うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

おもに運動に関して、気ままに話したいと思います。
のんびり更新しますので、どうぞ気長にお付き合い下さい。

男子バレーがアトランタ五輪出場を逃してから14年(下)

2010年05月06日 | 団体球技(室内)
東京でまさかの悪夢を味わってから僅か12日後の1996年5月3日、ギリシャのパトラスで世界最終予選が開催されました。日本は、スペイン、ギリシャ、ポーランドと同じC組に入りました。予選方式は1回戦総当りのリーグ戦で、首位チームのみが五輪出場権を獲得するレギュレーションでした。なお、この当時の世界ランキングは、ギリシャが10位、スペインが16位、ポーランドは21位、そして日本が4チーム中最上位の6位でした。

当初の私の対戦相手の感想は、「古豪ポーランドは既に没落し、あとは互角。高さやパワーでは不利だが、イタリアやオランダのような際立った強敵が不在なので、何とかなるのかな・・・」と淡い期待を抱きました。ところが、甘っちょろい素人考えを見透かしたかのように、テレビで解説者の川合俊一が「日本は敵地で欧州勢と戦うので、とても厳しい戦いを強いられる」とキッパリと断言。あのおチャラけた川合が真顔で力説するんだから、これは本当にヤバイと思いましたね。

案の定、この悪い予感は見事に的中します。それも、アジア予選とは違った形で思い知らされます。たしかに、この3ヵ国は当時は世界のトップクラスではなかったです。しかし、スペインは1992年に五輪、ギリシャは1994年に世界選手権をそれぞれ地元で開催したので、代表チームがとても強化されてました。70年代に五輪と世界選手権の2冠を達成したポーランドは、80年代半ば頃に没落し、1989年に共産主義体制が崩壊してからは更に低迷します。だが、90年代半ば頃には、ポーランドだけでなく低迷傾向だった東欧勢が徐々に復興しつつありました。また、欧州勢はプロ選手が多かったのに対し、日本は国内リーグのプロ化構想が頓挫。そして、アジア予選敗退のショックを引きずっていた日本は、箱庭でしか戦えないひ弱さが露になります。



初戦の相手はスペイン。中垣内を先発から外して泉川と交代で起用した日本は、スペインにいきなり2セットを連取されます。スペインには「バレー界の貴公子」と呼ばれたラファエル・パスカル(のちにVリーグのパナソニックにも加入)が在籍し、強打を散々浴びせます。第3セットもスペイン優勢に進み、マッチポイントを握られますが、なんとか日本は16-14で奪い返します。その勢いで日本は第4セットも15-10で奪取。しかし、日本は第5セット(当時は第5セットのみラリーポイント制)で、前年イタリア・セリエAのトップスコアラーだったパスカルのジャンプサーブの餌食になり、いきなり0-6と大量リードを奪われて出鼻を挫かれます。結局、8-15で落とした日本は痛恨の黒星を喫しました。

翌日のギリシャとのアウェー戦では、日本は勝利して1勝1敗になります。だが、日本はこの試合では2セットを幸先よく連取しますが、第3&4セットを立て続けに落としてフルセットに縺れ込んでしまい、辛うじて勝利をものにしました。この2戦を通して欧州の中堅国の急成長ぶりを、まざまざと見せ付けられた格好となりました。一方、日本はリードすると油断し、先行を許すと慌てふためき、肝心の勝負所を堪えきれない悪癖をまたも繰り返しました。

日本はギリシャ戦でセットを余計に失ったこともあり、最終戦のポーランド戦はストレートで勝利するしか、自力で五輪出場が出来なくなりました。なお、3-1の勝利の場合は、日本の次の試合に行われるギリシャvsスペインの結果次第。3-2の勝利なら、セット率の関係でポーランドが五輪出場権を獲得。つまり、日本は開幕2連勝中のポーランドに2セットを失った時点で、結果に関係なくアトランタ行きが絶たれる事になり、圧倒的に不利な状況に追い詰められました。



そして、今からちょうど14年前の1996年5月5日。正確には、日本時間だと日付は変わって5月6日になってましたが、ガラ空きの会場で日本は五輪出場に一縷の望みを賭けてポーランドに挑みました。ちなみに、黄色い歓声に包まれた東京での試合とは全く異なり、現地に駆け付けた日本の応援団の人数はたった20人だったそうです。日本とポーランドはともに1970年代に五輪で金メダルを獲得した国であり、1976年モントリオール五輪の準決勝では、日本が2時間半に及ぶ死闘の末にポーランドに敗れ、五輪2連覇を断たれた因縁があります。

ポーランドは12人中10人が身長2m台の大男揃い。高い打点からのジャンプサーブを駆使し、優位に立ちます。一方、日本は慎重にサーブを置きにいってるので、相手にとってはあまり脅威にはなりませんでした。第1セット日本は中垣内の活躍で10-9でリードします。しかし、その後5連続失点を喰らい、13-15で第1セットを失います。日本はこの時点で自力出場が消滅。崖っぷちに立たされた日本は、中垣内と青山の奮闘で15-11で第2セットを奪い、なんとか踏み止まります。

そして第3セット。エースの中垣内の打点が段々低くなり、高いポーランドのブロックに次第に捕まりはじめます。後が無くなった日本は泉川を投入するものの、悪い流れを変えられませんでした。そして、ポーランドに10-14とリードされてセットポイントを握られた後、日本のブロックがアウト。この瞬間に日本のアトランタ行きが完全に消滅。試合終了を待たずしてポーランドに引導を渡された日本は、ロサンゼルス五輪から続いていた五輪連続出場記録が3で途絶えました。



ちなみに、この試合を中継していたフジテレビは、この第3セットが終了したと同時にテレビ中継を途中で打ち切りました。さすがに深夜だったので、僅かな可能性を信じて眠い目をこすって応援していた私も怒る気力さえ完全に失せていたので、たとえそのまま中継を続けていたとしても観る気は全くありませんでした。

しかし憤激が頂点に達するのに、時間はそんなに掛かりませんでした。一夜明けた次の夕方、黒鷲旗・全日本選手権決勝戦(なお、カードはNEC対富士フイルム)がTBSで放送があったのでぼんやりとテレビで観てましたが、解説者の顔を見て私は思わず絶句。なんと、そこに居たのは、1月に代表監督の職務を放り投げたあの大古誠司だったからです。

“敵前逃亡”したA級戦犯は、番組の冒頭で前夜の敗戦を少しだけ触れてましたが、まるで他人事のようなコメントに終始。いちバレーファンとして、腸が煮えくり返るほど怒りを覚えました。いくら結果を出せなかったとはいえ、これでは前監督が見捨てた選手達の苦労が全く報われず、犬死のような扱いでしたから。同時に、内紛に明け暮れた日本協会だけでなく、栄光に彩られた松平一家に対しても強烈な不信感を覚えました。



奇しくも、この予選の敗因は、史上初めて五輪出場を逃したモスクワの時と共通する事がいくつかあります。運営面で独断専行の姿勢が目立つ協会と代表チームに選手の供出を渋る国内リーグの各クラブが対立し、協力関係を上手く築けなかったこと。目先の勝利に拘泥するあまり、次世代の育成を怠ったこと。そして、協会幹部同士による不毛な内紛です。余談ですが、監督の辻合はモスクワ行きを逃した時の代表選手です。ただ、モスクワの時と状況が大きく異なるのは、国内リーグのプロ化に頓挫して世界の潮流に乗り遅れた事です。さらに、モスクワは世代交代が失敗してチーム状態がどん底でしたが、アトランタは人材が揃ってチームとしても完成されてました。

なので、チームとしてピークを過ぎた日本は、アトランタ行きを逃して以降は予想以上に長い低迷を強いられ、暗黒時代に突入します。このアトランタを始点に3大会連続で五輪予選敗退を喫し、代表チームだけでなく、バレー人気も著しく低迷。経済不況もあり、企業チームの休廃部が相次ぎ、少子化も相まって競技人口も減少。そして、五輪を知らない「空白の世代」が生み出されます。久しぶりに出場した北京五輪では決勝トーナメント進出が期待されましたが、経験不足が祟って5戦全敗で予選リーグ敗退。やはり、16年も五輪から遠ざかっていた後遺症は相当深刻でした。

昨年は、9月にアジア王者に2大会ぶりに返り咲き、11月のグラチャンでは因縁のポーランドを破って3位に入賞するなど、日本男子は世代交代が進んでそれなりにレベルアップしてます。おそらく現時点で五輪予選を実施したら、日本が勝ち抜く可能性は十分にあると思います。ただし、14年前と同様に、相手を舐めて油断したり、協会内の足並みが乱れたら、同じ過ちを繰り返すのは必至です。もちろん、世界の潮流に乗り遅れたら、世界のトップから更に引き離されます。だからこそ、我々はあの屈辱の記憶を風化させてはならないのです。大事な物を失ってから、その価値の大切さに気付くのでは、余りにも遅すぎますから。



▼男子バレーボール・アトランタ五輪予選の日本の成績

・アジア予選(ソウルラウンド)
1996/04/12 ○3-0 豪州
1996/04/13 ○3-0 中国
1996/04/14 ○3-0 韓国 

   〃   (東京ラウンド)
1996/04/19 ●0-3 中国
1996/04/20 ○3-0 豪州
1996/04/21 ●1-3 韓国 

アトランタ五輪アジア予選の最終成績
1位・韓国、2位・日本、3位・中国、4位・豪州
(韓国が五輪出場権を獲得。日本は4勝2敗で2位に終わり、世界最終予選へ)


・世界最終予選C組(@ギリシャ・パトラス)
1996/05/03 ●2-3 スペイン
1996/05/04 ○3-2 ギリシャ
1996/05/05 ●1-3 ポーランド ←このポーランド戦の第3セットを落とした時点で、日本のアトランタ行きが消滅

アトランタ五輪世界最終予選C組の最終成績
1位・ポーランド、2位・ギリシャ、3位・日本、4位・スペイン
(ポーランドが五輪出場権を獲得。日本は1勝2敗で3位に終わり、モスクワ五輪以来2度目の五輪予選敗退)


【アトランタ五輪予選代表選手】(アジア予選と世界最終予選は同じメンバーです)
南由紀夫(富士フイルム)、中垣内祐一(新日鉄)、松田明彦(日新製鋼)、真鍋正義 (新日鉄)、荻野正二(サントリー)、南克幸(旭化成)、青山繁(富士フイルム)、佐々木太一(サントリー)、竹内実(NEC)、 大竹秀之(NEC)、泉川正幸(東レ)、宮崎謙彦(松下電器)
監督:辻合真一郎、コーチ:岩島章博


・関連記事
男子バレーが史上初めて五輪出場を逃してから、今日でちょうど30年
名勝負数え歌Vol.11 「途絶えた記録(上)」
名勝負数え歌Vol.12 「途絶えた記録(下)」
女子バレーが史上初めて五輪のメダルを逃してから22年(上)
女子バレーが史上初めて五輪のメダルを逃してから22年(中)
女子バレーが史上初めて五輪のメダルを逃してから22年(下)


アトランタ五輪アジア予選の詳細の記録
  アトランタ五輪世界最終予選の詳細の記録
  アトランタ五輪詳細な記録


【参考資料】読売新聞、朝日新聞、毎日新聞

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
プロ化を否定する組織に未来はない (こーじ)
2010-05-07 00:17:40
 バレーはアマチュア時代の栄光があった分だけプロ化には消極的でしたからね。
 大林と吉原がイタリアに行くと‘そこまでしてカネが欲しいか’などと小島氏は言ってましたし・・・・・

 しかも代表選手は国内でプレーすべしなどと
いうルールは作るし、一時期はVリーグで外人選手を締め出したりもしてました。
 まったく逆噴射的リアクションのオンパレードでしたからね。

 とはいえ男子の選手達もプロを望んでなかったという話を吉井妙子さんが当時レポしてましたから救いようがないです。

 ちなみに加藤がシドニー五輪の予選で敗退した後にイタリアに乗り込んだら契約金が200万だったそうで‘日本はバレーをやっているのか’などと言われたそうですね。
 これは屈辱以外のなにものでもないですよ。
 
 それでもプロ化を躊躇していたのですから協会の時代錯誤ぶりには目を覆いたくなります。

 やはり70年代に強くても今弱かったら相手をしてくれないという事でしょう。

 因みに私の地元では幸か不幸か最終予選のTV中継はなかったので、五輪出場権を取れなかった試合を見ずに済みました。
 
返信する
コメントありがとうございます (猫なべ)
2010-05-08 00:28:06
こんばんは、こーじさん

日本は過去に偉大な栄光を築いたことが、かえって自分達を
「一等国」だと勘違いさせて道を誤らせたのかもしれませんね。

確かに、当時の日本は不断の努力と先進的な取り組みで栄光を勝ち得たと思います。
だけど冷静に考えると、この当時にバレーをまともに強化していたのは
日本と共産圏ぐらいだったので、世界的に普及していたとは言い難いです。

しかも、当時はまだアマの時代でしたから、企業アマの日本はまだ有利な体制でした。
ハッキリ言って、70年代の日本は先行者利得を活かして「隙間産業」で勝ったに過ぎないと思います。

ただ、日本はなまじ過去に成功体験があるから、昔のやり方に拘泥するあまり、
改革に後手を踏むなど、完全に思考停止状態。
守旧派の人が、選手の海外移籍だけでなく、外国人指導者を極度に嫌うのもその表れですね

結局、こうした鎖国主義的な姿勢が箱庭でしか戦えない、
ひ弱な人間を生み出していると思います。
なんだか、「ガラパゴス化」して国際標準からかけ離れた近年の日本製品を彷彿します。

こんな事を言うと、当時をご存知の方からお叱りを受けますけど、
70年代に日本は男女とも金メダルを獲らない方が良かったとすら思う時もありますね。

カビの生えた過去の栄光を捨てる覚悟で臨まない限り、未来の成功は無いと思います。
現在の男子柔道も、バレーが失敗した同じ道を辿るような気がしますね。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。