こま的日常

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のわちゃん、ありがとう

2014年03月28日 | 


昨日午後2時30分頃、のわちゃんをお見送りしました。
去年年末にリンパ節のしこりを見つけ、1月に手術、悪性リンパ腫と判明。
2月から抗がん剤治療をがんばってくれていましたが、26日夜に状態が悪化。

33%濃度の酸素室で息ができなくなり、水の中でおぼれてるみたいに苦しみました。
高濃度の酸素を吸わせて何とか落ち着かせたけど、こっちも無我夢中でよく覚えてないけど、
かなり長時間苦しませてしまいました。
そしてその後、40%に近い濃度の酸素室の中でしかちゃんと息ができなくなりました。

病院の先生は、息ができなくて死ぬのは何よりも一番つらい。酸素で戻ってこれたらいいけど、
戻ってこれなかったら何時間も苦しむこともある、と言っていました。
夫は、自分が喘息で死にかけたことがあるので、安楽死を考えようと言いました。
病院の先生も、勧める立場でも止める立場でもないが、考える時期でしょう、と言っていました。
私は正直、全く考えていませんでした。
でも私もたるに噛まれてアナフィラキシーショックで気管が腫れ、息ができずに死にかけた経験があります。
息ができず怖い気持ちはすごくわかります。
のわちゃんを見て、泣いて考えました。お昼は添い寝してくれたり爪とぎしたりしてたけど、
今のわちゃんは40%に近い濃度の酸素室にいます。
トイレには自分で行くけど、出た所でへたってしまって自分で酸素室に戻れません。
私が横にいて酸素室に戻してあげれば大丈夫だけど、もしいなければ何時間も苦しんで死ぬことになります。
今、のわちゃんの生きられる場所は40%の酸素室だけです。
しんどい時にちょっとでも楽に過ごせるように借りた酸素室だけど、そこでしか暮らせないなんて違います。
そして、その酸素室の中でさえだんだん苦しそうになっています。もう治す薬のない腫瘍はどんどん大きくなります。

それで、決断しました。
もうかわいそうで見ていられませんでした。
うちでの最後の記憶が長い長いつらい苦しいは嫌でした。
酸素室から出られないため、往診してくれる先生を探しました。
長々事情説明し、断られ断られ電話4件目でやさしそうな女性の先生が来てくれました。
のわちゃんをきれいな女の子だね、今度は病気のない体でまたこの家に来れたらいいね、といってくれました。

のわちゃんは本当にがんばってくれた。
4.6kgあった体重はたった3か月で3kgを切ってしまいました。
最後の方、嫌がって触らせてくれなかったので、もうあまり触らなかったのどの腫瘍は
憎たらしいほど大きく、数も増えていました。本当に憎い。
たるちゃんは、ずっとのわちゃんにくっついてる私にずっとくっついてくれていました。

家の中どこを見ても、そこにいたのわちゃんの姿がうかびます。
今週は月曜、水曜、木曜と休みをもらっていましたが、今日から会社に来ました。
朝家を出て外でも、初めて会った自転車置場ののわちゃん、毎日デートしてた時の駐車場ののわちゃん、
マンションの駐車場でカリカリもらってたのわちゃん、おねぇさんにミルクもらってたのわちゃん、
子供たちに伊右衛門茶もらってた(飲んだのかな?)のわちゃん、って思い出いっぱい。家の中も外も。

寂しい。推定もうすぐ6歳でした。あと15年一緒にいる予定でした。