■ はじめに
そもそも「人が瞑想をしよう」と思うとき、そこには「現状をもっと良くしたい」という意図が少なからずあると思いますが、この”何もしない”というエクササイズは「聞こえる音・見えるもの・不意に現れる思考」など、たったいま否応なしに勝手に認識されてしまう「この今の様子」に、何も手を加えずにそのまんま放っておく無為のエクササイズになりますので、別名『ほったらかし瞑想』あるいは「ノー解釈タイム」と言ってもいいかもしれません。
もしかすると『何もしなくていいなら簡単じゃない?』と思うかもしれませんが、実際にやってみると、これまで一般的な瞑想を行ってきた人やノンデュアリティなどの知識や体験があるほど、気づかないうちに何かしらの「すること(今の様子を理想の別の状態に変えようとする能動的な作為)」に自己同一化していることがありますので、力を向ける方向のようなものが分からずに、これでいいのかと不安になると思います。なぜかと言いますと「聞こえる音・見えるもの・不意に現れる思考など」たったいま否応なしに認識されてしまうものが、自主的に(あるいは能動的に)わたしが「聞いている・見ている・考えている」という固定観念をベースに認識されているからです。
一般的な瞑想は、例えば呼吸を数えたり、五感が認識するものを次々とラベリング(実況中継)したり、意識それ自体に気づき続けようとしたりと、何かしらの「すること」を必要としますが、このメソッドは、本当に何一つ手を付けずに全ての認識を「そのまんま放っておく」だけのことですので、実践中はいわゆる瞑想らしい心地の良い意識状態になろうと意図したり、より良い"何もしていない状態"になろうと様々な工夫を試みようとしたり、元もと存在していなかった「自分(主体)という観念」を一度つくり出して(認めて)再びそれを無くそうと努力してみたりせずに、音がしたらその音のまんま、自分という感覚が存在していて不満だという思考が出たら、その不満だという思考のまんま、心地良いという思考が出たら心地良いという思考のまんま、どんなものであれ全部そっくりそのまんま放っておくようにします。
※もちろん、そもそも何かを出来たり出来なかったりするような”私という主体”は存在しないはずだから・・というような思考も、他の思考と同等にそのまんま放っておいて頂ければと思います。
■ 実践:その1(すわって行う場合)
・姿勢姿勢はイスでも座布団でも結構ですので、身体に無理がかからないようにして坐ってください。
個人差はあるかと思いますが、アゴを軽く引いて背筋を伸ばし、骨盤を立てて、身体全体の余計な力を脱力して坐ると長時間坐れます。
※忙しくて10分くらいしか時間が取れない時は、姿勢という概念は放り投げて、ただ坐ってください。ダラっと背中が丸くなって首が左右どちらかに傾いたままでも結構です。習慣化を優先します。
目は、眠ってしまわないようにするために自然に開けていてください。焦点は意識して合わせようとしたり、ぼやけさせようとしたりせずに、力を抜いて自然の成り行きに任せてください。
※どうしても目を閉じて坐りたい場合は、軽く閉じてまぶたの裏側が自然と見えているような状態でも結構です。習慣化を優先します。
・時間30分程度は坐って頂くことをおすすめしますが、日々確保出来る時間はそれぞれだと思いますので、まずは5分でも10分でもスキマを見つけて毎日コツコツ坐ってみてください。
※要点は”坐る”ということが、ご飯を食べることと同じように”習慣”になっていくことです。(※長くても40分くらい坐ったら、一度身体をほぐしてあげてください)
・思考について”何かをどうこうしよう”というような意図は一切持ち込まないようにして全て放っておきます。(もちろん”放っておこう”という意図を継続して持ち続けようとはしません)
音がしたら音がしたまんま、思考が出たら思考が出たまんまですので「どこか遠くで車のクラクションが長めに鳴ったのを部屋の中にいる自分が聞いた」という思考が出たら、それもそのまんまにしておきます。ただ、起こっている明確な事実としては「そういう音」と「そういう思考」があるだけです。
もちろんこの”何もしない瞑想”について関係がありそうな思考("何もしない"がキチンと出来ているのか?など)が出ても、その他の思考と全く同じように出たら出たまんま、一切手を付けずに放っておきます。
※この瞑想が少しでもより良く出来るための、意図(考えや工夫)は一切不要ですし、少しでも(どんな良さそうなものでも)それが持ち込まれると台無しになりますので、これまでの瞑想の知識は全て捨て切って、これ以上何も求めずに、ただ坐ってください。
・どうしても気になる思考他の思考とは一線を画すような、どうしても気になる疑問が出てきたとしても、その他の思考と同等に、連続性(前後)など無い単発の今の事実(疑問という思考と、どうしても気になるという思考)でしかありませんので、一切例外なく全てそのまんま放っておいてください。
思考の内容は、当然その日その日によって変化しますので、今日は思考が溢れて止まらなかったとか、今日は思考がほとんど出てこなかったなどと「良い悪いの判断」はせずに、どんな日でもその通りの思考を垂れ流しっぱなしで一切相手にせず、ただ坐って頂けたらと思います。
■モチベーションについて
実践中は、もちろん何も面白いことはありませんし、励まされるような”手応え”のようなものもありませんので、”自分”と呼ばれるものにとっては、全くもってモチベーションがあがる要素はありません。ですが、毎日少しでもコツコツ実践することによって、この瞑想がある種”習慣化”されることになりますので、モチベーションという概念が持ち込まれる必要が徐々になくなっていきます。
「自他に分離は無いのだから本来求める必要は無い」と、思考では理解しているつもりでも、やはり根底には気付かないところで”求める思い”というものが根強く横たわっているものですので、この習慣化という力を借りて、「何も求めずにただ坐り始め、何にも一切手をつけずに放っておく」というシンプルなエクササイズにたんたんと任せて頂ければと思います。
■ 実践:その2(日常生活で行う場合)
日々の暮らしで忙しく、なかなか坐る時間がとれないという方や、性格的にどうも静かに坐っていられないという方には、日常生活の動きの中で行うエクササイズをおすすめします。
それでは「食器洗い」の場面を例に見ていきましょう。
まず、お皿を洗っている最中に認識されることは、水と手が触れること、お皿と手が触れること、スポンジと手が触れること、ジャーという音、ゴシゴシという音、キュッキュッという音、何らかの思考、足の裏の感覚、動く腕、かがむ腰などで、これらをまとめて「食器洗い」と呼んでいます。
ですが、実際に認識されていることは全て「それぞれ単体の認識そのもの」で、ここには特別な連続性や「食器洗い」というグループ化ようなものは存在しないということが分かると思います。
認識されることは、ジャーの音であり、キュッの音です。もっと言うと「ジャーの音を私の耳が聞いた」ではなく、シンプルに「ジャー」これのみとなります。
ポイントは、耳が意図してこれらの音を積極的に聞こうとしているわけではなく、いきなり「ジャー」があり「キュッ」があるのみ、という現実です。
もちろん触覚も思考も他の認識も、すべて例外なくダイレクトに単体の認識があるだけで、連続性やグループ化のようなものは元々ありません。
ですので、実践中は「どんな認識も一切例外無くそれぞれ単体の認識をそのまんま放っておく」ことになります。
もしかすると、これだと「食器洗い」が上手く出来ないんじゃないかと感じるかもしれませんが、実際にお試し頂くと「意図的にコントロールしようせずに、そのまんま認識をほったらかしていても、いつも通りに洗えている」ということが分かると思いますので、ぜひお試しください。
※実践1と実践2は、どちらも「向き不向き」があるとは思いますが、まずはどちらも「最低10回づつ」はお試し頂けたら幸いです。
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