明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

込み藁(わら)入れ

2012-11-30 23:06:57 | Weblog
報恩講の準備が本格化してきました。報恩講では、仏様に備えるお花は松を芯に最高のお荘厳である仏華でお飾りします。自坊では、仏教壮年会の役員さんが立てていただきます。今日の作業は、普段は決して人の目に触れることとない地道な作業。
お二人のご門徒さんの協力により、花瓶(かひん)に込み藁(わら)を入れていただきました。この作業は、手間隙の入る根気の作業です。

使用する藁よりも、捨てる藁の方が圧倒的に多いのです。上記写真のように、殆どを捨てていきます。そして、出来上がったのが下の写真。小さく括(くく)った込み藁の束(たば)。この束を、花瓶(かひん)の大きさに応じて切断し入れていきます。このようにすれば、水持ちが大変よく、藁ですから松等を突き刺しやすいのです。半日かかりの作業となりました。ご協力本当有難うございました。

下の写真は、「世のなか安穏(あんのん)なれ」という聞きなれた標語。そうです。昨年ご本山・本願寺にて修行された「親鸞聖人750回大遠忌法要」の標語です。上記の標語を、杉板に彫り、大きな額(畳一畳近い)として寄進していただく事になりました。

この額を製作される職人さんが来寺。設置場所等を検分していかれました。来年、4月14日の二法要には、是非とも間に合わせるとの事です。

平成24年度 報恩講ご案内と第8回定例法座

2012-11-30 00:28:07 | Weblog
冬の訪れと共に、報恩講の季節が巡ってきました。自坊では、毎年12月7日8日とお勤めさせていただきます。今年は、12月7日(金)12月8日(土)となります。一年で、最も大切な法要。それが親鸞聖人の報恩講です。
平成23年4月より始まった本堂修復工事。1年間の工事期間を経て、平成24年3月に完成いたしました。ここに、宗祖親鸞聖人報恩講を本堂にてお勤めする事となりました。(昨年度は、庫裡でお勤めしました)感慨無量です。これも皆様のお陰であると、心より感謝申し上げます。寒さ厳しき季節ではありますが、最も大切な報恩講であります。皆様のご参詣を心よりお待ち申し上げます。
12月7日(金)の日程(午後2時から)
・お勤め(西方不可思議尊)
・ご伝抄拝読(ご伝抄とは、親鸞聖人の一代記です。) 
自坊では、矢来(やらい)内の左側で、朗々と拝読されます。

・ご法話・・・・二十五日講の僧侶の皆さん。(午後4時に修了します。)
一方、庫裡(くり)では地元東禅寺の年行事ご婦人方が、明日の(おとき=400年伝統の精進料理)の仕込みが始まっています。大鍋にて炊き込む料理は美味しいのです。

子供の報恩講 午後5時30分から
(今年は、学校行事と重なり1時間遅くなりました。)
・子供の報恩講は、正信偈から始まります。(昨年度は、庫裡にて)

・マジックショー(佐藤さんの実演)

夕食は、おとき。そして、キャンドルサービス

12月8日(土)
・おとき・・午前11時から
・ご法話・・午後0時15分~
ご講師 佐藤寛治さん(名鉄観光営業推進部長)

ご法話の中味「福島の現実とお念仏の心」
内容
「昨年三月十一日、東北を襲った東日本大震災は壊滅的な被害を与えました。特に福島県は、地震・津波・原発事故・風評被害の四重苦に苦しんでおられます。実は、福島県の相馬・南相馬は二百年昔に北陸からの真宗移民の皆さんが開拓した土地なのです。・・・」
佐藤寛治さんの語り口は、聞く者をして思わず引き込まれる程に素晴らしいものです。今年、六月に東北にご一緒させていただきました。その入念なご準備とご案内は、参加者をして心打つものでした。是非とも、ご聴聞(ちょうもん)下さい。
・お勤め・・午後2時~
帰命無量寿如来
 午後2時40分修了
お寒い中ではありますが、同信の友をお誘いあわせていただきご参詣いただきますようお願い申し上げます。
本日(11月29日)、午後2時から第8回定例法座が開かれました。参詣は、17名の皆さん。

法話の中味は、親鸞聖人が吹雪で難渋して、一夜の宿を求めた有名な「枕石寺」の話。

宿の主人だけではなく、この悪き心は全ての人間が持つ心です。このような人間こそが、阿弥陀様の救いの目当てであるとの話をしました。いわゆる「悪人正機(あくにんしょうき)」の話です。




散りゆく紅葉・・・・

2012-11-28 17:22:59 | Weblog
散り行く紅葉・・・感傷的な言葉です。北海道・東北では猛吹雪。一昨日・昨日は、大風が吹き氷雨が降りました。
昨晩は、自坊にて来年4月14日にお勤めします「親鸞聖人750回大遠忌法要・本堂修復慶讃法要」の式次第(差定=さじょうと呼びます)打ち合せがありました。この会議が、延々と続き午後10時過ぎまで。皆さん、寒い寒いの連発。今朝は、藤原岳も山頂付近は真っ白。里に雪が降り出すのもそんなに遠くはないでしょう。一挙に冬支度の筈でした。しかし、今日は一転し比較的暖かな陽気の一日となりました。
大風に紅葉(もみじ)の葉が散り、まるで紅葉(もみじ)の絨毯(じゅうたん)。自然がおりなす不思議の世界。

これを掃き掃除するのは頭が痛いのです。実は、落葉はほんの一部。自坊では、今が紅葉の最盛期なのです。

黄色と赤のコントラストが見事。自然の造形美の凄さ・・・・

今年は、10年に一度の紅葉(こうよう)とか。自坊の紅葉(もみじ)を見ても納得です。柚子も生り年。たわわに柚子の実も。

しかしです。この紅葉(もみじ)も全て散り行くのです。今日の午後からは、境内の掃き掃除。でも、落葉が多すぎて半分も出来ませんでした。今から、法要です。頑張りましょう。

おみがき・・報恩講の準備始まる

2012-11-26 19:22:26 | Weblog
11月25日(日曜日)午前8時(幸い快晴・暖か)、地元東禅寺地区ご門徒のご婦人(24名)が集まっていただきました。最初の方は、なんと午前7時30分。
自坊では、毎年12月7日8日の両日に宗祖親鸞聖人の報恩講をお勤めいたします。その準備の為に、大切な本堂仏具の「おみがき」なのです。
しかし、私は夢うつつ。徹夜。報恩講をお知らせする自坊の新聞「聞法第109号」の製作なのです。今日の「おみがき」終了後に東禅寺地区にはお配りする。これが決まりごと。何としてもの思いで製作・印刷。無事に命題をクリアーしたのが午前7時30分。これでは、戦力外通知もいいところ。うつらうつらで約1時間の仮眠。ですから、「おみがき」作業の写真は無し。
写真は、ピカピカに磨いていただいた仏具。

そして、本堂にてのご挨拶の写真のみ。

皆さんのお力で、仏具・本堂が本当に美しくなりました。心から御礼申し上げます。これで、頭は報恩講モードに完全に切り替わりました。

人天蓋(にんてんがい)

2012-11-26 18:16:15 | Weblog
11月21日(水曜日)は温かく快晴。午前10時に、2台のトラックが自坊に到着。ご寄進いただいた天蓋(てんがい)が到着したのです。天蓋(てんがい)には、仏様の上にかざす仏天蓋(ぶってんがい)、そして法要時に礼盤(らいばん)上に座す導師の頭上にかざされる人天蓋があります。勿論、人天蓋(にんてんがい)が到着したのです。
写真・・トラックより降ろされる天蓋部分。厳重に梱包。

本堂外陣の畳まで一旦運びこみ、人天蓋がその姿を現しました。木製の素材に、金箔と装飾を施した豪華な造りです。

そして、本堂内陣へ。内陣格天井から吊るし下げます。慎重・慎重の細心の注意のなかでの作業。ようやく龍頭を設置するまでになりました。

人天蓋の真下に入って頭上を見れば、二人の天女が楽(がく)を奏でながら優雅に舞っています。今にも、極楽浄土の妙音が聞こえてきそうなお姿。

いずれも、素晴らしいお顔の天女です。お顔を拡大すれば・・・

作業は、進み大小の瓔珞(ようらく)を設置していきます。これが案外に難題でした。

そして完成。素晴らしい人天蓋です。

12月7日(金)8日(土)の自坊報恩講は、この人天蓋のお披露目法要です。


123000人 一茶について・・・③

2012-11-24 22:21:10 | Weblog
暫くお留守になりましたが、「一茶について」を再開。1773年(宝暦13年)に、一茶は長野県上水内郡信濃町柏原の農家の長男として誕生した。しかし、3歳のときに母親が死亡。父親が後妻をもらい、弟(仙六)が一茶10歳の時に誕生。生みの母に変わって、一茶を親身に育ててくれた祖母が一茶14歳に亡くなった。祖母が、元気なうちはよかったが、一茶と継母との関係は最悪の状態となったであろう事は想像に難くない。その証拠に、長男である一茶を江戸に丁稚奉公に。一茶15歳の時である。この背後には、財産を巡る継母の強い影響が感じられるのである。
写真、一茶実母のお墓。(一茶記念館ホームページより複写)
一茶記念館から2kmほど、柏原仁之倉に一茶の母の家があります。屋敷内に真宗大谷派(お東)句仏上人揮毫の句碑が建てられました。 「ともかくもあなた任せの年の暮」

長男である一茶が、江戸奉公に。自分をかばう事のできなかった父親に対する不信感は一茶の心に強く残ったに違いありません。「自分は捨てられたという思い」。このことは、後に一茶の俳句の作風に大きな影響を与えた事は間違いありません。「寂しさ」と「孤独感」が、全面に出た俳句が多いように思うにです。

●われと来て 遊べや親の ないすずめ
●やせ蛙 まけるな一茶 これにあり

違った道を歩んでもしかたのない程の屈折した少年時代。そこから一脱する事なく、「寂しさ」と「孤独感」を内包しつつも、弱きものに対する阿弥陀様の無限の慈悲のような愛情を俳句に読み込んだのが、上記の一茶の俳句と思うのです。それは、人生の後半生にあたり、郷里に帰省して、真宗地帯である柏原のお念仏のお育てのなかから、苦しみも哀しみも阿弥陀様の御手のなかにあるという真宗安心(あんじん)の境地からくる見事な俳句といえるのではと思うのです。
では、一茶は江戸に出ていつごろから俳句にであったのでしょうか?詳しい事は不明ですが、「一茶について・・・①」で紹介した矢羽勝幸氏の『信濃の一茶』によれば、20歳頃には俳句を作っていたとあります。
そして、27歳の時にプロとしての俳人になるべく、俳聖芭蕉の跡を慕い、東北に『奥の細道』紀行をした事は、「秋田へ 奥田酒造店へ・・・④」で述べた通りです。すなわち、寛政元年(1789年)に、一茶は東北の旅に出ているのです。松島と象潟に、その足跡を残しました。松尾芭蕉の『奥の細道』は、江戸中期にはすでに古典。なかでも、松島と象潟は俳聖である芭蕉の輝かしい俳跡の後であったのです。一茶が、俳人として独り立ちするためには、『奥の細道』紀行は必修科目。
写真・・・松島

写真・・・象潟(きさかた)・・勿論、一茶が訪れた象潟は松島のように多島海の絶景。

このブログの訪問者が、123000人(正確には、123097人)を超えていました。いつも訪問いただき有難うございます。
続く・・・・

動物園に行かなくても・・・・

2012-11-24 11:11:52 | Weblog
11月24日(土)は、この時季には珍しい暖かな日和。天気予報では、朝夕の冷え込みが厳しく12月中旬の気温との報道。しかし、日中は絶好の紅葉狩りの一日。その陽気に誘われた訳ではないだろうが、ここ暫くご無沙汰であったお猿の軍団が大挙出動。屋根の上が、ガタガタとやけに騒がしい。地震かと思ったが、外に飛び出したらお猿の軍団のお出まし。
隣の家の大屋根では、学習能力よろしく棟の瓦を剥がして下に投げて遊んでいる。どこでこの悪さをおぼえたのだろうか?それも飽きたらしく、三匹の小猿が屋根の上を我が物顔で飛び回っている。小猿の運動会。

今度は、自坊の書院の屋根に移動。書院の屋根の上で仲良く毛づくろい。いかにも気持ちよさそう。そして、大アクビ。ようするに日向ぼっこをしているのである。「コラー」と、こちらが大声でどなろうとまるで知らん顔。完全に無視。


こうなると、動物園まで行かなくてもお猿の生態は、自坊にて充分に観察できるのである。

秋田へ・「千代緑」の奥田酒造店へ・・・④

2012-11-21 23:33:30 | Weblog
宿泊場所は、低料金の唐松山荘。前回も宿泊。でも、昨年3月11日の東日本大震災で倒産。温泉の生命線ともいえるパイプラインが破損したのが原因との話でした。こんなところにも東日本大震災の影響が色濃く出ているのです。しかし、別の経営者により復活したのが昨年の10月。そんな事は全く知らずの宿泊でしたが、源泉掛け流しの湯は人気が高く、地元の人が大勢入浴される姿が。

秋田の名物料理といえばキリタンポ。夕食は、やはりでした。従業員の方が、説明しながらお鍋に食材を入れていただきましたが、余りのボリュームに食べきれず・・・ただ、食材のなかにセリがあり、しかも根までついているのにはビックリ。これが、結構美味しいのです。

徹夜運転での秋田でした。午後8時頃には熟睡。翌朝、お礼のお電話を奥田様にさしあげてイザ出発という時です。一台の車が唐松山荘に滑り込んできました。何とご当主とご次男です。多くのお土産を頂戴したのです。ご接待いただいたのは私達です。誠に申し訳なく思いました。
写真は、唐松山荘の玄関にて撮影。

多くの思い出をいただき私達は帰路につきましたが、途中でどうしても寄りたい場所がありました。秋田県仁賀保市の象潟(きさかた)です。三重県ゆかりの松尾芭蕉も「奥の細道」で訪れた明媚な景勝地です。芭蕉が訪れた最北に地。
象潟の道の駅にて

松尾芭蕉が訪れた象潟は、浅い海と多くの小さな島々で成り立ち。小さな島々には松が生い茂り、風光明媚な象潟の地形であったといわれています。「東の松島 西の象潟」と呼ばれ、松尾芭蕉の『奥の細道』(1689年年)でも「松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し」と詠われた地でした。
江戸時代の古地図を撮影。多くの小島があるのが分ります。

しかし、1804年の象潟大地震で海底が隆起し地形は一変。陸地化してしまい現在の地形となりました。今でも、田圃の真ん中には小島が残り松が茂っています。

田植えの季節ともなると水がはられ、往時の風景を偲ぶことができるといわれています。
写真は、道の駅のポスターを撮影。

実は、この象潟は連載途中の小林一茶も訪れているのです。一茶27歳の時です。寛政元年(1789年)に、一茶は東北の旅に出ています。松島と象潟に、その足跡を残しました。松尾芭蕉の『奥の細道』は、江戸中期にはすでに古典。なかでも、松島と象潟は俳聖である芭蕉の輝かしい俳跡の後であったのです。一茶が、俳人として独り立ちするためには、東北の旅は必須の修行旅行であったのです。
自坊には、11月13日午後10時20分に無事到着しました。唐松温泉を、午前9時30分に出ていますから約13時間余りの帰路。往還所要時間は27時間余り。秋田滞在時間は21時間という強行日程でしたが、疲れを感じない秋田の旅でした。「千代緑」のご縁の旅と申せましょう。


122000人 秋田へ・「千代緑」の奥田酒造店へ・・・③

2012-11-21 18:02:19 | Weblog
三重県北部の自坊でも、ここ数日この寒さ。秋田県の中央部あたりの天候は、どうなのだろうか?庭の木々の雪囲はされたのだろうか?等々の思いが駆け巡ります。私達が、出向いたために雪囲いが遅れていましたから、さぞやご迷惑をおかけしたのだと思います。
さて、奥田家は真宗大谷派(お東)のご門徒。お仏壇前にて、阿弥陀様にご挨拶の勤行をさせていただきました。ご先祖の祥月経のために、法名板が並べてありましたが、何と初代は江戸初期の寛永年間(徳川幕府第3代家光の時代)でした。以降、350年この風光明媚な秋田県大仙市協和地区で銘酒「千代緑」を作り続けて来られたのです。
お庭の散策から茶室に入室しますと、大奥様のお手前にて「茶飯釜」の茶事が始まっていました。ですから、残念ながら茶釜にお米を入れられる作法等は撮影されていません。しかし、造詣の粋を凝られてつくられた茶室。天井のあかり窓まで、贅沢なこころ配りがなされています。

母親達の為に特別に椅子席が設けられていました。大女将自らの趣向を凝らした手料理の数々です。地元の食材を生かした絶品の品々。しかも、お皿もお漆器類も超がつく一級品です。伝統工芸の世界でもありました。




そして、いただく大吟醸の生酒。

茶室の囲炉裏では、茶釜から湯気があがってきました。

何とも香(こう)ばしい香りが漂います。ご飯の香りです。この中で、ご飯が炊かれているのです。この香りを、正客に楽しんでいただくために、敢えてお香は焚かないとの事でした。まことにこれ侘び寂びの奥ゆかしい世界。
この湯気を見られて、大女将さんが微妙に鎖を調節されていきます。勿論、茶席に使用される炭は有名な備長炭。しかも、夏に備長炭を塩水に付け、それを束子(たわし)で擦った炭のみを使用されるとか。一度、私も来年の夏に試してみたいと思います。勿論、備長炭ではありませんが。

御飯が、炊き上がったようです。

盛り付けいただいたご飯。勿論、お米は有名な秋田こまち。初めていただく茶飯釜のご飯です。美味しかった事この上なし。格別のお味がしました。

お汁が囲炉裏の上に乗せられます。そして、大女将さんが火加減を鎖で微妙に調整。

そして、出来上がりました。地元秋田の食材ばかりとか・・・

次々と料理が出されます。美味な手料理ばかりです。茶事を堪能させていただきました。まるで、異邦の世界に来たような錯覚すら覚えます。お食事の後、第二の茶室にてお茶をいただきましたが、磨きぬかれた茶道具一式には感嘆する以外にはありませんでした。チリひとつ着いていないのです。

その後、母達はお座敷にてご家族と歓談。杜氏さんのご案内で、私は蔵を見学させていただきましたが蔵全体の清潔さにビックリ。

お座敷にて記念写真です。凛々しく貫禄充分の美しい大女将さん。そして、第18代のご当主とご次男さん。茶飯釜を、裏でお手伝いしていただいたであろう若女将さんも入っていただき記念写真です。上品さが漂うお綺麗な若女将さんでした。

気がつけば、時計は午後5時をまわっていました。おそらく、私達の為に一週間程前から入念なご準備をしていただき、今度は高価な漆器類、茶碗類を完全に水切りして仕舞っていただく必要があります。何物にも変えがたいお持て成しをいただきました。
いつもは和服姿が多い大女将さん。この日は洋服姿。これは、茶飯釜の茶事にて私達が気後れしないようにと格別のご配慮だったのです。この度の、ご恩と感謝は一生忘れる事はないでありましょう。特に、母親は格別の思いがあったようです。本当に有難うございました。私達は、皆さんに見送られて宿泊地の唐松山荘に向かいました。思い起こせば、前回の秋田行きでここに宿泊。注文しました一本のお酒。それが、「千代緑」との出合いでした。ご縁の不思議さをつくづくと実感する事です。
このブログの訪問者が、122000人(正確には、122716人)を超えていました。本当に有難うございます。








 

紅燃ゆ

2012-11-20 18:49:10 | Weblog
暫くブログ投稿がお留守。法要と員弁組(いなべそ)の新聞第54号編集作業が重なり、アップ・アップ状態。今日の午後1時からの編集会議に間に合わせるべく、今朝午前5時まで作業。ようするに徹夜。振り返ってみますと、昨年も同時期にブログにて愚痴をこぼしておりました。毎年、進歩なし。進歩どころか、疲労の蓄積は溜まる一方・・・・
それにしても、冷え込みがここ最近厳しく急に寒くなってきました。その為か、西日本各地の紅葉の名所からも、紅錦に色づいたの紅葉(もみじ)の映像が放映され、大勢の紅葉(もみじ)狩りの人々で大混雑。
でも、無名の紅葉(もみじ)も、そのいのちを燃やすがごとくに見事に紅葉(こうよう)しているのです。自坊裏庭の紅葉(もみじ)の老木もその中の一本。今年も、文字通り紅燃ゆる真赤な色づき。老木には迷惑な話ですが、勝手に「血の紅葉(もみじ)」と呼んでいます。
本堂の大屋根を背景に・・

今が盛りと紅燃ゆる老木の紅葉(もみじ)・・

赤・赤・赤・・・深紅の重なり・・

秋田から帰りましてから、法要とパソコンに明け暮れていましたから、寝不足気味の私には、老木の紅葉(もみじ)の紅葉は絶好の森林浴。肌寒い一日でしたが、小一時間余り見とれていました。自然の説諭の力は偉大です。今は、元気ハツラツ。