昨日、日本会議大阪の丸山公紀氏から以下のようなメールを戴いた。
『産経新聞』(大阪版/3月26日付)に薩摩川内市のある公立小学校で起こった事件について触れているが、この件についてご存知な方は、ぜひ本会までお知らせ下さい。
■改めて「総合学習」についての指導と評価を問い直す ~評価悩み修了式に通知表渡せなかった鹿児島の小学校の教員~
昨日26日付けの産経紙で、鹿児島県薩摩川内市の小学校で4年生担任の教諭が通知表に記入する評価に悩んで修了式で児童に通知表を渡せなかったことが分かったという。
教諭が悩んでいたのは100字程度の文章形式で記入する「総合学習」の評価で、鉛筆で下書きをした段階で校長に決裁をもらっていたにもかかわらず、清書の段階で評価に悩んで遅れてしまったのだという。
結局、修了式後、校長と教諭が児童34人の自宅を訪ね、謝罪して渡したとのことである。
この記事だけではこの教諭が、職務の責任を果たすことかできなかった理由がもともと職務専念義務を怠る不真面目には思えないし、むしろ評価内容を校長に決裁してもらったにもかかわらず、「総合学習」について丁寧に評価を検討した結果、時間がかかってしまう程の職務に対して真面目に取り組んだ結果であるとも判断できる。
結果的には修了式の日に、通知表を児童に渡すことができなかったということは、職務専念義務と服務義務を遵守しなかったことになるのだが、この「事件」は地方の1小学校で起こったものであるが、「総合学習」という授業そのものが、そもそも科目として成立し得るものであるのかを提起しているものであるやも知れない。
確かに「愛国心」について授業で指導し、その達成度を試験や授業態度で評価することは当然であることが政府答弁で明らかとなったものの、「総合学習」は未だに何を教えるのかは教員の力量にかかっており、この時間に不足しがちな科目の補填時間に充てたり、平和学習、人権学習、過激な性教育など、学習指導計画とは異なった授業がなされていると聞く。 これでは指導に対して明確な評価を与えることは不可能であり、この教員はその実態に対して警鐘乱打をしているとしたら、これは教員のミスによる「事件」ではなかろう。
この際、文科省は「総合学習」という科目について見直すべきではなかろうか。