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早稲田に多浪しました--元浪人による受験体験記です。

二浪計画で早稲田に受かるはずが――予想外の「三浪へ」。
現実は甘くないっすね。

このブログを読むにあたって

2007年04月28日 | Weblog
このブログは、カテゴリー「はじめに―早稲田」から読み始めてください。
新しい日付から読むより、そうした方がこのブログの主旨が分かりやすいと思います。

ここでは少しだけ、「はじめに―早稲田」から抜粋してみます。

~~~~~~~~~

それから時は流れた。私は受験を終えるまで、三年という長い月日を数えなければならなかった。つまり「三浪」だ。結果は、どうだったか。

 「早稲田大学第二文学部 合格」

 これが結果だ。
 第一志望であった第一文学部には結局、入れなかったわけだが、この結果には非常に満足した。
 もちろん、世間的に見てこれが果たして誇れる結果なのかといわれると、必ずしもそういうわけではない。第二文学部は第一文学部に落ちた者が行く、掃きだめのようなイメージがあったし、また夜学だということも第二文学部の学生にとっては大きな劣等感の原因にもなっている。

 が、この合格通知を受け取ったとき、素直に嬉しかったことを思い出す。変な例えになるが、第一文学部が「金メダル」だとすれば、第二文学部は「銅メダル」ぐらいの位置であろう。「金メダルを目指して頑張ったっスポーツ選手が、銅メダルを獲得したときの気持ちは、或いはこんなものかもしれないな」と、爽やかな気持ちになったものだ。本当に、本当に、大満足で、その感情には一点の曇りもなかった。

 ドラマのように、合格通知を受け取って飛び上がる、とか、街中を駆けてゆく、といった行動に出ることもなく、何となく外に出て、空気を吸った、というような喜びの表し方であった。本当に嬉しいときは、それを残ることなく味わいたい一心から、大げさな動作をしている暇などないものである。

 さて、私は以上のような結果で受験を終えた、ひとりの人間である。これを見て、これから先、読む価値があるかもしれないし、ないかも知れないが、少なくとも、こういう人間が、こういう形で受験を終えた、という経緯は、何らかの参考になるであろうと信じている。現在私は、早稲田の二文を卒業して数年が経過し、かつて受験したことなどすっかり忘れ、浮き世の雑事に追われる日々を過ごしているのだが、これから受験を控えている方々に対する愛着から、というか、応援したい一心で、拙文を書き続けていこうと思っている次第である。

コメントへのお答え―失敗の重要性

2006年10月30日 | 各論
 ぴゅうさんへ

 コメントありがとうございます。
 私も東進でしたが、長文に関しては永田先生が他の講師の数倍いいと感じました。永田先生は理論派で、文法の授業が有名ですが、長文の理論も完璧です。
 永田先生の長文の講義は、英語というよりは、思考訓練の授業という感じでした。永田先生は今も東進にいるはずです。検討されてみては?
 また、自主学習がいいかどうか、についてですが、もし、今のぴゅうさんに、問題を「解こうとする力」があるとするなら、長文の講義を切って独自に問題を解きまくるのも手です。

 失敗というものは、以外な発見をもたらしてくれます。
 たとえば私の場合は、長文読解で単語の読み間違いをすることが多いのに気付きました。たとえば、「vocation」と「vacation」などです。
 それぞれ意味は、「職業」と「休日」であり、この両者の読み間違いは致命傷になります。
 もし、「自分は単語の読み間違いが多い」とあらかじめ知っていたら、たとえまた読み間違えても、すぐに修正できるようになります。
 こういうことは、失敗しないと気付かないことです。
 また、参考書で学んだ理論も、自分で失敗してはじめて身に付くものです。たとえば、「振り込め詐欺に注意しよう」とメディアでさんざん言われているのに、それでもだまされてしまう人がいるのは、ただ言われただけでは理解できない弱さが人間にはあることを示しています。
 ですから、問題演習は大事です。失敗の数が多ければ多いほど有利になります。
 
 さて、もし「解こうとする力」がないなら…
 これはかなり厳しいです。闇雲に長文を解いても無駄になります。なぜなら、そこで経験する失敗は、意味のない失敗だからです。ワケも分からずに選んだ選択肢が不正解だったとして、それに何の意味があるでしょうか?次につながる発見があるでしょうか?
 ですから、解こうとする力がないなら、参考書か、講義か、どちら一方に絞って集中的に学び、一日も早く問題演習できる時期に行けるようにしなければなりません。

 いずれにしても、大事な時期ですので、いったん決めたら迷いなく、突き進んでください。この時期からは、もう迷いは許されません。

コメントへのお答えです

2006年07月02日 | Weblog
コメントをいただきましたので、お返事します。
(読んでいる皆さん宛へのお返事ということにします)

私の通っていた東進ハイスクールは、一部から、ぼったくり予備校などと呼ばれていますね。う~ん。それは分かる気がします。
「この講座を取らなければ合格しない」と言って、多くの講座を取らせたり…
予備校は商売ですから、それは仕方ありません。大手の予備校はどこもそうです。そういう意味では、個人塾の方が良心的です。
しかし、大手には大手の良さがあります。なんといっても、講師がいい。

思い出しますよ。滝山先生、永田先生、横田先生…。
衛星放送の画面なのに、伝わってくるものがある。
この三人の先生のギャグがまた面白い。
真剣な空気だからこそ、ギャグを言ったときの落差がすごくて、大爆笑してしまう。

皆さん、テレビを見ていて、笑ってしまうことってありますか?
体を張っているだけの芸人のギャグは面白いですか?

予備校は、本当に面白くて、泣けて、感動できる場所です。
こんなにいい空間にもしいるとしたら、人生の中で貴重な一年となることでしょう。

気をつけるべき部分だけ、気をつければいいのです。
それを分かっていない人が、予備校の批判ばかりするのです。

あなたが批判している予備校で、受かっちゃってる人は、たくさんいるのですよ。


p.s.
今、仕事の関係で、なかなかブログを更新できない状態です。
とはいえ、合間を見て記事を考えています。
知りたいことや、悩みなどがありましたら、メールなりコメントなりくだされば、と思います。
再開したときに、的確にお答えできるように考えをまとめておきます。

予備校での過ごし方

2006年05月31日 | 勉強法
 前項で、私は予備校中心の勉強をすすめた。では、予備校でどのように過ごせばいいのだろうか。
 まず講義の取り方であるが、内容が重ならないようにすること。「英文法、英語長文、現代文、古文、漢文、小論文…」というように、ひとつずつ取ればいい。
 どの講師がいいかは、ガイダンス講義を受ければ分かる。ガイダンス講義は、どの講師も力を入れて自分のエッセンスを詰め込んでくる。なにせ、その出来によって受講者数が決まるのだ。人間的にその講師を好きになれるかどうかも十分に見極めること。ネットで講師の評判を調べるのもいいが、いくら評判がよくても自分に合わなかったら取らない方がいい。
 さて、そうやって取るべき講義は決まった。あとはその講義に毎回出席すること。もちろん、講義を受けただけで安心してはいけない。復習、そしてテキスト付録の暗記も必須だ。もはや他の参考書に手を出すヒマはないだろう。
 このように、講義を中心として充実した一年を過ごすことができれば、必ず成績は伸びる。
 参考書は、あくまで講義を補佐するものだと考えよう。講義でわからなかったところを追求したい場合に見る程度だ。予備校の講義を受けているのに、「英文解釈教室」のような濃い本をバイブルとして使ってしまうと、焦点がぼやける。焦点は、あくまで予備校にしぼること。
 もちろん、講師が参考書を出している場合は、それを買ってみるのもいいだろう。それは講義の補佐として役立つはずだ。他には、単語帳・熟語帳のような基本的な暗記本も必要だ。赤本も買わなければならない。
 だが、それ以外の本を中心においてはいけない。そのことをしっかりと頭に入れておこう。

 勉強は、予備校の自習室を利用しよう。自分の部屋ではどうしてもだらけてしまう。閉館時間までねばるべきだ。
 予備校から帰宅すると、ヘトヘトになる。夜も遅いだろうから、風呂に入って食事して…という風にしているとあっという間に0時をまわってしまう。そこで頑張って勉強してしまうと、次の日に悪影響を与えるから、寝た方がいい。
 寝る前に、部屋を暗くして電気スタンドをつけて、参考書を読むこと。そのうち眠くなる。
 (ちなみに、寝る直前に学んだことは、脳に深く刻まれる。これは、人間の記憶が睡眠中にシステム化されるためだ。寝る直前の気楽な勉強は、昼の数時間の勉強に匹敵するのだ)

 次の朝になれば、すでに一日はスタートしている。朝食をとって早めに家を出ないと講義に遅刻してしまう。
 そして、季節は過ぎ、あっという間に冬になる。冬になると、いよいよ予備校生たちは「予備校」から「受験」へ向けて巣立っていく。
 直前講座を取らない限り、講義は全て終了する。この時期も、予備校の自習室には通い続けよう。問題演習を繰り返すこと。そうすることで、講義で学んだエッセンスを試験問題で生かすことができるのだ。

 ここで話がそれるが……
 予備校生にとって、「冬」は寂しいものである。予備校の友人達も本格的に志望校対策に力を入れる。だから話題が講義から離れるし、実際、予備校の自習室にも来なくなる。特に私の場合は小さな予備校だったので、凍えるような寒さの中、自転車で予備校の自習室まで行ってみると誰も来ていなかった、なんてこともしょっちゅうだった。普段、自習室の席取り合戦に勝利するために私は早めに行くことにしていたが、誰もいないとなるとかえって寂しいものだ。
 ましてや、本当に直前期になると、私も上京の準備のために予備校に行くヒマがなくなる。そんなとき、窓の外を見ると雪が次々と降下している。人間というものは、そういう物体の規則的な流れを眺めると、考えごとにふけるものらしい。
 私も例外ではなく、目の焦点がだんだんとぼやけてきて、雪の粒ひとつひとつが、目の水分のせいで結晶のように輝いて見えてきたものだった。
 「みんなも、頑張って欲しいよなあ」
 そんな風につぶやいたことは一度や二度ではない。もちろん、つぶやいた瞬間に我にかえる。他人の心配をしている段ではない。これから受験に向けて、自分も旅立たなければならないのだ。

 私の場合は、現役~三浪と合計四回、受験の上京には夜行列車を利用した。京都や名古屋といった大きな街も、夜中だとさすがに街全体が眠りきってしまっている。ときどき、線路の工事をしている人たちが何やら電線をいじっているのが見えるが、すぐに通過してしまう。
 そして私は、「自分は、これから試験を受けに行く旅人なのだ」と改めて感じる。

 「アイデンティティ」という言葉は使い古されている。だが、人間、本当に勝負をかけるときに心の支えになるのは、まさにその「アイデンティティ」なのだ。自分が生まれ育った街、学校、家族――それらに「根付いている」感覚がないと、自分がふらついてしまう。
 試験会場で、試験用紙を目の前にして思うのは、自分がどんな浪人生活を送ってきたか、ということだ。そのときに、自分が巣立ってきた場所はどこかを思い出すことができれば、安心して試験に向かうことができるだろう。

 ……話を戻そう。
 予備校ほど受験に適した機関はない。もちろん、自分専用の学校ではないから、不必要な講義もたくさんある。そういうものを捨てつつ、自分でうまく組み替え、冬にはいい具合に巣立てればいい。「巣立つ」とは、「自分で積極的に問題演習に取り組む」ということだ。個人指導でない限り予備校もそこまで面倒はみてくれない。
 スキーのジャンプと同じで、滑走路で勢いをつけて、いい具合に飛び立つ。このふたつのことができるかどうかが、あなたの合否を決めるのだ。

 予備校生は、滑走路が与えられた存在だ。その幸せを認識しながら、巣立ちの日を待とう。

予備校、宅浪、どちらがいいのか?

2006年05月27日 | 勉強法
 前項では最強の勉強法を紹介した。しかしあれは「やれるもんならならやってみろ」的な、かなり無謀な方法である。だから、ここでは現実的に勉強法を考えていきたい。そうした場合、問題になるのが「予備校に行くのがいいか、それとも宅浪すべきか」ということだ。

 結論を言おう。私は「予備校」がいいと考える。
 三年間の浪人生活を経て私がひしひしと感じたのは「結局、予備校が一番いい」ということなのだ。
 私の場合、一浪目は予備校を信じて、多くの時間をその予習・復習に割いた。もちろん、予備校の講義内容が参考書とあまり変わらないこともしだいに気付いたし、そうなると講義を受けている時間さえ無駄のように思えることもあった。
 だが、多くの講義を取っていたので他に手を出す余裕がなかったし、また多額のカネを親に負担させていたので、それが「予備校を信じる」という決意を強くした。そして、私はとても充実した一年を過ごすことができた。
 しかし、二浪目は予備校の講義を大幅に減らしてほぼ宅浪状態で過ごした。その理由は、二年目というプライドから、自分は勉強法に詳しく、いまさら予備校に頼る甘ちゃんではないという思いがあったからに他ならない。
 実際、二浪目はかなり合理的な勉強ができたと思う。しかし、その割には伸びが良くなかった。
 「合理的」とは、1+1=2という世界だ。私の二浪目はそういう考えで勉強を科学的に進めていた。しかし実際は、1+1が0.5になることもあったし、それどころかマイナスになることさえあった。
 人間とは不思議なもので、物事が必ず合理的に行くとは限らないのである。
 スポーツでたとえれば、筋肉をつければサッカーが上手くなるかというとそんなことはない。筋肉がついたことで逆に身体が硬くなり、前よりも下手になることがあるのだ。
 すると、硬くなった筋肉をほぐそうとして整体を取り入れたりする人もいる。こうなると、まるで薬の副作用を薬で消すようなおかしなことになっていってしまう。「理屈から言えばこの方法で上達するはずなのに、おかしいな」というわけで次から次へと対策を講じる。そしてますます変な方向に行く。そして不安になっていく。地に足がついていないことから来る不安だ。
 宅浪の受験生で多いのは、「直前期になっても成績が思うように伸びず、焦る」というパターンである。「自分は科学的な方法で勉強している。だからこそ、伸びてもおかしくないのに、伸びない」、やはりこれはショックだ。
 それまで科学に支えられていた精神は、こうしてもろくも崩れ去ってしまう。不安になり、他のものに手を出す。だから完結感がない。そして、落ちる。
 予備校というものは、通学時間が無駄になるし、講義は参考書と違ってゆっくりとしたペースで進む。
 だが、それでも直前には完結するようにカリキュラムが組まれているのだ。なにせ、向こうは商売である。生徒を合格させなければ、他の予備校に食われてしまうのだ。だから必死に工夫する。校舎には自習室を作り、チューターを置き、各種資料を完備する。寮に入った場合はテレビやネットを規制する。
 そうすると、生徒は予備校中心に動かざるを得なくなる。通学時間などの、「無駄に思える時間」も、そういったメリットと比べればたいした問題ではない。
 それに、「実際に通って講義を受けること」という行為には、確固たる「実感」というものがある。この「実感」の力は、科学を超えるものである。

 ダイエットにたとえてみよう。
 ダイエットの本をいくつも買って、科学的な食事制限や運動を学び、その通りやってみたとする。しかし、思うように体重は減らないものだ。
 それよりも、ダイエット専門ジムに入会し、とにかく一年間はそこに通い続けようと決めて実践した方が、効果は現れやすい。
 なぜなら、実際にジムに通い続けるという行為が、しだいに自分の身体の中へ「実感」として染みこんでいくからである。
 いくら本の内容を実践しても、なにかこう、「地に足のついた感じ」がない。しまいには自分は本当にダイエッターなのか、分からなくなる。だから不安になり、効果も現れない。
 しかし、ジムに通っていれば、不安になっても、実際に目の前にダイエット用の器具の数々や、コーチの姿がある。だから、自分はダイエッターなのだという意識が強くなり、それが心のふらつきを取り除いて、目的に向けて勢いづけてくれる。
 そしてついには減量に成功する。ジムに通う様々な手間は、この効果を前にすればあまり大きな問題ではないのだ。

 だから、あなたに予備校に通えるだけの経済的余裕があるなら、ぜひ通って欲しい。
 もし通えない場合は、予備校生のように、何かひとつのものを決めて、それだけを実践してほしい。図書館通いでもいいだろう。とにかく、何かを「やり遂げる」ことだ。

 ――余談だが、ベストセラー『「超」整理法』で有名な経済学者の野口悠紀雄氏も、似たようなことを述べている。
 ちなみに野口氏は、かなりの合理主義者で、実際、その著書では整理の仕方や時間の活用の仕方、さらには仕事の進め方などについて、どうすれば効率が良くなるかを紹介している。
 そのような人でさえ、こと「講義」というものに関しては「本」にはないメリットがある、と述べているのだ。
 詳しくは、氏の著書である『続「超」整理法・時間編』(中公新書)の147ページに記載されているので、是非参照されたい――

最強の勉強法

2006年05月23日 | 勉強法
 受験の才能がない人、つまり普通の人が、一年で難関大学に受かるのは、かなり厳しい。だが、その方法がないわけではない。次に紹介するのは、全科目に共通する、必勝の方法である。かなりの苦労を強いられるが、本当にこの通りにできれば必ず成功するだろう。

 その方法は、
 「基本事項だけを9月までに終わらせ、後は徹底して問題演習をする」
 以上だ。言うのは簡単だが、実際は相当むずかしい。一分一秒たりとも無駄にはできない。

 この方法について説明しよう。
 受験問題を解く極意は、本来なら人に伝えられるものではない。これは考えてみれば当然のことだ。
 たとえば「ボウリング」を思い出してほしい。「ストライクを投げる」という行為のメカニズムを、余すことなく説明するとしたら、本1000冊分あっても足りない――つまり教えられないのだ。
 もちろん、ヒント程度なら本一冊分で済むだろう。だが、究極的には、様々な要素がからまりあってはじめてストライクを投げることができるのだ。その「教えられない域」は、自分でつかむしかない。
 つかむためには、色々な「失敗」を経験する必要があるのだ。

 9月までに基本を終わらせなければならない理由は、何をさしおいてもまず「試験問題を、解こうとすることができる」ようにするためだ。合ったか間違ったかはここでは問わない。
 基本が終わっていれば、解こうとすることはできる。だから問題演習を繰り返すことができる。従って、色々な「誤答」が経験できる。
 誤答経験の数々は、かならずや試験本番であなたの力になってくれるだろう。

 とはいえ、「基本を9月までに終わらせること」が、一番きつい。私が提唱するこの方法を実践したければ、この困難をクリアする自信があることが条件だ。そうでないなら、普通に予備校を信じて勉強を進めた方がいい。

 なお、「受験の才能」がある人は、あまり「失敗」を経験しなくても、基本を学ぶだけで簡単に「教えられない域」に達することができる。「無勉から偏差値を30上げて難関大に合格!」というケースは、だいたいそれに当てはまる。
 しかし、「普通の人」は多くの失敗をしながら習得していくしかない。
 あなたが小学生のときを思い出してほしい。体育で、先生の解説を聞いただけで「さか上がり」ができただろうか。何度も失敗したはずだ。
 「あいつがすぐに出来たから俺も余裕だろう」とは考えない方がいい。人生に失敗はつきものだ。
 私も、受験で何度も失敗した。そして三浪目の最後の試験で成功した。

 だから、私の受験生活は、「失敗はつきもの」という人生の法則どおりに進んだということなのだろう。

小論文のコツ

2006年05月21日 | 勉強法
 ここでは、小論文のコツをいくつか述べたい。

 ――「YES or NO」をはっきり決めてから書く。
 これは、樋口裕一先生がしきりに勧めている方法だ。つまり、テーマについて賛成か反対かを明確にしてから書くということだ。明確にすることによって書く際に目的意識が高まり、その結果、筆も進むし論旨が明確になる。そうすれば、読む人によく伝わる文章になるのだ。ただし、「No」の側で書くときには注意がある。それは次に書く。

 ――「No」の場合、断定はしない方がいい
 「No」、つまり「反対意見」というものは、多かれ少なかれ読む人を不快にさせるものだ。だから、頭から反対するような文章は、傲慢だという印象を与えてしまいかねない。
 そのためには、やわらかに反対することだ。たとえば、「女性の社会進出」について反対意見を書くとしよう。その場合「女性は働く必要はない。専業主婦で十分だ」などと頭ごなしに書くと、印象が悪くなる。
 しかし少しやわらげて、「昨今は、女性の社会進出が目立っているが、その結果、女性の良さである母性が失われている。だから、近年の風潮は明らかに行きすぎである。今は、女性は本来の役割をもう一度考え直してもいい時期なのではないだろうか」とすれば、悪い印象はなくなるのだ。

 ――「Yes」の場合、別のエッセンスを加えるといい
 「Yes」の場合はたいてい、無難に書くことができるから問題ない。しかしもう一歩高得点を狙うために、何かひとひねりあった方がいい。そのためには、「別のエッセンスを加える」ことだ。
 たとえば、課題文に「女性の社会進出は、男女平等の観点から非常に良い傾向だ」という内容が書かれていたとしよう。その場合、別のエッセンスを加えて賛成意見を書くと、こうなる。
 「女性が社会進出すると、出産の社会制度が確立されるのは間違いない。つまり多くの国家予算が出産に費やされるわけだ。そうなれば消費税も上がる。が、これはとても良いことだ。なぜなら、国民一人一人が税金で助け合うという構図が生まれるからだ。そして最終的には、男女が平等なだけでなく、全国民が平等に近づいてくる。従って、『女性の社会進出』は、そのための契機として、とても良いことだと言えるのだ。」
 以上のように、別なニュアンスを加えると、「まるまる賛成」の感じがなくなる。なんでもいいから、何か別な見方ができないか、考えるクセをつけよう。

 ――「小論の青写真勉強」を普段から行うこと
 小論文の勉強は時間を食う。「小論を書いて、推敲して、解答例を見て…」とやっていると、まる一日つぶれてしまう。だから、「実際に書く」練習はそう頻繁にできるものではない。
 しかし、頭の中で想像するだけなら、すぐできる。だから、普段は、実際に書くのではなく、頭の中で小論文の青写真を描く「小論の青写真勉強」だけでヨシとしよう。
 もちろん、「いくら頭で想像しても、実際に書かないと意味はない」という説もよく聞く。たしかにそれは一理ある。しかし、「書く」ということは、頭の中の思想を具現化することだ。そういう観点からすると、想像のトレーニングを常日頃行うのと行わないのとでは、差が出ることは明らかである。だから、小論の青写真勉強は、とても意味があるのだ。
 これは、何も机に向かって行う必要はない。あなたは普段、いろいろな考え事をするだろう。その延長だと思えばいい。
 たとえば、電車に乗っているときに、中吊り広告に政治問題の見出しがあったとする。そのことについて、「小論文的に」考えてみるのだ。もしかしたら、本当にそのテーマで出るかもしれない。そういう風にシミュレートして「導入部はこうしよう、次にこう発展させよう、そしてこんな意見を書こう…」というようにしてみるといい。
 「想像」のいいところは、いくらでも自分の思い通りに内容をいじくることができる点にある。考えれば考えるほど、色々な青写真が浮かんでくる。反対意見を想像した後でも、すぐに賛成意見で想像しなおすことができる。そのうち、そうやって「考える」ことが好きになる。そうすれば、実際に小論文を「書いて」練習するときも、楽しんで書くことができるのだ。
 
 ――討論番組を見ること
 現代文の項でも書いたが、討論番組は勉強になる。議題についてはもちろん、各出演者の語りもおおいに参考になる。上手い人はなぜ上手いか。下手な人はなぜ下手なのか。また、どんな「大人っぽい」言葉を使っているか。ダラダラ見るのではなく、このようなことに注意して見れば、得るものが多いのだ。

 ――下書きは絶対必要である
 試験場では、パソコンのようにコピーペーストができない。だから、書き直しができない。ここに、下書きの必要が生じてくるわけだ。
 とはいっても、律儀に一字一句下書きしなくていい。問題用紙の空いたところに、メモ書き程度にプロット(構造図)を走り書きすればよい。プロットが決まったら、もう6割以上は出来たも同然だ。あとはそのとおりに書き進めていけばいい。
 
 ――意外なものを組み合わせることで、発想が生まれることがある
 試験中、何を書けばいいのか、全く浮かばないことがある。こんなときは、テーマに、意外なものを組み合わせてみよう。何でもいい。
 たとえば、「高齢化社会について書け」という問題の場合、「高齢化社会」と「電子レンジ」を組み合わせてみる。そうすると、こんな発想が生まれる。
 「高齢化社会でよく取り上げられるのは年金などの社会保障制度の問題である。しかし、問題はそれだけではない。科学技術の発達はますます進み、便利な道具であふれることだろう。だが、高齢者はそれらを使いこなすことができない。こういう状況になると、若い人は便利に使う一方、高齢者は使いこなせないので、若い人と高齢者との精神的格差が広がってしまう。」
 というような感じだ。これは、私の高齢者の知人が、電子レンジの使い方に困っていた場面を思いだして出た発想だ。このように、なんでもいいから、意外なものを組み合わせることで、思わぬ発想が生まれることがある。是非、ためしていただきたい。

 ――独創性にこだわらなくても良い
 テストでポン、と出題されて、いきなり独創性に満ちた論文はそう書けるものではない。だから、試験場で、独創的な文案が思い浮かばなくても気にすることはない。
 ごく常識的なことを、読みやすく書くだけでも問題ないのだ。それは論文的にはつまらないものかもしれないが、最低限の知性は認められるだろう。つまり合格点が取れるということだ。
 むしろ、「ちょこざいな」小論文の方がいただけない。過激な意見に走ったために支離滅裂になったり、無意味に文学的な言葉を使ったりすると印象が悪くなる。内容がダメなのに難しい言葉や意見でごまかそうとしても、すぐに見透かされてしまうのだ。

 ――採点者に語りかけてみよう
 小論文の勉強をしていると、いろいろな方法論やルールに出会う。そんなとき、ふと、わけがわからなくなってしまうことがある。そして「型」にこだわるあまり内容が希薄になる。
 そんなときは、基本を思いだそう。基本とは、「人に考えを伝える」ということである。小論文とはいえ、自分の伝えたいことを伝えるための文章に変わりはない。
 たとえばあなたは、浪人したいことを親に告げるとき、ありとあらゆる手を使って親を説得しようと試みるだろう。そういうとき、人間は自然と「型」を作りながら語ることができるものである。たとえば……①「浪人したい」という結論にむけて進むために問題提起をする。②そして浪人することがどんなにいいことか、「具体例」を使って説明する。③そして最後に結論だ。「浪人させてくれないか」と。
 こういう、本来なら人間が持っているコミュニーションの形を、強引にいつでも取り出せるようにしたのが「型」なのだ。だからあなたの中にも、その「型」はすでにあるはずなのだ。
 そのことを念頭におけば、試験場で、リラックスして自分が書く文章に没頭できることだろう。

 ――現代文の問題文を読みまくろう
 たくさんの本を読むことは、小論文強化につながる。しかし、受験生はなかなか読む時間がないだろう。
 しかし、いい方法がある。それは、「現代文の問題を読みまくること」だ。他のところでも書いたが、現代文の問題は、様々な思想の一部を切り取っている。いわば、本を一冊読んだのに近い感触を得ることができる。現代文の問題は、そういう「濃い」ものから選ばれているのだ。
 ならば、それを読みまくればいい。買わなくても、予備校に置いてある赤本をランダムに借りて読むなどすればいい。問題を解く必要はない。経験値として自分に蓄積する意味で読むのだ。
 そうして得た力は、潜在的に発揮されるに違いない。

 ――0点だとすぐに分かる小論文を書くな
 採点者は、非常に疲れている。次から次へと受験生の小論文を読まなければならない。誤字脱字を丹念にチェックし、下手な小論文も我慢して読んでなんとか点数を付けなくてはならない。
 そんな採点者が狂喜する小論文がある。それは、見た瞬間に0点を付けることができる小論文である。
 その代表例は、「文字数たらず」と「文字数オーバー」の小論文である。採点者といえども人間である。早く終えてビールを飲みたいのだ。もちろん、それでもふざけた採点をすることはない。真剣に採点する。だが、受験生のほとんどはひどい小論文ばかり書いてくる。だから、読んでいて苦痛だ。それどころか、「こんな小論しか書けないんだったらはじめから受けるなよ!」という怒りすら覚える。だから、一目で0点だと分かるものを見つけたときは容赦なく0点にするのだ(このことは、某予備校で採点のアルバイトをしている者から聞いた)。
 とはいえ、微妙なラインのものもある。たとえば、間違えた部分を線で消して、すぐ横に訂正したものが書かれているようなケースだ。これは、程度によるが、少しなら許されるという説もある。
 しかし、それすらも、なるべくやらない方が安全だ。なぜなら、それをやって大失敗した者が現実にいるからだ。そいつは誰か。実は私だ。
 私は、三浪目の早稲田の一文の小論で、それをやった。「ここの部分を少し直せば、もっと良くなる」という思いから、線で消して、横に訂正したものを書いた。一行くらい使ったと思う。その結果、小論文は0点だった。早稲田は、不合格者には点数を教えるサービスを行っている(今は違うかもしれない)。それで知ったのだ。

 以上、いくつか思いつけるだけの「コツ」を書いた。他にも色々あるから、参考書で調べてみるといいだろう。

小論文の勉強法

2006年05月20日 | 勉強法
 ■小論文の勉強法
 
 小論文において大事な要素をいくつか挙げたい。

 ①論客であること
 ②思想・一般常識に詳しいこと
 ③読解力があること
 ④文章の書き方を知っていること
 ⑤小論文のテクニックを知っていること
 ⑥誤字脱字に気をつけること
 ⑦過去問研究をしておくこと

 以上である。それでは、ひとつひとつ解説しよう。

 ①論客であること
 最重要である。
 どんな論題に対してもすぐに文章を書けたり、意見を言えたりする人がいる。こういう人を「論客」という。論客に共通するのは、自分のキャラをしっかりと持っているということだ。キャラとは、「保守系」「革新系」「過激系」「強気系」「弱気系」「事なかれ系」「無難系」のようなものを指す。
 あなたも、自分は何系なのか決めておくことだ。
 たとえば「強気系」に決めたなら、どんなテーマでも強気な意見を書けばいい。戦争問題なら「意義のある戦争ならやむを得ない」という風になるだろうし、少子化問題なら「子供が出来ないことを行政のせいにするな。個人の意識の問題だ」という風になるだろう。
 一方、弱気系に決めた場合、戦争問題なら「戦争は良くない。ねばり強く話し合いで解決すべきだ」という風になるだろうし、少子化問題なら「少子化は個人の意識ではどうにもならない。行政の助けが必要だ」となるだろう。
 このように、自分が何系かをあらかじめ決めておくと、すぐに発想が浮かぶ。そしていつも通りに書くことができるのだ。
 
 ②思想・一般常識に詳しいこと
 小論文は、「気難しいインテリ風の大人が議論するようなこと」がテーマとなっている。ならば、ある程度こういう人の話に、ついていけるだけの知識は身につけるべきだ。
 もちろん、浪人生は、年齢的にはまだまだ青臭い子供だから、マジメぶって書くのは年齢不相応だと思うかも知れない。だが、そうやって恥ずかしがっているうちに、まわりと差がついてしまう。
 大人ぶるのを恥ずかしがることの弊害を書こう。
 あなたは、「中二病」というのをご存じだろうか。これは、中学二年生が、大人ぶって芸術に傾倒したり、政治問題に意見したりすることを言うのだが、この言葉はたいてい、そういう人を馬鹿にする意味で使われる。しかし、もともとは「中二病」と馬鹿にされていた人たちが、その後本当に力をつけて、芸術家になったり政治に深く関わったりするようになるのも事実である。背伸びしているうちにそのキャラが自分に染みついてゆくわけだ。
 だから、背伸びすることはいいことなのだ。あなたも、一生懸命、大人のフリをしてみよう。

 ③読解力があること
 小論文には、課題文を読ませてから書かせる問題が多い。それどころか、図やグラフまで提示する問題もある。だから、文章だけでなく、あらゆる意味での読解力が必要だ。
 これらの力をつけるには、普段から色々なものを深く見るクセをつけておくことだ。たとえば、「サラリーマンの残業が増えている」という話を聞いたときに、意味なく「嫌な風潮だな」と思わずに、「もしかしたらこれは日本の景気が良くなっている表れかもしれない」という見方もできるかもしれない。また、「テレビの視聴率が落ちてきている」というグラフを見たら、「これは色々な娯楽が発展している証かもしれない」という見方もできるかもしれない。要するに、「気付く力」がものを言うのだ。
 このような「気付く力」のトレーニングの素材は、日常のあらゆる場所にころがっている。小論文は、与えられた文章や図から、何かに気付いて、それについて論文を書く科目だ。だから、「気づき」の能力は重要である。
 普段から、色々なものに注目して、洞察してみよう。そうすれば、「気付く力」がつくはずだ。
 
 ④文章の書き方を知っていること
 これも重要だ。
 せっかく「言いたいこと」があっても、文章の書き方を心得ていなかったら伝わらない。これは、料理に似ている。
 たとえば、高級カレーライスの素材を使って料理したとする。しかし、それを安い食器に盛りつけて、しかも形をぐちゃぐちゃにして出したら、ほとんどの人はそれを高級カレーだとは思わない。
 むしろ、安いレトルトカレーでも、ブランド物の食器の上に、芸術的に盛りつけて、しかも青山の一等地の店で出したら、十分「高級カレー」に見えてくる。
 このように、いくら素材が良くても、その見せ方が悪ければ、採点者は「悪い論文だ」と判断してしまう。見た目は大切だ。
 料理には料理の見せ方がある。それと同じように、論文には論文の見せ方があるのだ。その見せ方の例を挙げてみよう。

 ・導入部は、課題文の要約をする
 ・その次に、問題提起をする
 ・さらにその次に、問題に関する考察をする
 ・そして最後に、結論を示す。

 このような流れが典型的だ。これなら非常に読みやすい。
 その他の「見せ方」のコツもいくつかご紹介しよう。

 ・概念を示した後は、具体例を示す
 概念というものには形がない。だから、パッと言われても分からない。そこで、具体例が必要になるのだ。たとえば、
 「ゲシュタルト崩壊とは、全体でひとつの概念を表す総合体が、時として部分の寄せ集めのように見えてしまい、全く意味をなさなくなってしまう現象のことを指す」と書いても、パッと意味が通じないと思う。しかし、その次に具体例を出せば、すぐに分かるはずだ。
 「それはたとえば、ある漢字をじっと見つめているうちに、それが文字ではないように見えてしまうようなケースが典型だ。ちょうど、日本人がハングル文字を見る感覚と同じような、漢字が意味のわからない記号のように見えてしまうような現象だ。これこそが、ゲシュタルト崩壊である」
 こうすれば、スッと伝わるだろう。だから、概念を書きっぱなしにするのは乱暴な文章だ。随時、具体例を示してこそ、読者の立場に立った「良文」と言えるのだ。
 あなたは、試験場で「良文」を書くべきである。

 ・「頭が悪そうな文章の書き方」をしない
 これは、一人称を「僕」としてしまうのがその一例だ。これだけで、「ガキ」に見えてしまう。一人称は「私」にしよう。
 また、同じ接続詞が続くのもいただけない。同じ逆接「しかし」が連続して出る文章など最悪である。「しかし」の次は「だが」にするなど、工夫しよう。
 それと、重複文もいただけない。たとえば、「私が思うに、日本はまだ常任理事国になるべきではないと思う。」のようなケースだ。これは「思う」が重複してしまっている。
 それと、文体の統一も大切だ。案外できていない人が多い。「です・ます」調で書かれていたはずが、いきなり「である」調に変わる人もいる。これは非常にまずい。
 以上のことは、論文以前の、文章の書き方の問題だ。他にも色々な例がある。文章の書き方について解説してある本を一冊用意しよう。

 ・「頭が悪そうな漢字の書き方」をしない
 誰もが漢字で書く言葉をひらがなで書くと、印象が悪い。それと、ひらがなと漢字が混在しているものもまずい(例「対しょう的」など)。これらは、幼稚な間違いだが、それでも思わずおかしてしまう人がいる。特に、ネット社会のゆるい漢字状況に慣れている人は注意だ。
 
 ⑤小論文のテクニックを知っていること
 基本以外にもテクニックは必要である。それらのことは、小論文の参考書に書いてあるので、そこから学ぼう。
 が、とりあえずここではその一例をあげる。
 
 <有効な小論テクニック・「自分のふところ」>
 課題文が苦手なジャンルの場合、アイデアが浮かばないことがある。そんなときは、「自分のふところ」というテクニックを使おう。これは、一種のイカサマだが、緊急時には使える(「自分のふところ」とは、私が勝手にそう読んでいた名)。
 「自分のふところ」とは、「苦手なジャンルの題を強引に、自分の得意分野まで持ってくる」というテクニックだ。これは、私も模擬試験で何度も使ったが、大きく減点されることはなかったので、そこそこ使えるワザだと思う。
 例えば、室町時代の能についての課題文が出されたとする。そしてあなたは、室町時代の能について詳しくなかったとする。
 しかし、あきらめてはいけない。ここで論題を「自分のふところ」に持ってきて、江戸時代の歌舞伎について語れば、上手くいくかもしれない。また、いっそ現代演劇について書いてみてもいいかもしれない。
 このように、自分の不得意なテーマでも、強引に得意分野に持ってくれば書けるはずだ。

 ――余談だが、このテクニックは「蘊蓄(うんちく)王」というテレビ番組でよく使われていた。この番組は、ランダムに提示されたテーマに関して、出演者がコメントしていくという内容のものだが、出演者たちは、この「自分のふところ」のテクニックによって、見事にあらゆるテーマについてコメントすることができていた。
 たとえば、俳優兼天気予報士の石原良純さんは、どんなテーマが出ても強引に天気予報の話題に持って行った。他の出演者の例だと、「テレビ朝日について語れ」と言われたときに、テレビ朝日つながりでニュースステーションの久米さんについてだけ語ったり、テレビ朝日の特定の番組についてだけ語ったりしていた。
 かなりギリギリではあるが、緊急時を乗り切るには十分使えるテクニックである――
 
 ⑥誤字脱字に気をつけること
 誤字脱字は大きな減点対象にはならない。だから必要以上に気にすることはない。しかし、「ひらがなで許される言葉は無理に漢字を書かないようにする」などの工夫は必要だろう。
 
 ⑦過去問研究をしておくこと
 重要だ。小論文は、大学・学部によってクセがある。英語長文を読ませてから小論文を書かせる大学や、教授の講義を聴いてから書くところなど、色々だ。それは、あらかじめ調査しておくべき事項である。


 ■小論文の勉強に役立つ参考書

 小論文の勉強に役立つ参考書をいくつか挙げよう。

 ・「受かる小論文の書き方」(ゴマブックス)…樋口裕一著。樋口式の基本が書かれている。樋口式を学びたい人は必ず買おう。
 ・「手とり足とり小論文」(ゴマブックス)…小論文の小ワザ集。役に立つ。
 ・「読むだけ小論文」(学研)…いわゆるネタ本。かなりイイ!
 ・「型書き小論文」(学研)…あらゆるジャンルとその解答例集。Yasで書いたりNoで書いたり、と樋口先生の熟練したワザを堪能できる。樋口先生は、まるで右にも左にも自由に打球を飛ばすイチローのようだ。
 ・「現代文試験に出る読解ワード300」(KKロングセラーズ)…この本のいいところは、ただ用語を羅列するだけでなく、その意味や背景を解説しているところ。現代文はもちろん、小論文、さらには英語長文にも役立つ。
 ・「早わかり入試頻出評論用語」(語学春秋社)…「ためになる本」とはこういうのを言うのだろう。学ぶというより、読んでほしい一冊。
 ・「日本語練習帳」(岩波新書)…口コミでベストセラーになった本。内容の良さは世間が認めている。正しい日本語の使い方をこれで学ぼう。
 ・「早慶に出る英単語」(光文社)…和田秀樹著。英単語集だが、かなり「読む」要素が濃い。豆知識を蓄えられるので、小論文に有効だ。もちろん、同時に英語の勉強にもなる。

早稲田への憧れ

2006年05月19日 | 体験録
 私が早稲田に憧れた根本的な理由を書こう。それは、早稲田出身の祖父の影響である。
 私は、祖父に可愛がられた。特に幼少の頃は、家にあるおもちゃはほとんど祖父に買ってもらっていた記憶がある。「子供を甘やかせると良くない」という説があるが、それはあくまで親が守るべきことであって祖父ではない。実際、私の親はおもちゃをあまり買ってくれなかった。
 たとえば、私が小学校一年の頃、あるアニメのグッズがどうしても欲しくて、父にねだったことがある。が、多くの親がそうするように、私の父も買ってくれなかった。私はかなりふてくされた。父はその埋め合わせのつもりなのか、ある日出張先でおみやげを買ってきた。たしか鉄道のオブジェのようなものだったと記憶する。今思い出せばなかなか情緒のある良い品だったと思うが、私が欲しかったのはそんなものではなかったのだ。
 だから、そのおみやげを、壁に投げつけて壊した。
 映画やドラマの定番シーンで、「親がおみやげを買ってきて、子供は『ありがとう』と口では言うものの、実は全然うれしくなくて、ゴミ箱に捨てる」というものがあるが、あのときの私の心境はまさにそれだった。

 ――余談だが、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の「トゥルー・ライズ」の前半部分にこのシーンが出てくる。私は、二浪時にこの映画を見たが、このシーンのとき、私の幼少の頃の「鉄道のオブジェ」事件が鮮明に蘇った。そして、何か感じるものがあった。浪人二年目だということも影響していたのかもしれない――

 さて、そのアニメのグッズについてである。私は、結局は所有することができた。祖父が買ってくれたのである。
 買うことも買わないことも愛情表現には変わりはない。だが、子供にとっては、「買わない」という愛情表現は、なんとなく分かりはしても、はっきりとは感じ取れないものである。この場合も、幼少の私には、祖父の「買う」という行為の方が、直接的に訴えかけてきた。
 そんな祖父が卒業している学校が、早稲田という大学らしい、というのを知ったとき、私が早稲田に興味を抱いたのは自然の流れである。しかも、早稲田という名は色々なところで耳にする。
 当初、私は早稲田というのはそんなに大きな大学だとは思っていなかった。文字面からして、田舎臭いものを感じていた。田んぼの中に木造の校舎があるようなイメージである。だから、その「田んぼ大学」がいろいろなところで活躍しているのを見ても、感じたのは「畏怖」ではなく、「おじいちゃんの大学は小さいけど、勉強も運動も頑張っててすごいなあ」という妙な親近感であった。
 しかし、この「親近感」の影響は大きかった。私も、後に「早稲田は、日本を代表する大学である」ということを知るのだが、同じく「日本を代表する」ということで語られる東大や、慶応といった大学よりも早稲田の方に圧倒的な魅力を感じた。それは、この「親近感」の効果である。

 さて、祖父の性格についてだが、祖父は典型的な保守派である。保守派は、格式を重んじるものだ。だから私の祖父は、男の生き方の理想として、「伝統高校を出て、伝統大学を出て、公務員になる」ということをよく言っていた。祖父自身、地元の伝統中学(高校)から、早稲田の政治経済学部に行き、海軍に入った。そして中学の帽子、早稲田の角帽、海軍の帽子、軍服といったものを部屋に飾っていたし、私は祖父の家に行くたびにそういうものを見ていたので、私自身もそうありたいと願うようになった。
 だから、なんとしても伝統高校に行きたかったし、早稲田にも行きたかった。そうしなければ男ではないと思った。もちろん、海軍は無理だが、将来は公務員になりたいと思っていた。
 そして、まず伝統高校の入学は果たせた。このときの祖父の喜びようは想像以上であった。昔は一中と呼ばれていたらしく、一本線の帽子をかぶれることにステイタスがあったらしい。帽子は昔とは違っていたものの、それでも私は嬉しかった。いや、嬉しかった、というより、安心した。目標を果たせたことに安心しきったのである。
 その安心は、成績凋落という不幸な展開をもたらした。いわゆる「燃え尽き症候群」である。
 しかしそれ以外にも原因はある。まず高校の科目は難しい。いや、難しいだけならいい。私にとって一番つらかったのは、科目数が多いことだ。都会の私立のように、理系・文系に分けてそれぞれの教科を特化させるということはなかった。一応、クラスは二年から理系と文系に分けたものの、全科目を平均して重視するという方針には変わりはなかった。
 いいわけになるが、もしこの方針がなかったら、私も普通の生徒でいられたと思う。しかし、復習しても復習しても、消化していないうちに次へどんどん進んでしまう。全ての科目の復習を行うことは、ひとつひとつの力点が弱まることを意味する。そのようにして、私は常に消化不良状態で高校生活を送ってしまった。だから、劣等生になった。全校生徒450人の中で420位あたりをうろついていた。こんなことが本当にあるのか、と信じられなかった。極端なことを言えば、中学までの私の発想だったら、450人中20位くらいで当たり前だったので、420位などという順位が本当に存在するとは思わなかった。ちょうど、「神社のおみくじに大凶は存在しない」という定説を信じるかのごとくであった。そんな順位を取るヤツがいたとすれば、さくらの参加者がギャグで取っているのだろう、ぐらいの認識であった。
 しかし、目の前の私の成績表は、まさに「大凶」であった。現実とはどういうものかを学んだ。
 いくら優等生の時期が続いても、次の瞬間はどうなるかわからない。私と同じく、中学では優等生でならした者も、多くは私と同じように劣等生になっていた。劣等生になると卑屈になるもので、優等生時代は風格があった者も、劣等生になればゲームオタクになったり、隠れて煙草を吸うような情けないヤツに成り下がっていた。たいてい、髪はぼさぼさでフケもある。私も同じ元優等生として、そういう彼らの姿を見て悲しくなった。
 私は、煙草を吸うようなことはなかったが、それでもどこか「落ちぶれた感」が漂っていた。それは自分で分かる。バンドをやって友達とそれなりに楽しんでいたが、進学校にいるかぎり、勉強についていけているかどうかが一番の重要事項であることに変わりはない。そのことができた上でなら、部活で頑張ろうがバンドをしようが最低限の充実感は得られる。だが、私にはそれはなかった。一見楽しそうなことばかりやっているものの、いつも上滑りしていた。
 そして、三年生になった。早稲田などとうにあきらめていたが、冬に、考えが回帰した。将来の職業のことまでは、もうこだわりはなかったものの、せめて早稲田の牙城だけは守りたいと思った。それがあって初めて私の人生は充実するのだ、上滑りすることはなくなるのだ、とそう思ったのである。文学に興味があったので、志望は第一文学部にした。
 そして、三年間の浪人生活を経て、ようやく早稲田に入った。当初の予定とは狂い、第二志望の第二文学部であったが、嬉しかったのは確かである。
 さて、祖父の反応についてだが、夜間学部ということが気に入らなかったらしい。高校入学のときのような嬉しさは全くないようだった。
 もともと祖父は、私が一浪で國學院の文学部に受かったとき、飛び上がるようにして喜んでいたのだ。合格を告げた電話の向こうで、絶叫をあげていたのがよく聞こえた。祖父は、國學院という大学を認めていた。「あそこなら間違いはない、歴史も伝統もある立派な大学だ」と。
 しかし、私はそこを蹴った。そのとき、祖父は相当がっくりしたらしい。挙げ句の果ては夜間学部への入学である。夜間学部は、祖父にとって格式を感じられない学部である。たとえ早稲田であろうと、夜間なら何の意味もない。そういう反応だった。
 ちょうどその頃、祖父は体調を悪くした。高校のとき祖父は入学式に来てくれたが、同じように早稲田の入学式にも来てもらいたかった。しかし、来なかった。が、もし体調が良かったら来たかというと、それでも祖父は来なかっただろう。寂しい気もしたが、私の中では、「来なかったのは体調のせいなのだ」ということにしてある。
 祖父は、私が早稲田を卒業して数日後に亡くなった。骨と一緒に祖父の角帽も燃やそうかと思ったが、それはやめておいた。燃やしたのは、海軍の帽子である。

なんちゃって哲学―続き

2006年05月17日 | 各論
 ここから時代を一気に飛んでみよう。近代ヨーロッパの哲学を見てみたい。このあたりからが、私たちが「哲学」と聞いてよくイメージするものである。
 大きな流れとしては以下の三つだ。つまりイギリスの経験論、フランスの合理論、そしてドイツの観念論である。
 簡単に言えば、思想が「経験」というやや古代的な考えから、「合理」という近代的な考えへ進んでいき、ついにはそれらを融合させた「観念論」へ行ったのだ。
 イギリス経験論は、ベーコンやロックが代表的人物だ。様々な経験からひとつの法則を導き出す、「帰納法」を提唱した。
 フランス合理論は、デカルトとライプニッツが代表的人物である。そしてまさに、このデカルトの合理主義こそが、現代に続く「西洋的なものの考え方」の起源なのだ。
 この、合理主義の「理」とは、理性のことだ。ただ、注意してほしい。この「合理」とは、私たちがよく使う「合理的」という言葉とは、少し違うのだ。
 普通、私たちが「合理的」と使う場合は「無駄がない」、というような意味だが、ここではそうではなく、「人間にはもともと理性があるから、その人間の理性を信用しようではないか」というような意味なのだ。
 いわば、性善説にも似た意味を含んでいるのである。
 「合理主義」がニュースを騒がせた例としては、戸塚ヨットスクールの戸塚宏氏がしばしば「合理主義」を批判していたことがあげられる。
 戸塚氏は、「人間にはもとも理性はない。だからその理性を教育によって作らなければならない」と主張していた。その中のひとつとして、体罰容認論も掲げたわけだが、マスコミはその「体罰」という言葉だけを切り取ってセンセーショナルに伝えてしまい、結果、戸塚氏の主張したいところと別の方向へと報道が向かってしまった。
 こういう報道になってしまった原因は、戸塚氏が世論を見方につける語り方を心得ていなかったこともあるが、それにしても戸塚氏は誤解されすぎた。

 戸塚氏の言うとおり、デカルトの合理主義、すなわち西洋的なものの考え方は、完璧ではない。その証拠に、人間の理性を信じた結果、様々な事件が起きている。特に、理性を形成することができていない少年の段階での犯罪は、未然に防げるものばかりである。私は、その意味においては戸塚氏の主張するところを支持したい。
 何も、西洋だけが素晴らしいのではない。東洋的なものの考え方も、同じくらい素晴らしいのである。これから、新時代へ向かっていく中で、この二つを融合することが、私たちの使命だと言えるかもしれない。

 さて、そのデカルトについてである。
 デカルトの言葉で有名なのが、「われ思う、ゆえにわれあり(コギト=エルゴ=スム)」である。この意味を書こう。
 ――真理というものは、疑う余地のないものでなければならない。こう考えると、世界のあらゆる物事は、いくらでも疑うことができる。しかし、自分が今疑っているということだけは、間違いないことだ。このことから、少なくとも「自我」というものは存在するはずだ――そういう意味の言葉である。
 デカルトの著書としては「方法序説」が有名だ。また、押えておきたいのは「物心二元論」という考え方である。これは、人間を、自我と肉体に分けた考え方である。

 次に、カントについてである。
 カントは、ドイツの哲学者だ。著書は「純粋理性批判」が有名で、これは現代の哲学者が一度は通る書だと言われている。
 カントは、経験論と合理論を批判して、観念論を唱えた。
 カントの特徴としては、批判的なことである。ことに、人間の認識能力を疑った。デカルトのように、人間の理性を信用するのではなく、人間が認識するものは主観的なものに過ぎないと説いたのだ。
 これはつまり、「目の前に見えるものの全て、たとえば山や海、といったものは、山や海そのものではなく、これは山だと人間が思いこんでいるという主観を通して認識されたものに過ぎない。だから、人間の理性や自我では、世界そのものを認識することはできないのだ」という考え方である。
 カントはこの先へ進み、人間が認識するものは主観的だからこそ、人間の理性的能力が重要になってくるのだ、という考えに辿り着いた。そしてカントの思想は道徳・倫理的な色彩が色濃くなった。
 そのカントの観念論をさらに発展させたのがヘーゲルである。へーゲルは、カントの観念論に弁証法を導入して発展させた。
 弁証法とは、テーゼとアンチテーゼ、つまり肯定と否定とをぶつけることによって、より高い統一的存在を発見しようとする方法である。この思考の動きを「止揚(アウフヘーベン)」と呼ぶ。
 このようにしながら、歴史や世界の中で存在する「人間」の本当の意味をヘーゲルは探ろうとした。

 時代をさらに飛ぼう。19世紀である。
 この時期に、キルケゴールによって実存主義哲学が始まった。
 実存とは、現実存在の略で、俗的にいえば「自分の世界」というような意味だ。
 これは、ヘーゲルに代表されるような、「人間を、社会の中の構成物としてとらえる」のではなく、「個々の人間が持つ、交換不可能なその人だけの世界というものがあるはずで、人間はそこに存在している」という考え方だ。
 キルケゴールの思想の特徴は、絶望的な色が濃いことである。信仰も、個々の人間が抱える絶望の中から生まれると主張している。
 キルケゴールの著書の代表は、「死に至る病」である。

 後に現れた実存主義者の代表としては、ニーチェ、ヤスパース、サルトル、ハイデガーがいる。
 ドイツの哲学者、ニーチェの有名な言葉は、「神は死んだ」である。ニーチェはキリスト教を批判した。
 そして、神に変わるものとして人間自らが、「超人」となってたくましく生きようとしなければならない、と説いた。
 ハイデガーは、第一次世界大戦後のドイツの思想に大きな影響を与えた。ナチスを支持したため、戦後、大学を追放された。著書は「存在と時間」である。この書は、二十世紀最大の哲学書といわれている。