眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

沈黙から祈りへ ・・・・・ 『ロルナの祈り』

2009-06-24 12:13:23 | 映画・本
「良ければ観に行かない?」と誘った20代の友人に、『ロルナの祈り』を観た後の感想を聞いたところ、言葉を探す風情で言いにくそうに、「・・・正直、僕はよく分らなかったんじゃないかと。」。

彼も私と同様、前もって知識を仕入れずに観る人だけれど、今回に限っては少しくらい、そもそもの設定や大雑把な話の流れくらいは、知っていた方が良かったのかもしれない。ちょっと気の毒なことをしたと思った。

「例えば、あのラストは結局どういうことなのかな~とか。」

「それは・・・観た人によって違うと思うけど。」

「やっぱり、それでいいんだよね。僕だけが分ってないんじゃないかと(笑)。」

そしてその後でチラシを改めて見ながら、この映画観て即「私たちに勇気を与える、繊細で深遠な人間ドラマ」とかなんとか「絶賛の声!」で言える人がいるって、シンジラレンなあ・・・などと、呟いていたのが可笑しかった。

以前『プルートで朝食を』や『運命を分けたザイル』をとても褒めていたので、ちょっと誘ってみたのだけれど、やっぱり彼の好みではなかったらしい。

「でも、登場人物の感情っていうか、気持ちはとてもとてもよく分かった。特にあのドラッグ中毒の男の人なんか。だから、観て良かったよ。」と、気を遣ってくれたけれど。

大体、もうひとりの10代の友人の方は、誘った時あっさりこう言ったのだ。

「『ある子供』って、確か観たと思う。あの映画作った人なら、僕はちょっと・・・パス(笑)。」



ダルデンネ兄弟と呼ばれるこの監督さん達の作品を、私はこれまでに4本だけ観た。人の名前をさっぱり覚えない私が、作品を初めて観た時すぐに名前を覚えた監督さんはとても珍しく、あとはケン・ローチ監督くらいしか浮かばない。(大抵は何本か観ている中に、好きな人が判ってくる。)

その後も、この人達の作る映画を観ている時は、私にとっては特別な時間が流れている気がした。1シーンが長く、余計なセリフも音楽も無いので、自分がただ「眼」になってじっと登場人物達を見つめていればいい。そんな作風が万事スローな私に合っていたのかもしれない。登場する人達の思いが、そのまま「眼」を通して私の中に流れ込んでくる・・・そんな気がしながら、いつも観ていた。


ただ「そんな作風」が、テーマや物語以前に人の好みを分けるかもしれないな・・・とも、以前から思っていた。今回、若い友人達の様子を見ながら、やっぱりそうかあ・・・となった訳だ。

この映画より前の作品では手持ちカメラが使われたので、画像の揺れが大きい場面もあって、酔いやすい人からはそれが苦手だという声もあった。今回は35ミリを使うようになったとかで、「揺れ」なくなったので、見やすくなったとも思ったのだけれど、それはどちらかというと外側?の話だし・・・などと思いながら、でもほんのちょっとだけ、やはり残念な気がした。

ことほど左様に、この監督さん達の作品は、ある種不親切(勿論、意図的な)に出来ている。

しかも今回の『ロルナの祈り』は、私の観た中では「不親切さ」と「物語の複雑さ」では群を抜いて?いて、前半はとにかく集中して観ていないと、人物同士の関係も背後の事情も「何が何だかワカラナイ~」となりそうだった。


以下、(やっと)映画の内容の話になる。


アルバニアからやって来たロルナは、ベルギー国籍を得るために、麻薬中毒の青年クローディと偽装結婚をする。ロルナには、実は同郷の恋人がいて、彼とベルギーで店を持つという夢があり、そのために国籍と資金が必要なのだ。

しかし偽装結婚を斡旋したブローカーのファビオの計画には、さらにその先があった。それは、計画に加わったロルナもすべて承知の上。恋人との夢を実現するために敢えて目を瞑るつもりでいたのが、クローディがドラッグを止めるために自ら入院して以来、事態は思いがけない方向へ・・・・・。


映画の前半、こういった事情が次々と明らかになるのを、一生懸命追いかけながら、私はほとんど呆然としていた。

登場する人達は、それぞれ程度の差はあれ「事情を知った上で」この計画に関与しているらしい・・・ということが、徐々に判ってくる。騙す人、騙される人と、きれいに分かれるとも言い難く、首謀者ファビオにしても現在の仕事はタクシーの運転手らしく、ロルナもクリーニング店に勤め、恋人も少しでも賃金の高い仕事を探しては、あちこち飛び回っている「労働者」に見える。

「不法移民」と呼ばれる彼らは、私の眼には所謂「裏社会」の住人ではなく、ごく普通の人達に見えた。マフィアが支配下にいる売春婦に便宜上国籍を取らせる・・・といった話とも、ちょっと違って見えたのだ。(現実には、マフィアにも売春を日常とする人達にも、そんな「不法移民」の立場にいる人が珍しくないのだとしても。)

それなのに「計画」の内容が酷すぎる・・・と、正直私は思ったのかもしれない。コトは戸籍の売り買いだけでは済まなかったのだから。

ロルナや恋人が必死であること、どれほど切実に国籍とお金を必要としているかを思うと、同じ立場なら私自身、偽装結婚もするだろうと思う。私なら、身体を売るより戸籍を売り買いすることで法に触れる方がましだと思うからだ。

けれど、それ以上のことに加担することは、私にはおそらく出来ない。それは、今の日本に生まれ育った私などには、「選択肢がそれほど多くない」「自分たち以外の人間の事情を気にかけていては、厳しい現実の中を生き残れない」境遇にいる人達のことが、結局理解できないということなのだろうか・・・。


観ている私がそんなことを考えている中に、ロルナにも思いがけない、しかし彼女をずっと観てきた眼には当然とも思われる変化が起きる。


この映画の中で、ロルナは「自分の思うこと」はほとんど口に出さないように見える。(私が気づいたのはたった2回だけだ。)

ロルナの現実では、自分がどう思うかなどということは、それほど意味を持たないのだろう。自分の利益を守るために「交渉する」ことは意味がある。恋人が「彼に逆らうんじゃない。」と言うブローカー・ファビオに対しても、自分の思うような方向へ事態を動かすために、ロルナは冷静に、粘り強く「交渉」を持ちかける。そのための自分のアイディアを、自分の身を傷つけてでも実行に移す。

しかし、「思い」は語らないのだ。

無表情というのでもないのだけれど、僅かの笑みも見せず、常時緊張した面持ちのロルナを見ている間、私の印象に強く残ったのは、彼女が何か(疑問、或いは何か湧き上がる感情)を感じ、しかしそれを決してそのまま口にはしない、一種独特の「沈黙」を湛えた表情だった。

だから、その後この映画の原題が『ロルナの沈黙』だと知った時、私は納得するものがあった。この監督さん達は作品にタイトルをつけるのに、一単語した使わないことが多かったのに、『ロルナ』ではなく『ロルナの沈黙』としたのは、この人達には珍しい親切さ?のような気もした。


しかし、物語は最後の最後まで予断を許さない。途中でこちらが予想することなど、いとも簡単に裏切ってくれる。

ラスト、着の身着のまま、身体を丸めて眠りにつくロルナの穏やかな表情と、そこに流れ始めるピアノソナタの柔らかな響きを聞きながら、私はふと自分が「祈り」に近い感情に浸されるのを感じた。

ロルナがその後どんな風に生きていくのか、私にはわからない。それでも、眠るロルナに「貴女が選んだ道は、決して貴女を不幸にはしない」とでも言いたくなるような、せめてそれを祈りたくなるような響きを、監督が初めて音楽を自作に使ったという、このピアノは感じさせたのだと思う。


自分が生き延びる、生き残るのに必要無いことは一切見ようとしない生き方を、ロルナは変えることを余儀なくされた。けれどそれは、本来彼女自身に備わった温かさ、優しさ、愛情でもあったのだ。(ロルナを演じた女優さんの独特の存在感は、そのことについても説得力があり、私の眼にはいかにも東欧の女性という美しさと相俟って、とても魅力的だった。)

アルバニアのような国に生まれ、「不法移民」という境遇を生きるために捨てざるを得なかったものを、彼女は取り戻しただけなのだけれど、そんな当然の「変化」が彼女の現実に何をもたらすのかは、いつも通り、作り手は全く描いてくれない。

厳しい現実の中での、ほとんど狂気と見紛うような小さな希望・・・。これほどロマンティックな?テーマを描きながら、その後の道程の遠さを想像させるだけのような気さえしてくる。


それでも私はこの映画のラストを、希望のある温かいものだと感じたのだと思う。

この映画の中で一度だけ、彼女は混じりけのない自然な笑顔を見せる。彼女の頬に笑窪があるのを初めて知って、私はハッとする。「こんなに若い人だったんだ・・・。」

クローディを追いかけて走る彼女の、あの笑顔を見たからこそ、私はこの映画に比喩や象徴としてだけではない、手で触ることの出来るような小さな「希望」を感じたのだと。



実はこの映画を観ている間、当然のように、以前観た『この自由な世界で』が頭に浮かんだ。

『この自由な世界で』の主人公、シングルマザーのアンジーは、貧困の中で子どもを育てていくためにと、「不法移民」と呼ばれる人達を搾取するようなビジネスを起こす。「自分さえ良ければ、他人は地獄に落ちていいのか。」という父親の言葉にも、彼女の姿勢は変わらない。さまざまな波乱があった後、それでも彼女は、今の仕事を続けることを選ぶ・・・。

「子どものため」というのなら、生き方を変えた方がいいのに・・・と、映画を観ながら私は思った。けれど、『この自由な世界で』は『ロルナの祈り』よりもずっとリアルな現実なのだろうか・・・とも考えた。

この2本の映画は結局のところ、私の眼には「貧困」の問題に辿り着いてしまうようにも見えるのだ。

クローディが入院する際、「ベルギー人であることが照明されれば医療費は不要」と看護師が言うのを聞いて、日本人の私は驚いた。社会的なセーフティ・ネットの手厚さは「貧困」の苦しさを和らげる大事な柱で、ヨーロッパには日本などよりはるかにそれが整備された国も多いらしい。

けれど、イギリス国民であるアンジーの眼にさえ、たとえ人を騙し不法行為を行ってでも、お金を(手っ取り早く?)儲けることでしか、「貧困」から逃れる道は無いように映っているのだ。しかもそれは、彼女のそれまでの人生経験、つまり「現実」が教えたことのように見える。


それでも・・・私は『この自由な世界で』のラスト・シーン、苦渋の色を浮かべながら、しかし淡々と仕事をこなすアンジーを見ながら、もっと違う道は無いのだろうか・・・という思いが消えなかった。『ロルナの祈り』には、そういう意味ではアンジーとは違う選択の仕方を、わたしはどこかで期待したのかもしれない。


ロルナが、「あの笑顔」を失わずに生きていける道があっていい筈・・・。


ラスト・シーンでのロルナは頼りなげで、自分に言い聞かせるように呟く言葉もか細く聞こえる。それでも、自分の善なるものを象徴するような何か、そう言う形で帰ってきたクローディを抱えて眠りにつく彼女への優しい気持ちを、私も自分の中に見出したいと願う。

この競争社会、生まれたときからスタートラインが違っているような格差社会・格差世界の中で、自分のことだけしか考えない生き方から、少しでも離れてみたら・・・と、映画の作り手は言いたかったのかもしれない。










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8 コメント

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あの計画の示していたもの (ヤマ)
2009-06-27 22:40:16
とても興味深く拝読しました。
なかでも刺激されたのが
「登場する人達は、それぞれ程度の差はあれ「事情を知った上で」この計画に関与しているらしい・・・ということが、徐々に判ってくる。」
で始まる段で、少し意見交換をしてみたくなりました。

僕がmixi日記に「犯罪に手を染めて生き抜いている連中や家族としての絶縁に至る愛想尽かしをしている関係性においても、人々に金に対して貧すれど貪してない箍が備わっているように映ったことが印象深かった」と書いた部分は、まさしくムーマさんがこちらに「首謀者ファビオにしても現在の仕事はタクシーの運転手らしく、…あちこち飛び回っている「労働者」に見える。」とお書きの部分に重なってくるところです。つまり、続く段で「…彼らは、私の眼には所謂「裏社会」の住人ではなく、ごく普通の人達に見えた。」とお書きになっておいでのところです。
でも、そんな彼らが「…「計画」の内容が酷すぎる・・・」とムーマさんがお書きの計画を「それぞれ程度の差はあれ「事情を知った上で」この計画に関与している」わけで、そのことの示しているものは何なのか、ということです。ムーマさんは、どのようにお考えですか? よければ、教えてくださいな。
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素晴らしい! (お茶屋)
2009-06-27 23:54:52
拝読して感動しました。

>眠るロルナに「貴女が選んだ道は、決して貴女を不幸にはしない」とでも言いたくなるような、せめてそれを祈りたくなるような響きを、

彼女がこれからどうなるんだろうと思いながらも、けっして悪い後味ではない訳を言葉にすると、まさにこれ!

タルデンヌ監督作品は、3本観ただけですが、どの作品もおっしゃるとおり「眼」になって観ているだけでよくて、カメラと登場人物との距離が、登場人物と私たちの距離になっているみたいですね。
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見なくて正解だったのかな? (chon)
2009-06-28 05:38:53
チラシを見て、あんまり見たいと思わなかったんです。
ムーマさんの記事を読んで、やっぱり見なくて良かったなと思ったりしてます。
難しいの苦手。
考えるのめんどい。
「ある子供」はすご~く好きなのにね。
映画のチラシの宣伝文句、あれは、けっこう見たいか見たくないかを決める時に効き目があります。私に対しては。
それで損しちゃったと思う事もあったりしますが。
音楽はどうだったのかなって、それだけが気になります。
「ある子供」では全く音楽(BGM)は使われてなかったから。
原題と邦題の違いも気になります。
先読みしてもらいたくない、って思うのかな?
また、会った時にでも(何時になるんだろう?)聞かせてね♪(‐^▽^‐)
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考える作業ってムツカシイ(笑)。 (ムーマ)
2009-06-28 18:39:38
ヤマさん、ようこそ~
読んで下さって嬉しいです。

>でも、そんな彼らが「…「計画」の内容が酷すぎる・・・」とムーマさんがお書きの計画を「それぞれ程度の差はあれ「事情を知った上で」この計画に関与している」わけで、そのことの示しているものは何なのか、ということです。ムーマさんは、どのようにお考えですか?


本文にも書いたとおり、実は私にはよくわかりません。

考えてみて、思いついたのは2点だけ。

1つは、麻薬中毒者について、私などよりずっと醒めた見方を彼らはしているのではないかということ。(何もしなくても、重症者は早晩薬の使いすぎで死ぬものだとか、この恵まれたベルギーのような国で、自らジャンキーになるような人間に対して同じ人間だとは感じていないといったような意味です。)

もう1つは、少なくともロルナや恋人にとっては、「ベルギーでまともな店を持つ」ということが、例えば私にとっての「幼い我が子」に相当するのかもしれない・・・といった感覚です。

私は実は『この自由な世界で』のアンジーの選択が、感覚的にはよくワカルのだと思います。私も幼い子を抱えるシングルマザーで、頼れる人も物も何も無い状態で生きていかねばならないとしたら、戸籍よりもまず身体を売るでしょう。(戸籍は子どもを巻き込むからです。)アンジーほどのパワーがあれば、不法なビジネスだってやるかもしれない。
それほど、「幼い子ども」というのは、私を必死にさせるだろうと。子どもの安全な成長のためなら、他に手段がさしあたり見つからないとなったら、文字通り自分を捨ててしまいかねない。私は特別自分が母性的だとは到底思いませんが、それでもそれくらいのことは想像できてしまうのです。


ヤマさんご自身は、どんな風に考えていらっしゃいますか?

実はさっき、ヤマさんのmixi日記を見に行って、TAOさんとのやりとりも拝見しました。中に出てきたことなのかもしれませんが、バッグのことや音楽や、ラストの胎児姿勢?のお話に圧倒されてしまって、頭に残っていないのです(苦笑)。

宜しければヤマさんの考えもお聞かせ下さい。
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嬉しいです!! (ムーマ)
2009-06-28 18:52:25
お茶屋さん、ようこそ~

読んで下さって、おまけに褒めていただけて、とってもとっても嬉しいです(ぴょんぴょんトビハネ!)。

>彼女がこれからどうなるんだろうと思いながらも、けっして悪い後味ではない訳

それが上手く言葉に出来ないのじゃないかと、書き始めるまでに時間がかかってしまいました。

それにしてもお茶屋さん言い得て妙ですね。

>タルデンヌ監督作品は・・・・・カメラと登場人物との距離が、登場人物と私たちの距離になっているみたいですね。

私も本当にそういう気がしていて、最後のピアノソナタはそれを埋めるためのもの・・・といった意味のことを監督さんが言われていたのを後からパンフレットで知り、深く納得するものがありました。
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見なくて正解・・・かもデス(笑) (ムーマ)
2009-06-28 19:08:18
chonさ~ん、読んでくれてありがとう!

とにかく結構集中して見てないといけない感じが、少なくとも私(の頭)はしました(笑)。内容的にも『ある子ども』の方が、ずっとchonさんの好みに合ってたと思います。

音楽は、最後にベートーベンのピアノソナタが流れるんです。
私は音楽に疎いのでよく分かりませんが、ベートーベンの中でも特別な曲らしく、実際聴いている私の耳にも、祈りとも赦しとも受け取れるような、独特の温かみを感じさせる音色でした。

原題と邦題との違いは、邦題を原題の「宣伝用」の雑な日本語訳と考えると本気で腹が立ちますが、全く別物(「ロルナの」が偶々同じなだけ)と思うと、これはこれで構わないと私自身は思っています。
それくらい、ラストの「祈り」の雰囲気に、私は強い印象を受けたので。

でも、あのラストは受取手次第で感じ方も解釈の仕方もさまざまだと思うので、そういう意味では、ちょっと不適当なのかな・・・とも。

ごちゃごちゃ書いてゴメンナサイね。
次に会えたときに、また話を聞いてやって下さい(笑)。
来て下さって本当にありがとう。
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「そのことの示しているもの」と僕が思ったこと。 (ヤマ)
2009-06-29 19:56:49
僕は、ムーマさんが書いておいでの最初のやつを思ってました。差別というか、社会の邪魔者みたいに思われているのではないかということです。
もう一つのほうは、全く思い及んでいませんでしたよ。そいつは、やっぱ女性でないと難しかろうと思いました(たは)。

社会のセイフティネットが整っていると、家族からの見放しはしやすくなるかもってことも思いました。棄てられちゃってるものへの心遣いは、人はしなくなりますよね。そういう意味で、クローディは、ファビオたちに選ばれ、狙われたのだと思いました。
でも、わが国で頻出している高齢者を狙った振り込め詐欺が、いかにも弱者への付込みに他ならなくて不愉快極まりないのに比べ、クローディが狙われたことに対しては、同じくらいの憤慨までは湧いてこない自分というものを知らされ、僕のうちにあるヤク中への見下しに気づかされたようにも思います。ヤな映画ですねー(笑)。
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あはは、ヤな映画~(笑) (ムーマ)
2009-06-30 22:17:41
確かに、高齢者を狙った振り込め詐欺の不愉快さとクローディの場合とは、ちょっと違った感じがしますね・・・。(私もあの手の詐欺には腹が立ちます。詐欺の風上にも置けないっていうか・・・どうせなら、もっと金も力もあるムズカシイとこ狙えよ!って言いたくなる。)

ただ私の場合は、自分が○○中毒になりやすい人種だと判ってるので、クローディを同類と感じて、それで「酷すぎる」(存在を消しても構わないじゃないかと、当然のように言われている気がして)と思ったのかもしれない・・・と、今頃気がつきました。

それと、

>社会のセイフティネットが整っていると、家族からの見放しはしやすくなるかもってことも思いました。

私は、寧ろこちらに気がついていませんでした。

「ヤな映画」って言葉が、なんか妙に気に入りました(笑)。
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