西浦の時間≪Nishiura no Time≫

思いつくこと全てやってしまいたい。
しかし、それには時間が足りなさ過ぎる。
時間を自分のものにせねば。

舞城王太郎「我が家のトトロ」。

2009-02-28 | マンガ・ドクショ(インドアな面白さ)
舞城王太郎の小説は好きだ。
なんとも言えない疾走感だとか、
愛情に溢れた、柔らかい文体だとか、
洗練された構成力だとか、
「高速ポップソング」みたいな感じがする。
そんな作家の短編で、
「我が家のトトロ」とゆうのが、スゴく良かった。

この「スゴく良かった」とゆうのが大事で、
西浦はなかなか「スゴく良かった」とは言わないんですね。
たいてい「良かった」「面白かった」です。
けど、ここはあえて「スゴく良かった」。

広告業界で活躍していた「上口慎平」は、
トイレの個室でパンツも脱がずに大便をした瞬間、
脳外科医になりたいと思い立ち、
会社を辞めて、受験勉強を始める。
彼を支えるのは、妻である「りえ」と娘の「千秋」、
そして、「太陽色」の毛をもつネコ「レスカ」。

(※レスカは「レモン・スカッシュ」の略らしい)
「慎平」の転身とだいたい時を同じくして、
同じ広告代理店に勤めていた「濱田淳」は、
《面白い小説》を書きたくて会社を辞めた。
ふたりが無性に欲しがってるものを、
《トトロ》という存在を通して描く。

こんな感じですかね、たぶん。
今さっき読んだばっかりなので、
ぼんやりした感じで書いてます、ご容赦を。

全体を通じてみると、
《面白い小説》についての議論、
何かをする《ふりをする》ということ、
《トトロ》とは何か、
人が《トトロ》に求めること
など、
学者さんだったら何冊もかけて書くような内容が、
たった54ページの中に収めてあって、
非常に密度の高い、「お得な」短編となってる。
けどそれでいて、全くつまづかない文章が素晴らしい。
歩道が全て「動く床」になったような気分。

まあ、何はともあれ、
好きな作品がまたひとつ増えた。
良いことだ。

中と外の関係。

2009-02-28 | 実験(よく分からない面白さ)
「ぼく」の外には何がある?

おっきな花束と

ちっちゃな箱

それは誰かにあてられた

大切なもの

決して「ぼく」に、ではなく

「ぼく」から、でもなく

とても大切なもの

「ぼく」の中には何がある?

手に収まるくらいの小石と

コップ一杯の水

それは誰もが持ってる

実感、時間、瞬間

自分の手であたためなくちゃ

消え失せてしまうもの

「ぼく」の手、ではなく

「ぼく」以外の手、でもなく

自分の手で

花束に隠されてる

箱の中に入ってる

自分の手で

人間を計算する。

2009-02-27 | 日常(ふつうの面白さ)
人間計算WEBなるものを見つけた。
ただ誕生日を入力するだけで、
その人の性格が分かるという特殊な機能付きの電卓。

試しに西浦の誕生日(0514)を入力して、
“=”してみると、

『チョッカンガスルドイ。』
『イツモハ モノシズカダガ』
『タマニ ダイタンニナル』

とゆうことだそうです。
個人的には、いつも大胆なつもりなんですが、
計算機が言うからには「タマニ」なんでしょうね、きっと。

ちなみに村上春樹(1月12日)で調べてみると、

『コツコツトヒトツノコト』
『ヲ ツイキュウシ、ヤガテ』
『オオモノニナルヒト!』

とゆうことで、
毎日ルーティン・ワークのように、
文章を書いてるとゆう春樹さんらしい結果。
案外、当たってるのかもしれない。

けど、『HUMAN RELATIONS CALCURATOR』
とゆうタイトルが付いてるように、
(つまりは「対人関係計算機」ってことだろうけど)
気になるふたりの誕生日を割り算すると、
その関係性を算出してくれるとゆう機能もあります。
(むしろこちらがメインか)

たとえば最近話題になってた、
玉置浩二と石原真理子の関係を調べてみると、

『アラユルモノゴトヘノカン』
『ガエカタガチガウ。』
『ワカリアウドリョクヲシテ』

けっこう痛烈でした。
ボクモドウカンデス。

がんばって「弦チェレ」を聞く。

2009-02-27 | 音楽(音楽的な面白さ)
バルトークは西浦の大好きな作曲家のひとりで、
特にカラヤンの指揮する「管弦楽のための協奏曲」は、
中3の頃、毎日レコードで聞いてました。
妙に静かに始まったと思ったら突然爆発したり、
人をバカにしたみたいな、
変てこな音楽だなと感じた瞬間、
本気でとち狂い出したり、
聞いてて、感情をあちこちに振り回されるのが、
強烈なまでに刺激的でしたね。

そして、そこから発展して、
「ピアノ協奏曲第2番」を聞いたり、
「ルーマニア民族舞曲」に手を染めたり、
いろいろ聞いたんですが、
ただ、どうしてもワケガワカラナイ曲がありました。

それが「弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽」
いわゆる「弦チェレ」と呼ばれるやつです。
まったく何が面白いんだか分からないんですが、
不思議な魅力があって、
思わず何度も聞いてしまうんですね。
魔法がホントに存在するとしたら、
この曲には最大級の呪文が使われてる気がします。
非常に中毒性の高い曲ですね。

けど、いつまでも、
ワカラナイワカラナイと言ってたってしょうがないので、
一度、どこに魅力があるのか、
少し考えてみたいと思います。

 ♪♪♪

使用する音源はYouTubeにありました、
ドホナーニの指揮で、
演奏は、NDR放送フィルハーモニー管弦楽団。
西浦の中で一番釈然としてない、4楽章を取り上げます。
バルトークはこの楽章を5分40秒で演奏するよう指定してますが、
それに比べると、だいぶゆるやかなテンポですね。

Bartok Music for Strings, Percussion and Celesta (IV) Dohnanyi, NDR SO



まず始まりはティンパニの二音(バンドゥーン)、
それに続いてヴァイオリンが激しく弦をかき鳴らします。
そして再びティンパニが鳴り、
それを相図にこの曲の中心テーマが出てきます。
(これは結構カッコいい)

35秒くらいまで奇妙な盛り上がり方をして、
ティンパニの音から新しい(さらに奇怪な)サウンド。

52秒からテーマに戻りますが、
さっきの名残もあって、不気味なテイストが加わってます。
ティンパニの打ち込みもだいぶ乱れてきますね。
一分もしないうちに、あっとゆう間にカオスです。

けど1分25秒からピアノがスッと入ってきて、
少しだけ(ホントに少しだけ)落ち着きます。
またすぐにぶっ壊れるんですけどね。
キャラクターがコロコロ変わって、
非常に情緒不安定、挙動不審です。

その後も同じ調子でいきます。
(1分37秒の爽やかなパッセージと、
2分40秒からの不安をあおるような追い込みとか)
ちなみに2分49秒から始まる、
ピアノのとち狂ったようなフレーズは、
(ビョンビョンビョンビョンみたいな)
個人的に、とてもお気に入りです。

3分37秒あたりから、
急に荘厳な響きで包まれます。
凍えそうなほど広々とした夜の砂漠にも思えるし、
どこかの村の、厳粛な儀式みたいでもある。
とにかく、非常に緊張感のある「新キャラ」ですね。

5分17秒くらいからチェロのソロがあります。
短いですが(約25秒)、とてもカッコいいソロです。
いい感じにおどろおどろしい。
ヘビが50匹くらい出てきそうです。

5分42秒からのゴチャゴチャした動きの向こうで、
つまり5分52秒というゴールで待ってるのは、
チェレスタとハープによる中心テーマ。
(チープな言い方ですが)天国のような、
幸せに満ち溢れた響きです。

しかし天国は長く続きません。
6分2秒、ここで、
全てが吸い込まれるように消えてしまうかと思いきや、
バチンッ!という音によって、
音楽は元のハイテンションぶりに戻ります。
(ちなみにですが、
こんな風に弦をバチンッと鳴らすことを、
「バルトーク・ピッツィカート」と言います)

そしてハイテンションのまま、
6分35秒で「泣き」を入れるように、
感極まった中心テーマが始まります。
クライマックスが近い証拠です。

しかし・・・!
(実はここが西浦の釈然としない最大のポイントなんですが)
7分くらいから、何を思ったのか、
突然、音楽のテンションは急転落して、
「なぁ~んちゃって♪」
みたいな、ある意味スゴい終わり方をします。
個人的には全然スッキリしないんですが、
曲はこれで終わりなんですよね。

 ♪♪♪

結構いろんな音楽を聞いてると自負する西浦なんですが、
ここまで変な終わり方をする曲は聞いたことがありません。
なんか「裏切られた!」って感じになるんですよね。

けど、逆にこの奇妙な終わり方を期待してるところが、
この頃、どこかにある気がする。
たぶん、あのままのテンションで「ふつうに」終わったら、
西浦はここまでこの曲に熱心に聞き入らなかったと思う。
つまり、一番釈然としてないところが、
一番の魅力になってるとゆうことなのかもしれない。

とゆうか、冷静になってみると、
この終り方以外に関しては、
西浦は、この曲に対してとても前向きでした。
つまり非常に衝撃的な謎がひとつあって、
それが強烈なスパイスとなって、
全体の印象そのものまでも決定してたんですね。
比率としては、
[良い:謎=8:2]
くらいだったわけでしょうか。
なんにせよ、曲に対する自分の考えが分かって、
とりあえず当初の目的は果たせたので、
今回はこれで満足です。

http://www.youtube.com/watch?v=jz7z_OTeILM

つみきのいえ。

2009-02-26 | 映画・映像(ビジュアルな面白さ)
加藤久仁生監督の「つみきのいえ」を見ました。
アカデミー短編アニメ映画賞を受賞したので、
現在、大いに話題になってますが、
さっそく飛びついてしまったわけですね。
わずか12分で、ひとりの老人の「生」を振り返る。
しかも、とてもシンプルな形で。
難解さとは無縁で、非常に深みのある味わい。

海面が上昇して、
家の上に「積木」を重ねながら暮らす老人。
ある日、海の中にパイプを落としてしまい、
それを取りに、既に沈んだ階下へと潜っていく。
非常にシンプルなストーリー。

たぶん、意見が分かれそうですね。
つまり「アカデミー賞に相応しい」という意見と、
「これのどこにアカデミー賞が?」という意見。
で、アカデミー賞に相応しいと思うかどうかは、
アカデミー賞をどう捉えるかによるんですよね。

たとえばウィキペディアには、
アカデミー賞は、アメリカ映画の健全な発展を目的に、
監督、俳優、スタッフを表彰し、その労と成果を讃えるための映画賞。

と定義付けてあります。
つまりこれは、
「アメリカ人が評価したアメリカらしい映画」
とゆう意味での「アカデミー賞」ですよね。

けど、それと同時に「アカデミー賞」には、
「とてつもない栄誉」という意味から転じて、
その業界における権威を表す、代名詞的な役割があります。
(「児童文学界のアカデミー賞」みたいな感じで)

つまり「いかにもアカデミー賞」といったニュアンスで、
ちょっとマイナスなイメージの評価をする言い方と、
とりあえず、なんかスゴいと思ったものに、
「アカデミー賞」と銘打つ場合と、
ふたつの意味があるんですよね、「アカデミー賞」には。

だから、その人がどうゆう意味で、
「アカデミー賞」を捉えてるかによって、
この作品の評価は、コロリと変わってしまうでしょうね。
そうゆう意味で、アカデミー賞という権威は、
このアニメの良さを評価する基準として、
邪魔者となる可能性がきわめて高いように思えます。
つまり、
アカデミー賞を受賞した割には、物足りない
と感じてしまう人が、
少なからずいると思うんです、きっと。

けど、そうは言っても、
日本人初のアカデミー短編アニメ映画賞!」のおかげで、
このアニメは注目されたわけですから、
そうなると、大事になってくるのは、
「ただのアニメ」(賞を取ってない作品)として、
純粋に楽しもうとする心意気なんじゃないでしょうかね。

西浦個人としてはとても好きな作品なのですが、
これから周りがどう評価していくのか、
少し気になるところではありますね。

新しい記録の発見を忘れぬために。

2009-02-25 | 日常(ふつうの面白さ)
クプヲというサイトにかなり面白い文章があった。
「男女平等」を見事なまでに皮肉ってる。
これはスゴイ。
何者なんだ、これを書いた人は。


【女性の権利】

女性は働きたければ働いて、働きたくなきゃ働かない、辛くなったらやめていい。
そもそも女性に辛い仕事を押し付けないこと。かといって雑用やらせるのもダメ。
それで給与も昇進も平等にね。ただし残業、転勤、深夜当直させたら女性差別だよ。
間接差別禁止規定って知ってるでしょ。なんでも平等にね。髪形と服装は女性の自由だけど。
それからアファーマティブアクションと管理職30%目標もね。産休育休もね。当然給与40%保障で。
主婦と言っても、家事を強制される言われはないし、出産するかどうかは女が決めること。
でも産まれたら育児を女性に押し付けないでね。二人の子供なんだから当然でしょ。
ただし離婚したら親権は母親のものだよ。育児は女性のほうが向いてるんだし。

それから働く夫を妻が支えるなんて時代遅れの女性差別。
これからは働く妻を夫が支えなきゃ。
あ、もちろん収入は夫の方が多くて当然だけどね。妻には扶養請求権だってあるんだから。
それと夫は妻に優しくね。妻が望まないセックスは家庭内レイプだよ。
夫が妻のセックスの求めに応じないと離婚事由になるけどね。
離婚したら慰謝料とか財産分与とかまあ当然だけど。
女性はか弱いから母子手当ても生活保護も税金控除も当然だよね。足りないぐらい。

それと女性に女らしさを押し付けないでよ。
そんなの窮屈で面倒だし、いまさら男尊女卑ですかって感じ。
でも男はやっぱ男らしくないとね。
いつになったらレディーファースト覚えるの?ワリカンなんてありえないし。
少子化だって男のせいでしょ。男がだらしないから女性が結婚できないんだよ。
え?レディースデー?あれはいいの。
別に私たちが頼んだ訳じゃないし。店が勝手にやってるんでしょ。

http://ta2o.tumblr.com/post/72222237

松本清張「点と線」。

2009-02-25 | マンガ・ドクショ(インドアな面白さ)
西浦の人生《初》松本清張ですね。
まあ、結論から言わせてもらうなら、
素晴らしく面白いですね。
こんな小説が書き上げられたら、
さぞや気持ちが良いかと思います。

ストーリー:
料亭「小雪」の女中2人とその店の常連客、安田辰郎が、
たまたま東京駅の13番プラットフォームから、
15番プラットフォームに同じ料亭で働くお時が、
男性と夜行特急列車「あさかぜ」に乗り込むところを目撃した。
しかしその数日後、そのふたりは、
福岡市にある香椎(かしい)の海岸で、
情死死体として発見される。

(※情死・・・両思いの男女が一緒に死ぬこと。心中。)
当時としては情死はあまり珍しくなかったようで、
事件はそのまま片付けられそうだったんですが、
地元の刑事がそこに何か違和感を感じて、
ひとり、捜査を始めるわけです。
そうして、情死と思われたのが、
綿密な計算のもとに行われた、
殺人事件へと見る見るうちに姿を変えていく。

まあ、いわゆる「アリバイ崩し」型の推理小説ですね。
2007年にビートたけし主演でドラマ化されたので、
ご存知の方もおられるかと思います。
とにかく有名なのは、
「空白の4分間」とゆう、例のフレーズです。

東京駅ってのは、西浦は行ったことがないのですが、
おそらく始終電車が出入りしてるんでしょう、
だから、13番のプラットフォームから、
向こう側の15番プラットフォームを見たくても、
列車が邪魔で見えないんですよね、きっと。

ところが、不思議なことに目撃者は、
奇跡的なほど偶然に、
列車がない、空白の時間に遭遇したわけです。
(しかも1日に、たったの4分間しかない!)
こうゆうわけで、
電車のダイヤを利用した巧妙なトリックとして、
この小説は、名高いわけです。

けど、たとえどれほどトリックが巧妙であろうと、
それを描く腕前が鈍ければ、
こんなスゴい作品は書けないでしょう。
シャリとネタを温めないうちに、
職人が寿司を握ってしまうのと同じことですね。
相当なテクニックがないと、
こんなものは、まず生まれようがない。
う~ん、と唸らざるをえませんね。

そんな松本清張は、
1909年生まれで、1992年にお亡くなりになられました。
もしご存命ならば、今年で100歳ですね。
そういえば、書店で、
“松本清張 生誕100周年記念!”というのが、
あった気がする。
まあ、いい時期にいい作品を読んだもんですね。

あ、もしかすると、これも松本清張の仕掛けた、
人生の時刻表を使ったトリックなのかもしれませんね。
なんとも粋な計らいですよ、ホント。

ベンジャミン・バトンについて思うところ――印象文。

2009-02-25 | 映画・映像(ビジュアルな面白さ)
以前お伝えしていたように、
ベンジャミン・バトンに関して思うところ―散乱文。
映画「ベンジャミン・バトン」を見てきました。
久々に、映画館で映画、です。
まあ、他にすることもないわけですが、映画館では。

まずなんと言っても常識的に考えて、
上映時間が長かったですね。
3時間近くある映画でした。
ただ、むしろその3時間は、
ひとりの男の人生としては短過ぎるわけで、
そこに圧縮された、濃密な時間は凄まじいものです。
お昼に見に行ったのですが、
上映が終わって映画館を出たら、
外はもう暗くなってるんじゃないかと思いました。
(実際は、まだ16時ごろでしたが)

つまり時間感覚が麻痺するくらいの濃度ってことですね。
映画とゆう「現象」を体験する醍醐味として、
「時間を楽しむ」ということが言えると思うんですが、
そうゆう意味では「最高度の時間」が楽しめたと思います。
(だから冗長でつまらなかったという意味では決してありません)

見ててひとつ感じたのは、
(ピンポイントで指摘は出来ないのですが)
途中で、ちょっと雰囲気が変わったなと感じたこと。
西浦が考えるにおそらく、
その辺りから大きく脚本家の手が入ったんではないでしょうか。
というのも、この原作者(フィッツジェラルド)が、
第二次大戦中の1944年に死んだことを考えると、
1962年のことや2003年のことを描くことは、
(具体的には)不可能ではないかと思うからです。

そして、映画の中のそういった変化と時を同じくして、
ブラッド・ピットのカッコ良さがやたらと強調されてくる。
まるでジーパンのPRのようなんですが、
まあ、これは実際カッコ良いから許されていいと思います。
それにこうゆう部分があると、
たいては少し「中だるみ」するもんなんですが、
そうゆう印象もあまり受けなかった。
やはり、目に見えない不思議な魅力が、
あるんでしょうね、この映画には。

しかし逆に、目に見える面白さも、いっぱいでした。
たとえば、カミナリに7回打たれた男とゆうのがいまして、
ことある毎に、主人公にその話をするんですね。
で、その時の映像(カミナリに打たれる様子)が、
かなりよく出来ていて、
あれだけでも十分に楽しめるほど、
素晴らしく面白い映像でした(皮肉ではなく)。

こうやって書いてて思ったんですが、
次から次へと書きたいことが出てくるんですね。
まるで旅行から帰ってきて土産話でもするかのように、
とめどなく話題が溢れてくる。
こうゆう映画はなかなかありません。

というのも、たいていの映画を見ると、
「泣ける!」とか「めっちゃ感動した!」とか、
(自己中心的な)感情に訴える感想文を書きたくなるもんですが、
この映画は、そうではなくて、
「内容そのもの」に言及したくなるような魅力があります。
だからこそ、観光客のように、
見て聞いてきたことをそのまま語りたくなる。

しかし、そんなことをして、
3時間分も書いてたのでは話になりませんから、
今日はここまでということにしましょう。

夕焼の国。

2009-02-24 | 寓話(フィクションな面白さ)
この国に夜はない。
朝はない。
当然ながら昼も、ない。
際立って小高い丘があるので、
そこから街並みを一望すると、
四角い建物の角に当たる夕陽の輝きが、
やけに美しい。
その表面のオレンジと、
境界線をくっきり分けた黒が、
この国を象徴する色彩なのだ。

太陽が、街を軸にして、
赤い顔を半分覗かせたまま、
水平線に沿って動き続けている。
つまり、太陽が南の空から、
街を見下ろすことは、ないのだ。
少なくともこの国では。
ただ夕方が絶え間なく続く。

街の中を歩いてみると、
裏には細い路地が複雑に巡らされているが、
大きな通りに満ちている活気は、
気持ちの良いものだった。
しかし、その気持ち良さは、
人の熱気のような、ゴミゴミしたものではなく、
(実際、人通りはあまり多くなかった)
もっと清く、澄んだものだった。
あるいは、それは夕日によって演出された、
神聖な雰囲気のためだったのかもしれない。
とにかく、その活気は静かに、
人々の気持ちをほぐしているように思われた。

風が少し肌寒い。
夜は来なくても、冬は来るのだ。
赤くにじむ壁にチラリと目をやる。
その陰から少年がそっとこちらを見ていた。
しばらくためらいがちな表情を見せていたが、
思い切ったようにこちらへやって来た。

「おじさん、どこから来たの」
「君はどこから来たんだい」
「ぼく、今度はだれが死ぬかわかるんだ」
「誰が死ぬんだい」
「夕日が、強く光るんだ」
「わかるのかい」
「光るんだ」

少年に手を引かれるままに、
着いた先は大きな家と家に挟まれた、
空き地に建てられた小さな小屋だった。
「この小屋の持ち主が死ぬのかい」
「ここ、ぼくの家」
少年はそう言って、
小屋の付近の路地へと入っていった。
路地の線を縫うようにして進んでいく。
ふと見上げると、洗濯物が干してあった。
白いシャツが、赤い光線を吸収している。

「あの家のおばさんが死ぬんだ」
「あの洗濯物の持ち主かい」
「夕日が、強く光るんだ」
「いったい、いつ死ぬんだい」
「光るんだ」

その日は近くのホテルに泊まった。
この街で唯一の、という謳い文句があった。
窓から巨大な、丸い火の塊が見えた。
常に平行移動を続けるその赤いボールは、
いつの間にか窓の枠からはみ出していた。
今日会った少年の言葉について考えながら、
食事を取った。
ホテルには、夕食しかなかった。
まだ明るいうちに、ベッドに入った。

起きると、カーテンが赤々としていた。
一瞬、寝過ごしたかと思って飛び起きるが、
腕時計を見て、すぐ落ち着いた。
カーテンを引き、窓を開ける。
部屋から何かを開放するような感じがする。
体を伸ばし、大口を開けると、
さらに何かが開放される気がした。

窓から通りを覗くと、昨日とは打って変わって、
人々が列を作っているのが見えた。
色とりどりの衣装の連なりから、
紙ふぶきが舞っている。
階下で今日は何かの祭なのかいと尋ねると、
市長が死んだのだということだった。
「ところで、市長は女だったのかい」
「女と言うには、少々肉がたるみ過ぎていたがね」
この国では人が死ぬことは喜ばしいことらしい。
すれ違う人みな、笑顔で市長について話し合っていた。
(良いことも悪いことも含めて)

通りに出て、カラフルな行列の中から、
昨日の少年の姿を探そうとしたけれど、
結局、見つけることはできなかった。
少年の家へ向かったが、
空き地は、ただ空き地だった。
向こうで真っ赤な太陽が、
厳粛な面持ちで横滑りしていった。
しばらく考えてから、
荷物を取りに、部屋へと戻ることにした。

Knockin' on heaven's doorのこと。

2009-02-23 | 映画・映像(ビジュアルな面白さ)
映画「ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア」を見る。
1997年に公開されたから、
もう、12年も前の映画なのか。

かなりエンターテイメント的な要素が強いのに、
全体としては、すごく心に響く映画で、
さすがヨーロッパ人は、アメリカ人と違って、
だてに文化を背負ってないなぁと改めて実感。

ただ、逆に「ドイツ映画」とゆう理由だけで、
ちょっと敬遠されてる感がある。
たぶん西浦もヨーロッパに興味がなかったら、
見ようとは思わなかったんじゃなかろうか。
それはたとえば、
「レスリング無料体験!」
とゆうチラシがあったとしても、
目を止めないのと同じだと思う。
(レスリング好きの方、すいません)

まあ、そうゆう意味で、
損してる人が多いような気がした。
つまり、もし全ての映画を「見た方がいい映画」と、
見ちゃダメな映画」に区別するなら、
この映画は間違いなく見た方がいいと思う。
後味の良い、素敵な映画だった。

ストーリーとしてはとてもシンプル。
余命わずかな男が2人が病室で出会った。
マーチンは「脳にテニスボールみたいな腫瘍」を抱えてて、
あと3ヶ月くらいしか持たない。
ルディは骨髄腫の末期。こちらも近いうちに死ぬ。
病院で、ふたりして酒盛りしている時、
ルディが「海を見たことがない」と言う。
マーチンが言うには、
天国でいま流行ってるのは、海について話すこと
で、海を見てなかったら、
死んだあと、仲間ハズレになるぞと脅されるルディ。
酔っていたこともあって車を盗んだふたりは、
まだ見ぬ海に向かうことになる。

結構辛気臭い内容に思うかもしれないけど、
それを裏切るかのように、
見ていて非常に楽しいところに、
個人的には、この映画の評価点を見出したい。
たとえば途中、警察に追われたりギャングに追われたり、
その度にドンパチしたり・・・。

そうした出来事がだんだんと積もっていって、
大いに予想できるはずのラストを、
そこに詰め込まれた「意味」の大きさのおかげで、
思わずグッとくるものにしている。
つまり、見てる人を楽しませる要素がそのまま、
作品の質を高める要因になっているのではないか。

そうゆう意味で、
非常に知的で、構成がしっかりしてて、
いかにも「ドイツ人」とゆう感じの映画だ。
けど、そこをアメリカ的なテイストで包んでるので、
見ていて違和感を感じることはないと思う。
やっぱり外国人には、
おれたちの味は「生」のままでは無理だろうなぁ
とゆう、
ヨーロッパ側の配慮なんだろうか。
まあ、ドイツ人がぬるいビールを飲むことを考えると、
実はそれで正解だったかもしれないなぁ。

初音ミクで現代音楽。

2009-02-22 | 音楽(音楽的な面白さ)
初音ミクとゆうと、
とりあえず歌を歌ってくれるポップアイドル的な、
そうゆうイメージがありますが、
実は、現代音楽のプレイヤー(演奏者)でもありました。


【初音ミク】「新宿駅 -オギュスト・ミュステルのために-」
http://www.youtube.com/watch?v=rvU7nBdo7wE


いやぁ、カッコイイなぁ~。
なんでも、新宿駅の時刻表を音楽にしたそうで、
13本ある電車がそれぞれ発車する度に、
その電車の種類に応じて、
音が鳴るようにしてあるのだとか。
(しかもムーンライトえちごは1オクターブ上、
通勤快速は2オクターブ上というように、
速い電車ほど高い音を出してるのだとか)

けど、何はともあれ、
こんなちゃんとした形になるってのがスゴい。
まさか時刻表に音楽が隠れてるとは・・・。

ちなみにタイトルにある「オギュスト・ミュステル」とゆうのは、
チェレスタを発明したミュステルのこと。
(※チェレスタ・・・鉄琴とピアノを合体させたような楽器)
なぜ彼にこの曲が捧げられてるかというと、
この曲がもともとチェレスタの音を想定して書かれたから。

けど、西浦としては、
初音ミク版にアレンジしたのは正解だったと思いますね。
ちょっと原曲を聞いてみたんですが、
初音ミクのバージョンに比べたら、
あまり面白いものではありませんでした、残念ながら。
なにせチェレスタは「ことば」を発しないのでね。

まあ、せっかくなんで、
簡単な実況でもしてみましょうか。

 ♪♪♪

最初にまず「ガタンゴトン」とゆう擬音から始まります。
(当然ながらこの曲の音は、ほとんど全て初音ミクです。
言ってみればアカペラですね)
映像にはタイマーのような数字が常に表示されてるんですが、
これがおそらく「時刻」なんでしょうね。
そうやって見ると新宿の始発は4:00らしい。

そして、やっぱりとゆうか、
7:00頃からラッシュが始まるのか、
曲もかなり複雑な様相を呈してきます。
(7:15(?)から始まる「チクタクチー」とゆう声が可愛い)
8:00を過ぎるとさらに大変なことに・・・。

12:00頃から少し汽笛のような(プーンッみたいな)音が増えて、
これのおかげで曲が単調にならず、
いい感じのアクセントになってますね。

13:00からはまた「チクタクチ」が始まって、
少しウキウキしてくる。
今度は少し急き立てるように繰り返してます。

18:00頃からラッシュなのか、
また音の構成が複雑になってきます。
21:20から最高度の「ダイヤ」が形成されますね。

23:00を過ぎる頃から、
少し落ち着きを取り戻してきますね。
00:00からは始発の感じを再現していて、
音楽的な統一感を与えてくれます。

そして最後に、
「ツギハ、シンオークボ」
と言うのがたまりませんね。
おいおい、今までどこにいたんだよ、みたいなね。
ずっと回ってたんじゃないの?

 ♪♪♪

このように全体を通して見てみると、
音素材としてもシンプルで(ほぼ初音ミクの声のみ)、
構成としてもスゴくシンプル(伝統的な音楽形式に則ってる)。
それだからこそ、
時刻表の複雑さがモロに伝わってきます。
いいですね~、やっぱカッコいいですね~。

こうゆう音楽があると、
初音ミクの世界に、よりメリハリが出てきますよね。
残念ながら、この界隈ではまだまだ、
開拓中のジャンルのようで、曲数としては少ない。

むしろ「現代音楽」とゆうジャンル自体が、
すでに古びてきているので、
「古典」としてこうゆう音楽をも飲み込んでしまえれば、
初音ミクの音楽性とゆうか、
ヴォーカロイドの将来性はかなり開けると思うんですよね。
だって、その分だけ、表現の幅が広がりますもの。
「大衆性」だけが表現じゃないことは、
やはり、理解しておくべきことだと思いますね、個人的には。
「大衆性」ってのは、
つまりエンターテイメントって意味での「大衆性」。

キタエンコのスマートなフォルム、あるいは理知的な音楽性。

2009-02-21 | 音楽(音楽的な面白さ)
NHK-BSでN響の演奏会がやってた。
曲目は、
ベートヴェン:序曲「エグモント」
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番
チャイコフスキー:交響曲第5番

指揮のキタエンコさんは、
京響を振りに来た時に、見に行きましたが、
髪の真っ白な、素敵なダンディズムを漂わせた方でした。
スゴく知的、かつ「飾らない」スタンスで、
ショスタコーヴィチの交響曲第7番“レングラード”・・・
あの熱演は忘れられないほど衝撃的でした。

たいていの演奏者はムダに感情移入して、
曲を台無しにすることがよくあります。
特にチャイコフスキーやショスタコーヴィチみたいな、
ロシアの作曲家はベタベタギトギトの、
ネットネトな演奏になりやすいようです。
けど、オーバーにテンポを揺らしたり、
大袈裟に引っ張ったりし過ぎるのは、
演奏者だけが気持ちよくなってるみたいで、
あまり気分の良いものではありませんよね。

そうゆう意味では、
キタエンコさんの演奏はとても「良心的」。
聞く人のことを考えてくれてるような、
とてもスッキリして、ムダのない演奏。
それでいてなおかつ心を熱くさせてくれるのは、
もともと曲自体がもってる「本質」が、
何もしない分だけ、
ストレートに伝わってくるからでしょう。

けど、西浦が特に注目したのは、
上原彩子をフィーチャリングした、
プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番。
上原さんのピアノは初めて聞いたんですが、
とても良いですね。
臭みのない感じとゆうか、あっさりしてるとゆうか、
いい具合に情感を注いでくれてる感じがしました。

このプロコフィエフの代表作とも言うべき作品は、
初演の際にはあまり人気を博さなかったようですね。
けど、西浦がこの曲を聞いた高校1年生の頃は、
かなりショッキングだったのを覚えてます。
それまで西浦は、ピアノを、
あんな風に(叩いたり削ったりするように)弾くとゆうのを、
見たことがなくて、
それだけでかなり刺激的な時間でした。
「へぇ~、あんな《悪いこと》をしてもいいのかぁ」
みたいなね。

それにしても、この曲を聞くたびに思うんですけど、
よくもまあ壊れないもんですよね、楽器が。
ピアノがいかに頑丈かがよく分かります。
とゆうか、むしろこういった曲にあわせて、
楽器の方が強度を上げてきたのかもしれませんね。

で、話は上原彩子さんのピアノでした。
彼女のピアノは、
音の「ツボ」を見事に捉えてるように思えました。
マッサージ師のように、的確にツボを押さえて、
最低限の力で、最高の効果を上げるような、
そうゆう気持ち良さがありましたね。
正直、ここまで「混じりっけのない」プロコフィエフは、
初めてだったかもしれません。
まあ、それは、
あるいは上原さんの音楽性にプラスして、
キタエンコさんの指揮があったればこそのこと、
なんでしょうね、きっと。

もっと、みんなが、
こうゆう音楽に出会えばいいのに。
純粋に、そう思ってしまいますね。
そんな、素敵な時間でした。

村上春樹の考える「小説」(ちょっとだけ違うバージョン)。

2009-02-20 | 対話(話しことばの面白さ)
村上春樹のエルサレム文学賞受賞式でのスピーチ
を読んでみたんだけどさ、
小説家について語ってるところがあって、
ここはグッときたね。

ふぅん。

いや、もっと興味もてよ。

そんなこと要求するなよ。

よし、じゃあ、おれが要約してやるから、
感心しろよ?

いや、だから・・・。

いいか、小説家ってのはウソをつくプロなわけ。
けど、ウソは小説家でなくてもつく。
ところが、小説家のつくウソは大きければ大きいほど褒められる。
うまければうまいほど称えられるのよね。

なんでなんだろうな。

お、乗ってきたかい?

ただの相槌に反応するなよ。

で、村上春樹がこれに出した答えってのは、
うまいウソをつくことで、
むしろ真実を暴くことではないかと。

・・・よく分からんな。

う~ん、実はおれも。

ダメじゃん。

まあ、聞けよ。
たいてい「真実」ってのは、
正確に表現できるもんではないだろ?
お前、目の前に「真実」を出してみろって言われて、
出せるか?

いや、無理だな。
そもそも何が「真実」かさえ分からん。

だろ?
だから、小説家はウソをつくことで、
「真実」をおびき出して、ウソの世界に運び、
小説という形にするんだよ。

つまり、あれだな、
ウソをエサに「真実」を明るみへ出すってことか。

まあ、もっと言えば、
「真実」を語るのに都合のいい世界を作る、
って言い方も出来るけどな。

お~、なんか、それっぽいな。

まあ、どれっぽいのか分かんねぇけど、
小説家にとってウソをつくってのは、
つまりそうゆうことなんだよ。

けどさ、ウソの世界を作るにも、
「真実」を知ってなきゃ、
語りたくても語れねぇじゃん。

そう。
だから、小説家ってのは本質的に、
「真実」を知ってるんだよ。
てゆうか、知ってなきゃダメなわけ。

なるほど。
やみくもに世界を作ればいいってわけじゃねぇのな。

それに「真実」が分かってると、
その「真実」に合わせた世界が作れるわけだから、
結果として、ウソの質が高くなる。

じゃ、うまいウソが作れる人は、
それだけ「真実」を知ってるってわけか。

かもな。
で、たとえば村上春樹の場合は、
生死とか、愛とかを扱ったり、
泣かせたり、怖がらせたり、
あるいは笑わせたりする小説を書いてるけど、
それは「個々の精神が持つ威厳さ」を描き出して、
そこに光を当てるためなんだよ。

とゆうことは、春樹さんの見つけた「真実」ってのは、
人間の精神的な「個性」ってことなわけだ。

で、村上春樹はその「個性」をおびき出すために、
日々ウソをついてるってわけ。

へぇ~。

どうよ、グッときた?

たぶん、グッときた。

たぶん!?

ウソだよ。

いや、ここでウソついても、
「真実」は出てこねぇだろ。

難しいな、ウソって。

だからスゴいんだよ、小説家は。

村上春樹の考える「小説」。

2009-02-20 | 対話(話しことばの面白さ)
村上春樹がエルサレム文学賞を受賞したんだってな。

遅いな。
そんなの、もう知ってるよ。

授賞式でスピーチしたらしいな。

ああ、「壁」と「卵」の話ね。
春樹さんらしい喩えだよ。

まあ、それはどうでもいいんだよ。

いや、よくねぇだろ。

どうでもいいんだよ、おれには。
それより日本語全訳があったから、
読んでみたんだけどさ、
小説家について語ってるところがあって、
ここの方がおれにはグッときたね。

ふぅん。

いや、もっと興味もてよ。

そんなこと要求するなよ。

よし、じゃあ、おれが要約してやるから、
感心しろよ?

いや、だから・・・。

いいか、小説家ってのはウソをつくプロなわけ。
けど、ウソは小説家でなくてもつく。
ところが、小説家のつくウソは大きければ大きいほど褒められる。
うまければうまいほど称えられるのよね。

なんでなんだろうな。

お、乗ってきたかい?

ただの相槌に反応するなよ。

で、村上春樹がこれに出した答えってのは、
うまいウソをつくことで、
むしろ真実を暴くことではないかと。

・・・よく分からんな。

う~ん、実はおれも。

ダメじゃん。

まあ、聞けよ。
たいてい「真実」ってのは、
正確に表現できるもんではないだろ?
お前、目の前に「真実」を出してみろって言われて、
出せるか?

いや、無理だな。
そもそも何が「真実」かさえ分からん。

だろ?
だから、小説家はウソをつくことで、
「真実」をおびき出して、ウソの世界に運び、
小説という形にするんだよ。

つまり、あれだな、
ウソをエサに「真実」を明るみへ出すってことか。

まあ、そうだな。
しかも、このエサがうまければうまいほど、
「真実」はうまい具合に出てきてくれるんだよ。

けどさ、どんなにエサがうまかろうと、
「真実」が隠れてる場所が分かってなかったら、
どこにエサを置いていいのか、分かんねぇよな。

そう。
だから、小説家ってのは本質的に、
「真実」のいる場所を知ってるんだよ。
てゆうか、知ってなきゃダメなわけ。

なるほど。
やみくもにエサを作ればいいってわけじゃねぇのな。

それに、場所が分かってると、
その場に応じてエサが作れるわけで、
結果的に、エサの質が高くなる。

じゃ、うまいエサが作れる人は、
それだけ「真実」を知ってるってわけか。

かもな。
で、たとえば村上春樹の場合は、
生死とか、愛とかを扱ったり、
泣かせたり、怖がらせたり、
あるいは笑わせたりする小説を書いてるけど、
それは「個々の精神が持つ威厳さ」を描き出して、
そこに光を当てるためなんだよ。

「ココのセーシンがもつイゲンさ」・・・?

う~ん、まあ、アレだ。
いわゆる「個性」ってやつだ。

おお、みんなちがってみんないい♪

まあ個人的には、おれ、
そのフレーズ大嫌いなんだけどな。

なんで?

なんか、合言葉みたいになってて、
意味考えずに使ってるやつが多すぎる。

ふぅん。

まあ、とにかく、
人間の精神的な「個性」って場所が、
村上春樹の見つけた「真実」なんだよ、きっと。

なるほどな。
で、春樹さんはその「個性」をおびき出すために、
日々ウソをついてるわけだ。

本当に、真剣に、な。

へぇ~。

どうよ、グッときた?

たぶん、グッときた。

たぶん!?

ウソだよ。

いや、ここでウソついても、
「真実」は出てこねぇだろ。

難しいな、ウソって。

だからスゴいんだよ、小説家は。

マルキ・ド・サド「悪徳の栄え」。

2009-02-19 | マンガ・ドクショ(インドアな面白さ)
(画像は、伊藤晴雨の春画です。※春画・・・江戸時代のエロ本)

SMプレイで言うS(サディスト)の語源、
すなわち、サド侯爵(マルキ・ド・サド)の小説を読みました。
その名も『悪徳の栄え』です。
翻訳は澁澤龍彦。
そう、「悪徳の栄え事件」において、
有罪判決(罰金刑)を受けたということで、
いわくつきの、あの小説です。

いやぁ~、凄まじい小説でした。
まあ、平たく言えば、

 善いことはやっちゃいけないことで、
 悪いことこそ、人間がやるべきことだ!


ってゆう内容ですね、たぶん。

上下巻あるんですが、
ふたつは結構性格が違います。

上巻では、
慈善活動(お金を恵んだり人の頼みを聞いてあげたり)は、
人間の、欲望とか悪徳とかいった本能を縛り付けるだけで、
なんら良いことはひとつもない。
逆に悪事(窃盗、殺人、快楽など)は、
やればやるほど人間を幸福にしてくれる、

という理論が、まことしやかに語られます。
いわゆる「リベラル思想」を高らかに謳う、
教養小説的な側面が強い。
もしかすると、哲学書でさえあるかもしれない。

ところが上巻の終わり頃から下巻にかけて、
魔女が現れたり、大男が現れたり、
果ては、ローマ法王ピオ6世(実在の人物)、
カタリナ女帝(世界史で有名なエカチェリーナ2世)まで、
ありとあらゆる奇人変人と巡り会う大冒険譚となります。

サディズムと言うと、
やっぱり、ムチとかロープとか、
そうゆうイメージがありますけど、
この小説の中にはそれ以上にヒドいことが盛り沢山。

盗めるものはとことん盗み、
騙し合いの限りを尽くし、
殺さない人間はいないくらいの勢いで殺します。
特にスゴいのは、
45時間で1716人を血祭りにあげたという下りですね。
その殺し方も残虐非道。
そりゃ、裁判沙汰にもなりますよ・・・。

なぜ、これほどまでに悪徳を奨励するのか。
そこにこの小説の本質がありますよね。
おそらくそれはこの小説が書かれた時期と、
関係があるんじゃないでしょうか。

つまり、サドの生きていた時代ってのは、
まさにフランス革命期なんですよね。
革命が起きて、王政が倒れて、
人が、自分で考えて行動せざるを得なくなった時代、
たぶん、サドはそれまでの考えを消し去らない限り、
また同じような王政を主張する奴が現れると、
考えたんじゃないでしょうか。
かなり勝手な推測なんですが、
人々に知識という光を与える役割を買って出たのが、
サドだったような気が、しないでもない。

まあ、もしかすると、
ただ単に変態ぶりが行き過ぎただけなのかもしれない。
実際サドは人生の約半分(30年くらい)を、
刑務所や精神病院で暮らしてます。
そして、たいていの小説がこういった生活の中で書かれた。

こういった事情をどう取るかは人それぞれですね。
まあ、確かに今の価値観に浸ってる我々が読んで、
気分の良いものではありませんが、
なんやかや言って、
読んどいてもいいのかもしれません。
ただ興味本位で読むには多少骨の折れる小説だということは、
断っておきたいと思います。