そこで物部の各から 代表が出て迎えに 行くことになったのである。
別役からは、津々呂 母屋の太郎左衛門が静岡まで迎えに行ったのである。
山内一豊から お礼の言葉があった。
「家が滅亡した後の土地、また誰の土地でもない所は、皆調査して付け出せ。
その土地は、遥々迎えにきてくれたお礼にくれてやる」
家に帰り、調べて付け出した所、母屋の土地はいたるところに出来た。
何がしの地の下に九石、八斗やれ、赤いその下、宇根の下とあった。
しかし、当時静岡まで迎えに行くのは 大変なことであったと思われる。
行き帰りで 少なくとも15両は要ったのではないだろうか?
それから何代かして、次男に松ば、三男に梅の元に分家させたとある。
八代将軍吉宗、享保の時代に農地改革で、何箇所かの山をの少ない人に
分けたと言う。
しかし、山内一豊の迎えに行っただけあって、
別役から市宇別府まで 三の総組頭を代々することになる。
各に三人の組頭がいた。
仕事はのもめ事、犯罪、前科者の取り締まり、
官山の番人、供物の取立ての仕事をしていたという。
次に弥門の時代 庄屋が権力を笠にきて、世次郎官山でヒノキの大木を盗伐して、
それを奉行所に届け出されていた。
当時は世次郎奥山、宇根の上観修、崎岩山はお殿様からのお止山があった。
奉行所から、弥門に庄屋をお縄にして連れて来いと言うことになったという。
しかし、なんと言っても庄屋は目上であり、言いづらかったという。
役目でしかたなく事の次第を話して奉行所まで連れ出したという。
その後、奉行所で取り調べられ、庄屋は免職となったのである。、
その後五年間、庄屋の代理を務めた。
その時に、奉行所から庄屋になるように言われたのだが、
後継が もし権力を笠にきて、悪行をすると我のように目上であっても
お縄にしなくてはならない。
庄屋をお縄にしたことが辛かったのでしょう。
庄屋を請け合うのを辞退したという。