うろ覚えライフ。

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稀有の天才、赤塚不二夫先生

2008年08月04日 | ブックログ

○巨匠悼み、ファンが記帳=青梅赤塚不二夫会館-東京

 

        2日死去した漫画家赤塚不二夫さんを悼み、東京都青梅市の「青梅赤塚不二夫会館」は4日、通常の月曜休館を返上、ファンのため記帳を受け付けた。記帳台はJR青梅駅にも設けられ、同日午前中までに800人以上が記帳したという。
 同会館は、町中に映画の看板を掲げるなど「昭和をテーマにしたまちおこし」を進める地元商店街の協力要請に、大の映画ファンでもある赤塚さんが快諾し、2003年10月のオープンにつながった。展示室には赤塚さんが初めて見て感激したという外国映画「駅馬車」の看板や漫画原稿、キャラクターグッズなどがある。

 

○「日本の笑い変えた」=赤塚さん死去に漫画家ら

 

        「日本の漫画を変えた天才」。2日死去した赤塚不二夫さんについて、同時代を生きた漫画家らからは、偉大な才能を評価する声が上がった。
 友人だった漫画家の里中満智子さんは「赤塚以前と以後で日本の漫画は変わった。100年先でも通用するセンスで、単なる『天才』という言葉では表現できない」と話す。
 破天荒な言動でも注目を集めたが、「日常生活をもギャグにしようとしていたが、内心は照れ屋で、『気楽に描いている』というふりをしていた」と振り返った。
 里中さんは、2002年に赤塚さんが倒れた後、見舞いを続けた。「最初はまばたき一つしなかったが、次第に髪の毛につやが出て、指先が動くようになってきた。奇跡を信じていたが」と声を落とした。
 漫画家の黒鉄ヒロシさんは「笑いとはハッピーではなく、死に近いところにあるということを追求した。笑いの骨頂というものを理解しており、作品に投影されていた」と評価する。
 漫画評論家の呉智英さんは「『こっけい話』だった日本漫画の笑いを、爆発的、断片的なものに変質させた。漫画だけでなく、演劇や音楽にも影響を与えた天才だった」とする。
 アルコール依存症や食道がんなど闘病生活が続いたことについては、「まじめすぎる人で、私生活も面白おかしくすることを義務だと感じてしまった。そのストレスから酒に走り、死期を早めてしまった」と語った。

 

○優れた時代感覚のギャグ=幅広くひたむきに笑いを表現-赤塚不二夫さん死去

 

         「誰もやったことがないことにチャレンジしないと、表現者として失格だ」と、口癖のように語っていた。時流に乗ったギャグを追い、常に新たな試みに挑戦し続けた赤塚不二夫さん。常識にとらわれない自由な発想と奔放さが魅力の、ギャグの天才だった。
 「漫画の神様」手塚治虫にあこがれた。「一流の漫画家になりたければ、一流の映画や本、音楽に接しなさい」という手塚の言葉を守り、さまざまなジャンルから貪欲(どんよく)に人を引き付けるセンスを磨いた。
 そうして生まれたキャラクターは200を超える。「天才バカボン」に登場する、目のつながった警官は、安保闘争の権力の象徴、「もーれつア太郎」のニャロメは、人間にこびない猫を反体制派の学生運動家になぞらえた。そこには単なるギャグにはとどまらない、優れた時代感覚があった。
 作品の多くはアニメ化された。人付き合いがよく、大の酒好きでも知られ、個性派の文化人として、タレントやイベントプロデュースなどの分野でも才能を発揮。晩年は病気との闘いだったが、「もっと面白いものがある、それを見つけたいし、作りたいし、描きたい」と語っていた。
 漫画の枠を大きくはみ出した、ひたむきな表現者。バカボンのパパの「これでいいのだ」という名ぜりふそのままに、唯一無二の個性で時代を駆け抜けた。

 当時のイギリスの田舎の小さな町リバプールに、音楽好きな少年ジョンとポールが居て、どういう訳か二人は知り合い、一緒に音楽をやることになった。喧嘩をしながらも続けて行く内に、やがてビートルズが誕生する。ビートルズは、世界の音楽史を塗り替える程の「天才」を創りあげた。ビートルズを解散した、ジョン・レノンとポール・マッカートニーはその後も、世界最高峰レベルのミュージシャンとして活躍したが、ビートルズの十年間で創出して見せた「天才」には及ばなかった。

 イギリスのごく小さな町に二人の、まあ、音楽の才能のある少年が居て、不思議な巡り会わせで一緒に音楽をやる。決して相性の良い仲の良かった親友ではなく、しょっちゅう喧嘩をしていた。この、ごく普通の音楽好きの少年、ジョンとポールが結び着いたことが、後の「天才」を生んだ。本当に不思議な巡り会わせだと思う。

 富山の片田舎の中学校で、ごく普通の二人の少年が出会う。この二人が後に、時代を作った天才漫画家として賞賛されるのはまだ先だ。二人の少年は青年となり、やがて東京豊島区の一軒のオンボロ安アパートで、多少絵心のある漫画好きな青年たちと出会う。ストーリー漫画という新たな世界を切り開いた一人の天才を師と仰いで、彼らは神様に会いたい一心でトキワ荘に集まった。超多忙な神様はすぐに越して行った。トキワ荘には貧しくも希望を持った青年たちが叱咤激励しながらも仲良く、貧乏な青春時代を楽しんで生活した。だが、そのオンボロアパートから、後の一時代を作った天才たちが続々と出て来た。石ノ森章太郎、藤子不二雄、赤塚不二夫…。21世紀に入り、日本人なら誰でも知ってる大巨匠たちだ。

 才能ある若者たちが不思議な巡り会わせで出会い、集まると、才能どおしが刺激し合い、不思議な相乗効果でとんでもない「天才」が生まれて来ることがある。トキワ荘の若き漫画家のタマゴたちは、仲良く遊び一緒に生活し、お互いに助け合って一緒に仕事をする中で、漫画の腕前が成長して行くが、これが不思議なことに各人、才能が開花した後の作風は、みんな違う。作風は、石ノ森も赤塚も藤子も全然違う。細かく言えば、藤子不二雄も、「海の王子」「ドラえもん」の藤本弘と、「怪物くん」「笑うせえるすまん」の安孫子素雄の作風は、よく見れば全然違う。一緒に修行した仲間内で各人、独自の個性的な作風をものにして、開花させているのだ。これも不思議な話だ。

 当時のトキワ荘に住む漫画家のタマゴの内の一人、シャイでハンサムな貧しい青年、赤塚不二夫は描く漫画はことごとく全然売れなくて、生活に困窮し、同じアパート内に住む石森章太郎の手伝いをして何とか食べていた。石森章太郎が紹介した「まんが王」で、それまでストーリー漫画や少女ものを描いていた赤塚不二夫は、ゆかい漫画(ギャグ漫画)を描いて、それが初めてヒットする。初の連載ゆかい漫画、「ナマちゃん」だ。それから二、三年後、新興の漫画週刊誌、少年サンデーで「おそ松くん」を発表する。

 「おそ松くん」はそれまでの、ほのぼの生活児童ゆかい漫画の世界に革命を起こした。ゆかい漫画というジャンルに取って代わる程の、「ギャグ漫画」というカテゴリを確立した。「おそ松くん」でギャグ漫画の天才の片鱗を見せた赤塚不二夫は、それから、日本の少年漫画界で怒涛の活躍を続けた。次々と発表される驚きのギャグ漫画群。「メチャクチャNo.1」「もーれつア太郎」「レッツラゴン」…。ものすごい数だ。そして、60年代末、「天才バカボン」というギャグ漫画の金字塔を打ち立てた。

 赤塚不二夫はまごうことなき天才となった。60年代、手塚治虫が自分の数ある作品で科学と愛とヒューマニズムという、正統的文化を現出して見せたのに対抗する、まるでアンチテーゼのように、一見すると意味の無い価値の無さそうに見える、ナンセンスやアヴァンギャルドなギャグも含む、笑いのギャグの文化を、だがこれも一つの立派な文化であり教養の一つだと、堂々と表わせて見せた。すごい!

 赤塚不二夫さんは優しい人だった。60年代を通して、「天才バカボン」を代表とする自作のギャグ漫画を次々と大ヒットさせて、財を築いた。戦後の満州から死線を乗り越えて命からがら、引き揚げて日本へ帰って来、その戦後の日本でも赤貧の生活を続ける。しかし60年代を過ぎて長者となった。でも、お金に執着することなくどんどん使った。湯水のように使った。毎夜のどんちゃん騒ぎで、多くの友達・知り合いに大酒を飲ませ、持ってる金を使いまくった。金はしょせんは紙切れだと。

 天才・赤塚不二夫は知っていた。金も権威も虚飾であり、金などしょせんはたいしたものでもないと。心優しい赤塚不二夫さんは人間が好きだった。友達という人たちと触れ合うことを大事にした。金も権威もしょせんは虚飾だと知っていた赤塚不二夫さんは、才能を重んじて見た。才能って、そんな大袈裟なものではない。個性のことだ。だから、赤塚不二夫は、タモリや所ジョージのような面白い個性を仲間として遊んだ。タモリのような面白い個性の面倒を見た。

 しょせん金も権威も虚飾だとよく知っていた、人間愛あふれる心優しき天才漫画家は、人間が生きて行くということ、生き様で、一番大切なものが何かを彼自身、よく解っていたのだろう。

 僕は、子供の頃から青年期もそれからもずっと、「俺は何てどうしようもない人間なんだ」と幾度となく悔やんで来た、ちっぽけなちっぽけな人間で、つまんない人生を歩んで来たけれど、これだけは言える、子供の頃、トキワ荘関係だけで選んで言えば、手塚治虫、赤塚不二夫、石森章太郎、藤子不二雄、寺田ヒロオ、つのだじろう‥他の描く漫画作品群に出会えて、本当に幸福だった、と。特に小学校6年間の時間に出会った、膨大な、素晴らしい漫画作品の数々を思い返すと、しみじみと幸福感に浸ることが出来る。あの子供の頃だけを考えても幸福な人生だった。そして、学生時代、特に小学校では全く勉強をしなかった僕に取って、漫画群は教科書であり、手塚先生も石森先生も藤子先生も赤塚先生も、みんな恩師みたいなものだ。ギャグという一つの教科を教えてくれた赤塚不二夫先生を失ったんだ。それは、僕という人間の精神の脳味噌の、哲学的なものや重大な部分を占めるものを作ってくれた、一人の恩師の死は非情に重いものだし、やはり心にぽっかり穴の開く、空虚感を持ってしまうのは仕方が無いことですね。寂しいです。

 一時代を作った巨匠、赤塚不二夫の訃報に、TVの情報番組ではどれも、アニメの「天才バカボン」「ひみつのアッコちゃん」「おそ松くん」の映像ばかりを流しているが、僕の言う漫画はアニメではなく、あくまで雑誌やコミックスの漫画だ。漫画とアニメは別物だ。赤塚作品はジャンルとしてはギャグだが、だが、その作品群が含む要素はすごい程いろいろなものが込められている。あれらも、ただの笑いだけではなくて、立派な教養なのだ。60年代に大活躍した巨匠たちのコミックは、どんなジャンルであれ、素晴らしい要素をいっぱい含んでいて、一つ一つの教養を与えてくれる。若い世代に、60年代70年代の膨大な漫画群の一読を、是非勧めたい。 

   ※(08-10/10)ココの記事文ワタシの感想冒頭、「当時のイギリスの田舎の小さな町リバプールに…」と書き込んでいるのだが、リバプールとは歴史あるけっこう巨大な都市でした。ヨーロッパ近代史に歴史的に重要な港湾都市です。現在は港湾都市というよりも、どちらかというと観光都市として栄えているようですね。ワタクシの無知に寄る誤った書き込みでした。訂正です。失礼しました。

 

※(08-8/5)ここの項の記事を自分で読み返してみて、十年くらい前に、日テレ系の「波乱万丈」というトーク番組に、水木しげる先生が出演していたときのことを思い出した。いや、番組内のエピソードではなく、僕自身の話だ。十年以上前だったっけかなあ(?)。番組が始まって、まだ会話が始まらず、冒頭、席に座った水木しげる先生の姿を見たとたん、僕は涙が溢れ出してしまったのだ。画面に映る、お元気ではあるが老齢になっている水木しげる先生を見て、トークが始まる前からもう、僕は泣いた。あの時、僕は何故、すぐに泣き出したのか?よく解らなかったのだが、今回の、自分の書いたここの記事の文を読み返して気が着いた。あれは、何十年も経って、年老いた恩師に再会した時の涙だったのだ。そういうことだったのだ。子供の頃に、怪奇とファンタジーとユーモアという教科を教えてもらった恩師に、何十年の時を経て、恩師の姿を見て、感激していきなり涙が出たのだ。そうだったのだ。僕は小学校の勉強はまるでやらなくて、また、解らなくて、小学校低学年の成績は5段階で、1、2、1、2の掛け声調で、小学校中高学年になると、2、3、2、3の掛け声調であった。学業も素行も本当に劣等生だった。でも、家庭学習での漫画の教科は、自分で言うのも何だが、かなりの優等生だった。これでよかったのだ。


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