物なのです。直進はカーブの曲率が無限大というたった一つの現象なのです。


(2)私たちはついつい、真っすぐ走るように教えようとします。どこに真っすぐ走れる公園が有るでしょうか、追い駆ける親も大変です。ですから、最初から円を走らせます。ただそれだけ(でも奥は深いんですよ)。


それでは以下に、やり方を説明しましょう。


お父さん、お母さんへ、
初めての自転車を買ったら、補助輪は要りません。まず、サドルを調整して両足のかかとが半分浮くぐらいに調整します。余り低いとペダルにうまく力が入りません。基本両足のつま先がつけば十分です。自転車の用意が出来たら、天気の良い日に近所の、ちょっと人の少ない時間帯を選んで公園に出かけましょう。


①場所の準備
半径3~4メートルの円が描ける広さを確保します。4~6歳児ぐらいの小さい自転車でしたら、半径2mぐらいでも良いでしょう。簡単に目印になるように、棒か何かで円を書きます。


②基本の座学
乗りたい気持ちを抑えて、自転車の特性を見せてあげます。サドルか、荷台を持って自転車を片手で押します。そして左に傾けると左に、右に傾けると右にハンドルが切れることを見せます。いわゆる手放し運転での挙動です。このように、2輪車はハンドルを切るのではなく、基本は車体を傾けて、ハンドルを 【切らせて】 曲がるのだというイメージを見せてあげます。これはとても大事です。「そうか、曲がりたい方に傾けるんだな」そして、「ハンドルには力を入れず、切れた方に添えてやればいいんだな」というイメージを抱かせてあげます。これはバイクも同じでなんです。


③ペダルの漕ぎ方
初心者は、ペダルの漕ぎ方でハンドルを大きく揺らしてしまいます。ですから、ハンドルに力を入れず、交互に踏み込むことを教えます。これは次の乗り方で実践します。


④乗り方
はい、もうここからは実際に乗り出します。ブレーキやら、いろいろ細かいことは後で良いです。ドキドキの初心者には細かいことは頭に入りません。

②と③だけとりあえずイメージ出来れば良いのです。教える子供の利き足が右なら左旋回、左利きなら右旋回から始めます。これは倒れこんだ時に利き足でペダルをこぐことで自転車が起き上がることで転倒回避につながるからですし、得意な方で先に練習します。


補助する人は、円の内側からサドルと最初はハンドルを支えます。そしてせいの、でペダルを漕がせて、車速が乗るまではしっかりサドルを握って補助し、ただしハンドル側は軽く添えておくようにして、ライダーに任せます。スピードが出過ぎないように適度な速度で漕がせます。ガイドラインとして引いた円のラインを目安に、大体で構わないので丸い円を描いて走らせます。こうすることで、補助する側も楽に自転車に付いて回れます。


うまく円を漕がせつつ、ハンドルから力を抜かせ、サドルをつかんだ手で自転車を内側に引っ張り、ハンドルが内側に切れることを教えます。手放しで走らせたイメージを理解させるのです。そしてハンドルを補助していた手を緩め、ライダー自身がうまく円をなぞらせている感じがでてきたら、補助で支えていた手をハンドルから離します。サドルはもうしばらく離さず補助し、手放し運転の要領で、自転車が円を描くように補助します。その補助が無くともライダーが自立して走れるように安定して来たら、手を離し、円の中心で自転車を見ながらいつでも補助出来るように見ておきます。


この円を走らせながら補助している手を加減して、内側に倒れかかると、「ペダルを漕いで」と声を掛け、自転車を立ち上がらせることを体感させます。こうして自立して倒れないことを実感させながらぐるぐる回ります。そして漕ぎ方と曲がり方がつかめたところで、もう一度サドルを握って、ブレーキを掛けて止めます。子供にブレーキを握らせると、そこでスリップダウンしてブレーキ恐怖症にならないように、介助者が捕まえて停めた方が安心です。


次に反対回りを同様に行います。こちらは利き足ではないので、ちょっと難しくなります。スピードを少し控えめにして練習します。


これでもうメソッドは終了です。真っすぐ走ることはもう出来ています。あとは、大事な仕上げ、それはブレーキのかけ方、これをしっかり覚えます。


先ほどと同じ利き足側の旋回をし、止まらないようにしながら、左手、後輪のブレーキを掛けます。強さはじわっと握って、その感触を覚えます。自転車が止まらないように速度を落とすだけです。意外と利かない、車両が姿勢変化しないということを体感します。足をつかないように回り続けながら加減を覚えます。次は右手、前ブレーキを掛けます。すると結構急に利くこと、握ると自転車が起き上がろうとする、あるいはロックして倒れこむ、ということを覚えます。最初と同じくブレーキの練習はサドルを補助して、転倒しないようにしてあげます。こうしてブレーキは速度を調節することと、止まることに使うのだときちんと教えます。最初にこれをいい加減にすると、足を出して止まろうとします。足を出しても止まれないのです。きっちりブレーキを掛けられるようにブレーキの「加減」を覚えます。


これでひとまず乗れるんですが、、、けれどもここでもう一つ、上級の練習をすれば完璧です。それは同じような大きさの円をつなげて、8の字を作ります。そしてお子さんに右旋回から左旋回への切り替えを教えます。これで大事な【切り返し】を覚えます。これを習得すれば自在に曲がれるようになります。直進を教える必要は有りません。もう、行きたい方向に自転車を操れるようになっているはずです。


どうですか、簡単だったでしょう。膝をすりむいて、自転車を傷だらけにして練習する必要は有りません。だれでもこれで乗れるようになります。親も息切れせずに、なんとかついて行けるでしょう(笑)


どうでしょうか、ここまで30分位ではないでしょうか?。最後に直進で急ブレーキを掛ける練習をします。最初にリアブレーキを掛けて、すかさず前ブレーキをロックしない限度で握ります。そして短く止まれるようになったら、(ここで、急ブレーキが怖さを感じないようにスピードは控えめで良いです。)訓練は終わりです。お疲れさまでした!。


PS)自転車を練習した遠い昔、兄が小3の時、自転車を買ってもらったけれど、私はそれがうらやましくてしかがありません。兄は既に友達から借りて、乗れるようになっていたので自分はその自転車で練習すると、直ぐに倒してしまいひどく怒られる。母親がなだめていっしょに練習してくれるのだけれど、どうにも乗れない。そこで補助輪を付けてもらえることになりました。しかし今度は兄が納得しない。そりゃそうです、補助輪のついた自転車ではまともに走れませんからね。


そういうわけで、しばらく補助輪つけてペダルの漕ぎ方だけ習得すると、直ぐに補助輪は外されてしまいました。記憶にはないけれど、いつの間にか乗れるようになっていました。しかし数限りなく転倒し、自転車が傷だらけになったことは良く覚えています。