2月28日

2006-02-28 20:26:43 | Weblog
木屋町や裏を流るる春の水     河東碧梧桐

木屋町は、松山市内にもあって、そうだとすれば、木屋町の裏、つまり北には、護国神社の前を通って流れてくる宮前川が流れている。木屋町は職人の町であったから、木屋町を覗くと、庶民の雑多な暮らしが見える。裏手には春の川があって、これもきどらない町の春の風景である。

2月27日

2006-02-27 20:26:24 | Weblog
昃れば春水の心あともどり     星野立子

立春を過ぎると、日脚も次第にのびてきて、届く光も明るくなる。春のうららかさを喜んでいるうちに、昃ればうららかな春の水も寒々となってしまった。冬へとあともどりである。「春水の心」は水に心を見た卓抜な把握で、この句に虚子は立子の才能を見たという。


2月26日

2006-02-26 20:25:54 | Weblog
男坂一気に磴る梅まつり      石井信雄

男坂の険しい坂を一気に磴る気迫が、梅の花の潔さに通じている。男性らしい一句で華やかさもある。

2月25日

2006-02-25 20:25:29 | Weblog
梅林を透す日差しが空の色     平田 弘

この句のポイントは、「日差が空の色」にある。「梅林の日差」こそが「空の色」というのだ。空を含めた梅林のきよらかな雰囲気がよくでている。

2月24日

2006-02-24 20:24:55 | Weblog
うしろより見る春水の去りゆくを     山口誓子

「去りゆく」ものは、背を見せて去ってゆく。川を流れる春水も、その例外ではない。流れ来た水を迎え、流れてゆくほうへと見送る。それは、人を見送るように、春水のうしろ姿を見送る気持ちなのだ。流れゆく春水が雲を映したり、漣をたてたりするのも、見送られているからだろう。

2月23日

2006-02-23 20:24:08 | Weblog
ひた急ぐ犬に合ひけり木の芽道      中村草田男

木々が芽吹く道は、轍のあとや水溜りのくぼみなどがある、土の道であるのがいい。そこを犬が何の理由か舌を出して荒い息で、ひたすら急いでいる。このような犬に時に出くわすことがあるが、妙に人間的意思と温みを感じて、ひた急ぐ犬に気持ちを動かすことになる。

2月22日

2006-02-22 14:08:31 | Weblog
野の虹と春田の虹と空に合ふ     水原秋櫻子

野から立った虹の孤と、春田から立ち上がった虹の孤が空で出合い、一つの孤をなす虹となった。色彩ゆたかな春の景色。春田は、田植前の水が張られて、きらきらとかがやき、そよ風に漣を寄せている田も指すし、また、げんげ田のように、田水を張っていないものも指す。春田の色彩の豊かさ、虹というローマン的なテーマが、虚子の花鳥諷詠の客観写生による表現の枷から出た作品と言える。

2月21日

2006-02-21 14:13:36 | Weblog
囀や海の平を死者歩く        三橋鷹女

鷹女は、老いや死を現実に引き構えて詠む風がある。波立たない平らな海を前にして聞く鳥の囀り。のどかなはずの囀りを聞きながらも囀りは、鋭く脳内に響き、海に死者を歩かせる。死者は、「自分の影」として出てきたものか、「ある死者」の幻影であるかだが、鷹女の概念にある死者であろう。死者を歩かせるものは、孤独である。 

2月20日

2006-02-20 14:07:46 | Weblog
下萌えに声交わし合う草野球     小西 宏

広々とした下萌えに散らばって草野球を楽しんでいる光景が、楽しくていきいきとしている。「声交わし合う」に、様々が凝縮されて、草野球の光景を目の当たりにするようだ。

2月19日

2006-02-19 14:06:44 | Weblog
ものの芽の一歩も退かぬ出の構え     野田ゆたか

待機万全を期した「出の構え」に、生命の勢いを感じ取ることができる。この句に生きいきとユーモラスに描かれたものの芽は、私たちの生活に元気を与えてくれる。

2月18日

2006-02-18 14:06:07 | Weblog
立山の其の連峰の雪解水         高濱虚子

日本海から吹く湿りを含んだ寒冷な風は立山連峰に当たって多量の雪を降らす。真っ白に降り積もった峰々からの雪解水は、それは迫力のあるものであろう。目の前に流れてくる「雪解水」の具体を通して、立山を頂く雪の連峰がリアルなものになっている。

2月17日

2006-02-17 14:05:34 | Weblog
鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし      三橋鷹女

鞦韆はぶらんこ。ぶらんこを漕いで漕いで高くあがる。その積極性が「愛は奪うべきもの」の発想となった。小説風なテーマで、有島武郎の『惜しみなく愛は奪う』に触発されての作であろう。それには、「愛は自己への獲得である。愛は惜みなく奪うものだ。愛せられるものは奪われてはいるが、不思議なことには何物も奪われてはいない。然し愛するものは必ず奪っている。」とある。「自己に矛盾し、自己に蹉跌(さてつ)し、自己に困迷する、凡ての矛盾と渾沌(こんとん)との中にあって私は私自身であろうとする悩み」から発した『愛は惜しみなく奪う』と、さほど内面の重なりは感じられない。        

2月16日

2006-02-16 14:04:58 | Weblog
春光を残して庭師帰りけり       林 緑丘

庭師が来て、庭木が剪定され、すっきりと明るくなった庭。空の光もよく届くようになった。庭師が春光を残して帰ったのは事実。春先の庭は光で眩しい。                

2月15日

2006-02-15 15:37:16 | Weblog
老いながら椿となつて踊りけり     三橋鷹女

鷹女の句は主観が強く、独特である。「老いながら」も、老いは老いらしくというのではない。深いみどりの葉の中に咲くあでやかな赤い椿のようでありたい、しなやかに踊ることもしようというのだろう。椿は赤いのでなければ、伝説にあるように白い椿の精でもよいだろうが、妖しさは隠せない。

2月14日

2006-02-14 15:36:59 | Weblog
春光の角を打ち延べ板金工       野田ゆたか

板金の角は、特に光が集まっているように思えるが、その角をまるで光を打ち延べるかのように叩いている。のどかな中にも春光のきらめきが眩しい。