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世界はやがてジャパネスクの時代を迎える(非公式)

1995年へのオマージュ 2015年に起きる5つの変化とは

2015-01-17 | 想うこと・言葉・祈り

おはようございます、皆様!3連休の中日、いかがお過ごしですか?原田武夫です。

さて。
「今年=2015年に一体何が起きるとIISIAは考えているの?」
そう思われているかもしれませんね(^^)/

というわけで・・・
最新の和文コラムを公式ブログにアップロード致しました。

題して:
「1995年へのオマージュ 2015年に起きる5つの変化とは」
です!
どうぞご覧ください。

そして・・・
皆さんの目からみて「この人に読んでもらいたい!」という方に、是非シェアしてください。

どうぞ宜しくお願い致します!

http://blog.goo.ne.jp/sh…/e/702de75e164753a5e839cfed05a4e833

 

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2015-01-11 06:30:11 | 原田武夫「未来を語る」(経済)

(Photo by le vent le cri)

 

日本語では「時間」という言葉で片づけてしまうが、古代ギリシア人たちはこれを2つに分けていた。「クロノス」「カイロス」だ。

「クロノス」とは過去から現在、そして未来へと至る時の連なりを指す。これは主に物理的な動きを見ることによって感じ取ることが出来るものだ。例えば砂時計を思い出してもらうと良い。砂が落ちるのを見て、「時が経った」と感じる、それが「クロノス」である。

これに対して「カイロス」とは”今”を感じるという意味である。人は何かに熱中し、充実していると感じている時、ふと我に返り”今”をも感じる。このように切り取られた瞬間という意味でのポジティヴな「今」として感じられるもの、それが「カイロス」なのだ。

早いもので私自身、外務省を自主退職し、現在へと至る道へと踏み出してから今年(2015年)で10年の月日が経つ。10年というそれなりの長さなのであるが、どういうわけか自分では全くそうは感じない。たまに外務省の「同期会」があり、顔を出すとかつての同僚たちの頭に白髪が増えていたりする。そうした様子を見ると「あぁ、月日が経ったのだな」と先ほどの言葉でいうならばクロノスを感じるというわけなのだ。

しかし私自身だけでは全くクロノスを感じて来なかったし、今も感じていないというのが実態だ。故あって「パックス・ジャポニカ(日本の平和=Pax Japonica)」へと至る世界史の胎動を感じ、それに至る道のりを精緻に描き続けること。そして単にこれを観照するだけではなく、自らもその渦の中に身を投じ、その実現のために東西奔走すること。そんなことをし始めてからこの10年、感じるものといえば”今”の連続であり、「カイノス」だったというのが本当のところなのだ。そしてそのことはこのコラムを書いている瞬間にも全く変わりはない。

 

 

そうした中、我が息子からこんなことを先日言われたのだ。

「お父さん、アサハラショウコウって誰?オウムって何??」

聴くと中学校で、当時のオウム真理教によるPRソングを面白おかしく歌っている同級生がいて、皆で大笑いしているのだという。その話を聞いて、久々に「クロノス」を感じた次第である。若い彼らにとってあの忌まわしい「地下鉄サリン事件」が発生した1995年とは未体験の年であり、また教科書に書かれてはいないという意味でまだ歴史にもなっていない時代だからだ。

「あの時代にはね・・・」

そう息子に語り始めた私にはふと思うところがあった。なぜならばそもそも我が国はよくよく考えてみるならばあの時代=1990年代半ばと比べて何が変わっているのかというと、全く変わっていないことに気付くからだ。

1995年というと、平成バブルが崩れ、「平成バブル不況」が始まったばかりの頃である。人によっては平成バブル不況の始まりは1990年ではなく、1993年頃だとする向きもいるので、その意味では当時、「未だ何とかなるのではないか」という甘い期待が我が国社会に満ち溢れていた時代であったとも言える。街にはやや冷えはじめたとはいえ、バブルの余韻が残っていた。米欧流の「破壊ビジネス」によって徹底的に壊される前の我が国特有の”構造”、あるいは社会秩序がそこには厳然としてあった。

 

私がここで何も回顧談義をしたいわけではない。よくよく考えると、あの時代=1990年代半ばに私たち日本人を突然覆った出来事を今、丹念に思い起こしてみるならば、結局今、世界中で起きていることはその拡大コピーに過ぎないのではないかと気づくということを言いたいのである。例えばこんな感じに、だ。

●今、米欧そして中東ではイスラム系武装集団「イスラム国(Islamic State)」に身を投じる若者たちが後を断たない。金融資本主義の幻想が消え始め、所得格差がくっきりとし始める中、米欧社会の中で明らかにつまはじきにされ、疎外感を感じ始めているのは民族的・宗教的なマイノリティ集団に属する若者たちだ。特にキリスト教文明からすれば「異質」の烙印を押されやすいイスラム教徒の若者たちはつまはじきにされていると感じ、同時に自らが属する国家・社会に対する不信感を募らせている。そしてふとした拍子に声をかけられ、未だ創られつつある国=「イスラム国」を目指すのである。

「狂信的だ」「狂っている」

そう思うことなかれ。1995年当時の我が国を思い出してほしい。その後「地下鉄サリン事件」を筆頭とする殺戮を繰り返していたことが明らかになる宗教集団「オウム真理教」には、我が国有数の高等教育機関の卒業生や在学生たちが続々と参加していたのである。当時のVTRを見、その無邪気な表情を見ている限りにおいては現在「イスラム国」へと走る海の向こうの青年たちと何ら変わりはないのである。また「イスラム国」へと参加する最大の要因の一つが「美しい妻を複数娶ることが出来るから」だとも聴く。これもそれだけ聴くとバカバカしいが、当時の「オウム真理教」には広告塔として多くの美女が配置されていたのである。それと全く変わりはないというわけなのだ。

 

 

●1995年1月といえば阪神・淡路大震災が発生したタイミングである。「まさかこの地域で」という場所で大地震が発生したことにより、多くの人々が尊い命を失い、家族を、そして財産・地位を失った。20年が経ったとはいえ、ある意味、東日本大震災(2011年)とは別の種類・次元の心的外傷があの頃、当事者であった方々、そしてそれを包み込む私たち日本人全員の胸の中に残っている。東日本大震災は当時の余りにも頼りない民主党政権の下で起きたこととはいえ、それでもなお、私たち日本人は「阪神・淡路大震災」の時に何をしたのか、また何をすべきではなかったのかを冷静に考えた上で対処出来たことも事実なのである。

 

 

こうした天変地異、あるいは激甚災害をここに来てこれほどまでに繰り返し体験しているのは我が国だけである。その一方で現在、大地震というレヴェルを超える出来事が起きつつあることが誰の目にも明らかになっている。それは「太陽活動の異変」であり、それがもたらす地球上への巨大なインパクトである。

これまでこうした太陽活動の異変による地球上へのインパクト(簡単にいうと「太陽嵐(sun storm)」)についてまともなメディアが報じることは稀であった。だが、ここに来て米欧のメジャーなメディアを筆頭に次々に異変を大大的に報じるようになっている。要するに「その時(the moment of the truth, the X-Day)」が到来するというわけなのであるが、何がそれによって引き起こされるのかは分からない上に、いざそうなった時に世界中の人々は果たしてどのような反応を示すのだろうかということなのである。

 

(出典:NASA)

 

今回起きることは正にロシアン・ルーレット、すなわち一体どの地域で何が起きるのか分からないと言う点に特徴がある。したがって激甚災害がこのことによって生じるならばそれは多くの人々にとって突然であろうし、正に寝耳に水ということになってくるはずだ。要するに心の準備すらない上に、しかも世界中の多くの国々では我が国とは違い、2度も「人間が抗することが絶対にできない」激甚災害(阪神・淡路、そして東日本という2つの大震災)を正に「国難」として被った経験がないのである。物理的には言うまでもなく、精神的にも大変な動揺が走るはずだ。

無論、我が国も無傷ではいられないであろう。しかしそれでもなお、私たちには「1995.1.17」と「2011.3.11」の記憶が明確にあるのである。あの時、何が生じたのかを是非想い起してもらいたい。それだけで、私たち日本人の間における動揺は比較の上で、他の国々の人々とは比べものがないくらい静かなものになるはずなのだ。

 

「バブル崩壊後の壮大な喪失感の中における”オウム真理教熱”の様な過激な宗教への集団帰依」、そして「阪神・淡路大震災に始まる不可抗力としての激甚災害における人心の動揺」。―――この2つが今年(2015年)、そしてその向こう側において(おそらくは2018~2020年までの間)、地球社会全体を覆うことになる。私たち日本人にとっては正にあの時(1995年)、ヒトとして毅然と、そして敢然と立ち向かった同胞たちへのオマージュ(畏敬の念を込めての追憶)をもってして対処できることであっても、それ以外の国の人々・民族集団にとっては全くもって不可能な出来事なのだ。そしてこの2つの基本的なトレンドからは、次の5つのことが今年(2015年)より始まるフェーズの中でくっきりと見えて来るはずだ。

人智を超える世界に対して人為をもって抵抗することがいかに無力・無意味であるのかということが明確になる。人智を超える世界、すなわち自然(じねん)は「人の力によっていかようにも変えられる」ということを根本の原理として構築されてきたのが米欧の文明である(western civilization)。極端なインフレ誘導を内実とする金融資本主義も、結果として流動性の罠を引き起こすだけであり、物事の根本を変えるには至っていないのである。自然(じねん)に対してあさはかにも作用するのではなく、むしろ全く別のやり方が必要である。曰く「押してダメなら引いてみな」なのである。つまりは自然(じねん)への完全なる適応こそ、本来望ましい道のりであることに気付かなくてはならない。

その意味で「気付き」を得る者と、そうではない者との間でくっきりと区別されていく。なぜならば前者の意味での者(=覚醒したという意味での「ヒト」)と、そうではない者(=ヒトとヒトの間で漂っている者という意味における「人間」)はまったくもって身心の状況という観点で異なって来るからである簡単にいえば前者は自然(じねん)と合致した人生を送っているが故にストレスを感じることが無い。なぜならば自然(じねん)と合一になるが故に「クロノス」ではなく充実した時という意味での「カイロス」しか感じなくなるからである。最近、米欧のビジネス・リーダーたちが盛んに早起きを進めているが、それを取り上げている我が国メディアの記事は本質をとらえていないようである。「ヒト」と「人間」との分岐点が到来している

●政治も経済も、結局は以上の2つの延長線上で変化が生じるに過ぎないのである。政治について言うならば民主主義を形式的に採用している限り、ますます自然(じねん)とは軌道が外れていく「人間」がたいがい多数であり、彼・彼女らは常に身心の不調を訴え、しかもそれが自らの気付きの無さにあることを知らないので「他責」つまり他人=政府に責任を求め、「何かをくれ」と訴えてやまないのである。その挙句生じているのが政府における公的債務残高がもはや危機的なレヴェルにまで積み上がっていることなのだが、民主主義を採用している限り、そのトレンドに変化が生じるはずもないのである。最近流行りのピケティの議論にあるような小難しい話ではなく「ただそれだけのこと」が所得格差を広げ、ついには政府財政を崩壊させていくのである。そのことがいよいよクライマックスを迎え始めるのが今年(2015年)である。ギリシアがその先例となる。

●経済について言うならば、結局、何らの価値も生み出さず、むしろ手渡しの人間の仕事を奪っただけではないかという疑惑がもたれているITでの「起業」がアントレプレナーシップなどともてはやされている状況に徐々に疑念が持たれることになる。他方で、人智を超える世界に対して「作用」すれば何とかなるなどという米欧の文明に則ったやり方も行き詰まっている。今年(2015年)から始まる世界的なトレンドの中で浮かび上がって来るのは、ITでも「自然(じねん)への一方的な作用」でもなく、あくまでもヒトを本位とし、かつ自然(じねん)への適応、それとの共生を基本とする新たな産業分野の創出である最近、ドイツが要するにクラウドへ全部乗せてしまえという乱暴な議論としての「インダストリー4.0」などという議論を喧伝しているようだが、これは新しいように見えて、結局はかつて来た道の繰り返しでしかない。だが、海の向こうの彼らはその延長線上に人智を超える存在としての「自然(じねん)」に対抗する存在として今度は「人工知能(Artificial Intelligence, AI)」研究に熱をあげており、「2045年には感情を持つAIが出来上がり、生身の人間を超える」などと言い出している。作用に対しては時に激烈な反作用を及ぼすのが自然(じねん)の鉄則である。いよいよ米欧の文明は完全なる破滅への道に入り始めたと言わざるを得ない。だが面白いことにそれとは真逆の道のりがあることも、今年(2015年)から示され始めるはずだ。

文化というか社会という側面では「ヒトとしての在り方」に今年(2015年)よりフォーカスされていくことになる。人為的に階段をつくり、その中で争い、他人を蹴飛ばし、富と地位を独占する。それがこれまでのやり方であり、とりわけ我が国が明治維新以来、文明開化の名の下、米欧より学んだ手法でもあった。だが、究極において私たちは生存欲求によって成り立っている者なのである。経済において金融資本主義が破綻へと向かい、それに伴い政治もデフォルトで政府が崩壊するという事態に。さらには人智を超える世界から否応なしに激甚災害を繰り返し蒙らされるということになれば、マズロ―の定式に基づき、私たちは再び「生存欲求」に立ち返るはずなのである。「今日も生きながらえてよかったね」と真に足るを知る生活へと回帰する、そういうトレンドが今後は世界中の至るところで浮かび上がって来るはずだ。その結果、これまでは「価値があるところ」とされてきた場所は全く無意味であることが分かる一方、これまでは完全に「無価値とされてきたところ」こそ意味があることに気付かされるというわけなのである。そしてその時、私たちはこれらの場所が実は古代においてこそ、重要な箇所であったことに気付くわけであり、己の愚かさと進歩史観という「クロノス」の虚構、さらには「カイロス」こそが真実であることに気付くというわけなのである

 

私たち日本人は明らかに「異なるルール」で暮らしている。それは構造改革であれ、外資系コンサルによるフレームワーク強制であれ、あるいは「IFRS」であれ、絶対に変わらないものなのである。そしてそれが故にこれまで途方無く貶められ、辱められてきた。

だが、これからは違う。今年(2015年)からは違うのである。世界中がますます私たちの国・日本に振り向き、私たち日本人に尋ねるのである。「あなたは・・・ヒトですか?」と。

その意味で今、私たち日本人がやるべきことは、全ての起点となったあの時=1995年を思い起こすことである。そしてそれを果敢にも生き抜いた人々に対してのオマージュを込めて、強く想うべきなのである。

「私たち日本人は、何をなすべきなのか」と。

 

2015年1月11日 東京・国立にて

原田 武夫記す

 

1995年へのオマージュ 2015年に起きる5つの変化とは (連載「パックス・ジャポニカへの道」)

http://blog.goo.ne.jp/shiome/e/702de75e164753a5e839cfed05a4e833


 

ヒトと人間を峻別するプロセスが始まる

http://blog.goo.ne.jp/nobody-loves-you/e/8b5abe947d0efe262eaafe533eb018a4

 

全世界的に株安と債券高が続く展開

http://blog.goo.ne.jp/nobody-loves-you/e/ea06929c4f1b7f320ccabaef369aa9ed

 

気になる内容は… 「2015年の世界と日本 ~何が焦点なのか?~」

http://blog.goo.ne.jp/nobody-loves-you/e/6eb2680e485dd55b90c8684c3d1ca6bc

 

2015年からは自責の者のみが生き残ることになる

http://blog.goo.ne.jp/nobody-loves-you/e/448a8a0fdb1ba864b6fb2412a282fa58

 

私たち日本人は何を失って来たのか? 何を取り戻すべきなのか??

http://blog.goo.ne.jp/nobody-loves-you/e/1544d18280426ff6a578701ad260a851

 

圧勝・安倍晋三政権を待ち構える「ギリシア化」という罠 (※拡散、お願い致します!!)

http://blog.goo.ne.jp/nobody-loves-you/e/43dcaa7224d34d4838969c4beeac47db

 

なぜ今、太陽そして天変地異に注目すべきなのか? (※拡散宜しくお願い致します)

http://blog.goo.ne.jp/nobody-loves-you/e/0bcfef8202dd9775ac330d8b4672e85a

 

結局は、お釈迦様=インターネットの上でくるくると回っている孫悟空に過ぎない。。。

http://blog.goo.ne.jp/nobody-loves-you/e/ff644c9ac6f001ff93567dbd7b40bead



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