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フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

仏教の「無記」という考え方

2009年09月20日 09時38分11秒 | 社会・政治・思想哲学

 恐山で禅僧をしている南直哉氏の本を読んでいたら、恐山のイタコと仏教の無記の思想は、基本的に相容れない考え方だとの発言があった。
 たしかにそうだろうなぁと思う。
 
 「無記」とは、形而上学的な問題について、判断を示さず沈黙を守ることである
 簡単に言えば、死後の世界とか宇宙の果てなどの答えられない問題については答えないという態度である。なぜなら、仏教の目的は実際に存在する苦しみを取り除くことにあり、そのような問題(形而上学的な)に答えても、なんら苦しみは解決しないからである。

 ちなみに、形而上学(けいじじょうがく)とは、感覚ないし経験を超えた世界が存在するとし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である。世界の根本的な成り立ちの理由や物や人間の存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものについて考える。

 古代インド人は輪廻転生を信じており、釈迦はこの考え方に否定的だったと言われている。しかし後世の仏教界は輪廻転生という考え方を受け入れていく。
 この無記と輪廻転生は矛盾する。しかし、仏教の目的は苦しみを取り除くことにある。だから、輪廻転生を信じることによって、もし今の苦しみが取り除けるなら、理論の正しさを犠牲にしても、否定はしない、ということなのだろう。

 

 

 

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