シベリア抑留死亡者遺児の会

父親をシベリア抑留で亡くした遺児の会。墓参・埋葬地調査・遺骨収集・慰霊碑の建立・慰霊祭の情報を交換し風化防止に努める。

楽苦画飢10

2007-04-30 06:58:46 | シベリア抑留


伐採現場

鋸は日本では引き切りであるがソ連では押し切りであり、勝手が違い初めの内は困惑したが直ぐに慣れた。ノルマは一人5立方米で3人一組でノルマ、ノルマと追い立てられ辛かった。

(楽苦我記)
伐採場所も初めの頃は現場も近くに在ったが段々と遠くになり、片道が1時間半はざらとなって、冬場は防寒帽、防寒外套を着て長蛇の列がだらだらと行く、現場に着いても未だ薄暗く、先ずは焚き火であり暖を取り切断組、集材組に分れ仕事に掛かる。切断組は2人1組になって二人挽き鋸(ピラー)で指定された木を切断するのであるが、倒す方向、木の曲がり具合、生えている斜面などを考慮に入れ、どの方向に倒すのか見定めその方向側に少し鋸を入れ、その所を斧(タポール)で削り、反対側より切り込む。一抱え以上ある木等は外套を敷き尻を落とし足を踏ん張り、二人息を合せて切るが、日本では引き切りであるがソ連では反対の押し切りである。(以下省略)

(解説)
これは冬期の伐採作業とあり、「木の水分が凍っているのでシャリシャリと氷を切る様な音がする」とあるが、森林伐採は夏には出来ないのだそうだ、樹液が多くて鋸が通らないとか。
冬期は防寒の服装で、食事の不足から体力もなく、敏速な動きは出来ず、倒れる木によっての死亡者・負傷者が沢山出た様だ。
父の居たシャフタマ収容所はモリブデン鉱の仕事が中心で、80メートル以上の竪穴での事故が一番多かった様だが、それでも伐採事故で2名の方が亡くなられ、収容所きっての美男子のS軍曹が顔面を打撲され、(帰還されたが)見るのが気の毒な怪我をされたとある。

楽苦画飢9

2007-04-29 08:21:59 | シベリア抑留


虱(ウオーシ)

深夜ペーチカの明かりを頼りの虱退治、我々の分身を殺すのは心苦しいが、ペーチカの暖かさで虱がモゾモゾと這い出して来るので、爪と爪の間に挟み押し潰す、又行儀良く整列している、卵を根気良くプチップチッと潰すのである。

(楽苦我記)
千人針=腹巻きで千人の女の人に、赤い糸を通した針で一人に一針ずつ千人の人に丸めて貰い、布の中心に5銭銅貨を縫い付け四銭、即ち死線を越えて武運長久を祈る。

(解説)
「楽苦我記」の「ウオーシ」の部分が長いので割愛する。ただ「千人針」とは何かが分らない世代の人が出て来たので、柴谷様の説明を入れたが、私の母が連日6キロ先の駅まで出掛け駅頭に立ち父の為に御願いしたのを覚えている。又ペーチカも歌にもなっているが、日本人には分らない、私の育った満州の家にはそれがあったのを覚えている。
風呂に半年も入らなかった話、上記の千人針が虱の巣と化した話、虱対策の為か風呂(バーニヤ)が日本人によって作られ、お陰でシャフタマでは発疹チフスは発生しなかった事が記されている。
この収容所に父達が入る前にはドイツ人捕虜が居た、その棟は古く特に虱が酷かったと聞く、入所後建築した方はそれほどでもなかった様だが、このスケッチはその日本人が建てた新しい棟の内部である。
虱は死亡者の体から逃げ出し、生きている人の方へ行くのだそうである、それによって死亡を知った事もあるとのお話を聞いた事があり、抑留記には度々出てくる。

楽苦画飢8

2007-04-28 09:38:56 | シベリア抑留


食糧分配(秤量)

上から眺めている連中は、「これが多い、あれが少ない」と煩いことしきり、唯働く事と食うことしか考える事はない、我々には命の糧であるので分配当番も神経を尖らせている。初めの頃は分配は籤引きであった。

(楽苦我記)
入ソして1年位は食糧事情が特に悪く鉱山へ労働に行ったソ連労働者すら昼食にはまともな食物を持って来て居なかった、(中略)秤は支点を中央に取り両側に秤台を取り付け小石等で平均を取り片側に分配基準となる分量の物を載せ、それに合せて秤量される様になった。班員は寝台の上より痩せこけた体を乗り出し、ギョロッとした眼をその時だけは輝かせ、秤の一点を凝視し・・・(後略)

(解説)
今朝の読売新聞に全抑協の「シベリア抑留関係者の皆様へ」― 今年の夏の旧ソ連への慰霊訪問(墓参)募集の広告が掲載されて居ります。

楽苦画飢7

2007-04-27 07:54:41 | シベリア抑留


煙草の吸い殻争奪
未だ唾の乾かない吸い殻に我先にと捨てられたタバコの吸い殻に群がり、列より脱兎の如く飛び出し警戒兵に銃床で小突かれながら拾う姿を眺めて、こうまでしなくてもよいのではと話し合っていた。

(楽苦我記)刻みタバコ(マホルカ)
給与支給にはタバコも1日5瓦と規定されていたが1年位は、規定があっても手元には有ったり無かったりで、1袋で幾日分と纏めて支給されるので其の日にち相当の瓦数は不明であった。
ソ連人ですら配給が不安定で節約しながら大事そうに喫っているのを見掛けた。タバコには刻みタバコのマホルカと吸い口付きのパピロスの2種類だあり、マホルカは新聞紙を切って、その上にタバコを均して置き巻き込み、唾で端末を止めると云う方法で西部劇のカーボーイがタバコを巻くのと同じであるが、あの様な器用さは無いが、(中略)私も見かねて、この間まで日本軍の一員であった彼らの、この姿を見ると情けなく「止めろ」と云う。拾い集めた吸い殻は新聞紙を選り分け、新しい新聞紙に巻き替えて喫っていた。シャフタマでは一般労働者はマホルカであり、上級監督級になるとパピロスであり、警戒兵でも将校はパピロス、兵はマホルカであった。(後略)

(解説)
抑留記にマホルカと言うタバコの配給やそれを物々交換で手に入れるなどの話が良く出てくる。「楽苦我記」のマホルカの部分も長い、その他、マホルカは新聞紙で巻いて吸う訳だが、新聞紙によって味が違うとある、プラウダは旨く、イズベスチャは不味かったと、紙質で味に違いが有ったようだ。又マッチも粗末だったようだ。私の父はタバコを吸ったかどうか記憶に無いし、今では母に確認も出来ないが、今夏の墓参にはタバコをたっぷり持参し、亡くなられた皆さんに存分に吸って頂きたいと思う次第だ。もう肺ガンを気にする事も無いし・・・

楽苦画飢6

2007-04-26 17:07:42 | シベリア抑留


半地下家屋
建物の半分は掘られた穴の中にあり、穴の縁に沿って盛り土された高さが庇近くまであり、寒さを凌ぐ様になっている。
主食の馬鈴薯もこの様な建物の中に保管され冬期には凍結しない様に番人が付きペーチカで温度管理されている、馬鈴薯は凍結すると二度と元に戻らないし食べられない。

(楽苦我記)
半地下家屋(ゼムリャンカ)が7棟程あり、我々の住居で、地上より見ると大きな掘りっ放しで周囲を固めた穴の中に家屋が建てられ屋根と窓の一部が見えるだけで窓からは光が入るようになって居り屋根裏には大鋸屑が敷き詰められ、雨の少ない風土であるので屋根はトタン、又は板の重ねられた簡単なものであり、家の中は土足で入った所にレンガ積みのペーチカがあり、粗雑な木製2段の蚕棚のような寝台が3列の通路を挟み4列作られている。入所当時は室内灯は無く白樺の皮を燃やして明かり代わりにして居たが、暫くして奉天で電気関係の仕事に携わって居た伊藤君が工事をして薄暗くはあるが室内に4箇所付けて呉れた。

(解説)
1棟は約250平方メートルで約200名収容されたとある。2段になっているので、一人分畳1枚分有るか無いかのスペースである。
この半地下家屋は大半の抑留者が引揚げた数日後に崩れたとの残された札幌の山崎様の証言がある。シベリアにある全収容所はその後証拠隠滅の為倒壊されたが、ここはその後その上に建物が建てられ、既にその建物が壊れた状態で、60年の時の経過を感じたものである。

楽苦画飢5

2007-04-25 07:50:36 | シベリア抑留


シャフタマ第25収容所より NO.2シャフト(試掘抗)方向を望む

(楽苦我記)
以前ドイツ捕虜がいたと言うシフタマ収容所はチタ州に属しチタから東へ300キロの所にあるスレチェンスクより更に奥地(南方向)へ135キロほどの所にある、モリブデン鉱山を主体とする人口500ばかりの寒村である。
収容所より見て小さな谷超えの左上に横掘りのモリブデン鉱山が見え、それより目を右に移して行くと第3シャフト(竪鉱)のエレベータ用塔が眺められ、その中間点位の位置に小屋が見える(第2シャフトの事務所で未だ開発されていなかった)、収容所より勾配の少ない斜面を降りて行くと幅5メートル位のメイン道路につながり右に行くとスレチェンスクに通じ、左に曲がるとシャフタマの中心に通じ各鉱山に行ける。収容所の出入り門右前には兵舎2棟が並立し、その裏側に官舎が数棟建っている。東側は白樺林でありその奥は雑木林に北東側は遠く森林地帯に連なり山並みが望め、郭公の声が聞かれた。正面には大きな観音開きの門があり、その横に通用門が設けられ衛兵所がある。所内には医務、将校、炊事棟が地上に建ち、半地下家屋が7棟程あり我々の居住である。

(解説)
これは大変繊細に描かれた貴重な鳥瞰図であり、地図とも一致するし、私が見てきた場所が全部描写されている。
ここにはモリブデンの鉱山が3つ有り、80メートル以上の竪抗で危険な厳しい作業をさせられた。
収容所の全景では「監視塔は初期には3ヶ所に監視兵が立っていたが、その後一人だけとなった」とある。別の資料でこの収容所は3,200平方米で一人当りの占有面積は1.6平方米とあり、総員1,500名が収容されていたと記してある。
スケッチ中(A)は私の要望により、埋葬地を記入頂いたもの。「引き上げる時トラックの荷台より収容所から本道に出る手前で(後ろを振り返ると)多くの墓標が稜線に向ってはっきりと良く見えた」と車上から見た拡大したスケッチも外に4-5枚頂いた。

楽苦画飢4

2007-04-24 15:37:49 | シベリア抑留


野営風景

行き先は不明であり、今後どうなるかも分らず出る言葉は不安を駆り立てるものばかりであったが腹も膨れると昼間の疲れも手伝い絶やさぬ焚き火の付近に寝入る。
副食は何も無いが各人の持ち物を出し合い白米にバター、砂糖を混ぜた旨さは思い出す。

(楽苦我記)
この隊は憲兵が多いので国境付近に特殊施設を構築し後はどうなるかだと深刻化して行くが話しも途切れ、疲れも出たかして寝入って仕舞った。
行軍2日目の夕刻には軍足に米を詰めて持って来ているので飯盒炊飯をする、副食が無いので白米にバター、砂糖をまぶし食べたがとても美味しかった。
小雪が舞って来たので脱走を恐れ警戒兵は皆を窪みの所に集め彼らは少し小高い土手の上に位置しマンドリン(自動小銃)を抱えて警戒しているが夏服の上に外套を羽織っているが寒そうであり、ご苦労さんな事だと話した。
3日目の夕刻に漸く目的地に到着した。

(解説)
前記135キロ行軍の間のことである、勿論この中に私の父も居た訳である。他の方の抑留記にも「9月下旬なのに小雪がぱらついた」とあるが、中には「昼夜兼行の行軍だった」と云うのもある。この食糧は満州の関東軍貯蔵食糧である。
収容所入所は10月1日との正式記録があるが、柴谷様の(楽苦我記)には既に先遣隊が来て居り・・・とあり、1500名が一度に入ったのではないようだ。そこは独逸人捕虜収容所だったようで、砂金を採っていたとの報告もある。

楽苦画飢3

2007-04-23 23:35:25 | シベリア抑留


目的地不明の135キロの行軍
お互いに助け合った、慣れぬ長靴を履いての行軍であり、足に豆を作る者、靴ずれに苦しむ者が多く出た。

《楽苦我記より》
着いた所はシベリア鉄道の支線でシルカ河の川岸に造船所のあるカクイと言う町である。1週間位造船所近くに居て、9月18日だと言うのにもう薄氷が張り雪がちらついて来た。シルカ河を平底の連絡船でスレチェンスクに渡り2日目に「ダモイ・トウキョウ」と出発した。・・・3日目の夕刻に漸く目的地に到着した、既に先遣隊が来て居り周囲を有刺鉄線で囲みその内側に半地下にある家屋が点在するシャフタマ収容所である。

(解説)
ブラゴベシチェンスクでシベリア鉄道に乗せられ,ナホトカから日本へ帰国出来ると思っていたら、汽車は逆の西に向って走った。途中で汽車の先頭部分はそのままバイカル湖の方へ行ったが、着いた所はまちまちで柴谷様達はカクイ、(シャフタマ滞在1年半の後カクイに移られた方が多い)父達はシベリア鉄道支線の終点スチェンスクで降ろされたようだ。
このスケッチは、スレチェンスクから135キロを2泊3日の行軍の様子である。着いた所がシャフタマ(現在の地名はベルシーナ・シャフタミンスキー村)まで行軍させられた。そこが父の今だ眠る場所である。
その行軍はとてもきついものであったようだ、その後の抑留で厳寒の中での厳しい労働があったにも拘わらず、帰還兵の方は皆口を揃えて、「あの時の行軍の苦しさは忘れられない」と言われ、「4日間昼夜兼行だった」「いや1週間歩かされた」と言われる。距離135キロは私も確認したが、あまりのきつさに長く感じられたのだろう。

楽苦画飢2

2007-04-22 08:31:25 | シベリア抑留


ブラゴベシチエンスクでの運搬

力自慢の女労働者、見よ,見よと力自慢をする
ソ連に入って最初に目に付いた事は皆、短いスカートをはいている
と同時に乳は大きく、筋肉の遑しさであった。

《楽苦我記より》
入ソ第一歩 - 昭和20年9月7日に満州の黒河から黒竜江(アムール)を渡り、対岸のブラゴベシチエンスクに入ソ。
そこで川岸の集積倉庫から満洲で略奪した大豆、味噌、水飴、豆粕などを貨車まで運搬させられた。ソ連女性は袋に80キロ詰めて軽々と担いだ。
まだこの時はダモイ・トウキョウ(日本に帰る)とウラジオストック経由で帰国出来ると思っていた。

(解説)
満州の新京で武装解除されたのが9月2日(寄せ集め部隊なのでまちまちの情報あり)入ソの為の出発日9月3日の記録もあり、新京から真北に進み「黒河」から黒竜江を渡り、入ソしたのが9月7日とあるが、これもまちまちである。柴谷様の様に月明かりの中を渡られたケースと、同じ部隊でありながら、山崎様は真っ暗闇の中を、満州で略奪した車両などと一緒に渡られたケースとがある。
ブラゴベシチエンスクは中国との国境の町でシベリア鉄道からの支線の終点、遠方に貨車が描かれているのはシベリア鉄道ではない。今は大変栄えていると聞く。


楽苦画飢1

2007-04-21 10:25:04 | シベリア抑留


去る2月15日より3月23日まで、柴谷吉宣様のスケッチ「楽苦画飢」を、公開のお許しを得たのでアップして来たが、画像の取り込みが旨く行かず、折角のスケッチの良さがお見せ出来なかった。
本日よりスケッチを大画面に変更し、解説も矢張り柴谷様の抑留記「楽苦我記」よりこれまでの内容をより充実して再アップしたいと思う。

私の父がシベリア・チタ州の強制収容所で死亡した同じ収容所からの帰還兵「柴谷吉宣様」は退職後自分史として「楽苦我記」と題して満州編、シベリア編と纏められ、親戚・友人・知人に配布された。
私は3年前にお知り合いになり、それを頂き、一字一句、又幾度も読み返した。そして何時・何処で・誰が・何を・どうしたをメモを取った。その内容から地図をつくり、戦友の名簿を作り、季節を調べ、真剣に読ませて頂いた。コピーを取って他の3人のシャフタマ孤児(?)に渡した。

もし私が2004年に現地を訪れる前にお知り合いになり、これらの情報を頂いて居れば「もう既に父は連れて帰って居るだろう」にと悔やまれるが、それを今年の夏に予定している。我々の父親達の遺骨探しの為に大変有効に活用させて頂だけるものであり、シベリア抑留問題の風化防止に使わせて頂きたいと思う。

失礼ながら60年前の事である、忘却や記憶間違いもあり、私が2004年の現地訪問で得た知識で訂正させて頂いた箇所もあるが、私があまりしっつこく「埋葬地の場所」をお聞きする内に、現地を思い出しながらスケッチを書かれ、それを昨年の秋の戦友会の時30枚纏めて頂いた。
抜群の記憶力で、「楽苦画飢」と題して、写真の無いシベリア抑留の貴重な記録である。その後幾度か修正を加え、今回も一昨日10枚の差し換えが届いた、その変更を再アップに反映するが、見て頂ければ分ように、その描写に当時の境遇・心境が滲み込んで、寒さ・苦しさ・ひもじさを感じる。

私自身はそれで父の眠る埋葬場所を探す事に大いにヒントを頂いている事は勿論で、何とか実現すべく、今年は柴谷様にもご同行願ってシベリアに渡る計画を進めて居る。
前回までの加藤孝様のほのぼのとしたスケッチと又少し違う、鋭い描写をご覧頂きたい。

サムライの記録(最終回)

2007-04-19 21:12:39 | シベリア抑留


抑留記「サムライの記録」の表紙絵

(解説)
この回をもちまして、「サムライの記録」は終わらせて頂きます。
3月21日のお彼岸にご帰宅された加藤様と電話でお話出来た、それが最後の会話になりました。その時、私が加藤様のスケッチをBLOGへのアップする事のOKを頂き、それを今日まで続けて来た訳だが、その途中でお亡くなりになるとは、本当に残念で成りません。
完了したらプリントしてお送りする積りが、お見せ出来なくなりました。
父の埋葬地探しに、渾身の思いで60年前の思い出して頂き、本当にありがとうがざいました。
心よりご冥福をお祈り致します。

ダモイ(帰国)に関してもう数枚のスケッチを頂いて居ります。
「ナホトカの作業はノルマは無い、町工場の休憩時間は朗らかな地方人労働者と雑談・・・
彼等も肉親の事を気にかけてくれた」とか、加藤様はシャフタマの後、カクイ収容所へ
行かれ、そこから帰国の為ナホトカへ、その「ナホトカの海辺」「ダモイの式典」、
など数枚ありますが、申し訳有りませんが、本BLOGのタイトルは「遺児の会」で父達は
帰国致して居りません。ナホトカ、帰還船、舞鶴はあえて避けさせて頂きました。
(完)

サムライの記録18

2007-04-18 18:31:27 | シベリア抑留
シャフタマ収容所(の拡張)

シャフタマ収容所はスペースが四角でした。私が通訳班当番に行ってから末次兵長(通訳)
と一緒に歩幅で計りました。
メジャーが無く、1歩を75センチに換算し、いい加減なものでした。
末次通訳は衛兵所で作業に行く人数をソ連兵と一緒に数えていました。ソ連兵には数が分
らなくなる兵士が多かった。また(末次兵長は)ソ連将校・兵隊に人気があり、衛兵所で
ギターや手風琴をソ連兵と楽しんだりしてました。
シャフタマに収容され作業割が出来ない間は毎朝東に向って遥拝をして居りました。
作業に行く所が決まるまで何日も掛かり、その間は食べてはゴロゴロ終日遊んでいました。

(解説)
此処に1500名(正式には1名満洲で脱走した為1499名ともある)収容されて居た
わけです。日本人が入る前はドイツ人捕虜が居たようで、収容所も赤斜線の部分は後に
拡張して、5角形になったもの。
日産トラックが1台あったと他の方も言われています、満州からの戦利品でしょう。
有刺鉄線に近ずいて射殺された方があるとの記載も複数の方から聞きました。
手前(地図では下)が墓地です。此処に56名(他に54名説と四十七士と覚えている
との説もある)が埋葬されて居る。
今年8月に此処の埋葬場所探し、慰霊墓参に出掛ける準備を始めた。


サムライの記録17

2007-04-17 21:33:45 | シベリア抑留


シャフタマの春夏秋冬

(解説)私は30数枚の加藤様のスケッチの中で、このスケッチが一番好きだ。
香月泰男を始めシベリア抑留を描いた絵画は沢山ある。芸術的にも、歴史として描き残す
意味でも、捕虜生活を描写した優れた作品は多く残され、私も沢山見てきた。
それらは皆、父達の死亡に繋がる寒さ・餓え・重労働を表現した、シベリア強制抑留の記録でもある。
尊い人間の命を無視した捕虜生活を描写した絵画は他にも沢山残されて居る。

しかし、私はその苦しい環境の中で、ほのぼのとした、現地人との交流とか、季節の草花など、
明るく描いた加藤様のスケッチは大好きだ。何時までも父達を暗い所に置いておきたくない。
このスケッチの中の左下「朝日が出る」とある、方角的にこちらが東である。左上に雁が飛んでいる
のが描かれている、抑留者は「渡り鳥になって日本へ帰りたい」と涙を流したとも聞く、方角的に
南ないし南東で日本の方角になる。
この収容所では毒きのこを食べて死んだ人は無かったわうだ。
上の政治犯因人収容所と言うのは非共産党員が入れられて居たのである。
日本人墓地も見えるがそれは明日・・・

サムライの記録16

2007-04-15 13:21:21 | シベリア抑留


坑道内のスケッチ

坑道は裸電球が所々に下がっており暗い、トロッコは良く脱線し困った。

(抑留記)
私は試掘鉱山で死に直面した。午後11時から午前5時までの深夜6時間作業に従事した時
(中略) 私が事故に遭ったのは坑道を2往復して1回サボル事に決め一番奥へ入りランプ
を囲み一服し雑談にふけっていた。
その時頭上で突然物凄い爆発が連続して起り、爆風でランプは消え、鼓膜が破れんばかり
ガーンとした。
ハッパ(ダイナマイト)を仕掛けてあったのだ。岩盤の崩れる音と石埃りが降り堰板をぶち破り
坑道に流れ完全に塞がれた。導火線の燃焼した強いガスの悪臭と砂塵で呼吸困難となり、私は窒息
の苦しさから「死んじゃうぞ」と叫びわめき暗闇でI兵長の胸にしがみつき、なぐり苦しみもがいた。
エアパイプを幸いの手探りに、僅かな隙間から這い出すことが出来た。

(解説)
6時間作業とあるが、最初は3交代で8時間だったが、途中から4交代になったそうです。
配管はエアーパイプと水道管で左下を地下水の溝が流れている。

サムライの記録15

2007-04-14 11:50:41 | シベリア抑留


(鉱石)盛り場作業

トロッコで盛り場に運ばれた石をばけつ一杯になるとシグナルのロープを3回位引いて合図を
巻き上げ室に送り一服する。
ハッパ(ダイナマイト)を仕掛ける労働者 - 左の2人の(ロシア人)女性

(抑留記)
急な斜面の道を上がりきると鉱山事務所(カントーラ)兼巻き上げ室がある。
この上に櫓があり滑車の下にビヤ樽型をした金属バケツ(バンカ)が吊り下がり、脇に合図を
知る鐘のシグナルがある。
縦抗鉱山で山の中腹から深い所は地下40メートル位あり、垂直下の地底は盛り場になる。
盛り場は各坑道からトロッコ(ワゴン)で鉱石が運ばれて、それをバケツに詰めて、地上の櫓
の鐘やワイヤーロープで連絡の合図を送り、巻き上げる仕組みになっている。