靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

プロローグ、命が宿る

2013-05-11 23:59:23 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
「ユア」

 年明けのお祝いムードから街が日常のリズムを取り戻す一月の終わり、それまで三年間取り組んだネイティブ・アラスカンの仮面についての修士論文を大学オフィスに提出し、その足で産婦人科へと向かいました。下腹部に鈍い痛みが続き、わずかな不整出血、その上めまいも感じていたためです。論文の追い込みで随分と寝不足が続いていたから身体に負担をかけてしまったのだろう、無理をすると以前もこんな症状が出たことがあったし、一度しっかり検査をしてみよう、そう思っていました。

「おめでとうございます。六週目ですよ」

 口ひげを生やしどこかのカフェのマスターにも見える産婦人科医の明るい声を、不思議な気持ちで聞きました。目の前のスクリーンには小さな影が映っています。こんなに小さくても頭、胴体、手、足、人の形をしているなんて。私の内に、私ではないもう一つの命が育っている・・・。

 ふと、「ユア」を思い出しました。アラスカ南西部に暮らす「ユピック」の人々は、かつて森羅万象あらゆるものに、「ユア」という「精霊 (spirit)」が宿ると信じていました。三年の間、寝ても冷めても向かい続けたユピックの仮面には、「ユア」が表されたものがあります。目に見える形を超え、どんな姿にもなるとされた「ユア」。仮面に刻まれた「ユア」は、動物や人の身体の中に、人の形として刻まれています。下腹部とエコーの画面とを交互に見比べながら、まるで産婦人科のドアを叩く前日まで毎日向き合っていた「ユア」のイメージが、現実となったような気持ちでした。

病院を出ると、辺りはオレンジ色に染まっていました。こうして夕焼けを眺めていたって、もう一人じゃないんだな、初めての感覚にとまどいながらも、胸の奥底から温かい気持ちがこみ上げてきます。新しい命。赤ちゃんを抱く自分。それまでの生活で、描いたことも無い自分の姿であるはずなのに、なぜだか少し懐かしいような気持ちになります。

一年もすれば赤ちゃんは歩き始め、五年もすれば学校へ行くようになり、子供から大人へと移り変わる中で旅をし、そして愛する人にめぐり合い、再び命が宿り。線路沿いの道を一人歩きながら、はるか先の風景と、それまで自分が歩んできた道を重ね合わせていました。

この新しい命がまた新しい命を宿す頃には、私も老い、そしていつか私もこの世からいなくなる。それでも命というのは、こうして一人一人の身体を超え、「ユア」のように永遠に続いていくのかもしれない。西の空に傾く太陽を見ながら、そんなことを思っていました。


ネイティブ・アラスカン「父」の言葉

 夫とは、当時アラスカと日本とを行き来する別居暮らしを続けていて、論文が無事通り卒業したら、夫の暮らすアラスカへ移住しようと予定していました。それでも、まさかもう一人の家族というプレゼントがついてくるとは思いもしませんでした。
 
桜の木の下で卒業を祝い、梅雨雲が空を覆い、その雲の合間から青空が見え始める頃、合衆国政府からビザが下り、妊娠七ヶ月でアラスカに渡りました。ひっそりとしたアンカレッジ空港に、一人降り立つ私を、妊娠が分かって以来始めて会う夫が迎えてくれました。大きなお腹を前に、とまどいと決意が入り混じった少年のような表情を覚えています。

 こうして日本から遠く離れた異国の地で、小さなワンベッドルームにほとんど家具も無く、フライパン一つで何もかも調理するといった、まるでままごとのような暮らしが始まりました。窓の外のチュガッチ山脈が、私達夫婦と、もうすぐ生まれる赤ちゃんを、暖かく見守ってくれているように頼もしく見えたものです。

 臨月に入り、ある日重いお腹を抱え、ダウンタウンを夫と歩いていたときのことです。ネイティブ・アラスカンの「父」に偶然出会いました。「父」というのは、私が村々を旅していたときお世話になった家の父なのですが、私はその家で彼らの亡くなった親族の名前をもらい、彼らの「家族」として迎え入れられたのです。

 ユピックの人々の間には、亡くなった親族の名前を、生きている人々に再び授けるという慣習があります。あの家の三男のアザラシの食べ方は、三年前に亡くなった叔父のジェフにそっくりだ、あそこの家の次女は、十年前に他界した祖母のメアリーが編んだバスケットを小さな頃から大切にしている、そんな様子から、「ジェフ」や「メアリー」という名前を、生まれた時から持っている名前に加えていくのです。ユピックの人々は、私はジェームスであり、ジェフでもあり、クリスでもある、そんなようにいくつもの名前を持っています。 

 村を訪ね、ユピックの人々と暮らした夏、私の歩き方やお茶ばかり飲んでいる様子から、私の内には彼らの親族が二人宿っていると、告げられました。そしてシャーマンの家系に育ったというその「父」に儀礼をしていただき、二つの名前を授かり、私は彼らの家族の一人となったのでした。

 飛行機に乗って一時間ほどのところにある村にいるはずのその「父」が、突然前方からこちらに向かって歩いてきます。驚いて駆け寄る私に、「ネイティブの集会に参加しに来たんだよ」と、「父」はいつもの穏やかな表情で言いました。そして妊娠したことをその時初めて告げた「親不孝な娘」を、その大きな手で抱きしめると、私の下腹部を指し示し、こう言いました。

「This person needs you, you need this person.
This person needs this world, this world needs this person.
That is the reason why this life is here.

この子にはあなたが必要 あなたにはこの子が必要
この子にはこの世界が必要 この世界はこの子を必要としている
だからこうして命が宿ったんだよ」


私の目をまっすぐ見つめる「父」の目は、私を突き抜けはるか遠くを見ているようでした。この「父」の言葉が、その後の私の子育て生活で、どれほど支えになってきたか分かりません。五人の子供を追い掛け回し一日を終えぐったり疲れてしまっても、ふとこの言葉を思い出す度に、また明日から頑張ろうと思えたものです。

地球上に何十億といる人々、ほとんどが一生会うということがありません。その中でこうして縁あり、親と子という関係で共にいる。親と子互いに必要だったからこそ、こうして生まれて来るのだと「父」 は言います。そしてこの子が今のこの世界に生まれることが必要だったように、この世界もこの子の存在を必要としている、この世界に必要とされない命など一つもない。「父」のメッセージは、私の心の奥深いところで、強く響き続けています。
 

シャチに「ユア」の仮面      


カモメに「ユア」の仮面


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2 コメント

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Unknown (ヨーキ)
2013-05-13 03:46:38
義父の言葉は本当に素晴らしいですね。すべての人の心の支えになる真実だと思います。
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ヨーキさんへ、コメントありがとうございます! (マチカ)
2013-05-20 00:49:18
「父」に出会えたことに感謝してます。これを書いた後、ちょうど先週、「父」が入院したという知らせを受けたのですが、記憶を取り戻したようで、皆ほっとしています。

アンカレッジの病院に検査に来る予定があるということなので、そのとき会えるのを今から楽しみにしています。

ありがとうございます!
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