映画のことを書き始めると、なぜか記事がどんどん長くなって、おまけに文章は重くなる。別に深刻なことを書きたい訳じゃない。ただ単に、精神的エネルギーが足りなくて「頭が回らない」だけだと思う。
それでこのところ、観た映画のことがなかなか書けない。このままだとどれも忘却の彼方~になりそうなので、とりあえずどうしても覚えておきたいことだけでも、書いておくことにした。
この『長江哀歌』はドキュメンタリー風の雰囲気を持つ作品で、主演2人を含む4人の俳優さん以外は、演技経験の無い、土地の人たちが起用されたと聞いた。
寧ろ、そのせいかもしれない。この映画は、私にはとにかく、スクリーンに映る名もない女性たちの表情の独特の暗さ?が印象に残った。
男性たちは、不機嫌だったり、怒りっぽかったり、或いはあっけらかんとして時に楽しそうだったり・・・と、その時その時のそれぞれの表情を見せる。この映画の原題(三峡好人)は、「三峡の善人たち」という意味だと聞いたけれど、そのタイトルに相応しいのはそういった男性たちの喜怒哀楽の方に見える。
一方、主演の女優さん以外の女性たちは、殆どが重い疲労を滲ませながら、まるでそのことに自分では気づいていないかのように、淡々と仕事をこなしているように見えた。自分の苦労などごく当たり前のことで、自分も含めて誰も問題にしないのが当然という、女性たちの日常・・・。
私は彼女たちと同じ表情を、私の周囲の女性たちの中に、これまでどれほど見てきただろう。先行きが全く見えず、ただ生きて暮らしていくというだけのことが大変な重さで身に圧し掛かってくる時、家庭を持つ(必ずしも結婚しているとは限らない)女性たちは往々にして、ああいう表情を見せていた。
昔も今も、中国でも日本でも、あの表情は同じなんだな・・・と、映画を観ながら思った。スクリーンの中の彼女たちも、今現在の私の周囲の女性たちも、同じ「今」を生きる者同士なんだ・・・とでもいうような感慨が残った。
もう一つ印象に残ったのは、言葉に出来ないさまざまなモノで人生は出来ているんだと、改めて感じさせられたこと。
16年前に別れた妻を遠方の地から捜しに来た男は、再会の時、妻に「大事にしたつもりなのに、なぜ出て行ったのか」と尋ねる。妻はただ、「なぜ16年もたって捜しにきたの」と訊き返すだけだ。2人とも相手の問いには答えられない。それがなぜなのかは、観る者の想像に委ねられている。
この歳になると、世間知らずの私にでさえ色々な事情が想像される。「お金を出して嫁を買った」結婚ということから始まるそれらは、確かに「今更言葉には出来ない(しても仕方のない)」事の連続だっただろう。貧しい地、貧しい家に生まれ育ち、家族と自分の両方が「食べていく」だけでもたいへんだったろうと思わせる、長い苦労の歳月を背負った、無口で無表情な元妻の姿はとてもリアルで、子供の頃、私の周囲で見聞きした人間模様そのものだった。
夫が義兄の借金を肩代わりする決心をして、一緒に帰ろう誘っても、そっと肩に回された手に、彼女は殆ど何も感じていないように、私には見えた。ただ、彼女は今の生活の辛さよりはと、きっと夫と共に、遠い山西省へもう一度行くのだろうけれど。
人生に、幸福ではなく程度の差のある不幸しかなかったとしても、人は生きていくしかない。そして、それはそれでその人の現実、リアルな人生そのものなのだ・・・とでもいうような何とも言えないものを、私は彼女から感じた。
若い頃に見たら自分の豊かさ、恵まれ方と、どうしても比較せずにいられなくて、映画を観ていること自体が、私にはきっと苦痛だっただろう。今の年齢だからこそ、私は黙って見ていられる・・・幸不幸と人生の重みとは、また別のものなのだというような気持ちが、いつの間にか自分の中に存在していたことに初めて気づいて、私はちょっと驚いた。
あとは雑多な感想になる。
例えば、私は日本の高度成長期の「騒がしさ」を、どこかで覚えていたのだろう。この映画でほとんど常時聞かされているような工事の騒音も、スピーカーが喚いているかのような(時として音程の狂った)流行歌も、私の遠い過去の記憶を掘り起こすものがあった。たとえ私が、どれほどそういう「騒がしさ」が、そのお金に纏わる熱気、狂乱しているかのような人々の活気共々苦手だったとしても、過去のある時期、日本も確かにああだったと。
三峡ダムの規模を思うと、完成後一体どんな環境破壊その他の影響が待ち受けているのか、異邦人としては空恐ろしいようなものを感じる。けれど規模と程度の差はともあれ、日本も同じようなことをしてきた。その途上で多くの死傷者が出たが、私自身も含めて、当事者以外でそのことを知り、心を傷めた人は少ないと思う。
個人的に私が辛かったのは、男と一緒に建物の解体作業に従事した仲間たちの別れの宴で、ひとりひとりの顔を見ながら、ふと「ああ、この人たちは長生きは出来ないんだな・・・」と、改めて感じたことかもしれない。男が帰郷後戻る非合法の炭鉱での仕事はもちろん、そもそも今の中国の工事現場でのあらゆる作業が、事故以外にも塵肺その他、かつての日本同様、危険に満ちたものなのだから。
それでも、「三峡好人」たちを描いた場面は、それはそれとして人は生きていくのだという和やかさ、慎ましい暖かさのようなものに満ちているのも本当だった。
英題の「Still Life」は静物画の静物のことだとか。長い歳月を湛えて沈黙している静物たち・・・それはあの素朴な表情の人々すべてを、纏めて指すつもりで付けられたタイトルだったのだろうか。
だとしたら、2年前から帰ってこない夫を捜しに、同じく山西省からやってきた若い女性。彼女は少なくとも「静物」ではなかった。生きるために綱渡りを続ける炭鉱夫は、やはり他の大勢と同じく「静物」を思わせたけれど。
打ち上げられるロケットのように、精一杯の嘘?でもって新しい人生に踏み出す決心をする若い女性は、ビジネスに夢中の夫同様、「静物」を叩き壊さなければ済まなくなった今の中国の、もう1つの顔なのだろう。その彼女の表情が、女性達の中で私には一番明るく見えたからこそ、中国もああして前に進むしか仕方がないのかもしれない・・・などと、ぼんやりあれこれ思いを巡らした2時間だった。
それでこのところ、観た映画のことがなかなか書けない。このままだとどれも忘却の彼方~になりそうなので、とりあえずどうしても覚えておきたいことだけでも、書いておくことにした。
この『長江哀歌』はドキュメンタリー風の雰囲気を持つ作品で、主演2人を含む4人の俳優さん以外は、演技経験の無い、土地の人たちが起用されたと聞いた。
寧ろ、そのせいかもしれない。この映画は、私にはとにかく、スクリーンに映る名もない女性たちの表情の独特の暗さ?が印象に残った。
男性たちは、不機嫌だったり、怒りっぽかったり、或いはあっけらかんとして時に楽しそうだったり・・・と、その時その時のそれぞれの表情を見せる。この映画の原題(三峡好人)は、「三峡の善人たち」という意味だと聞いたけれど、そのタイトルに相応しいのはそういった男性たちの喜怒哀楽の方に見える。
一方、主演の女優さん以外の女性たちは、殆どが重い疲労を滲ませながら、まるでそのことに自分では気づいていないかのように、淡々と仕事をこなしているように見えた。自分の苦労などごく当たり前のことで、自分も含めて誰も問題にしないのが当然という、女性たちの日常・・・。
私は彼女たちと同じ表情を、私の周囲の女性たちの中に、これまでどれほど見てきただろう。先行きが全く見えず、ただ生きて暮らしていくというだけのことが大変な重さで身に圧し掛かってくる時、家庭を持つ(必ずしも結婚しているとは限らない)女性たちは往々にして、ああいう表情を見せていた。
昔も今も、中国でも日本でも、あの表情は同じなんだな・・・と、映画を観ながら思った。スクリーンの中の彼女たちも、今現在の私の周囲の女性たちも、同じ「今」を生きる者同士なんだ・・・とでもいうような感慨が残った。
もう一つ印象に残ったのは、言葉に出来ないさまざまなモノで人生は出来ているんだと、改めて感じさせられたこと。
16年前に別れた妻を遠方の地から捜しに来た男は、再会の時、妻に「大事にしたつもりなのに、なぜ出て行ったのか」と尋ねる。妻はただ、「なぜ16年もたって捜しにきたの」と訊き返すだけだ。2人とも相手の問いには答えられない。それがなぜなのかは、観る者の想像に委ねられている。
この歳になると、世間知らずの私にでさえ色々な事情が想像される。「お金を出して嫁を買った」結婚ということから始まるそれらは、確かに「今更言葉には出来ない(しても仕方のない)」事の連続だっただろう。貧しい地、貧しい家に生まれ育ち、家族と自分の両方が「食べていく」だけでもたいへんだったろうと思わせる、長い苦労の歳月を背負った、無口で無表情な元妻の姿はとてもリアルで、子供の頃、私の周囲で見聞きした人間模様そのものだった。
夫が義兄の借金を肩代わりする決心をして、一緒に帰ろう誘っても、そっと肩に回された手に、彼女は殆ど何も感じていないように、私には見えた。ただ、彼女は今の生活の辛さよりはと、きっと夫と共に、遠い山西省へもう一度行くのだろうけれど。
人生に、幸福ではなく程度の差のある不幸しかなかったとしても、人は生きていくしかない。そして、それはそれでその人の現実、リアルな人生そのものなのだ・・・とでもいうような何とも言えないものを、私は彼女から感じた。
若い頃に見たら自分の豊かさ、恵まれ方と、どうしても比較せずにいられなくて、映画を観ていること自体が、私にはきっと苦痛だっただろう。今の年齢だからこそ、私は黙って見ていられる・・・幸不幸と人生の重みとは、また別のものなのだというような気持ちが、いつの間にか自分の中に存在していたことに初めて気づいて、私はちょっと驚いた。
あとは雑多な感想になる。
例えば、私は日本の高度成長期の「騒がしさ」を、どこかで覚えていたのだろう。この映画でほとんど常時聞かされているような工事の騒音も、スピーカーが喚いているかのような(時として音程の狂った)流行歌も、私の遠い過去の記憶を掘り起こすものがあった。たとえ私が、どれほどそういう「騒がしさ」が、そのお金に纏わる熱気、狂乱しているかのような人々の活気共々苦手だったとしても、過去のある時期、日本も確かにああだったと。
三峡ダムの規模を思うと、完成後一体どんな環境破壊その他の影響が待ち受けているのか、異邦人としては空恐ろしいようなものを感じる。けれど規模と程度の差はともあれ、日本も同じようなことをしてきた。その途上で多くの死傷者が出たが、私自身も含めて、当事者以外でそのことを知り、心を傷めた人は少ないと思う。
個人的に私が辛かったのは、男と一緒に建物の解体作業に従事した仲間たちの別れの宴で、ひとりひとりの顔を見ながら、ふと「ああ、この人たちは長生きは出来ないんだな・・・」と、改めて感じたことかもしれない。男が帰郷後戻る非合法の炭鉱での仕事はもちろん、そもそも今の中国の工事現場でのあらゆる作業が、事故以外にも塵肺その他、かつての日本同様、危険に満ちたものなのだから。
それでも、「三峡好人」たちを描いた場面は、それはそれとして人は生きていくのだという和やかさ、慎ましい暖かさのようなものに満ちているのも本当だった。
英題の「Still Life」は静物画の静物のことだとか。長い歳月を湛えて沈黙している静物たち・・・それはあの素朴な表情の人々すべてを、纏めて指すつもりで付けられたタイトルだったのだろうか。
だとしたら、2年前から帰ってこない夫を捜しに、同じく山西省からやってきた若い女性。彼女は少なくとも「静物」ではなかった。生きるために綱渡りを続ける炭鉱夫は、やはり他の大勢と同じく「静物」を思わせたけれど。
打ち上げられるロケットのように、精一杯の嘘?でもって新しい人生に踏み出す決心をする若い女性は、ビジネスに夢中の夫同様、「静物」を叩き壊さなければ済まなくなった今の中国の、もう1つの顔なのだろう。その彼女の表情が、女性達の中で私には一番明るく見えたからこそ、中国もああして前に進むしか仕方がないのかもしれない・・・などと、ぼんやりあれこれ思いを巡らした2時間だった。
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