眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

「作家」の資質についてくるもの ・・・・・ 『永い言い訳』

2017-04-22 18:45:06 | 映画・本

「原作・脚本・監督:西川美和」という映画は、これまでずっと苦手だった。

「よくこんな話思いつくなあ」というような設定で、人の世の現実、きれいごとではない人間の生々しい心理を、平然と描き出す人のように感じられて、「現実を忘れたい」?からこそ映画を観にいく私などには、「苦手」としか言いようのない作り手の一人だったと思う。

ところが、今回の『永い言い訳』はちょっと違っていた。これほど人間たちをあたたかく見つめ、ほのかな希望を感じさせる作品だとは思っていなかった私は、正直驚いた。

あらすじをざっと書くと・・・

人気作家の津村啓こと衣笠幸夫(きぬがささちお)は、妻が旅先で不慮の事故に遭い、親友と共に亡くなったとの知らせを受ける。そのとき不倫相手と密会していた幸夫は、世間に対しては悲劇の主人公を装うのだが、20年連れ添った妻との関係は既に冷え切っていた。ところがある日、亡くなった妻の親友の遺族である、トラック運転手の夫・陽一とその子どもたちと出会った彼は、ふと思いついたように、幼い彼らの世話を買って出る。子どもがいなかった幸夫は、保育園に通う灯(あかり)と、中学受験を諦めかけていた兄の真平の世話を、慣れないながらも嬉々としてするようになるのだが・・・(チラシよりテキトーに引用)

主人公のサチオ(本木雅弘)、子どもたちの父親のトラック運転手(竹原ピストル)、5才の灯(白鳥玉季)、小6の真平(藤田健心)、サチオのマネージャー(池松壮亮)、浮気相手の編集者(黒木華)、軽い吃音のある学芸員((山田真歩)、そして結婚20年にして亡くなる妻(深津絵里)・・・というキャストが皆適役で、どの人も最上級に好演していると思った。(竹原ピストルの存在感、幼い女の子の天真爛漫さ、長男が見せる悩みの深さ、池松壮亮の不思議な冷静さ、そしてこれまでで一番美しく見えた深津絵里の謎めいた無表情・・・)

映像としても、季節の移り変わりがそのまま物語の進行に反映されていて、 地味な色調がかえって自然な美しさを強調しているように感じられた。(満開の桜、ボートを漕ぐ水面に浮かぶ花筏、海水浴に行った浜辺・・・などなど)

でも・・・結局のところ、私は主人公のサチオだけを、最初から最後まで、じっと見つめていたような気がする。その間ずっと、「モノ書き」に必要な資質(或いはそれに付いてきてしまう?何か)について考えさせられることになった。


映画は冒頭、マンションの居間で髪をカットしてもらいながら、次から次へと嫌味を言い、ひとりで勝手に拗ねている子ども(かそれ未満)のような作家と、はさみを手に、一つ一つそれを受け流していく妻との遣り取りから始まる。

そのものズバリなスタートだったことは、映画が進むにつれて、さらに明らかになってくる。とにかくこの広島の鉄人と同姓同名(名前の方の漢字は違うけど)の男が、いかにメンドクサイ(しかも嫌な)奴かということが、これでもか・・・というほどに、エピソードを連ねて描かれていくのだ。私は最初の30秒で、こんな男2時間も見ていたくないな~と、観るのが本気でイヤになった。

それでも仕方なく、渋々観ていたら・・・なんと、あっという間に妻は死んでしまう。親友の女性なんて、ほんの一瞬で居なくなるわけで、「要らないモノはさっさと消す」この監督さんのやり方?にちょっと呆れ、でもちょっと感心してしまった。

この「要らないモノは出さない」姿勢は一貫していて、例えば子どもたちの祖父母たちがどこでどうしてるのか、全く話題にのぼらない。トラック運転手は、大雑把でしかも直情径行だけれど、とても温かみを感じさせる人物で、彼を気遣う友人がいないとは思えないのに・・・などなど、ほとんど強制的に「子どもたちの世話が出来るのは主人公のサチオくらい」にされている。そうまでしてでも、主人公と妻の親友家族の関わりだけに焦点を絞ることが、この映画では必要だったのだろう。


その後、まるで母親!のように細々と子どもたちの面倒をみるサチオの姿は微笑ましい。みんなで海水浴に行ったときなど、ゲイの夫婦の親子風景のようで、オソロシクぴったり嵌って見える。

しかし、本来の彼は、「有名人と同じ名前に生まれて育った経験など、君にはないだろう。わかったようなことは言わないでくれ!」「妻の死などに寄りかかって何か書くくらいなら、僕は筆を折るよ!」などなど、相手が自分より下?と思うと、もう言いたい放題。花見の席では、酔っ払って編集者に殴りかかり、疎外感を勝手に持って、5才の女の子の誕生パーティを台無しにする・・・そういう「子ども未満」の部分を「どうにもできないまま」抱え続けている人間なのだ。(一体どういう育ち方をしたんだろう・・・と、つい思ってしまうけど)

人からどう見られるか、どう評価されるか、そういったことが気になって、自分がどういう人間なのかを、自分で考えることが出来ない。というか、多分あまりに劣等感のカタマリになっているせいで、「自分」の中身と面と向かい合いたくない。(だから「同じ遺伝子を持つ」子どもも絶対持ちたくなかった) 

当然自分に自信が持てず、何があっても「言い訳」しか言えない。人生が丸ごと「永い言い訳」でしかないような彼は、しかし「モノ書き」としての才能があり、「見下しても構わない(つまり危険ではない)」相手の気持ちなどはどうでもいい代わり、自分が関心を抱いた相手に対しては、非常にアンテナもよく観察力に優れ、「その場に足りないモノを瞬時に見て取って、その不足を言葉や態度で補う(つまりフォローする)」ことが出来る人間でもある。

母親が亡くなった後、父親との関係に悩む真平をサチオが正確に理解し支えられるのも、彼のそういう資質が(たまたま)良い方に働いていたからだと思う。(世の中はそういう風にして回っているのかもしれない。距離が近すぎない方がいいのだ)

「現実」を素材にしていても、それを言葉として書き表すことで「現実」から離れ、しかもそれがあたかも「現実」であるかのように、自身なりきって?自然に演じることさえ出来る人間(妻の死後間もない頃、TVで悲劇の主人公をスンナリ上手に出来たりしたように)の場合、そういう「現実から離れたい」という思いが創作活動の原動力なのだとしたら、今更そのことをどうこう言っても始まらない・・・そんな気もしてくる。


こういう人は結果的に孤独な人生になるだろうけれど、孤独も長く続くと慣れてしまって、どこかでそれを辛く感じていることにも鈍感になり、見当外れの癒し方(酒だの浮気だの?)しか出来なくなってしまうのかもしれない。目の前の妻さえ、劣等感を刺激する(だからこそ見下して、視野から追い払ってしまうしかない)存在にしか見えない・・・という風に。

しかし、事故で亡くなった妻の携帯に残されていた、彼宛のメールの下書きに気づいたとき、彼は大変なショックを受ける。

「もう愛してない。ひとっかけらも」

自分から遠ざけながら、なぜか安心して見くびって?いた妻。なのに自分の方が「捨てられ」ようとしていたとは。

この未送信のメールがどういう意味のものだったのかは、私にはよくわからない。離婚届の用紙を、引き出しの奥に潜ませている妻・・・というのは、別に珍しくない気もする。が、一方で、旅行に出て行く際に「後片付け、お願いね」と念を押していった彼女の姿や、早朝のバスの車内でのもの思わしげな表情を思い出すと、本気で別れようとしていたのかも・・・などとも思う。

私が瞬間的に思ったのは、「ああ、彼女は(以前は)本当に本気で、彼を愛していたんだ・・・」といった、愛惜とも納得ともつかないようなものだった。当のサチオはそんな風には受け取らないだろうけれど、いつかそのことに気づいてくれたら・・・と、切ない気持ちで一杯になった。


映画の終盤、汽車の中で真平を前にサチオが語る言葉は、(男の子のことを本気で思って言っているのではあっても)私の目には、子どもという最高の聴き手を前に、自分がたどり着いた境地を自身に向けて語ったもののように見えた。真平は真平で、「自分を大事に思っていてくれる人(今の場合は父親)は、そう簡単に手放してはいけない」という言葉の意味を理解して受け取ったという以上に、オトナが真剣に(自分の内部を見つめて)語る際の、言葉以外の何かを感じ取った・・・そんな気がした。


西川監督も作家なので、サチオは「分身」としての要素があるはず・・・そう思うと、これほど露骨に「自分のことしか考えていない」人間でありながら、どこかユーモラスで、ある種人の良ささえ感じさせる描き方がなされているのは、監督が自分の「人の悪さ」を赦す気持ちになったからなのかなあ・・・などと妄想をたくましくしてしまう。

演じる人によって、サチオという人物像は、ずいぶん感じが違っていただろうし、本木雅弘さんの元々の良さ(端正な美しさとか)を生かして、その裏側の素顔さえ感じさせる仕上がりになっているのも、監督さんが獲得した余裕の現われなのかなあ・・・などとも。


なんにせよ、これからは西川監督作品を、迷わずに観にいけそうな気がする。楽しみがまた一つ増えて嬉しい(^^)。




 

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6 コメント

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共感至極 (ヤマ)
2017-04-23 20:51:07
ムーマさん、こんにちは。

 本作についての自分の捉え方は少しひねているというか余り一般的ではないのだろうなと思ってたところがあったのですが、余りに視点が通じていて少々驚きました。でもって、共感至極の思いとともに堪能しました。
 もしかしてムーマさんも、僕と同じく文芸部のようなとこで小説とか書いてたりしてました? なんか無性にそのような気がしてきましたよ(笑)。

 ムーマさんが「人間たちをあたたかく見つめ、ほのかな希望を感じさせる作品」とお書きの“希望”とは具体的には、どのようなものでしたか? そこのところも教えてくださると嬉しいです。
返信する
ありがとうございます(^^) (ムーマ)
2017-04-24 12:16:20
ヤマさ~ん、

「共感至極」なんて言って下さって、ほんとに嬉しいです。
でも、「ほのかな希望」を具体的に・・・と言われて、ちょっと考え込んでます。(私としてはあまりに当たり前すぎて?説明しにくいというか)

結局のところ、「受け止めきれないほどの喪失」(陽一にとっては最愛の妻の、子どもたちにとっては予想したこともなかった母親の、事故による突然の死。サチオにとっては、それまでの「言い訳」人生を粉砕するほどショックだった?妻の未送信メールと、それによって初めて実感した「妻の死」)に遭遇しても、人はなんとか生きていけるものなんだなあ・・・ということになるのかな。

少なくともサチオは、妻の死に出遭わなかったら、人生の階段を登れないまま、「子ども未満」の「イヤな奴」であり続けるしかなかったなかった気がするので、余計に、「生きてるといろんなことがあるけど、それがすべて悪い方にだけ働くわけじゃない」って思ったのかもしれません。
(それに、「ほんっとにイヤなやつ」でも、人の役に立ったり、子どもを支えられたりするんだし)

そう、一番大きいのは「子ども」の存在だったのかも。(映画の最初と最後では、子役の人たちも成長してて全然違って見える)
オトナの都合などお構いなしの幼女の天真爛漫さも、オトナが相談に乗ってるようでいて、実はオトナの言いたいことの、最良の聴き手になっている少年も、「生きる希望」に繋がってるように私には見えるのだと思います。

この映画は、もしかしたら、見る人が男性か女性かでも、受け取り方が多少違うかも・・・とも思いました。
モッくんのアレコレを、「どこかユーモラスで可愛げもある」と受け取るのも、幼い子どもの存在自体を「明るいもの」と感じてしまうのも、どちらかというと女性的な感覚かもしれないし・・・とか。

あ、ところで、私は文芸部とも小説を書くこととも、全然縁が無かった人種です。
「文章を書く」のは国語のテストだけで十分(^^;で、日記もあまり書いたことがありません。

でも、この映画観始めてすぐ、「モノを書く人」の資質とか内面とかを抜きにして見続けることは出来ない映画だな・・・と感じたのはなぜなのかなあ。
(サチオの「自意識過剰」は私自身の「自分のことしか見えてない・考えてない」ところと重なって見えて、ゾッとした瞬間が何度もあって・・・「書く」才能と「ヤな奴」ってのは、本来は別物なんでしょうね(^^;。(わけわかんないコト書いてスミマセン)

ヤマさんの書いておられた『3月のライオン』、いつか観られたらいいな~って、今思ってます。
返信する
「子ども」の存在だと思います。 (ヤマ)
2017-04-25 00:39:57
 もっとも、妻の死がなければ、彼がそこに向かうことはなかったでしょうから、そういう意味では「妻の死に出遭わなかったら」とも言えるのかもしれませんね。

 「どちらかというと女性的な感覚かも」としておいでの感じ方は僕のなかにもあったので、男女差による受け取り方の違いというふうには僕には映って来なかった気がします。

 『3月のライオン』は、ぜひ心に留め置いといて、五日御覧になっていただきたく思います。
返信する
「不本意」な形で永遠に別れると・・・ (ムーマ)
2017-04-25 08:07:50
>「どちらかというと女性的な感覚かも」としておいでの感じ方は僕のなかにもあったので

あはは、ヤマさんはきっとそう言われると思った~(^^)。
私があのとき思ったのは、サチオを「自分」と重ねて見てしまう人がいるとしたら、男性の方が多いんじゃないかな~っていうだけのことだったんです。
もちろん、「重ね」たりしない人の方が圧倒的に多いと思うんですが。(私自身は、「このヒトと私は同類だわ」と思いました(^^;)

「子ども」を何らかの意味で「希望」と感じるのは、確かに観客の性別と関係ないかもしれませんね。

>妻の死がなければ、彼がそこに向かうことはなかったでしょうから

ほんというと、私は妻がもっと早くあのメールを送ってたら・・・って想像したりもしました。
あのサチオでも、相応のショックは受けたんじゃないかと。

でも、「もう何も言い返せない」相手が残したメールだからこそ、サチオにあれほどの影響を与えたんだという気が、やっぱりします。(「言い訳」の通用しない状況で)
ヤマさんが書いておられた「リグレット」の深刻さ?(適当な言葉が浮かびません)が、この映画が描こうとしたものだと、私も感じたからだと思います。

「不本意な別れ方」をしたまま永遠に会えなくなった相手に対して、人はどうやって向き合うものなのか・・・全然関係ないような話なんですが、『フィールド・オブ・ドリームス』を初めて観たとき、ラストで(訳もわからず)ただ涙がとまらなくなった自分のことも思い出しました(私にとっては父親がそういう相手だったのでしょう。感想もコメントのレスもムダに長くなるのは、この映画には自分自身がどうしても絡んできてしまうからなのです)


最近は「ライオン」と付くタイトルの映画が多くて困る?ンですが、教えて頂いた『3月のライオン』忘れません。
いつかきっと観ます(^^)。
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将棋の『3月のライオン』じゃありませんからね(笑) (ヤマ)
2017-04-25 21:35:31
 >あのサチオでも、相応のショックは受けたんじゃないかと。

これを読んだとき、直ちに「未送信で持ってたからこその衝撃」について返そうと思ったら、その後に、まさしくそう書いておいでましたね。

僕が自分を重ねるということで言えば、ぴったりくる人は誰もいませんでしたが、最も遠いのが夏子で、次が陽一。そして、真平と幸夫が半分半分で比較的近しいという感じでした。
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映画も同姓同名~(^^) (ムーマ)
2017-04-25 22:03:41
>最も遠いのが夏子で、次が陽一。そして、真平と幸夫が半分半分で比較的近しいという感じ

夏子は・・・私にとっては「謎めいた」女性でした。長い間、ほんとのところは何を思っていたのかなあって。
ヤマさんも書いておられたけれど、真平くんとサチオが一緒にいる場面は、どれも良かったですね~。

ところで、明日は「ライオン」を観にいくつもりです。(25年目の方(^^))。
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