傍観者の独り言

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沖縄基地問題:守屋元防衛次官の発言・・・迷走は地元利権の思惑も要因!

2009-12-11 13:51:09 | 沖縄基地

防衛商社「山田洋行」との癒着問題で辞任し、現在は、刑事被告人として係争中の守屋武昌元防衛次官が、「中央公論」(2010.01)に、沖縄基地問題・日本の安全保障について語っており、普天間基地移設問題は、地元利権に振り回されてきたと語っています。
守屋武昌元防衛次官の話は、当事者として普天間基地問題に携わってきており、現実性を感じましたね。
また、日本の安全保障の実態を踏まえての、自衛隊を「国内公共財としての自衛隊の役割」及び「国際的な公共財としての役割」については、実務者として現実的な内容であり、鳩山首相の掲げる「緊密で対等な日米関係」に繋がるとの話は、現実的な正攻法と思いましたね。

普天間基地移転問題は日米合意事項であり、鳩山政権の火急的な問題になっており、日米の信頼関係を危ぶまれるというメディアの論調ですが、実務に携わってきた守屋武昌元防衛次官の話は、アメリカは誠実に対処してきてるが、問題を長引かせたのは、沖縄の地元利権に振り回されてきた側面があるということです。

中央公論」の対談記事『地元利権に振り回される普天間、日米同盟』(守屋武昌・元防衛次官、沖縄問題の真相を語る)での守屋武昌元防衛次官の話を要約すると、

守屋元次官は、普天間基地の返還は、14年前に、当時の太田昌秀県政の下に、戦略的思考タイプの吉元政矩副知事が立案した「基地返還アクション・プログラム」が沖縄県経営者協会の稲嶺恵一会長(後の沖縄県知事)が諸井虔氏(秩父セメント会長)経由し、橋本元総理、梶山元官房長官に持ち込まれたが具体的な起点となったと語っています。

当初案は、嘉手納基地統合案であったが、米軍の反対もあり、地元の反対もあり、統合案は潰れ、辺野古沿岸水域に撤去可能な構造物を想定したが、地元の名護市の有力者から「町興しの材料」として地元業者が潤う「埋め立て」方式が要請される。

そして、小渕内閣時に、「軍民共用空港」の選挙公約の稲嶺恵一氏を自民党と沖縄経済界が担いで県知事に当選し、稲嶺県知事は「軍民共用空港」コンセプトは、撤去可能な1,500㍍の滑走路が、2,500㍍で民間空港の機能を備える巨大化し、「米軍使用は15年限定、その後は県民の財産とする」ことであり、1999年12月、小渕内閣は「軍民共用空港」と「15年使用期限」を閣議決定。
しかしながら、採算性から民間空港機能はなくなり、「15年使用期限」も米軍が合意しなかった。

守屋元次官が疑問視するのは、その後の沖縄県の首長の決断しない言動ですね。
2001年4月に、小泉内閣が発足し、6月に、「軍民共用空港案」の国と沖縄県が検討する「代替施設協議会」(7回)で8つの候補地と3つの工法が呈示されたが、沖縄県は埋め立てが工法が主流で、8候補地とも埋め立て工法になる。
2002年春、名護市の岸本市長から「QIP工法と埋め立てを使っても小さな物にしてほしい」と要望があったが、2002年7月の第9回協議会で辺野古沖合が候補地と決定する。

その後、手続きで時間を要したが、2004年4月に、環境アセスメントの手続きかやっと開始した、1ヶ月後に、普天間基地所属の海兵隊のヘリが沖縄国際大学のキャンパスに墜落事故が起き、防衛省が事を急ぎ、9月に、建設予定地にアセスメントのためのボーリング用の櫓を組んだら、環境派が船で押し掛けて作業妨害が発生。
そして、小泉総理は「海上で環境派が阻止活動を行うような案を考え直せ」と指示した。

一方、2001年に発足したブッシュ政権下で、ラムズフェルド国防長官が「地球規模での米軍態勢」見直しを受け、日米両国政府が再編協議(DPRI)で、守屋元事務次官が拘ったは「米軍基地の抜本的見直し」で、米軍側は、普天間基地移設問題については、名護市の建設業者が作成し、地元が合意できるとして、軍用空港として埋め立て工法主体の浅瀬案であったが、守屋元事務次官は、それに異を唱え、辺野古にある海兵隊の駐屯地であるキャンプ・シュワブの演習場に新たな代替ヘリポートを建設するアイデア(シュワブ演習場案)を米軍側に要求した。

守屋元事務次官の「シュワブ演習場案」は、当初は、米軍だけでなく、首相官邸、外務省、内閣府など政府部内から無視されたが、唯一、耳を傾けたのが小泉元総理で、守屋元次官の構想の「米軍基地の大規模返還案」と「シュワブ演習場案」は息を吹き返し、やがて、米軍も理解を示すようになる。

2005年10月、当時の大野功統防衛長官の頑張りで、周辺の予想に反して、米国と合意したのは、「キャンプ・シュワブ宿営地(L字型滑走路)案」で、米国と合意後、額賀防衛庁長官の下で、地元に政府案を理解を求めたが、地元との交渉で「騒音に、住宅の上を飛ぶのは危険」という理由で浅瀬に押し戻す要求がでた。
現実は、10戸程度が騒音被害を受ける程度で、農作業小屋が多く、住居はわずかであり、飛行高度は危険回避できる5百㍍であったが、額賀防衛庁長官は地元の協力を得る視点から「埋め立て面積が増えるが、滑走路を2本にし、浅瀬の方に200㍍移動させる」(V字型案)を決断する。
2006年4月に、防衛庁長官と名護市長、宣野座村長は「基本合意書」を提携し、5月に、防衛庁と沖縄県は「基本確認書」に署名・押印する。
これが、現在の「V字型案」です。

守屋元次官は、問題は、沖縄はこれで交渉を終わらせず、稲嶺知事から仲井真知事に代わると、「見直しと選挙で約束した」「県や市は国と合意していない」「危険だ、騒音だ」と言って、「もっと浅瀬に施設を出してくれ」と新たな協議の必要性を言い始めたとし、前の合意を覆す、2枚舌とも言える交渉を主張し、普天間移設問題は先延ばしを図っているようにしか思えないと語っています。

更に、久間防衛大臣も「V字型案」の沖合移転を主張し、自民党の有力者からも、「少しは沖縄に譲ってやったらどうだ」と言われ、2006年6月から始めて2010年6月に終了する環境アセスメントの結果もでないうちに、仲井県知事、島袋名護市長、中央の自民党や経済界の有力者も浅瀬の方に移動してやったらと言うのには、守屋元次官は驚いたと語っています。

守屋元次官は、沖縄の言い分だけでなく、防衛庁の言い分も聞いて欲しかったとし、「その一方で、与野党を問わず有力政治家が普天間移設に必要な土砂の需要を見込んでどこそこの山を買っているなどといった情報が地元ではまことしやかに噂されている。これは一体、何なのかと言いたい」と語っています。

守屋元次官は、民主党には、過去の経緯と沖縄の特質(一部の交渉する一部の人間は「2枚舌」を使う)を認識し、現在の合意案は日米政府と沖縄の間で練り上げたものとし、環境アセスメントの結果を鑑み、沖縄県民の本音は、「国の責任でやってくれ」だと思うと語っています。
また、自民党が「無責任だ」などの批判については、12年間も移設を実現できなかった現実は、かつての与党がそんなことを言えるわけはないと言及していますね。

当方は、守屋元次官については、山田洋行との癒着を知り、人間性を疑っていましたが、「中央公論」の対談記事を読み、実務には精通していると思いました。
メディアの論調は、日米合意の既定路線は、米軍の再編成に影響し、信頼関係に揺るがし、容認しかないとし、時間の引き延ばしは国益に損なうということですが、既定路線は、沖縄の経済界を重んじた産物であり、沖縄県民の総意ではなく、見直しは正解と思っています。
ただ、守屋元次官は、沖縄に踊らされたが既定路線が最善解の見解ではあるが、「キャンプ・シュワブ宿営地(L字型滑走路)案」の再考も、海外移設も言及していませんが、それらの検討価値があると思いましたね。

沖縄の特殊性については、本ブログ「沖縄基地問題:武藤功氏の「普天間基地問題の焦点は何か」・・・共感!」で、江田賢司議員がブログ「パンドラの箱を開けた(下)・・移設先はキャンプシュワブ沖」の、普天間基地移設は、当時の政府・・・橋本内閣の苦渋の決断であったと紹介したが、江田賢司議員のブログでは、

”「その後、紆余曲折を経たが、97年12月24日、官邸に来た比嘉名護市長は、「大田知事がどうであろうと私はここで移設を容認する。総理が心より受け入れてくれた普天間の苦しみに応えたい(ここで総理が立礼して御礼)。その代わり私は腹を切る(責任をとって辞任する)。場所は官邸、介錯は家内、遺言状は北部ヤンバルの末広がりの発展だ。」市長の侍の言に、その場にいた総理も野中幹事長代理も泣いていた。」”

と、比嘉名護市長は、太田知事がどうであろうと、辞任を覚悟で移設容認したが、太田知事は、

”「しかし、このような全ての努力にもかかわらず、結論を延ばしに延ばしたあげく、最後に自らの政治的思惑で一方的にこの「極み」の関係を切ったのが大田知事だった。それまでは「県は、地元名護市の意向を尊重する」と言っていたにもかかわらず、名護市長が受け入れた途端に逃げた。当日、同じ時に上京していた知事は、こちらの説得にも名護市長とは会おうともせず、官邸に来て徒に先送りの御託を並べるだけだった。

 太田知事にも言い分はあろう。しかし、私は、当時の総理の、次の発言がすべてを物語っているように思える。「大田知事にとっては基地反対と叫んでいる方がよほど心地よかったのだろう。それが思わぬ普天間返還となって、こんどは自分に責任が降りかかってきた。それに堪えきれなかったのだろう
」”

と太田知事は解決を先延ばしたと書いています。

この太田知事の言動は、守屋元次官の語った沖縄の特殊性を連想しましたね。
メディアや有識者や自民党が「沖縄基地問題」の先送りは、日米関係の信頼を揺るがすという批判は、偏狭・偏向と思いましたね
また、世の中、利権が渦巻く「パワーゲーム」と再認識しましたね。

やはり、普天間移設問題は、諸々の要因が複雑な多項式連立方程式になっており、ここは、「沖縄県民の負担軽減」を第一に、単純化して、政府(政治)主導で事にあたることが正解と思いましたね。

[参考]

① 読売新聞の記事「守屋元次官の普天間利権発言、社民が調査へ
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091209-OYT1T01124.htm

 ”「社民党の福島党首(消費者相)は9日の記者会見で、守屋武昌・元防衛次官が沖縄の米軍普天間飛行場移設問題の混迷の原因に埋め立て工事の利権が絡んでいると指摘したことについて、「利権のための海上基地造りなら、工事の正当性にかかわってくる。党として調査し、明らかにする」と述べた。」”

守屋武昌・元防衛次官の対談記事は、防衛省寄りの見解ですが、米軍基地内の「シュワブ演習場案」、「キャンプ・シュワブ宿営地(L字型滑走路)案」が地元負担が無かったのではないかという素朴な疑問がありますね。
有識者、メディアの論調は、偏狭・偏向であることは事実ですね。







1 コメント

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江田賢司氏の認識 (udonenogure)
2009-12-12 19:55:25
こんばんは

江田議員は、橋本内閣での内閣総理大臣秘書官です。この橋本内閣で沖縄の大田知事の間を取り持ったのが、元事務次官の下河辺氏となります。当時の梶山官房長官や橋本総理とも近く、また副知事の吉元氏にも請われたというものです。吉元氏とは、その当時20数年来の知り合いだったそうです。

この下河辺氏が、オーラルヒストリーを残しています。それを検証をし、また当時の記事を読み比べた結果です。

さて、文中に江田賢司議員のブログからとして、「大田知事にとっては基地反対と叫んでいる方がよほど心地よかったのだろう。」とありますが、これは江田賢司氏の認識不足もしくは、事実と違う言葉でしょうね。

なぜなら、元大田沖縄知事は、選挙で沖縄県民に対して県外移転を訴えて当選をして知事になったわけですから、普天間返還になっても、沖縄県内への移転であるなら、素直に喜べない話です。「当然基地反対」となります。「心地がよかったのだろう」とは、こんな馬鹿にした話はありません。
この大田氏の「県外移設」という気持ちは、橋本首相もよく知っていたわけですから、この江田議員の記事ってのはどうも、話をすり替えているようでいただけませんね。

この大田知事には、自民党は一番手を焼いたのではないでしょうかね?

ご参考までに、一言コメントをさせていただきました。
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