
皆様はこの写真を覚えてますか? これは、一昨年の2009年6月17日に豪州のメルボルンで行われたサッカーの南アフリカW杯アジア最終予選の豪州vs日本戦の豪州サポーターの応援風景です(→この試合の詳細はこちら)。ちなみに、豪州のサポーターが掲げている横断幕に書かれている文字は、「NIPPON FOREVER IN OUR SHADOW」と書かれております。訳すると日本は永遠に俺達の影という意味です。たしかに、豪州の方が日本よりも東に位置しているので日の出はかの国の方が早いですが、この横断幕は日本を舐め切った侮辱的な表現なので、これをテレビで見た時はさすがに怒りを覚えましたね。とはいえ、消化試合で1.5軍同士の対戦だったこの試合は、日本は豪州に1-2で逆転負けちゃいましたが・・・。
過去に夏季五輪を2度開催している豪州はスポーツがとても盛んで、五輪メダル獲得数でも世界の五指に入るほどの実力を持つ世界的な強豪国です。それに、人種構成が白人の移民が主流だけあって、国民の体格とフィジカルは非常に優れてます。なので、日本と豪州とでは総合的に実力差があるのは仕方がありません。日本が得意としている競技においても、彼らと競合するものがいくつかあり、長年に渡って激しい抗争を繰り広げてきました。ただ、日本がこれらの分野で豪州と本当の勝負の懸かった状況で戦うと、いつも彼らに負けているような気がします。しかも、どの競技にも共通しているのは、後味の悪い負け方なので後の戦いに尾を引いてます。中には、相手の戦力を読み違えて過小評価し、伏兵に屈したのもあります。それだけに、あの横断幕は、過去の屈辱の歴史を嫌でも想起させられるものがあります。
1950~1960年代までは、日豪両国は個人種目で激しい戦いを繰り広げてきました。中でも、当時の日本が最も得意としていた競技である競泳では、山中毅とマレー・ローズが激しく火花を散らしました。まだ17歳だった2人は、1956年メルボルン五輪の400m自由形と1500m自由形で激突。いずれの種目も山中は地元のローズに敗れて2位に終わります。その後も両雄は互いに世界記録を作ったりするなど、勝ったり負けたりの熱戦を繰り広げます。再戦となった4年後の1960年ローマ五輪。だが、コーチが帯同出来ずに調整に失敗した山中は400m自由形で再びローズに敗れて2位に終わり、1500mでも同国のジョン・コンラッズに敗れて4位に終わり、悲願の金メダル獲得はなりませんでした。その後の日本競泳界は、1972年ミュンヘン五輪で田口信教と青木まゆみが金メダルを獲得するまで長期間低迷を強いられます。同時に、日本の男子自由形は一向に再建することなく、山中が現時点で最後の日本の五輪メダリストとなってます。
同じ時期、ボクシングでは、ファイティング原田がフライ級&バンタム級を制して日本人初の2階級制覇を成し遂げます。しかし、原田も豪州の壁に屈してます。1968年2月27日、日本武道館で行われたバンタム級の世界王座の5度目の防衛戦となった伏兵ライオネル・ローズ戦では、過酷な減量苦の影響もあって精彩を欠いた原田は9回にダウンを喫したのが響き、僅差の15回判定負けで王座陥落。その後、ローズは初防衛戦では東京五輪金メダリストの桜井孝雄にも15回判定勝利してます(なお、ローズはWBC世界J・ライト級王者だった沼田義明には判定で敗れてます)。翌1969年7月28日、フェザー級に転向した原田は3階級制覇を賭けてジョニー・ファメションに敵地シドニーで挑戦。合計3度のダウンを奪った原田の勝利かと思われたが、露骨な地元判定と杜撰な運営のおかげでまさかの敗北。両者は半年後の1970年1月6日、東京体育館で再戦するも、体力的に衰えた原田は14回KO負けで挑戦失敗。結局、この試合を最後に引退しました。
1970年代以降は、日本のスポーツ界の低迷や豪州の国を挙げての本格的な選手強化も相まって、両国が伍して戦える競技をあまり見掛けなくなりましたが、新世紀に入ってからは団体球技で激突することが多くなります。中でも、2004年アテネ五輪は忘れることが出来ない苦い記憶が2つあります。それは、野球とソフトボールです。「9戦全勝で金メダル」と大見得を切った野球は、予選リーグで最大のライバルのキューバに6-3で勝利しながら、翌日の豪州戦では4-9と完敗。日本は予選リーグを6勝1敗で首位通過するも、カナダとの予選リーグ最終戦で主力を温存して0-11と“わざと負けて”4位通過した豪州と準決勝で再び対戦。しかし、今度は打線が湿って松坂大輔を見殺し。豪州のリリーフだった当時阪神に在籍のジェフ・ウィリアムスを打ち崩せず、中畑清監督の拙い采配も追い討ちを掛けて0-1で惜敗し、現時点で最後となる銅メダルに終わりました(→詳細はこちら)。ソフトボールは、予選リーグの初戦で初回に2点を奪いながら、その後エースの上野由岐子が4回に逆転2ランを浴び、2-4でまさかの黒星発進。貧打に喘いだ日本は、なんとか予選3位で決勝トーナメントに進出し、3位決定戦で豪州と再び対決します。しかし、0-3で返り討ちに遭い、結局3位に終わりました。日本の悲願の金メダルは4年後の北京五輪にお預けとなります。
オセアニア大陸に属する豪州ですが、競技によってはアジアに属する競技団体もあります。そのせいか、日豪両国は、世界の頂点を賭けた戦いだけでなく、世界の切符を賭けた戦いでも頻繁に争うようになります。かつて、五輪で金メダルを獲得した経験のある男子バレーボールは、1970年代後半以降は中国と韓国と激しくアジアの覇権を賭けて激しく争いましたが、新世紀以降は地元開催だったシドニー五輪で強化された豪州もアジアの覇権争いに参戦します。東京開催だったアテネ五輪予選では、日本はフルセットの末に豪州に敗れたのが響いて3大会連続で本大会出場を逃す失態を犯し、欧州のプロチームに在籍している選手を多く揃えた豪州に奪われました。女子サッカーも、5年前と昨年のアジア杯では豪州と世界の切符を直接賭けて戦い、2度とも敗れて遠回りを余儀なくさせられたことがあります。いずれの試合も体格とフィジカルに勝る豪州に自分達のサッカーを中々させてもらえずに、敗れるべくして敗れました。今後も、豪州は巨大な壁となって我々の前に大きく立ちはだかるでしょう。
そして、男子サッカーがドイツW杯の1次リーグ初戦で1-3の痛恨の逆転負けを喰らった屈辱を触れないわけにはいかないですね。日本は、前半26分に中村俊輔が右サイドから上げたクロスボールに、高原直泰と柳沢敦とGKマーク・シュワルツァーが交錯。ボールがそのままゴールマウスに吸い込まれるラッキーな得点で前半を折り返します。しかし、後半にフース・ヒディンク監督の罠にまんまと嵌ります。前線へ飛び出すティム・ケーヒルを中盤に入れ、次いで長身FWジョシュア・ケネディ、ジョン・アロイージを時間差で投入。次々と繰り出すカードに忙殺された日本は、対応が整わない間に次の選手が入って後手を踏み、ずるずるとDFラインが後退。相手にこぼれ球を拾われ、更にジーコ監督の不可解な選手交代で一気に苦境に陥ります。その後はご存知の通りに、CKからのこぼれ球を押し込んだケーヒルの得点を皮切りに、試合終了まで残り6分間で立て続けに3ゴールを奪われてまさかの逆転負け。日本は、白星を皮算用にしていた相手に惨敗を喫したので、甚大なダメージを被ってチームが完全に崩壊。事実上の終戦となりました。
男子サッカーがカイザースラウテルンで屈辱を味わってから今年で5年になりますが、ついにあの時の報復をする機会が巡って来ました。たしかに、今大会はアジア杯なので大会は異なりますが、タイトルを直接懸けた本気モードの真剣勝負であることには変わりはありません。世代交代が殆ど進んでない豪州は、仇敵ケーヒルを含めあの試合のメンバーが大勢名を連ねてます。それに、新参者に大陸王座を目の前で奪われるのは、大会最多タイの優勝経験のある国としてはこの上ない屈辱です。なので、因縁のドーハの地で今回彼らに勝てば、日本スポーツ界が長年味わってきた過去の屈辱を少しだけ晴らせるような気がします。是非とも、最強の敵を倒してアジアを制したいです。それに、我が国は「日出ずる国」の美称を持つからこそ、あの侮辱的な横断幕の借りを返さなくてはならないのです。
▼日本の豪州との過去の全対戦成績
(通算対戦成績18戦5勝7敗6分(※PK戦は引き分け扱い、日本サッカー協会が認定した試合です))
1956/11/27 ●0-2 メルボルン五輪本大会・1回戦(@豪州/メルボルン)
1968/03/30 △2-2 国際親善試合(@豪州/シドニー)
1968/03/31 ●1-3 〃 (@豪州/メルボルン)
1968/04/04 ○3-1 〃 (@豪州/アデレード)
1969/10/10 ●1-2 メキシコW杯アジア1次予選(@韓国/ソウル)
1969/10/16 △1-1 〃 (@韓国/ソウル)
1994/05/22 △1-1 国際親善試合(@広島/広島ビッグアーチ)
1994/09/27 △0-0 〃 (@東京/国立競技場)
1995/02/15 ●1-2 〃 (@豪州/シドニー)
1996/02/10 ○4-1 〃 (@豪州/ウォロンゴン)
1996/02/14 ●0-3 〃 (@豪州/メルボルン)
1998/02/15 ○3-0 〃 (@豪州/アデレード)
2001/06/07 ○1-0 第4回コンフェデレーションズ杯日韓大会・準決勝(@横浜/横浜国際総合競技場)
2001/08/15 ○3-0 AFC-OFCチャレンジ(@静岡/エコパスタジアム)
2006/06/12 ●1-3 ドイツW杯・1次リーグ(@ドイツ/カイザースラウテルン)
2007/07/21 □1-1 第14回アジア杯東南アジア大会・準々決勝(@ベトナム/ハノイ)
(PK4-3)
2009/02/11 △0-0 南アフリカW杯アジア最終予選(@横浜/日産スタジアム)
2009/06/17 ●1-2 〃 (@豪州/メルボルン)
2011/01/29 ? 第15回アジア杯カタール大会・決勝(@カタール/ドーハ)
☆日本人初の3階級制覇を目指したファイティング原田だったが、露骨な地元判定と杜撰な運営でジョニー・ファメション戦でまさかの判定負け
(1969年7月28日 @豪州・シドニー)
☆ファイティング原田はファメションと再戦するも、無念の14回KO負けを喰らい、3階級制覇に失敗
(1970年1月6日 @東京体育館)
☆予選リーグでキューバに勝ちながら、2度も豪州に敗れて金メダルの夢が潰えた野球のアテネ五輪準決勝
(2004年8月24日 @オリンピック・ベースボール・センター)
☆永久に思い出したくない「カイザースラウテルンの悪夢」
(2006年6月12日 @ドイツ・カイザースラウテルン/フリッツ・ヴァルター・シュタディオン)
過去に夏季五輪を2度開催している豪州はスポーツがとても盛んで、五輪メダル獲得数でも世界の五指に入るほどの実力を持つ世界的な強豪国です。それに、人種構成が白人の移民が主流だけあって、国民の体格とフィジカルは非常に優れてます。なので、日本と豪州とでは総合的に実力差があるのは仕方がありません。日本が得意としている競技においても、彼らと競合するものがいくつかあり、長年に渡って激しい抗争を繰り広げてきました。ただ、日本がこれらの分野で豪州と本当の勝負の懸かった状況で戦うと、いつも彼らに負けているような気がします。しかも、どの競技にも共通しているのは、後味の悪い負け方なので後の戦いに尾を引いてます。中には、相手の戦力を読み違えて過小評価し、伏兵に屈したのもあります。それだけに、あの横断幕は、過去の屈辱の歴史を嫌でも想起させられるものがあります。
1950~1960年代までは、日豪両国は個人種目で激しい戦いを繰り広げてきました。中でも、当時の日本が最も得意としていた競技である競泳では、山中毅とマレー・ローズが激しく火花を散らしました。まだ17歳だった2人は、1956年メルボルン五輪の400m自由形と1500m自由形で激突。いずれの種目も山中は地元のローズに敗れて2位に終わります。その後も両雄は互いに世界記録を作ったりするなど、勝ったり負けたりの熱戦を繰り広げます。再戦となった4年後の1960年ローマ五輪。だが、コーチが帯同出来ずに調整に失敗した山中は400m自由形で再びローズに敗れて2位に終わり、1500mでも同国のジョン・コンラッズに敗れて4位に終わり、悲願の金メダル獲得はなりませんでした。その後の日本競泳界は、1972年ミュンヘン五輪で田口信教と青木まゆみが金メダルを獲得するまで長期間低迷を強いられます。同時に、日本の男子自由形は一向に再建することなく、山中が現時点で最後の日本の五輪メダリストとなってます。
同じ時期、ボクシングでは、ファイティング原田がフライ級&バンタム級を制して日本人初の2階級制覇を成し遂げます。しかし、原田も豪州の壁に屈してます。1968年2月27日、日本武道館で行われたバンタム級の世界王座の5度目の防衛戦となった伏兵ライオネル・ローズ戦では、過酷な減量苦の影響もあって精彩を欠いた原田は9回にダウンを喫したのが響き、僅差の15回判定負けで王座陥落。その後、ローズは初防衛戦では東京五輪金メダリストの桜井孝雄にも15回判定勝利してます(なお、ローズはWBC世界J・ライト級王者だった沼田義明には判定で敗れてます)。翌1969年7月28日、フェザー級に転向した原田は3階級制覇を賭けてジョニー・ファメションに敵地シドニーで挑戦。合計3度のダウンを奪った原田の勝利かと思われたが、露骨な地元判定と杜撰な運営のおかげでまさかの敗北。両者は半年後の1970年1月6日、東京体育館で再戦するも、体力的に衰えた原田は14回KO負けで挑戦失敗。結局、この試合を最後に引退しました。
1970年代以降は、日本のスポーツ界の低迷や豪州の国を挙げての本格的な選手強化も相まって、両国が伍して戦える競技をあまり見掛けなくなりましたが、新世紀に入ってからは団体球技で激突することが多くなります。中でも、2004年アテネ五輪は忘れることが出来ない苦い記憶が2つあります。それは、野球とソフトボールです。「9戦全勝で金メダル」と大見得を切った野球は、予選リーグで最大のライバルのキューバに6-3で勝利しながら、翌日の豪州戦では4-9と完敗。日本は予選リーグを6勝1敗で首位通過するも、カナダとの予選リーグ最終戦で主力を温存して0-11と“わざと負けて”4位通過した豪州と準決勝で再び対戦。しかし、今度は打線が湿って松坂大輔を見殺し。豪州のリリーフだった当時阪神に在籍のジェフ・ウィリアムスを打ち崩せず、中畑清監督の拙い采配も追い討ちを掛けて0-1で惜敗し、現時点で最後となる銅メダルに終わりました(→詳細はこちら)。ソフトボールは、予選リーグの初戦で初回に2点を奪いながら、その後エースの上野由岐子が4回に逆転2ランを浴び、2-4でまさかの黒星発進。貧打に喘いだ日本は、なんとか予選3位で決勝トーナメントに進出し、3位決定戦で豪州と再び対決します。しかし、0-3で返り討ちに遭い、結局3位に終わりました。日本の悲願の金メダルは4年後の北京五輪にお預けとなります。
オセアニア大陸に属する豪州ですが、競技によってはアジアに属する競技団体もあります。そのせいか、日豪両国は、世界の頂点を賭けた戦いだけでなく、世界の切符を賭けた戦いでも頻繁に争うようになります。かつて、五輪で金メダルを獲得した経験のある男子バレーボールは、1970年代後半以降は中国と韓国と激しくアジアの覇権を賭けて激しく争いましたが、新世紀以降は地元開催だったシドニー五輪で強化された豪州もアジアの覇権争いに参戦します。東京開催だったアテネ五輪予選では、日本はフルセットの末に豪州に敗れたのが響いて3大会連続で本大会出場を逃す失態を犯し、欧州のプロチームに在籍している選手を多く揃えた豪州に奪われました。女子サッカーも、5年前と昨年のアジア杯では豪州と世界の切符を直接賭けて戦い、2度とも敗れて遠回りを余儀なくさせられたことがあります。いずれの試合も体格とフィジカルに勝る豪州に自分達のサッカーを中々させてもらえずに、敗れるべくして敗れました。今後も、豪州は巨大な壁となって我々の前に大きく立ちはだかるでしょう。
そして、男子サッカーがドイツW杯の1次リーグ初戦で1-3の痛恨の逆転負けを喰らった屈辱を触れないわけにはいかないですね。日本は、前半26分に中村俊輔が右サイドから上げたクロスボールに、高原直泰と柳沢敦とGKマーク・シュワルツァーが交錯。ボールがそのままゴールマウスに吸い込まれるラッキーな得点で前半を折り返します。しかし、後半にフース・ヒディンク監督の罠にまんまと嵌ります。前線へ飛び出すティム・ケーヒルを中盤に入れ、次いで長身FWジョシュア・ケネディ、ジョン・アロイージを時間差で投入。次々と繰り出すカードに忙殺された日本は、対応が整わない間に次の選手が入って後手を踏み、ずるずるとDFラインが後退。相手にこぼれ球を拾われ、更にジーコ監督の不可解な選手交代で一気に苦境に陥ります。その後はご存知の通りに、CKからのこぼれ球を押し込んだケーヒルの得点を皮切りに、試合終了まで残り6分間で立て続けに3ゴールを奪われてまさかの逆転負け。日本は、白星を皮算用にしていた相手に惨敗を喫したので、甚大なダメージを被ってチームが完全に崩壊。事実上の終戦となりました。
男子サッカーがカイザースラウテルンで屈辱を味わってから今年で5年になりますが、ついにあの時の報復をする機会が巡って来ました。たしかに、今大会はアジア杯なので大会は異なりますが、タイトルを直接懸けた本気モードの真剣勝負であることには変わりはありません。世代交代が殆ど進んでない豪州は、仇敵ケーヒルを含めあの試合のメンバーが大勢名を連ねてます。それに、新参者に大陸王座を目の前で奪われるのは、大会最多タイの優勝経験のある国としてはこの上ない屈辱です。なので、因縁のドーハの地で今回彼らに勝てば、日本スポーツ界が長年味わってきた過去の屈辱を少しだけ晴らせるような気がします。是非とも、最強の敵を倒してアジアを制したいです。それに、我が国は「日出ずる国」の美称を持つからこそ、あの侮辱的な横断幕の借りを返さなくてはならないのです。
▼日本の豪州との過去の全対戦成績
(通算対戦成績18戦5勝7敗6分(※PK戦は引き分け扱い、日本サッカー協会が認定した試合です))
1956/11/27 ●0-2 メルボルン五輪本大会・1回戦(@豪州/メルボルン)
1968/03/30 △2-2 国際親善試合(@豪州/シドニー)
1968/03/31 ●1-3 〃 (@豪州/メルボルン)
1968/04/04 ○3-1 〃 (@豪州/アデレード)
1969/10/10 ●1-2 メキシコW杯アジア1次予選(@韓国/ソウル)
1969/10/16 △1-1 〃 (@韓国/ソウル)
1994/05/22 △1-1 国際親善試合(@広島/広島ビッグアーチ)
1994/09/27 △0-0 〃 (@東京/国立競技場)
1995/02/15 ●1-2 〃 (@豪州/シドニー)
1996/02/10 ○4-1 〃 (@豪州/ウォロンゴン)
1996/02/14 ●0-3 〃 (@豪州/メルボルン)
1998/02/15 ○3-0 〃 (@豪州/アデレード)
2001/06/07 ○1-0 第4回コンフェデレーションズ杯日韓大会・準決勝(@横浜/横浜国際総合競技場)
2001/08/15 ○3-0 AFC-OFCチャレンジ(@静岡/エコパスタジアム)
2006/06/12 ●1-3 ドイツW杯・1次リーグ(@ドイツ/カイザースラウテルン)
2007/07/21 □1-1 第14回アジア杯東南アジア大会・準々決勝(@ベトナム/ハノイ)
(PK4-3)
2009/02/11 △0-0 南アフリカW杯アジア最終予選(@横浜/日産スタジアム)
2009/06/17 ●1-2 〃 (@豪州/メルボルン)
2011/01/29 ? 第15回アジア杯カタール大会・決勝(@カタール/ドーハ)
☆日本人初の3階級制覇を目指したファイティング原田だったが、露骨な地元判定と杜撰な運営でジョニー・ファメション戦でまさかの判定負け
(1969年7月28日 @豪州・シドニー)
☆ファイティング原田はファメションと再戦するも、無念の14回KO負けを喰らい、3階級制覇に失敗
(1970年1月6日 @東京体育館)
☆予選リーグでキューバに勝ちながら、2度も豪州に敗れて金メダルの夢が潰えた野球のアテネ五輪準決勝
(2004年8月24日 @オリンピック・ベースボール・センター)
☆永久に思い出したくない「カイザースラウテルンの悪夢」
(2006年6月12日 @ドイツ・カイザースラウテルン/フリッツ・ヴァルター・シュタディオン)