きつねの戯言

銀狐です。不定期で趣味の小説・楽描きイラストなど描いています。日常垢「次郎丸かなみの有味湿潤な日常生活」ではエッセイも。

小説 Fade-out 3 止まない雨/蜘蛛の糸

2017-07-01 23:59:02 | 小説
Fade-out 3

§§§ 止まない雨/蜘蛛の糸 §§§

 窓の外は雨。雨音が厚地のカーテンの向こうから聞こえて来る。防音サッシを閉めているのに聞こえて来るくらいだからかなり降っているのだろう。
あの街に居た頃は、芳香の心の中にずっと降り続けて来た雨は永遠に止むことがないのだろうと思っていたが、あの街を離れてからはいつの間にか心の中の激しい土砂降りの雨は上がり、霧のような小雨が時折降ったり止んだりしているような気がした。
おそらくかつての芳香にとって新庄の存在はこの世の終わりまで降り続きそうな土砂降りの雨の中で見つけた雨宿りの場所。
冷えた体を縮めて丸まれば、包み込んで温めて癒してくれるところ。
ずっとこうしていたいと思っても叶うことのない仮の宿り。
それ以上望めないことはわかっていたし望むつもりもなかったが、ただそこに居る間だけは果てしなく続く雨のことを忘れていられた。

 だが、芳香はほどなく自分の大きな勘違いに気づかされることになった。
芳香が新庄の言葉に以前とは違う積極的な態度を感じ取ったのは、去ろうとする芳香の心を繋ぎ留めたいという彼の焦りだと思っていたのは間違いだった、というより、少々意味合いがずれていた。
新庄が大胆になったのは、「芳香が他の男友達の中から自分一人を特別な存在として選び、『恋人』と認めてくれたと思い込んだからだ」という彼の言葉に驚いた。
 芳香には何をきっかけに新庄がそう思い込んだのか、見当もつかなかった。
いや、そうではない。
今にして思えば、本当は彼の気持ちに気づいてはいたが、鷹揚で温厚で寛大な彼に甘え、おもねることで良いように利用していたに過ぎなかったのかも知れない。芳香は自分の狡さを認めたくなくて気づかないふりをしていたのだと認めざるを得なかった。

 何気なく告げた他の男友達の話をきっかけに、思いがけず嫉妬から新庄の態度が一変したことで改めて新庄の想いの強さを知って芳香も驚いたが、芳香にとっての新庄への想いは彼の想定していたそれとは似て非なるものであることを知り、新庄もショックを受けたようだった。
新庄にしてみれば、最初は単に気の合う友人に過ぎなかったとしても、毎日SNSで会話をし、極めてプライベートな相談にも応じるうちに、きっと芳香は自分に好意以上の感情を抱いてくれているに違いないと思っていたのだろうし、新庄自身の中で次第に高まって来ている芳香への恋慕の情を認め受容してくれているものと思っていたとしても何の不思議もない。新庄が芳香を愛するのと同じように芳香もまた新庄を愛していると思い込んでいたというのは、決して誤りではないけれど、二人が互いを思う気持ちには温度差というよりも微妙なベクトルのずれがあったことに、お互いが気づけずにいたという方がより正確なのかも知れない。

[正道:貴女とこうしてSNSで毎日挨拶を交わすうちに、僕は段々貴女に夢中になって行って、貴女も他の誰にも出来ない相談をする相手として僕を頼ってくれて、僕は貴女の恋人になれたのかも知れないと思っていました。僕が貴女を想う気持ちが通じて、貴女も僕を、僕だけを、愛してくれていると信じ込んでしまいました。]
[正道:だけどそれは単なる僕の思い上がりだったんですね。僕はとんだ勘違いをしていた訳だ。僕はやはり哀しい道化に過ぎなかった。貴女の愛が得られたなどと思い込んでのぼせ上がり、舞い上がってしまっていた。落胆なんて遥かに通り越してもう嗤(わら)うしかありません。]
 [芳香:そんな哀しいこと言わないでください。悪いのは私です。]
[正道:貴女はわかってない。貴女は自身が思っている以上に魅力的な女性なんです。綺麗で聡明で健気で、しっかりして見えるが、どこか儚げで守ってあげたくなる。男なら誰だってそう思いますよ。実際徳田さんの飲み会メンバーの他の男たちの中でも貴女のことが気になっている人は何人もいるはずだ。訊かなくても同性なら見ているだけでわかります。]
[正道:貴女を大切に思うあまり、僕はあと一歩を踏み込めずにいたんです。僕の中で燃え滾る熱い想いを貴女に告げてしまえば後に退けなくなる。男のくせに情けないと思われるかも知れませんが、もしも貴女に拒まれたらと考えたら、僕はきっと立ち直れないだろうと恐ろしくてたまらなかったし、貴女をも傷つけてしまって、永遠に貴女を失ってしまうかもしれないのが怖かった。だから平静を装って貴女に接して来たんです。]
[正道:僕は馬鹿ですね。貴女を失うことを恐れる反面、心の何処かで根拠のない自信のようなものがあった。貴女はきっとわかってくれている。そしてきっと僕と同じ気持ちでいてくれている。…なんて勝手な妄想を抱いていたんです。]
 [芳香:ごめんなさい。貴方に甘えてばかりで、結果的に貴方を傷つけてしまいました。許して下さいなどと言える立場ではないのはわかっています。でも、わかって下さい。私は本当に心から信じていたんです。貴方とは魂で結ばれたソウルメイトだと。]
[正道:貴女が謝る必要はありませんよ。貴女は何も悪くない。僕はとんでもない勘違い野郎だった僕自身に呆れているだけです。]
[正道:心配しないで下さい。例え僕が貴女の恋人ではないことがわかったとしても、貴女が僕を必要としてくれるなら、僕が貴女を遠ざけることはありません。いつか僕は全力で貴女を守ると約束しましたよね。男に二言はありません。貴女の側に居て貴女を支えることが許されるなら、僕はずっと貴女の側に居ます。ただ、今夜一晩は僕をそっとしておいて下さい。今は貴女に優しくできる自信がありません。]
それきり新庄の送信は途絶えた。芳香もまた彼に対してかける言葉が見つからず沈黙したまま眠れぬ夜を過ごした。

 新庄の投げつけて来る自虐的な言葉は諸刃の剣となって芳香の心をズタズタに切り裂き、更に新庄自身をも酷く傷つけていた。似た者同士だけにどうすれば最も効果的に相手に心理的なダメージを与えるかはわかり過ぎるほどにわかっていたから、直接相手を攻撃するよりも寧ろ己を蔑み疎んじて自らを貶めることこそが、相手にとっても何よりも激しく深く心の痛みに苛まれる方法だと知っていた。

 新庄のことが好きか嫌いかと言えば好きだが、それは恋人というよりも父や兄のように支えてくれて甘えられ頼れる相手としてであった。
側に居て安心できて安らげる、裸の心でその懐に飛び込める大きくて温かな存在、魂で共鳴し繋がり合える関係だと思っていた。
 新庄があまりにも節度ある紳士的な態度で自らの情念を抑制してきたばかりに、芳香は自らの都合の良いように新庄を利用して来たと言われても仕方がない。
芳香にとって「ソウルメイトは恋人よりも優位な存在である」などと訴えたところで、新庄にそれを理解してもらえるはずもない。
芳香が仮に「体を重ねるよりも心を、心よりも魂で繋がれる方が遥かにかけがえのない存在である」などと言ってみたところで、新庄には詭弁としか思えないだろう。
 芳香と新庄は気持ちがすれ違っていたことに気づき、互いに傷ついた。

 男と女はやはり分かり合えないものなのだ。
女は精神的な繋がりを求め、心と心が通じ合えることを至上と思うけれど、男はそうではない。
決して下心ばかりという訳ではないが、所有欲はある。惚れた相手を『自分の女』として独り占めしたいと思うものなのだろう。
或いは男というものはプライドとメンツを重んじる生き物だけに、惚れた女からも惚れられていると思っていたのが、実際には思い過ごしで独りよがりだったという忸怩たる思いに甚(いた)く自尊心を傷つけられたのかも知れない。

 どちらが悪いのでもなく、間違っているのでもない。
男女の気持ちの違いは芳香と新庄だけの問題ではなく、古今東西ありとあらゆる男女間で多かれ少なかれ起こりうるものなのだ。
世間で言われるように、男は体の浮気が許せないが、女は心の浮気が許せないというのも肯ける。
男というものは女に惚れられたと思うと自分のものとして所有したくなるものなのだろうが、女にとっては、その男に惚れているとまではいかなくても、親切で優しくて頼れる人だと思うだけで甘えて頼り切ってしまい、特に悪気もなく、騙すつもりはなくても男に勘違いさせてしまいかねない。
良い人だとは思うけれど…と女は言う。男はそれを裏切られたと逆恨みしてしまいかねない。

 翌日SNSの着信があり意外なことに新庄からメッセージが届いた。
[正道:昨夜一晩考えました。情けないことに僕はまだ貴女への未練を断ち切ることが出来ないでいます。それはきっと貴女が昨夜謝罪の言葉を繰り返していただけで僕にきちんと自分の正直な気持ちを伝えてくれなかったから、諦めきれないのではないかと思います。やはりこんな気持ちのままで一度は愛した貴女とただの友達に戻ることは難しいと思います。貴女の恋人になれないのなら、いっそ一思いにはっきりと僕を振ってくれなければ、僕は一歩も前に進むことができません。]
芳香は新庄に対して返信しなくてはと思ったが、どんな言葉を選んでも自分の胸の内を正しく伝えられる気がしなくて、どうしても新庄にかける言葉が見つからなかった。
 [芳香:ごめんなさい。何と言っていいのかわからなくて、うまく説明できません。]
[正道:だからもう謝罪は要りません。もう僕を必要としていないのならはっきりと引導を渡して下さい。そうしたら僕は貴女の前から姿を消して二度と現れません。]
[正道:でも、もし貴女がまだ僕を必要としてくれるなら、いつか貴女と約束した通り、ずっと貴女の側に居て、全力で貴女を守ります。]
[正道:貴女は昨夜僕に許しを乞いましたね。今もその気持ちは変わりませんか。]
 [芳香:貴方を傷つけてしまったことは本当に申し訳なく思っています。]
[正道:それなら約束して下さい。他の男と関わるなとは言いませんが、決して僕を裏切らないと誓って下さい。]
芳香は思いもよらない新庄の言葉に絶句した。あまりに衝撃が大きくて、激しく動揺するばかりでどうにも答えが見つからない。
はっきりと振ってくれと言われても、今まで頼り切っていた新庄に別れを告げることは不安だったし、仁美や仲間たちとの繋がりを考えると、もし新庄ともめて別れたとなればこの先素知らぬ顔で付き合うのも、逆に避けて皆に不審がられるのも辛いだろう。そしてあまりにも今まで彼に全てを曝け出して来てしまったために、何もかも知り尽くした新庄が万が一悪意を持って報復に出たらと思うと恐ろしくて仕方なかった。
結局その日もそれきり会話が途切れ、互いに沈黙したまま終わった。

 その後新庄は何事もなかったようにSNSでの会話を再開したが、新庄は以前のように優しい時ばかりではなく、芳香の思い過ごしかも知れないが、まるで芳香を束縛するかのようになったと芳香には思えたし、芳香は再び新庄に激昂されることを恐れてすっかり怯えてしまっていた。

 ショックを受けたのは新庄ばかりではなかった。芳香もまた別の意味で大いにショックを受けていた。
(これでは「あの男」と同じ…。)
芳香が悪縁を断ち切るべく逃げ出して来た相手の男・河西玲児(かさい・れいじ)との関係と何も変わらない。
子供じみた河西との共依存に苦しみ、恐怖と不安だけしかなかった生活からやっと解放されたのに、ずっと相談に乗り精神的に支えてきてくれたはずの新庄ともまた共依存の関係になるなら、相手が変わっただけで何も変わりはしない。芳香は愕然とした。こんなはずではなかった。どうしてこんなことになってしまうのか。自分には男運がない、いや、むしろ男を見る目がないのだ、と芳香は嘆くよりも我が身の愚かさ加減に呆れ果て、嗤うしかなかった。
新庄を頼りに思い、依存していることは自覚していても、まさか新庄もまた芳香に依存しているとは思っていなかったが、冷静に考えて見ればこれもまた明らかな『共依存』に他ならなかった。

 河西と違って現実世界ではなくSNS上ではあるけれども、突然束縛が厳しくなり、返事がないと威嚇するところなど、まるで河西の生霊が取り憑いて、新庄を操っているかのようにさえ思えた。河西のそんな精神的暴力に怒り、芳香を労(いた)わってくれた新庄はどこへ行ってしまったのだろう。
善良な人に悪霊が取り憑いて人格が変わってしまうとか、長い間共に旅をして戦って来た仲間に裏切られ、結局最終局面まで来て信じていた仲間が真の敵であったことがわかるとかいうようなファンタジー小説やロールプレイングゲームのストーリーのようで、俄(にわか)にはそれが現実の出来事であったとは信じられなかった。
これはきっと酷い悪夢を見ているだけなのだ。目を覚ませばそれが夢であることに気づき、いつもの優しい新庄が居て、「こんな夢を見た」と話せば「酷い夢を見たものだね」と笑ってくれるのではないか。そう思いたかったが、これは紛れもない真実だった。もちろん文言だけのやりとりだから真意が伝わりにくいことは否めないが、それを差し引いてもやはり全てが芳香の思い過ごしであるとは思えない。

 溺れる者に縋りつかれたら一緒に溺れてしまうのと同じで、精神世界の泥沼で溺れかけている者に安易に手を差し伸べてはいけない。絶対に引きずり込まれないだけの強さを持つ者か精神医学や心理学を熟知した専門家でなければ救うことなどできない。憐憫の情に絆(ほだ)されて手を伸ばせばそのままもろともに冷たく深く昏(くら)い沼の底へ引きずり込まれてしまう。相互依存は、依存されることによって初めて自らの存在価値を承認されたと思えるほど自己価値が低いために、恐怖と不安で支配されつつも離れることが出来ず、反動で与えられる僅かばかりの優しさに縋るかのように、そこでしか生きることが出来ないと信じ込み、依存してくれる相手が居なくなることを恐れて自らもその相手に依存することで形成される。
 医療関係者ですらうっかり心を病んで深い哀しみに囚われた患者に共感し感情移入するとメランコリーが伝染して心を蝕まれかねない。芳香も経験上それは実感していたし、医師である新庄ですら、まだ経験の浅い若い頃には心を病みかけたこともあったといつか言っていた。強靭な精神を持ち、常に冷静に対応できれば良いのだが、真面目で真摯な性格が災いして、木乃伊(ミイラ)取りが木乃伊になることだって往々にして在り得ることなのだ。
 それは芳香にとっては嫌というほど身に染みてわかっていた。自分もまた弱き者であり、河西に情をかけたばかりに心を病み、危うく廃人になる寸前だった。そこからやっとのことで逃れてここまで来たのだ。腐れ縁を断ち切って、河西の顔も思い出さずに済む平和な生活をやっと手に入れたばかりだというのに。

 それでも涙はとうに枯れてしまっていたし、不安や恐怖もすぐに薄れていく。その時は動揺するとしても、知らず知らずのうちに少しずつ受け流す術を身に付けていたのかもしれない。先のことを思い悩んでもどうにもならない。今この場をどう切り抜けるか、そこに意識を集中しようと思えるようになってきた。
(できるはず。今までやってきたんだもの、きっとできるはず。)
芳香はうまくやれるはずだと自分に言い聞かせた。

 一人で生きる覚悟を決めて、新庄に頼る気持ちも薄らいでいたが、ここへ来て河西を彷彿させるような新庄の態度が芳香に深刻な恐怖を与え、芳香の新庄への気持ちを一気に冷めさせた。新庄もまた過去になりつつある。また河西と同じように怒らせないようにそっと静かに離れていくだけのことだ。

 逃げられたら追いたくなることの裏返し。追われるとますます逃げたくなる。
逃げないことは美徳ではないと、芳香はもう既に知っている。何よりも自分自身を一番に大切にすることだけ考えればいい。そのためには他人を不幸にしたとしても。人生の大半を誰かの犠牲になって過ごして来たのだ。これからは自分が幸せになる番だと決めたのではなかったか。住み慣れた生まれ故郷の街を捨てて、何もかも新しい別の人生を歩み始めようとしているのではなかったか。

 今まで支えて来てくれた新庄が河西と何ら変わらないと知ってしまったことは残念だけれども、言葉は悪いが新庄の役目はもう終わったということなのかもしれない。血の池地獄に垂らされた蜘蛛の糸は芳香を引き上げてくれたが、今やその糸が芳香をがんじがらめに縛ろうとする以上、糸を切って逃れるしかない。恩を仇で返すのかと言われても、折角手に入れた自由を再び手放すことだけは耐えられない。

 雨が上がると照りつける太陽の熱が飽和した大気中の水分を全て蒸気に変えたかと思えるほどに湿度が高くなり、皮膚の表面に滲み出た汗が乾かず全身がじっとりと湿りべとついて堪らなく不快だった。
 湿度が一番の苦手で、一年中で梅雨の時期が一番嫌いだといつか新庄が言っていたことがあった。
まとわりつくような不快感がいつ終わるとも知れないこの時期を好きになれないのは芳香も同じだった。

 年々何に対しても堪(こら)えることができなくなることを人は老化と呼ぶのだろう。それはきっと心に余裕がなくなるからなのだと思う。残された時間はどんどん減って行くことを無意識に怖れているからなのかも知れない。
 時間の流れは歳を重ねれば重ねるほど加速度的に早く感じられる。
子供の頃は早く大人になって勉強から解放されたいとか、いろいろできることが増えて楽しく幸せになれるのだろうとか想像していたが、いざ大人になってみるとただ辛いばかりの毎日ではあるけれども、あっという間に時が過ぎ去る感覚は良きにつけ悪しきにつけ何もかも押し流してしまうという利点があった。
どんな大変なこともいつか終わるし、気づけばすぐに一年くらい経ってしまっているから、些事に拘泥しては居られない。今この瞬間は半永久的に続くかのように思えることでさえ瞬く間に過去へと押し流されて行く。どんなに辛く苦しい日々も過ぎればまるで一夜の悪夢のように記憶の片隅に追いやられ、人生という物語の一部として折り畳まれ積み重ねられてしまう。
 (きっと、寂しかっただけ。一人では恐怖と不安に押し潰されそうになって息ができなくて誰かを必要としただけ。そんな時にたまたま居合わせた彼に頼り切ってしまっただけ。)
芳香はそう思おうとした。
(つづく)

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