やあ、三カ月ぶりの記事の更新だ。
久しぶりだ。
今日は、南日本海人、人の三つの旅のひとつの新しい手段を手に入れた。
自分へのお祝いの気持ちを込めて、記事をアップすることにした。
人の人生は旅だ。それは間違いない。私の場合は、生まれてから五十数年間、旅をしてきた。
旅には三つの旅があると、私は思う。
一つには、空間の旅。二つ目は、時間の旅。そして最後は、人の旅である。
この中で、一つだけ異質な旅があって、それは時間の旅だと考える。生まれてから、五十余年、私は生きてきた。時間の中を旅してきたのだと言える。
すなわち、自分の場合、今から三十数年前を思い出せ、と言われれば、完全にではないが、思い出すことができる。自分の中では、手探りで、難しかったあの時代を。一方では、輝いていたとも言えるその時期を。
あるいは、五十年ほど前の幼い時期も、ところどころではあるが、懐かしく思い起こすことができる。近い最近の十五年、または二十年ぐらい前の家族に恵まれた季節も、楽しく想起できるのだ。
この時間の旅は、生まれてから、死ぬまで、生きていさえすれば経験できるものではなかろうか。あまり何もしなくても味わえるという意味で、ほかの二つとは違うような気がする。
あとの二つの旅は、この時間の旅とは少し異なるところがある。空間の旅と、人の旅である。先に人の旅について語ろう。人との時代も、これはまぎれもなく、旅の一つだと、この歳になると思う。いろんな人に出会ってきた。影響を受けたり、影響を与えたり。
人との出会いや、別れというのは、人によってその総量というものが違うとも考えた。私のように臆病で、人見知りしたり、どちらかというと消極的な生き方をしてきた人間よりも、積極的、かつエネルギッシュに活動し、より多く動いて来た人の方が、人との出会いは多いし、その旅の総量として多いのではないか。
いや、しかし、別の考え方もできる。一つの出会いから、得るもの、あるいは与えるものが多かったり少なかったりするとしたならば、活動の量だけでその総量を判断することもできないかもしれない、とも思ったりする。
最後のもうひとつの旅は、言わずと知れた、空間の旅だ。これは、つまり空間の移動による情報
の授受だ。
国内のそれも、ある一つの地域で生まれ、そこから出ずに一生過ごす人もあれば、海外に出向いて仕事で活動したり、移住して、違う文化の人たちに囲まれて人生を過ごす人もいるだろう。
この空間の旅だけは、その人の積極性というか、能動性にかなり依存して増減すると思う。
私の場合は、海外には一度だけ行ったが、国内ではまああちこちに行ったこともある。人と比べたら多いか少ないか分からないが、自分では、あまり不満はない。つまり、あまり海外旅行に行きたいとか、国内でいろんなところに行きたいとか、仕事や趣味であちこち活動したいとも思わない。
が、この空間の旅というものは、けっこうクセモノなのだ。どれだけたくさんの旅行や、遠くへ行ったからといって、あまり行かなかった人や、近くにしか動かなかった人と、情報量や、出会いの差で比べることはできないと思うからだ。
これは何かというと、移動して経験する情報の密度の個人的差に由来する。人との出会いとの場合と同じことが言えるのだ。
私は山を登るのが好きだ。山登りと言っても低山専門でどちらかというと、ワンデーハイキングと呼ばれるものかもしれない。この近所の低山の山登りの趣味でとても得していると思うことがある。それは、人から見るとありきたりの、魅力のない変哲もない山が、本人の私にとっては、とても魅力的で、チャレンジすべき対象の目的物なるということだ。
つまり、遠くに行かなくても、旅行気分、チャレンジャーとしての発見、ひとつの経験を終えた高揚感と満足感というものを味わえるということなのだ。非常に便利、簡単、コストパフォーマンス(笑)、時間の節約ではなかろうか。
いや、冗談ではなく、これは量より質、旅という情報収集から得る密度の問題なのだと私は考えている。
遠くへ行けばよいというものでもない。いくら遠くに行って見たことのないものを見、経験しても、それを咀嚼する受け皿がないと、情報密度は低くなる。
逆に、なんだ、ありきたりの山か、と見えるようなところでも、そこに生えている植生や、そこでしか、その時間でしか味わえない風景をあじわう、その人の知識や能力があれば、同じ範囲でも受け取る情報は全く違う。満足感や、残るものも全然違うのではないか。
そんな意味で、空間の旅は単純で分かりやすいようであるが、簡単でもない。
その空間の旅での移動手段として、山を登る徒歩も好きだが、最近私がはまっているのはご存知のとおり、バイクだ。四輪の車では味わえない、徒歩でもジョギングでも自転車とも違うと思う、バイクで空間を移動すること、これに少しはまっている。
原付二種と呼ばれる125CCの小型バイクで、ここ三年半ぐらい、遊んできた。が、どうも不便なのは、法律上、高速やバイパスに乗れないこと。ちょっと遠出をしようと思っても、下道をはしらなければならない。疲労感がこたえる(笑)。
というわけで、二輪の普通免許をとりたいなと思っていたところ、このたび、コロナのなんとか金とかで、まったく入る予定のないお金が入ったということで(笑)、ついに教習所に通ったという次第だ。
今日、普通二輪の卒検に合格したのである。(そこか!)
とまあ、かなり固めの文章をえんえんと語ってきたのだが、つまるところ、バイクの中免をとったんだけんねー!(笑)というだけの文章であったりして・・・。
これでどこへでも走っていけるぞー! おれは、じゆーだーっ! (これ好きだ笑)
というわけで、誰か、ワシにニンジャZX-25Rを買ってくれ。(←ねんのため、これがオチね笑)
久しぶりだ。
今日は、南日本海人、人の三つの旅のひとつの新しい手段を手に入れた。
自分へのお祝いの気持ちを込めて、記事をアップすることにした。
人の人生は旅だ。それは間違いない。私の場合は、生まれてから五十数年間、旅をしてきた。
旅には三つの旅があると、私は思う。
一つには、空間の旅。二つ目は、時間の旅。そして最後は、人の旅である。
この中で、一つだけ異質な旅があって、それは時間の旅だと考える。生まれてから、五十余年、私は生きてきた。時間の中を旅してきたのだと言える。
すなわち、自分の場合、今から三十数年前を思い出せ、と言われれば、完全にではないが、思い出すことができる。自分の中では、手探りで、難しかったあの時代を。一方では、輝いていたとも言えるその時期を。
あるいは、五十年ほど前の幼い時期も、ところどころではあるが、懐かしく思い起こすことができる。近い最近の十五年、または二十年ぐらい前の家族に恵まれた季節も、楽しく想起できるのだ。
この時間の旅は、生まれてから、死ぬまで、生きていさえすれば経験できるものではなかろうか。あまり何もしなくても味わえるという意味で、ほかの二つとは違うような気がする。
あとの二つの旅は、この時間の旅とは少し異なるところがある。空間の旅と、人の旅である。先に人の旅について語ろう。人との時代も、これはまぎれもなく、旅の一つだと、この歳になると思う。いろんな人に出会ってきた。影響を受けたり、影響を与えたり。
人との出会いや、別れというのは、人によってその総量というものが違うとも考えた。私のように臆病で、人見知りしたり、どちらかというと消極的な生き方をしてきた人間よりも、積極的、かつエネルギッシュに活動し、より多く動いて来た人の方が、人との出会いは多いし、その旅の総量として多いのではないか。
いや、しかし、別の考え方もできる。一つの出会いから、得るもの、あるいは与えるものが多かったり少なかったりするとしたならば、活動の量だけでその総量を判断することもできないかもしれない、とも思ったりする。
最後のもうひとつの旅は、言わずと知れた、空間の旅だ。これは、つまり空間の移動による情報
の授受だ。
国内のそれも、ある一つの地域で生まれ、そこから出ずに一生過ごす人もあれば、海外に出向いて仕事で活動したり、移住して、違う文化の人たちに囲まれて人生を過ごす人もいるだろう。
この空間の旅だけは、その人の積極性というか、能動性にかなり依存して増減すると思う。
私の場合は、海外には一度だけ行ったが、国内ではまああちこちに行ったこともある。人と比べたら多いか少ないか分からないが、自分では、あまり不満はない。つまり、あまり海外旅行に行きたいとか、国内でいろんなところに行きたいとか、仕事や趣味であちこち活動したいとも思わない。
が、この空間の旅というものは、けっこうクセモノなのだ。どれだけたくさんの旅行や、遠くへ行ったからといって、あまり行かなかった人や、近くにしか動かなかった人と、情報量や、出会いの差で比べることはできないと思うからだ。
これは何かというと、移動して経験する情報の密度の個人的差に由来する。人との出会いとの場合と同じことが言えるのだ。
私は山を登るのが好きだ。山登りと言っても低山専門でどちらかというと、ワンデーハイキングと呼ばれるものかもしれない。この近所の低山の山登りの趣味でとても得していると思うことがある。それは、人から見るとありきたりの、魅力のない変哲もない山が、本人の私にとっては、とても魅力的で、チャレンジすべき対象の目的物なるということだ。
つまり、遠くに行かなくても、旅行気分、チャレンジャーとしての発見、ひとつの経験を終えた高揚感と満足感というものを味わえるということなのだ。非常に便利、簡単、コストパフォーマンス(笑)、時間の節約ではなかろうか。
いや、冗談ではなく、これは量より質、旅という情報収集から得る密度の問題なのだと私は考えている。
遠くへ行けばよいというものでもない。いくら遠くに行って見たことのないものを見、経験しても、それを咀嚼する受け皿がないと、情報密度は低くなる。
逆に、なんだ、ありきたりの山か、と見えるようなところでも、そこに生えている植生や、そこでしか、その時間でしか味わえない風景をあじわう、その人の知識や能力があれば、同じ範囲でも受け取る情報は全く違う。満足感や、残るものも全然違うのではないか。
そんな意味で、空間の旅は単純で分かりやすいようであるが、簡単でもない。
その空間の旅での移動手段として、山を登る徒歩も好きだが、最近私がはまっているのはご存知のとおり、バイクだ。四輪の車では味わえない、徒歩でもジョギングでも自転車とも違うと思う、バイクで空間を移動すること、これに少しはまっている。
原付二種と呼ばれる125CCの小型バイクで、ここ三年半ぐらい、遊んできた。が、どうも不便なのは、法律上、高速やバイパスに乗れないこと。ちょっと遠出をしようと思っても、下道をはしらなければならない。疲労感がこたえる(笑)。
というわけで、二輪の普通免許をとりたいなと思っていたところ、このたび、コロナのなんとか金とかで、まったく入る予定のないお金が入ったということで(笑)、ついに教習所に通ったという次第だ。
今日、普通二輪の卒検に合格したのである。(そこか!)
とまあ、かなり固めの文章をえんえんと語ってきたのだが、つまるところ、バイクの中免をとったんだけんねー!(笑)というだけの文章であったりして・・・。
これでどこへでも走っていけるぞー! おれは、じゆーだーっ! (これ好きだ笑)
というわけで、誰か、ワシにニンジャZX-25Rを買ってくれ。(←ねんのため、これがオチね笑)