日本基督教団 七尾教会

能登半島にたてられた七尾教会の日々です

見よ、あなたの王が来る(ゼカリヤ書9:9、マタイ21:1~11)

2006年03月26日 | 主日礼拝
2006年3月26日
堀岡 啓信牧師
◆キリスト教とはキリスト
 われわれとつながりの深い日本基督教会に、永井春子先生という方がいらっしゃる。その先生が書いた、青年のためのキリスト教教理の中に、有名な問答がある。
問1 キリスト教とは何ですか。
答え キリスト教とはキリストです。
これは、重要な問いと答えである。キリスト教とは、キリストとは、キリストの教えでなく、キリストそのものであるという、根源的なことである。生ける主、キリストとの交わりが、キリスト教なのである。
北陸学院という働きの場で、一番深いところにあるのは、主イエスとの交わりである。みなさんはどうだろうか。信仰生活にまだ入っていない方、もう何十年も過ごしている方がいると思う。キリスト教とは、キリストだということを心に留めたい。

◆弱さに徹する王
受難節にあたり、この方がどのように最後の1週間を歩まれたのかを見たい。先ほどの朗読は、たいへん心に残る最後の1週間である。弟子たちを隣村に派遣して、子ろばをつれてきた。いよいよ十字架におかかりになる最後の1週間に入っていくとき、どうしても「子ろば」に乗って、エルサレムに入っていくという強いご意思を持っていた。今朝は、ゼカリヤ書が朗読された。
娘シオンよ、おおいに踊れ・・・・
見よ、あなたの王が来る
・・・高ぶることなくろばに乗ってくる。
ゼカリヤの言葉が、ここで成就していくということを思い、イエス様は、強いご意思を持ってロバにまたがった。その傍には、弟子たちが護衛のように従った。迎えた人々は、着物を脱いで道に敷き、木の枝を切って敷いた。これらは、王を迎えるときの所作である。人々は王を迎えるようにして、イエス様を迎え、イエス様も王としてエルサレムに入ってきたのである。
しかし、考えていただきたい。最後の1週間の姿は、王と言うには風変わりではなかったか。王ならば、軍馬にまたがってくるのではないか。周辺には訓練された近衛兵、鎧を身に着けているのではないか。
イエス様は、軍馬ではなくロバ、しかも子ロバにまたがって来られた。鎧ではなく貧しい姿で、近衛兵ではなくガリラヤの田舎の漁師を従えてきた。お世辞にもかっこいいお姿とは言えない。エルサレムの祭りのばか騒ぎの中で「おい、あれで王だってよ」とささやかれていたことを想像する。権威ではなく、弱さにおいてイエス様は、王であった。
神様から遠く離れている人間は、自分の方から神様に立ち返ることはできないということを聖書は語る。そのままの在り様では、神の元に立ち返ることはできない。罪のある人間は、そのままでは、エデンの園で罪に堕ちたアダムとエバの姿と同じである。その姿こそは、神様が近づいてきたときに、怖くなってかくれなければいけない。それが、人間の本当の姿である。神様の下に、本当によろこんでたちかえることのできない、やっかいな罪の問題は、力で威圧されればされるほど、いっそう頑なになってしまうのである。何万という兵を従えて、たった一人の人間の罪を解決することができない。どんなに力があっても、心を解きほぐして神様によろこばしい思いをもって立ち返ることはできない。
威圧的な力ではなく、神の御子としての権能と御力をお持ちでありながら、徹頭徹尾、弱さに徹した。私たちの日本の教会の直接の先輩は、アメリカの教会だと言ってよい。アメリカの教会の祈りによって、日本にキリスト教が伝えられた。多くの恩恵をおっている。そのアメリカの長老主義教会が、1995年にみんなのカテキズムという本を出した。
問41 イエスキリストはどのようにして、王の職能を成就されたましたか。
主イエスキリストは、僕(しもべ)の立場によって・・・・その弱さにおいて王の力を完成された。義の剣意外に剣を持たず、愛の力以外に力を持たず、罪、悪と死に勝利してくださいました。

◆わたしの王、イエス
私は小松教会の牧師として、8年間仕えた。昨年の3月27日はイースターだった。そこで、洗礼を受けた西居さんのことを紹介する。その方の諮問会のことを紹介したい。諮問会では、信仰的な問いかけをする。このような内容を問いかけた。
「西居さん、主イエスこそはあなたの主です。王です。自分の人生のことは、自分で決められると思っていることがある。自分の人生のこと、それは何でも自分で決められることができれば、自由だと思っている。しかし、本当にそうだろうか。自分で自分を振り返ってみよう。自分を本当に愛して、自分自身を導いて来られただろうか。自分を良い所に導くどころか、暴君になっていないか。」と、問いかけた。
また、自分で自分の王になっている限り、自分や他の人を活かすというよりは、自分や他の人を傷つけていませんか。主イエスが主であるということを信じて生きていくか。自分で、その座席を譲るか、と。
西居さんは、真剣に答えようとするがゆえに悩まれた。「努力していきます」という精一杯の返答をされた。諮問会というときは、しばしばこういうことが起こる。
つまり、私たち人間の努力目標を示し、表明することが諮問会に求められていることなのだろうか。そこで、もう一度問いただした。
西居さん、主イエスがあなたの王となってくださったことを、信じていますかと問うた。
すると、西居さんは、「はい、信じています」と答えた。そこで、私は姉妹を得た、と思った。キリストの教会に召されたものは、私たちがイエス様を王として見出したのではなく、イエス様のほうから来て、王になってくださった。私たちの努力や力で見出したのではなく、このお方が、まことに鈍い私たちであるのに、王として来て下さった。鈍いどころではない。神様に背を向けて生活をしていた私たちのところに来て下さった。それが、神の恵みの事実である。まだ洗礼を受けていらっしゃらない方にも、その歩みをつくってくださっている。

◆奴隷化される私たち
みなさんの中にもそういう感想をお持ちの方がいるかもしれない。洗礼を受けてから、以前ほど人の目を気にしなくなった。主イエスが私の王としていてくださることを知ってからは、人の目から自由になった。人が自分のことをどう見ているのかというところから、ときはなたれて、神の者として、強くしていただいて自由になった。キリスト者になってもなお、現実的には、私たちを奴隷化するものが日々あるということも、私たちは知っている。
時代が持っている考えや教えが私たちを支配する。たとえば、「勝ち組」という考えがある。何が「勝ち組」か、と思ってしまうが、マスコミなどで「勝ち組、負け組」と言われると、私はどちらかと知らず知らずに思ってしまう。ときとして、なんとか「勝ち組」に入ろうと躍起になって、自分自身を見失ってしまうときがある。時代の考えに縛られ、僕(しもべ)となっている。
「自分らしく生きることが一番良い」とこの時代は教える。それは、大切なことである。自分の願っているのではなく人生を送っているということになると不自由になる。自分らしく生きることを願っている。しかし、私たちはその場合もよく心得ておきたい。自分らしく生きていこうと貫いていこうとするときに、実は周囲のことを考えずに他者との関係を壊してしまっている。即座に自己中心的な人間関係を破壊するものにつながっていく可能性がある。「自分らしく」というときに、自分の権利だけをどこまでも追い続けることになる。
このように、私たちは、私たちを奴隷化するものに囲まれながら生活している。
そこで、「まわりに振り回されてはいけない」という教えが言われる。自分のことは、自分で考えて生きていきなさい、と教えられる。ある意味では、大切なことを教えている。しかし、私たちは最後的に問わなければいけない。自分が自分の主人になって、生きていくことができるだろうか。自分自身をだめにしたり、他人との関係を壊すことが実にしばしばないのではないだろうか。自分の思いや考えで生きていこうとするときに、とらわれの身に陥ってしまうことがある。
外からもがんじがらめにされ、自分で自分のとりこになってしまう。私たちの不自由に対して、イエスキリストを指差してこのように語る。義の剣以外に剣を持たず、愛の力以外に力を持たずに収めてくださる王である。十字架にかかってくださったのだ。私の罪をすべてになって、十字架に死んでくださった。その告白を持って、本当に自由なものとされていく。主イエスを我が主とし、このお方とひとつとなって生きていくことができる。
主イエスによって、神様に立ち返って生きていくことができる。そこに、真の自由がある。

◆キリスト者の自由
「見よ、おまえの王が来る」と今日の聖書は語る。マタイ27章32節~44節
明瞭に聖書は告げている。罪状書として、「ユダヤ人の王」と、主イエスの頭上に掲げられた。エルサレムの王として、まったくのペテンであったということが明らかになったと、この看板がかけられた。看板の文句が気に入ったのだろう。みんなでよってたかって罵倒した。
このとき、もっとも鋭い言葉を投げかけたのは、祭司長、律法学者らであった。この人たちは、民を導く羊飼いのようなものである。主イエスを死刑に定めた。大祭司カイアファが立ち上がっていった。黙り続けている主イエスに対して問う。生ける神に誓って、おまえは神の子キリストなのか。すると、ずっと黙っていた主イエスは、そうなのだという意味を込めて返答した。そこで、カイアファは、いまこそ主イエスは神の子だと自称している。死に値する罪だと。
神のご意思なら助けてもらえばよいではないか。自分で教えを説いたその神に救ってもらえと。主の十字架に立ち会った人たちは、ひとつの確信を持って、このような言葉を浴びせかけている。天の神が遣わしてくださった真の王ではないという確信である。なぜだろうか。主イエスは、弱さの極みにおいて王としてたっているからである。すべての方の目は、主イエスを
ルターはこう語った。生まれながらの人間の理性というものは、力と栄光において神を見出すものである。大きな地震があると、神のことを思い出す。日ごろはすっかり忘れていても、大きな地震のときに、神様が何かお考えがあって、こういうことをしているのではないかと思う。確かに、神様はそういう大きな力や栄光をお持ちだが、本当の和解、本当の平和は、反映や力によって見出すことができない。生まれながらの人間は、どこかで神様を恐れている魂である。しかし、ルターはこうも言う。しかし、信仰は弱さと貧しさの極みに神を見出す。弱さの極みに建っている主イエスを仰ぎ見て、この方こそ主キリスト、王であると告白をする。それはなぜか。そこにこそ、神の全能の愛が表れたからである。弱さの極みに立っている。死に瀕している。ここに私どもの人間の罪をすべて背負ってくださり、輝かしい本当の平和を知っている、神様との交わりに入れてくださるために、すべての罪を贖ってくださった。
聖書の語る、ほんとうの自由とは、主イエスの存在によって示された神の愛によって解き放たれていく。

◆主に与えられる使命
最後に、聖書が語っている子ロバの姿を受け止めて祈りたい。この子ロバは、エルサレムの隣町に繋がれていた。そこから解き放たれて、主イエスの最後の1週間に向かう新たな任務が与えられた。
キリストフォロスということを言った。キリストを背中に乗せて歩むということである。キリストの原型、雛形のような姿である。だれかにつながれ、支配されて生きていた。しかし、主によって解放され、自由になった。自由とは何か。自分のしたいことができる、自分の人生を思いの通りに決められるということか。そういう自由に生きているときに、私たちは自分の欲望の奴隷になっている。本当の自由。それは、縄目から解き放たれ、何かへと献身していく自由だとキリスト教会は信じてきた。何々へと自分の人生を捧げていく。
子ロバにまったく新しい任務を与えられた。主イエスを背中に背負って歩むという新しい生き方が与えられた。私どもの北陸学院では、リアライズ ユア ミッションというスローガンを掲げている。自分の使命を実現しよう。気が付くこと、そしてそれを実現していくこと。誰一人、くだらない人生などない。新しい任務へと私たちを押し出してくださる。主イエス様との交わりに生きていく。
キリスト教とは、キリストです。そういった問答は、私たちの人生にこそ具現化されていくであろう。
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人々の聞く力に応じる御言葉(マルコ4:33~34)

2006年03月19日 | 主日礼拝
2006年3月19日
釜土 達雄 牧師

◆御言葉を受け止める側
 わずか4行のこの箇所は、4章1節から32節まですべてを受けて与えられている。イエス様が多くのたとえで御言葉をかたられたことを受けて、今日の御言葉はある。
4章35~41節までは、連合長老会の交換講壇で耳を傾けた箇所は、イエス様の生き様を通して御言葉を受け取ったものである。それとは別に、イエス様が直接に語って伝えられた御言葉があった。たとえを多く用いられた。私たちの心に残る、多くのたとえである。聞くものが思いをめぐらす。しかし、その真理に耳を傾けて理解できたものがいれば、何を言っているのか分からなかったり、自分勝手に解釈して納得し、御言葉に至らない者もいた。自分勝手な解釈をしては、御言葉を聞いたことにならない。「あなたは、このたとえの意味が分からないのか」とイエス様が言われた。たとえの意味に到達していなければ、それを聞いたことにはならない。
今日のテキストはこう続く「ご自分の弟子たちには、ひそかにすべてを説明された」という。イエス様ご自身が、御言葉の取次ぎをきちんとして、神の意図を受け取るようにしてくださった。聖書に語られていることを自分なりに受け止めたことは、神様の御言葉を受け取ったことにならない。自分の心や思いとは関係なく、神の思いを受け止めることが大切である。神様の思いと、自分の思いの間に戦いが生じなければいけない。
種のたとえがあった。同じ種を蒔いても、受け止める者がどういう者かによって、変わってくる。種に問題があるのではない。蒔かれる御言葉は同じである。私は良い土地だと思っているのは、間違っているかもしれない。私たちは常に問わなければいけない。もしかすると、道端かもしれない。土の浅い場所かもしれない。もしかすると、茨が覆っている場所かもしれない。土地は自分で変わることはできない。しかし、自分がどの土地であるかを受け止めておく必要がある。
自分が茨の土地だと思うなら、主よ、茨を取り除いてくださいと祈る必要があるかもしれない。自分で変わることはできないが、その土地の状況を変えてくださいと祈ることはできる。たとえ良い土地であったとしても、茨が後ほど生えてくるかもしれない。浅い土地になるかもしれない。道端になるかもしれないということを覚えておかなければいけない。いつも安心だと思っていてはいけない。どうなるか分からない。御言葉を受け止めた、私たち一人ひとりの問題だということである。

◆人々の聞く力に応じる
4章33~34節のうち、1つだけ抜いてきた。それは、33節の前半である。「イエスは人々の聞く力に応じて」というところである。イエス様は、難しいことを簡単にするためにたとえ話を用いられたのではない。受け止める者が、納得してしまうという危険性を放置した。神様の御言葉を受け止めていく人を、自分たちの解釈で納得する人を選別するためかもしれない。力のあるなし、理解のできるできない、ということではあるが、今日、私たちが集中しておきたいのは、「人々の聞く力に応じる」ということをイエス様がしてこられたという事実なのである。神の言葉は、人々の聞く力に応じて、変わって表現されてきたということである。
天国について、御言葉について語られた。また、神の国について語られた。これらを考えるヒントとして、「もしも明日世界が終わるとしたら」という本を通して考えてきた。人生には、始まりがあり、終わりがある。本来的な意味で、老後、死の向こう側を考えながら生きていかなければならない。死ぬ準備をしっかりしておかなければならない。しかし、これらは、いつの時代にでも語ればよいというものではない。

◆子どもの発達段階
教育学的な話になるのでお許しいただきたい。CSなどで礼拝説教をする中で、注意をしなければいけないことがある。3歳ぐらいに母子分離不安ということがある。お母さんとだけ人生を生きていくわけではないので、社会性に入っていく必要がある。子どもたちの小さな社会のなかで学ぶことが大事である。当然、別れなければいけないので泣く。案外、ずっと泣いているのは親だったりする。親離れはすぐできるが、子離れはなかなかできない。新学期になって、また風物詩が始まる。お母さんが大好きで、見ず知らずの幼稚園にやってくる。そこでは泣くのが当たり前である。泣かなかったほうが心配する。お母さんとずっといたくても、子どもの成長のために、お母さんが子どもたちを子どもの世界に押し出してやる必要がある。
今度は、本当に大人が見ていない子どもたちだけの世界に入っていく時期が、だいたい小学校2~3年生くらいである。ギャングエイジと呼ばれる世代である。そんなとき子どもたちは「みんな持っている」「みんな言っている」という言い方をする。まるで、世界が全部そうであるかのように、「みんな」と言う。おとな離れを起こして、子どもたちだけの世界に入っていく時代に、大好きだった母親が、本当は自分のことを嫌いなのではないか、ないがしろにしようとしているのではないかと思う。壮絶な孤独感を持つ頃がある。
このときに、十字架の話をリアルにすると、大きな傷が心に生じる。このときに、衝撃的な事件や夫婦喧嘩を見ると、心の中に傷が起こる。だから、小学校でそのような事件があったときは、心のケアが必要である。

◆年齢によって愛情表現は変わる
連合長老会の教会学校の勉強会で、鳥山先生が自分の失敗談を話されたことがある。2~3年生が多かったクラスで、復活の話をしたという。ストレートにしたのである。礼拝後が、教会の前で子どもたちが大騒ぎしている。車が通る道で、子どもたちが寝転がっているのである。子どもたちは、轢かれても復活するから、と言ったという。CSでの説教は、注意をしなければいけない。おばけが怖い時期に地獄の話をしすぎるな。母子分離が始まるときには、良い子でいたら神の国に入ると語ったほうがよい。子どもたちの発達によって、説教は変えなきゃいけないということである。3歳、4歳の子どもたちに永遠の命が与えられるといっても分からない。年齢によって違いがあるということを七尾教会で繰り返し話してきた。メイちゃんが3歳くらいのとき、私が手を広げると飛び込んできてくれた。しかし、Mさんにはそういうことはしない。
そうやることが大事な時期には、「○○ちゃん、大好き」と言い続ける。その子が中学生になり、高校生になったら、本当に見守っていくことが大事である。親という字は、立ち木の上で見ると書く。20,30歳の子どもに抱きつくわけにはいかない。年老いてきて、本当に入院をして、御許に召されるというときに、しっかりと手をにぎって、その人のために祈ることも大切である。
年齢によって、愛情の表現は変わる。受け止められ方も変わる。小さい子どもたちに、良い子にしていたら、神さまの神様のところに行けると言っても、中学生には主の一方的な愛と恵みによって神の国に入れられると言う。

◆御言葉に聞き続ける
主なる神が、十字架の死と復活によって、私たちを愛してくださっている。それでも、人生を歩む中で、本当に神様が愛してくださっているのか、神様が余所見をしていたから、こんなことが起こるのではないかと思うときもある。
しかし、覚えていなければいけない。神様は、私たちに首尾一貫「イエス様を十字架につけてもなお、あなたたちを愛する」という御言葉を語られる。
本当に、それぞれ一番必要なときに、必要なものを送り届けてくださっていることを知っていないと、神の愛の業は決して理解することはできない。聞く力に応じて、そして、必要なときに。大いなる喜びである。すべてのものは、私たちに益になるように備えてくださっていると信じることが、とても大事なのである。
私たちの聞く力に応じて、私たちに出会ってくださっていることを覚えておかなければいけない。今、知ったことだけが、神様のすべての御言葉でないことを知っておかなければいけない。20歳のときに聞いて分からなかったからといって、70になっても分からないとは限らない。30歳のときに、分かったと思ったことが、途中で分からなくなり、あるときそういう意味だったのかと気づくことがあるのが、また主の御言葉なのである。
だから、挫折してはならないし、御言葉に聞き続けることをあきらめてはならないのだと知っていたい。

◆御言葉が明かされる祈りのとき
そして、今日の聖書で「たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」という。「ひそか」と言う言葉は、いい言葉である。御言葉は、公の場で聞かされるだけではなく、ひそかなときも持たなければいけない。「ひそかなとき」とは、大概、祈りのときなのである。
祈りの中で格闘するときに、はっと心が開けてくる。みなさんも、そんな不思議な経験をお持ちだと思う。そういう神様との一対一の関係を、大事に、大事にしていただきたい。
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からし種(マルコ4:30~32)

2006年03月12日 | 主日礼拝
2006年3月12日
釜土 達雄 牧師

◆からし種という植物
 大事なのは神の国と御言葉とその話を聞く者たちである。今日のからし種のたとえは、先週の成長する種の話と一連である。26節から続けて読んでみたい。
 マルコ4:26~
 種が蒔かれて、どうやって豊かな実を結ぶかは知らなくても、確実に手入れをすれば、収穫があるということ。それが、神の国によく似ているというのである。人が土に種を蒔く。蒔いた人が何か努力をしたわけでもなく、種がひとりで根を出し、芽を出す。その働き自体に理屈が分かっているわけではない。これが、神の国のようなものだというのである。
 成長させてくださるのが、神である。神の力は、人の力で作れるものではない。人が努力をしていくものではない。種自身が育ち、豊かな実を結ぶのは、種が持っている力に他ならない。一方的な神の恵みによって与えられるということを先週聞いた。
 神の国は神様ご自身が成長させてくださる。そこで、今週の話である。それは、からし種のようなものである。今日は「大きくなる」というところにポイントがあるようである。蒔かれるとどんどん大きくなる。
 からし種一粒ほどの信仰があれば・・・というところにも出てくる。
「聖書植物図鑑」を持ってきた。このしおりには、からし種が入っている。1つの房に30くらい入っている。図鑑には、からし種は、十字架植物(花が十字型)の一つでクロガラシが代表である。速やかに伸びて2mくらいになる。肥えた土地に植えると4mにもなり、葉は40cmくらいになる。知識を持つのは良い。聖書の出来事と言うのは、リアリティがある。実際にイスラエルに行くと、イエス様が歩いた道があり、ゴルゴダの丘も、山上の説教をやった場所、ペテロの家も、その向かいの会堂も残っている。遠い昔の出来事で、神話の出来事のように思うが、本当にある話である。ここで出てくる「からし種」も、現実に存在する。神の国は何かということを、知識として知っていることも大事なのである。

◆天国と極楽と神の国
先般、幼稚園の教師とともにお寿司屋さんに行った。私のことを牧師だと知っている人は、よく飲み屋でキリスト教についての質問をする。よっぱらいに「先生、天国と地獄はどう違う」などと聞かれる。洗礼を受けて、お母さんに言ったら神の国に行くのか。私は極楽に行く。会おうにも会えないなぁ。と言われたという話。神の国と極楽では、国が違うらしい。神の国と天国も、町内が違う。
神の国というのは、神の支配という意味である。神様が支配しているところならば、賛美歌でも「ここも神の御国なれば」という。神の国の中にいないということを地獄というのだから、神の国に入らないと言ったとたんに地獄になる。
「極楽とは何か」と聞かれる。それは、極めて楽ということである。御仏の元に行くということは極めて楽になるということになりました。支配を受け入れるということと、行くということの間に違いがある。
こういう風に言っても、あまり意味が無い。若い頃には一生懸命、議論をしていた。しかし、神の国を分かりやすくするために「天国」こういう説明が効果あるのは、飲み屋ではない。礼拝説教でもしない。一番、効果があるのは、若い牧師の前で話をしたときである。
こういう風に知識を持っていることは大事である。しかし、知っておいて欲しいことがある。神の国であれ、天国であれ、極楽であれ、知識を持っていることよりも大事なのは、そこに入るかどうかである。そういうところで質問をして来る人は、たいてい知識を求めて聞いてくる。しかし、知識を持っているからといって、そこに入るかどうかどうかは分からない。
たとえ天国であれ、極楽であれ、どうやったらそこに入れられるかを知らなければ意味がない。

◆私たちは神の国に入れられている
七尾幼稚園で、子どもたちに話をする。いろんな動物や虫たちが死んでいく。飼っていた金魚が死んだとき、ザリガニが死んだとき、幼稚園のお庭に埋める。そして、お祈りをして送り出す。「あなたの御許にお返しします。あなたのところで楽しくこの命が生きることを信じます。」
どこへ行ったの?と聞かれて、天国に行ったのよ、お星様になったのよ、と答える。すばらしい文学的表現である。しかし、あれは、本当に星になるのではない。天国に行ったということを、あなたが言えるのか。知識を持っていたり、きっとそうだろうと思っていたりするだけで、天国に行くということではない。確信を持って神の国に入れられているということが大事なのではないか。文学的表現なら分かる。しかし、それを人の思いだけで語ってはならない。
聖書が語っているのは「神の国」についてである。「永遠の命」についてである。「あなたがたの命を永遠にし、神の国に入れるために、私はあなたがたを創った」ということである。
神の国について知るということと、と神の国に招かれる生き方をするということは違う。
私たちが毎週、礼拝を守るのは、私たちがいつ死んだとしても、神様の御許においていてくださることを繰り返し聞くためである。礼拝説教は、「あなたは神の国に入れられている」という宣言である。それが、礼拝説教の大事な、大事なポイントである。このことを忘れてはならない。
神の国とは、どんなものか。それは、知識ではない。私たちの中に蒔かれた御言葉が、神の国を具体化していくのである。
マタイ4:21~25
御言葉によって生きているものが、公に明らかにされることを意味している。神の言葉を蒔かれた人とはどのような人か。それは、さらに前の箇所に出ている。
マタイ4:1~9
これを聞いても分からなかったので、イエス様が解説をしている。
マタイ4:13~20

◆御言葉を受け入れる生き方
私は、いろいろなところで絡まれる。そのときに、一生懸命話してみても通じないという経験をする。それは、この世をどう生きていくかということに興味があって、そのために宗教や信仰があると思っている人たちとは、すれ違いが起こる。「何かいいことがあるのか?」と聞かれる。そうして絶句する。教会はいいことあるのか。
しかし、私たちの中に御言葉が蒔かれ、主イエスキリストを十字架につけてもなお私たちを愛しているということを聞き、あなたを神の国に招いている、迫害するもののために祈れ、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい、そういわれる。
そんなことをして、何のメリットがあるのか。そんなの、やめときなと言われる。この世をどう生きるかということを考えている人から見ると、私たちの信仰生活とは、非常に変なのである。しかし、永遠の命に招かれているにふさわしく、今を生きなさいといわれたときに、
自分の持っている財産や命を自分のために使う生き方とは違う生き方が始まる。神様があなたを愛されているのだから、あなたも隣人を愛していきなさいといわれる。これが、良い土地に蒔かれて、御言葉を受け入れた者の生き方なのである。何の得にもならないことを一生懸命やっていること。私の言葉とおり、良く生きたね。神の国に迎えようではないか、という神様にほめていただきたい一心で、生きていく。それが、私たちの中に芽生えた神の国になるはずである。
はじめての種は小さい。そんな心で生きていくことを見ていて下さるのは父なる神である。
コメント

反省文

2006年03月05日 | ブログ担当者より
1月1日の主日礼拝以来、ずーーーーーっと、ブログの更新をさぼっていました。
言い訳はしません。ごめんなさい。
今日、アップできる分だけしました。
連続講解になっていませんが、抜けている回は順次テープ起こしをしまーす。
でも、3月中は無理です。ごめんなさい。
楽しみにしていた方(いるのか?)まとめて読んでくださいね。
できれば、コメントなどいただけると、やる気も起きるというものです。
これからも、七尾教会ブログをよろしくお願いいたします。
コメント

成長する種(マルコ4:26~29)

2006年03月05日 | 主日礼拝
2006年3月5日
釜土 達雄 牧師
◆たとえ話で語られるイエス様
 イエス様はたとえ話によって、いろいろなことを語られた。種を蒔く人のたとえについて、弟子とその周りにいた人が尋ねた。このときイエス様は不思議なことを語られた。「あなたがたには、神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人たちにはたとえで示される」
何度も言うが、たとえ話は難しいことを分かりやすくするためにたとえ話を聞く。しかし、イエス様のたとえ話は、たとえを使うのは簡単な事柄が分かりにくくなるものであった。本当は誰でも知っていることが、もっと分からなくなるというのである。
だから、わたしたちはこのたとえ話なのだから、何となく分かると理解せずに、本当は単純明快な事柄をオブラートに包んで語っているのだということを知っておいたほうがよい。不思議なことに、あなたたちには分かっているでしょうというと言われた人たちも、分からなかったのである。神の国のことを語っているのだ、と解説された。
神の言葉はすべての人に語られている。その言葉を聞いて、あなたがどう生きるかが大切なのだということを語られた。その後に、ともし火と秤のたとえが語られる。そして、今日は成長する種のたとえを聞く。来週は、からし種の話をきく。
神様の言葉を広めるために、弟子たちに密かに語られた解説が聖書に載っていれば楽だったかもしれない。しかし、マルコもマタイも解説には重きをおかなかった。それは、御言葉はこのように礼拝の中で語られることが大切だと考えたからである。

◆成長する種のたとえ
このたとえは、神の国についてのたとえ話である。この種は、神の言葉のたとえではない。
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」
 さて、これは何を言おうとしているのか。このまま読んで、理解ができれば説教ができる。何を言おうとしているのかを考えて解説するということを釈義ということである。同じようなことを言っている。ここで言おうとしている神の国の一面を表している。28節は27節後半の開設である。どうしてそうなるのか、その人は知らないということの解説である。
 「神の国が、一体どういうもので、どう育ち、どうなっているのかが分からない」ということを言っているのである。収穫の話は大好きで、収穫感謝礼拝のときに、収穫について子どもたちに話をする。たくさんのものを作ってくださる神様に「ありがとう」を言う。収穫感謝礼拝の定番がある。ほとんど毎年同じ話をする。
それは、「たくさんのものを神様が作って下さいました」という話である。いろんな種類の野菜や果物がある。芋掘り、りんご狩りなどいろんなところへ行って来た。神様はいつだって、決まったものに決まったものが成るように見ていてくれる。芋掘り遠足に行って、さつまいもを掘りに行きましょう。お芋を掘っていて、いちごが出てきたら泣くでしょう。だから、神様はお芋に「ちゃんとお芋をならせなさいよ」と言ってくださるんですよ。
 りんご狩りに行って、りんごの木に大根が成っていたら困るでしょう。だから神様が「りんごの木に、りんごを成らせるんだよ」と言ってくださるんですよ。
 しかし、途中で気がつく。小学生、中学生、高校生になって、遺伝子というものを習うと、神様が言わなくても、遺伝子の働きを神様が見ていてくださると語ることになる。日常生活に密着しているので、分子レベルのことはやらなくてよい。たしかに科学は、サツマイモの根っこにはサツマイモが成るということを教えてくれる。神の国は次のようなものであるという部分を学ぶことができる。だから、このたとえ話をきいても神の国について分かるわけではない。
 土はひとりでに身を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその帆には豊かな実ができる。
 私たちはそれを学ぶことができる。イエス様がここで語ろうとしているのは、種が育っていくことなのであろうか。それは、なぜ人が土に種を蒔いたのかということである。なぜ、人は収穫のときに鎌を入れたのか、ということである。
 「神の国は、種が蒔かれるときに始まり、収穫のときに完成する」といってもよい。ここに、神の国の最大のポイントがある。

◆科学と宗教
 科学と宗教ということを良く言う。宗教的なことというのは、科学で解明できることはある。遺伝子までさかのぼれば分かる。科学は扱うのは「HOW」である。しかし科学は「なぜ」については取り扱わない。この宇宙がどのようになっているのかについて、科学は取り扱う。種がどのように成長していくのか。今での多くの人が学問研究に励む。しかし、なぜ宇宙はつくられたのか、なぜあなたの命はいまあるのか。「なぜ」その問いに対しては、科学は答えられない。私たちは、神の国のことがらは「なぜ」という言葉ではじまる「どのように」で語られる。それは、作った方に聞いてみないと分からない。創った方に聞いても分からないこともあるし、答えてくださらないこともある。ただし、ただ一つ。神の国について知らされていることは、「初めがあり、終わりがある」そういうことなのである。神の御計画のときに初めがあり、神の御計画によって終わりを迎える。「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫のときが来たからである。」

◆死ぬ準備
 先日来、「世界がもし明日終わるとしたら」という本を紹介した。あなたの命もいつ終わりが来るか分からない。死ぬ準備の話や身辺整理と言う話で、羽咋教会で盛り上がった。ところが、食事をしているときは、これは体にいいという話になる。老後の心配をするおばあちゃんに限って、健康食品が好きである。みんな、一生懸命「死ぬ」ということを考えなければと言っている。はじめてのことではない。みんな死ぬことは分かってい、死ぬ準備もやっている。ひとつだけ、大事なことが抜けていた。それは、個々に準備をしていたが、それを皆さんで話をするということがなかったのである。健康の話と体の具合が悪い話は盛り上がる。死ぬ準備をしている話は、ざっくばらんな話で盛り上がることがない。
 この命がずっと続いていくということを考えていてはいけない。私たちに命が与えられたのであれば、終わりが来る。それを知って、今を生きるのである。長くでも100年である。80年あれば立派なものである。聖書の中に、あなたの若い日にあなたの創り主を覚えよ。人生を生きているときに、命には終わりがあると知って今日を生きるのと、それを考えずに生きるのでは全く違う。あなたの生き方を私は見ていて、裁くと言われたら、生き方は変わる。

 種を与えてくださるのは、父なる神様。その種が成長し、穂を束ねて収穫のときを迎える。そのときを待って命を永らえる。神の御国そのものなのではないか。私たちの人生が、私たちの人生として問われている。神様は、私たちの人生をしっかりと見ている。私たちの知らない山のようなことがある中で、私たちの命を与えて、それが神様の御手の中で、今をいき、将来を生き、永遠の命を与えられていることを忘れてはいけない。
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