昔物語-土佐・奥物部から-

奥山の昔話を先祖から受け継いだ話を元に編集した物です。今残さないと無くなってしまう…誰も知らない伝承物語です。

おまけ

2006年09月30日 | 伝説

久太の時代にあった事件である。

宇根の上に前科者がいた。

悪行、盗賊、殺人をしていた 冨次 という男である。

その男を三人で取り押さえて お縄をかけ奉行所へ連れて行き取り調べた。

その結果 人の見せしめにする と言うことになり、

また、別役まで 唐丸駕籠で送り返されて打首になったのである。

栃ノ木谷の宇根崎が場所にきまり その構えが大変だったという。

見物人が 大勢押しかけてきて 東から西へ溢れかえったという。

西は、須道まで立ち並んだという話が残っている。

奉行所から 首切り役人がきて首をはねた後は悪党はいなくなったという。

これが おまけの話である。

しかし 徳川時代も終わり、明治となって庄屋制度はなくなり

明治四年には、廃仏令、神仏分離令ができて

修験山伏は廃止となり、文明の時代となった。


税金

2006年09月29日 | 伝説

徳川時代は、普通の人は、税金のことを供物と言っていた。

別役にくる税金は、十三石六斗であったという。

これはお米での計算であるので お金に買えて納めていた。

隣の 岡ノ内は、三拾石九斗二升、

市宇が 五石、 別府が 八石二斗 

これは、我が家にある古文書に出ている。

土佐の国二十四万石とは、お米の石高のことである。

 

十三石六斗をお金に換算して、根木屋領地の四軒を除いて

田んぼを作っている三十八戸で割って集めた。

大栃の庄屋へは 弥門が納めていた。

 

この供物についても 旧庄屋は悪行の人であった。

分からないように三十八戸の家に 自分の分までも割り当てて

何十年もかけていたことが 弥門の調べで分かったのである。

 

次が、養子久太の時代の話。

弥門の妻には、根木屋須賀井から お金という人が来ていたが

子供がないため、津々呂杉の本の善四郎長男 久太を養子にしたのである。

 

これより先に、世次郎新屋から松蔵という人が養子に来ていたが

組頭が務まらず 暇を出したという。

ただでは戻せないので 北屋敷の家の後ろの土地をつけて暇を出したのである。

その後、大栃から大庄屋が上がってきて、その庄屋の采配で

「養子は久太にせよ」となったという。

久太の妻には、 宇根の上 宇和西から お台という人が来ていたのである。

 


津々呂母屋の土地

2006年09月28日 | 伝説

 

そこで物部の各から 代表が出て迎えに 行くことになったのである。

別役からは、津々呂 母屋の太郎左衛門が静岡まで迎えに行ったのである。

山内一豊から お礼の言葉があった。

「家が滅亡した後の土地、また誰の土地でもない所は、皆調査して付け出せ。

その土地は、遥々迎えにきてくれたお礼にくれてやる」

 

家に帰り、調べて付け出した所、母屋の土地はいたるところに出来た。

何がしの地の下に九石、八斗やれ、赤いその下、宇根の下とあった。

しかし、当時静岡まで迎えに行くのは 大変なことであったと思われる。

 

行き帰りで 少なくとも15両は要ったのではないだろうか?

それから何代かして、次男に松ば、三男に梅の元に分家させたとある。

八代将軍吉宗、享保の時代に農地改革で、何箇所かの山をの少ない人に

分けたと言う。

しかし、山内一豊の迎えに行っただけあって、

別役から市宇別府まで 三の総組頭を代々することになる。

各に三人の組頭がいた。

仕事はのもめ事、犯罪、前科者の取り締まり、

官山の番人、供物の取立ての仕事をしていたという。

次に弥門の時代 庄屋が権力を笠にきて、世次郎官山でヒノキの大木を盗伐して、

それを奉行所に届け出されていた。

当時は世次郎奥山、宇根の上観修、崎岩山はお殿様からのお止山があった。

奉行所から、弥門に庄屋をお縄にして連れて来いと言うことになったという。

しかし、なんと言っても庄屋は目上であり、言いづらかったという。

役目でしかたなく事の次第を話して奉行所まで連れ出したという。

その後、奉行所で取り調べられ、庄屋は免職となったのである。、

その後五年間、庄屋の代理を務めた。

その時に、奉行所から庄屋になるように言われたのだが、

後継が もし権力を笠にきて、悪行をすると我のように目上であっても

お縄にしなくてはならない。

庄屋をお縄にしたことが辛かったのでしょう。

庄屋を請け合うのを辞退したという。


戦国時代

2006年09月26日 | 伝説

今から 430年前の伝説。

当時は、各に小さな城を作り勢力争いをしていた。

土佐の国は、長宗我部氏の時代。

一時は、四国をみな平定して 領主になっていた。

しかし、佛教寺院が反抗したので、四国の寺は、ほとんど焼き討ちににされたという。

その内一箇所、金毘羅様な残ったと言う話である。

火をつけに来た数百人の家来に くま蜂数千匹が襲いかかり

たちまち200人がその場で死んでしまい、焼くことを止めたので残ったという話がある。

四国八十八ヵ所のお寺もほとんど焼かれたと伝えられている。

 

さて、土佐の話 各の城主について。

根木屋に助十郎、 岡ノ内に宗石権之守、市宇小三郎、別役に岡本彦九郎の名が

コキノ山風土記に残されている。

小さな城主も勢力争いをし、明改伊勢丸は仙頭領地、桑ノ川は山崎の領地、

杉熊は岡ノ内の領地を治め、これら別役の宇根の三軒と

世次郎北屋敷の根木屋領地はおよそ400年も続いたという。

しかし、城の城主が度々換わるのも なんせ戦国時代であるから

歴史から分かるとおり、強い者が上に立つのも珍しい時代ではない。

また、こきの山風土記から別役城主の岡本彦九郎は、

津々呂母屋の 先祖であることも分かる。

さて、戦国時代も終わり徳川時代となり、遠州掛川から

山内一豊が高知の領主に就くこととなった。


蛇と蛙は・・・

2006年09月25日 | 伝説

蛇と蛙の生まれ故郷とは。

日本にいるいろいろな動物は、空を飛んできたもの、人間が連れてきたものがいた。

が、蛇や蛙は人間が連れてきたものとは思われない。

 

古老の話によると

亀が蛙を連れてきて、蛙が蛇を連れてきたそうである。

その時の話

蛇曰く、日本は北国、冬は寒く、餌も少なく行くのは嫌だ。

蛙曰く、冬は冬眠できるほら穴がある。

 

蛇の餌の蛙は 川にいくらでもいる。

あまりに蛙が繁殖しすぎて困っているほどである。

それで、蛇が蛙を 呑んでいても午後は助けてはならないと言い伝えられているのであろう。

 

ここで 祈祷師の法文に 蛙式 という法文がある。

一心に念ずると一箇所に三千匹の蛙を集めることができたという。

もちろん、 蛇式 もある。

大鷹小鷹式 という法文もある。一時に三百羽の鷹を空に回すことができたという。

 

今の時代では信じられないかもしれないが、

我の家には数々の法文を書いた書物があるので疑う余地はないのである。

これより別に

火式、水式、雷鳴式、山ぐつ式、天狗の山渡り式、岩割り式などがある。

この岩割り式は、5万トンの岩を割る法文である。

我も、一握りの岩でも割ってみたいと思うが修行が足らないのでまず無理な話である。

では、また次の話を


釜いろいろ 

2006年09月24日 | 伝説

赤釜。

これから上流では、神秘を秘めた深い淵を釜と言うことになる。

では、赤釜の伝説。

徳川時代の初めのことであると言う。

高知市帯屋町に戸棚屋と言う海産物の卸屋があり、

そこの娘が赤釜の主であったと言う。

 

次に 合呂の釜。

この釜のすぐ上は、登界なし。

その昔、高知の川流しの人夫は関出と言う木材の流し方を知らなかった。

そこで、長野県から専門の人夫を十三人雇ってきて関出の技術を習った。

しかし、技術を習った後、

登界なしの逃げ場のない所に騙して仕事に行かせておいて

関を切って一度に水と木材を流して殺したと言う所。

現在も人夫の霊を祭った所がある。 

 

そして あいのしの釜。

ここも、何か神秘を秘めている。

 

さてここで、物部村にまつわる伝説の一番上流の釜で終わりにしよう。

支流にはまだ多くの伝説が残っている。

次回に


大きな淵いろいろ 5

2006年09月23日 | 伝説

次、500メートル上に かさね岩の淵 がある。

これも名の示す通り 大岩が重なっている。

 

そして 宮ノ瀬。

昭和30年頃までは 北岸に氏神様が祭られていた。

これから出てくるのが 「えご」である。

「えご」とは、水の流れが真っ直ぐに岩に当たり右側か 左側かに渦が出来る。

これを土地の方言で 「えご」 と呼ぶのである。

それが なにかしら 氏神様を祭ってあるところに多いのである。

市宇(いちう)のえご・杉熊の有宮のえご・別府(べふ)のえごとあるのである。

現在は、水を取り跡形もなくなったが当時はえごは深く誰も近づかなかったのである。

 

 


大きな淵いろいろ 4

2006年09月22日 | 伝説

次、100メートル上に 立石ノ淵があったが 今淵はない。

名の示す通り南岸に高さ100メートルの岩の絶壁が聳えていた。

4月になると絶壁の中ほどに、石楠花の花が咲いていた。

絵になる風景の所であったが、南海地震で崩れて跡形もなくなってしまった。

 

次に、500メートル上の所に 大淵という淵が今もある。

昭和25年頃までは 見事なほどリッパな淵で主でもいるようであった。

 

そして 800メートル上に たまり池。

川の横に丸く深い淵があった。

ここにも主が居るというので、誰一人淵に入るものはなかったという。

 

次が 平瀬。

南岸に仕事に行く人が渡っていた瀬である。

 

そこから100メートル上に 柳のたび という淵がある。

400年位前までは、高さ30メートルの滝があったという。

南岸から、柳の大木の枝が上を塞いでいたことから柳のたびと名がついたという。

 

次に1キロ行くと 門屋の淵 がある。

ここは、登界なしである。

この淵にも渦があり、何か神秘を秘めていた。

 

そして、木麻の淵。

ここは、淵の中に大きな岩があり、ここにも大うなぎがいたという。

 


大きな淵いろいろ 3

2006年09月21日 | 伝説

また、100メートル上に つがの淵という所がある。

その名は、淵の両岸に大きな樛の木が 徳川時代まであったためという。

また、ここには大きな洞穴もあったという。

そして、温泉も出ていたということである。

 

次が うなじの淵。

この名のいわれがある。

淵の中にも大きな岩があり、この岩の穴に大きなうなぎがいて

元はうなぎ淵であったが、いつしか それが訛って うなじ になったのである。

 

次に津々呂瀬。

ここは、瀬になっていて、川を渡って南岸に仕事に出かけていた。

昭和26年頃まではつり橋がなかったのである。

つり橋とは・・・ ワイヤーを主綱にして 5人や10人は一度に渡れる端

 

そして次が、長瀬。

長瀬とは 浅瀬が200メートル続いた所を言った。

 

次が いの瀬の淵。

ここにも女の化身が淵の底の穴に住んでいたという。

 

次に 簗床(やなとこ)。

名の示す通り 昭和の初めまで何百年も簗を作って鮎を捕っていた所である。

 

そして、小松神社出口。ここは、もちがや淵という。

 

少し上に太郎淵がある。

徳川時代、別役のある家に 

太郎という若者が、またある家にもちやという娘がいたという。

二人はいつしか恋仲になったのであるが  

親同士が土地の境界の争いで犬猿の中で 一緒になることを許してくれない。

思案の末、二人は淵に飛び入り自殺をしたのである。

太郎は上の淵に沈み  もちやは下の淵に沈み

別々に死体が見つかり 分かれていったのであった。

そのため 上の淵を太郎淵、 下の淵を もちや淵と呼ぶ名がついたという。

古老の話では、もちやは村一番の美人で、色は白くもち肌であったという。

世にいう 心中悲恋物語の淵である。

 

 


大きな淵いろいろ 2

2006年09月20日 | 伝説

次、200メートル上に 冬が瀬。

ここにも淵があり 主がいたという。

現在でもかなり大きい蛇がいるという。

我の従兄に 小松義男という男が土佐山田町にいる。

昭和40年4月に山仕事で4時ごろ、夫婦で荷物を背負って山に上り始めた時

道の横で なにやら バリバリと音がするので 良く見ると

大蛇が横の方へ動いていくのが見えたと話してくれた。

 

津々呂(つづろ)の道路縁に台太郎という人がいて、

昭和38年8月の夕方に 2キロほど山の上の宇根の道を家に帰っているとき

道を横切っていた大蛇を知らずに踏んづけたという。

すると大蛇が怒って 大きく真っ赤な口を開けて

顔の高さまで立ち上がったので驚いたと話してくれた。

この大蛇は、小松義男の見たのと同じ蛇だと思う。

 

次に 200メートル川の上に 石渦。

ここにもいり込んだ渦があったが今は無い。

 

そして、また100メートル上に 蛇石。

岡ノ内と同じく川のなかに今も大きな岩がある。

岩平から降りてきた大蛇が、この岩を七巻き半も巻いていたという。

今も大蛇の鱗の痕といわれるものが残っている。

岡ノ内も 津々呂も 七巻き半とは、何か謎めいていると考える我である。

 


大きな淵いろいろ 1

2006年09月19日 | 伝説

次に、200メートル上に 大きな淵が今もある。

ここは、川の両岸から岩が迫り出していて 川幅が約4メートルある。

よく、猿が飛びわたっていたことから 猿飛 と名がついている。

川流しの人夫が よく飛び渡ってみせて 自慢していたと言う。

 

次が みつ石。

名の通り川の中の淵に、大きな岩が3個座っていた。

 

次が 百尾のかずら橋。

ここは、 川幅が狭くて 大正のごろまでは名の通りかずら橋があり

ここを通って 南岸の山に仕事に行っていた。

 

次が 槍の瀬。

この淵の岩の割れ目に穴があるという。

穴には、大うなぎがいるのは、前にも書いた通りである。

 

次に 50メートル上にある くぜんが渦。

渦とは、川から少し入り江になった所にある深い淵があるところを言う。

また、渦と名がついたところには、必ず主が居ると言っていた。

 

そして 300メートル先に がやの渦 という淵がある。

ここは、天然の洞穴が合って、大蛇が冬眠していた所である。

現在も、洞穴はつぶれてはいない。

 

次に150メートル上に 長瀞(ながとろ)。

長瀞とは、水の深さが1メートル50センチ以上のところが

100メートル続いた所を言ったのである。


川口

2006年09月18日 | 伝説

次は、川口の上に 「では」という大きな淵がある。

この淵の主は女の化身で、

夜な夜な川口のに出てきて、若い男を巧みに騙して淵に引きずり込んだ。

若い男が急にいなくなって、捜すのに大変であったという。

しかし、人の命をとるようなことはしなかったという。

3日ばかりすると、男はきつねにでも騙されたようにぽっかり帰ってきたという。

しかし、年に1.2回こんなことがあるので、の人が話し合い

お宮を建てて祀ってあげればこんな悪さはしなくなるのではということになり

早速お宮を建てて祭った。

さにあらず、今度は色々の病気を治してくれる水神様になったという。

我も若い頃、歯痛で困っていたら この話を聞き

祈祷しに頼んでもらったところ痛みがなくなったことがある。

しかし、

ご利益をもらったら、必ずお酒一本と錦鯉を二匹持ってお礼に行くことになっていた。

お酒は蓋を取り淵に投げ込んだ、鯉は泳がした。

不思議なことに 酒は空になって浮き上がってくる。

鯉は川の上流へは住み着かなかった。

しかし、我は60センチくらいもある錦鯉が泳いでいるのを見たことがある。

 

人に悪戯をして困らせた女の化身がご利益をくれる水神様になった所である。


蛇の種類

2006年09月17日 | Weblog

物部村流域に生息している蛇は…

 

①まず、日嗅(ひかぎり)という小さく赤い蛇がいる。

この蛇は猛毒を持っていて、噛まれるとその日の内に死んだという。

 ※最近、無毒の蛇であることが分かったようである、日計(ひばかり)という。

 

②次が、蝮(まむし)。

これはどこにでもいる。これも猛毒を持っているのは、知っての通りである。

 

③次が、毒蛇。

この蛇は全体が青黒い。そして顎の舌が黄色いのが特徴である。

この蛇は、毒を飛ばし、大きな蛇になると3メートルも飛ばして獲物を麻痺させて

丸呑みにする。

この毒も猛毒で、昔の人が顔に吹きかけられ目に入り、失明したと聞く。

 

④次が、ネズミ捕り。

よく家や納屋に入ってきてネズミを捕ったので鼠捕りの名がついたのかもしれない。

 

⑤次が、からすへび。(シマヘビの黒化型が“からすへび”といわれている。)

この蛇は、真っ黒であった。特徴として、人を追いかけてくる癖があり

逃げれば逃げるほど追いかけてくる蛇である。

 

 ⑥そして、水神様の使いといって、小さく水色で首に首玉が入っているものがある。

使い蛇と言って 誰も殺すものはいなかった。

 

⑦次が、盲蛇(めくらへび)。

何かの異変で目が退化したのであろうか。目がない蛇がいた。

 

⑧最後が、縞蛇。

並縞が入っていて、縞とべりともいった。

 

このように8種類いた。

その中で大人しい蛇は 鼠捕りと縞蛇。

伝説の大蛇になったのは、アオダイショウ か 鼠捕りではなかろうかと思う。

ネットで検索して 蛇の姿をご覧下さい。

 


蛇石(じゃいし)

2006年09月16日 | 伝説

次は、岡ノ内

岡ノ内の川に 蛇石(じゃいし) と呼ばれる石がある。

 

その昔、今の岡ノ内の小学校があった場所に池があり、大蛇が住んでいたという。

大蛇を追い出そうと池の堰を掘り切り水をなくしたら

大蛇は泣く泣く池を出て 蛇石に 七巻き半も巻いて 3日ほどいたという。

しかし、あきらめて 安芸の方へ山を越して行ったということである。

その時に 谷をセリ割りながら登っていったという。

そのため この谷は 割れ石谷と呼ばれている。

しかし、大きい蛇である。

蛇石を七巻き半とは、約 12メートルはあったらしい。

蛇も 全長が12メートルを越したら 大蛇と呼ばれていたらしい。

山に500年、川に500年の修行をしなくては、大蛇になれなかったらしい。

しかも、千年の間に 人間にその姿を見られたらだめで

元から修行をやり直さなければならなかったという話である。

そのため、人には姿を見せないように気をつけていたが、稀に見られたりもした。

人間も、もし行き会った時は、絶対に人に見たと言ってはならないと言われていた。

人に、大きい蛇を見た事を言わなかったら、

その人は 一生安楽に暮らせるといわれていたのである。

 

しかし、人間は弱く酒を飲んで 一杯機嫌になると

絶対に言ってはならない事を行ってしまうのである。

そうすると、急に引き付けを起こして死んでしまったというのである。

祟りは激しかったのである。

大蛇は、女に化けたり、5メートルも先の獲物から生き血を吸い取ることができたり

空を自由に飛んだり、竜巻を起こすことができたというのである。

弘法大師一代記の中には、室戸岬で修行をしていると 

夜な夜な大蛇が出てきて修行の妨げをしたと でているのである。

 


佐岡

2006年09月15日 | 伝説

今もある 佐岡 下の川淵のこう口というところ。

ここには、登界なしと言う場所がある。

登界なしとは、両岸が絶壁で通れない所、回り道しないと上流には行けない。

またここには、曲がり淵といってL字型の大きな淵が 今もある。

さて、ここには大きなくつひきがいた。

背中の太さが90センチで、淵の底の大穴に住み着いていたという。

大きく口を開けた時には、人間でも飲み込むほど大きかったという。

近所の葦の茂みの中には、6メートルを超す蛇、人間の生き血を吸い取ったという。

それで ここに近づく者はなかったという。