昔物語-土佐・奥物部から-

奥山の昔話を先祖から受け継いだ話を元に編集した物です。今残さないと無くなってしまう…誰も知らない伝承物語です。

信仰とご利益の話 4

2006年05月22日 | 昔話

徳島、香川、兵庫、京都、福井へと 順調に歩き

日を重ねて ようやく小浜に着いたのである

あちこち " 腐らぬ橋 〟を探すうちにもう日暮れ近くになっていた

ふと見ると 目の前に 腐らぬ橋 があった

一人の女が 誰かを待つかのように佇んでいる

思わず駆け寄った まぎれもなく一緒に回った女の人であった

二人は 抱き合って再会を確かめた

揃って女の両親のもとへ行くと 女が

「私の選んだ佐吉さんです」  と紹介したのである

両親からは、娘が大変お世話になったと お礼をもらい

夫婦になることを喜んで受け入れて めでたく結婚式をあげて夫婦になったのである

 

さて、佐吉の嫁さんになった女の話である

名前は 「美代」 といった

家は代々海産物の卸し売り屋で 何不自由のない家の一人娘であった

十六才の時に 難病にかかり 両親は何とか病気を治してやりたいと

弘法大師が開いたお四国を回り ご利益をいただいて難病がよくなったのであった

『よくなったら お礼参りをする』 という話を聞き、娘は一人でお四国を回っていたのである

そうしているうちに ご利益をいただき 佐吉と巡り会ったのであった

 

信仰とは、心から信じてこそ ご利益がいただける

美代さんは、難病の完治に合わせてお婿さんまでご利益をいただけたのは

先祖代々、そして両親の功徳と 信仰心があったからからこそ

 

お四国を何回か回って 自分自身の修行、 懺悔、先祖の供養をして 

ご利益をいただいた人は 数多くいることは 事実である

 

人の子として生まれたら 何かを残したい と思う

諺に 『人は一代、名は末代まで残せ』 とある

色々考えている私である

 


信仰とご利益の話 3 

2006年05月21日 | 昔話

 

「またの再会を」 と言って 佐吉が分かれようとした時であった

女の人が一通の封筒を取り出して 佐吉に差し出した

「道中 大変お世話になりました。これを受け取ってください」

しかし、

佐吉にしてみれば、二人で楽しく巡礼できたので お礼など要らないと思っている

何か事情があり、何処の誰かも明かさない女である

ただ、一緒に回っただけなのだからと 辞退したが

「是非 受け取ってください」と言って 佐吉の懐に差し入れてしまった

「家に帰ったら、中身を見てください」

そういって 女は別れて行ったのである

さて、家に帰った佐吉は、もらった封筒をあまり気にかけもせずに封も開けずにそのままにしてあった

四、五日して ふと気になり  何か書いてあるのではと思い開けて見た

しかし、達筆に書いてあるため佐吉には 全文が読めなかった

そこで 近所の物知りに 読んでもらった

「佐吉様へ

鶴林寺の山道で足を痛めた 私の荷物を背負って 谷を渡り、坂道を登り

危険な所は手を引いて 助けていただき こうして無事に

大日寺まで来ることが出来ました

心から 親切にしていただき 私にとって忘れられない人となりました

年増の女ですが、 もし 心あるなら訊ねて欲しいです

国は 遠く若狭の国、小浜の湊

腐らぬ橋の袂で 佐吉さんを待っています」

と書いてあったのである

若狭の国の小浜とは、現在の福井県の小浜のことである

佐吉は思案に暮れていた

何せ四国から遠いところへは行ったことがないし、また 知り合いもいない

思い悩んでいると、物知りの人が

「人の縁はどこにあるか分からない

何処で暮らしても佐吉にとって幸せであれば よいではないか」

と 行く事を勧めてくれたのである

佐吉は 一大決心をして  妹に 両親を託して

足取りも軽く 若狭の国へ旅立ったのであった

 

 


信仰とご利益の話 2

2006年05月20日 | 昔話

 

さて、ここで年増(としま)とは

なにせ人生五十年の時代の話である

男の人も十八才から二十五才までには、嫁さんを貰い、女の人も十五才から二十三才までには嫁入りをしていた

女の三十才になると、後妻に行くのが普通の時代のことである

諺に

「作物の実の入りの悪い物は先に飛ぶ、人間の出来の悪い者は後に残る」

と言われて人から見下げられていた

しかし、

中には色々の事情で婚期が遅れた人もあったので、全部がそうとは限らないのも事実である

さて、この年増の女の人も何かの事情があって祈願をして、八十八ヶ所を巡礼していたのであろう

山道で足を痛めて びっこを引きながら登っていたのである

当時は日が暮れると民家に泊めてもらうか、お寺に泊めてもらうかであった

その為、着替え、その他の荷物全部を背負って回っていたのである

足を痛めた体で、十三キロから十五キロの荷物を背負いながら 歩くのは大変なことなのであった

そこへ通りかかった佐吉は、生まれついた親切な心の持ち主であるから

荷物を背負ってあげて、手を引いて無事二十番の鶴林寺参拝を済まし、

山を降りて民家に泊めてもらうことができた

明ければ 女の人も足の痛みも取れて、二人は次の二十一番太龍寺へと登り

名も明かさない女の人を助けて、山を下り、次からは平らな所を次々に回って

二十三番薬王寺で徳島が終わったのである

この先は高知県であった

室戸まで 約八十キロメートルを二泊して、二十四番 最御崎寺、

二十五番 津照寺、 二十六番 金剛頂寺で 日が暮れ 民家に泊めてもらう

次の日安田町の 二十七番 神峰寺、そして 野市町の二十八番 大日寺へとやって来たのである

ここまで来ると 佐吉の家はすぐ近くである

七日の間、一緒に回ってきた女の人に家に寄ってもらいたかったが

粗末な家なので誘うことをやめた佐吉であった

 

 


信仰とご利益の話 1

2006年05月19日 | 昔話

時は明治の初め頃

旧香美郡野市町佐古に「佐吉」という者が住んでいた

父 作蔵 、 母 お米 、 妹 菊  が家族である

佐吉の家は 田んぼが約六十アールの小作農家であった

あまり恵まれた家庭ではなかったが 親子四人仲良く、また、信仰心のある家であった

親の代からお金をコツコツ貯めては

四国八十八ヶ所を何回も 回っている家であった

しかし

どうしたことか 佐吉に嫁さんがなく、いつの間にか28才になっていた

佐吉は真面目で、その上信仰心があり 村人からは仏様のような男と誉められていた

農業の合間に日雇いに出て金を貯めては、両親を見習ってお四国巡拝に行っていた

そして 二回目を徳島県一番 霊山寺から始めた

当時は乗り物はなく全て歩きの巡礼である

全工程千四百km、最低でも五十日は掛かる道程である

若い佐吉は足取りも軽く、徳島の霊場を次々に回り、

一番の難所二十番の鶴林寺へとやってきたのである

山道の中ほどまでくると、年の頃なら二十七、八の年増の女の人がいた

 


山猟師 4

2006年05月18日 | Weblog

寝たふりをして耳をすまして聞いていると

神様、仏様、山、川、そして自然すべての生霊が広場に集まり話し合いをしていた

その内容は 子供の分に当てを話していたのである

山猟師の村には、子供が生まれる家は、近所の家と山猟師の家だけである

分に当てとは、生まれて一生の間に必要なものであ

つまり食べるもの、お金、衣類、何歳まで生きるかという寿命まで どれだけにするかを話し合っていたのである

子供の一生全てが この話し合いで決まるのである

しかし、この分に当てを決めるには、

親のあり方、先祖がどれだけ世の為 人の為につくしたか、信仰心、自然全てへの感謝の心があったかによる

山猟師は、さらに耳をすまして聞いていると

男の子には「日に竹三本」、女の子には「倉が三軒」と決めて話し合いは終わり

生霊たちは、何処へとも無く消えていった

我に帰った猟師は、急いで家に帰った

すると 既に子供は生まれていた

我が家の子供は、男の子で、近所は女の子であった

猟師は、山で聞いたことは誰にも話さずに月日は流れた

猟師の家は次第に繁盛していた

女の子が成長し、息子の嫁さんにもらった頃 倉が三軒建つ家になったのである

しかし、息子は金の有難さがわからず、飲む、打つ、買うばかり

さすがの嫁さんも愛想をつかして、暇をとって実家に帰ってしまった

すると、家は落ちぶれて、下の通り 日に竹三本の籠谷に成り下がったのであった

 

たとえに、「 親孝行は、富士の高嶺にさも似たり、人から見上げられたり誉められる」

人間は、人に見上げてもらえてこそであろう。人から見下げられては、価値がない。

常に忘れてならないのは感謝の心を持つことといえよう。

悟れば 幸せは必ずおとずれるであろう。

 

 

 

 

 


山猟師 3

2006年05月16日 | Weblog

猟期になったので 山へ狩に一人で出かけた

狩にもいろいろな方法がある

山の尾根、又は宇根にはなろい所があり、清水が出ている所がある

ここへ、猿 、鹿 、熊 、たぬき 、又は化け物も水を飲みに来る

そこで 木上にさなを作り、動物に見えないように隠れて待ち伏せをして狩をする方法があった

こんな時は、犬を連れてこないのである

さて、さなの上で猟師は 夜の間中獲物を待ったがどうしたことが 何日経っても獲物が獲れなかった

さすがの猟師も 幾晩も眠らずにいたので眠くなった

近くの広場にあった直径が3メートルはあろうかという大木の根元にある大きな空洞で一晩眠ることにした

猟師は、二晩の寝不足で、ぐっすり寝込んでしまった

しんしんと夜は更けて丑三時、ふと目覚めると なにやら話し声が聞こえてきた

 

 


山猟師 2

2006年05月15日 | Weblog

鹿も日当たりの良いところで寝ているが、鹿は逃げ足が速く、犬は追いつけない

そこで鹿を取るために

賢い犬は逃げる鹿の先回りをし 遠くへ逃げられないようにして主人がいるところへ追い回して来た

それも3回くらい追いまわして来たという話

しかし、逃げる鹿には鉄砲の弾はナカナカ命中しなかったという

鹿もくたびれると川を目がけて下りて来て川の中に入り、泳いで川を渡った

匂いをなくして犬から逃れたのである

このため簡単に鹿は獲れなかったという話である

熊である

熊は、広い奥山の大木の木の根っ子の洞穴で、冬眠をするのが習性である

大体旧11月初めから春3月の彼岸くらいまで冬眠する

熊を獲るには奥山に行き冬眠している穴を見つけて犬に協力してもらうのである

熊も猪と同じように、まずは、逃げ道を作ってから吠え立てるのである

熊も冬眠の時期は眠いので深追いはせず すごすごと元の穴に戻っていく

犬も賢いので2回3回と怒らせてから 穴から誘き出し

主人のいる所へ誘き出したところを主人が仕留めて持ち帰ったのである

昔も現在も熊の心臓は万病の薬になるので高値で売られている

 

兎も、鹿と同様に犬に3回は追い回してもらったという

山鳥 雉も犬に気を取らせて後ろからそっとし伸び寄って打ち落としたのである

また、ムササビも 犬が居場所を主人に教えたのを 打ち落として獲ったのである

だいたいこれが山猟師の生活である

しかし、忘れてならないのは 数多くの動物を犠牲にして生活をする人は

動物霊供養をするのが人の道であり 天地万物の道理と思うが

この悟りをひらく人が 少ないのも事実である


山猟師

2006年05月14日 | 昔話

昔、ある村に熊吉という山猟師がいた

山の猟期は、旧10月から春3月までである

さて、 山猟師熊吉 旧11月のある日 猟に出かけた

しかし、一日で獲物が獲れるとは限らないのである

2、3日もしくは 5日から6日間かかることもある

獲物が獲れるまで 日が暮れれば大木の空洞、または岩屋で寝起きする日が続いた

いつも犬を2匹連れて猟に出て 主に猪、鹿、熊を獲っていた

 

猪を獲る方法

犬の協力がないと獲れない。犬は主人に忠実で賢いのである。

2匹で猪が寝ているところへそっと忍び寄る

そして 足にもつれる カズラなどの木の枝を噛み切って素早く逃げる道を確保する

それから そーっと猪が寝ているところへ近づき 2匹で吠え立てる

猪は、夜行性なので、昼間は 「かるも」 という木の葉をたくさん集めてその中に潜り込んでぐっすり寝込んでいるわけである

いい気持ちで寝ている所を妨げられた猪は逆毛を立てて怒り 犬に襲い掛かるのである

犬は 逃げ道を素早く逃げる

しかし、猪は夜動いている為 昼は眠く、長く追う事はせずにすごすごとねぐらに戻るのである

そして また 木の葉の中に潜り込んで寝てしまうのであった

犬は、頃合を見て またねぐらに近づき吠え立てるのである

猪は、犬を追い払おうと 追いかけてくるがはじめのように長追いはせずねねぐらに戻って 眠るのである

犬は、主人がいる木の陰まで猪を誘い出す事をしっているので なんとか猪を誘き出そうとしていた

犬が 3回これを繰り返すと さすがの猪も本気で怒って犬を何処までも追いかけてきた

犬は主人が隠れている所まで逃げてくると 二匹で猪を挟んだ

猪は どちらの犬に襲い掛かろうかと立ち止まって考える

そこを主人が狙いを定めた鉄砲で撃ち取るのであった

猪が大きければ 犬を家に知らせに帰らせて 家のものを現場まで連れてこさせ

切り分けて持ち帰り仲買の人に売ったのである

 

 

 


徒然 3

2006年05月13日 | Weblog

現在のように ガスや電気はなく、家の中央に八畳の間があり、その北側に囲炉裏があった

囲炉裏は、90センチ角で 天井からじざいを吊るしてそれに鍋をかけて下から火を燃やして炊事をするものであった

そのため薪をたくさん軒下に積んでいた

全てを薪で炊事したのである

昭和30年頃になると 生活改善がなされてきて おくどを作り 少しは楽になったという

次に 洗濯機ができ、ガスボンベ、 ガス炊飯器 テレビ 冷蔵庫…とできてきた

その当時の若嫁さんたちは

「何が無くても 洗濯機 テレビ ガス炊飯器 冷蔵庫がある家に」  理想であったらしい

テレビは なかなか高価で 50件のに2台しかなかった

よく 力道山の出るプロレスのある日は、遠くから見せてもらいにいったものである

昭和35年頃になると どこの家にもテレビがあるようになったのである

どことも おなじで あったと思う


徒然 2

2006年05月11日 | Weblog

食糧の話

岡ノ内から別府 市宇(べふ いちゅう)のには、田んぼが少なくほとんどが畑であった。

旧暦9月末頃に 麦の作付けをして、4月頃取入れをした

その後に キビの種を蒔き、8月に取り入れて年中の食糧としていた

大抵の家には子供が6~7人はいて、多い家には10人、稀に13人の家があったと聞く

実は、私の家が13人の兄弟姉妹での暮らしであった

畑だけでは食糧は足りず、どこの家でも焼畑をして、そば、ひえ、あずきを作り食べていたという

 

現金の収入の話

山でとるもので 小豆は 「赤い宝石」 といわれていた

小豆1升で 米1升と交換できたという

他には、エゴマ、ナタネの実も高価に取引されたという

それから

猪 ・ ミツマタ ・ こんにゃく ・ お茶 ・ 貸牛 であった

貸牛(かしうし)とは

毎年香長平野での田んぼの耕作に 牛を貸し出すのである

4月から6月まで 働いてくる

12月になると 「貸米」 といってお米が借主からもらえるのである

その上 毎年子牛が生まれるので それを売り現金収入としていた

そのため牛のことを 「庭の宝」 と言っていた

当時は、トラクターがなく みな 牛で耕作していたからである

これが 農家の昭和20年頃までの 現金収入の大方である

 

 


徒然 1

2006年05月10日 | Weblog

住宅は

明治20年頃までは、どこの家も皆、堀立柱の家であった

また、便所は三角小屋であった

しかし、だんだんと明治の文明が山村にも広まり、新しい石口、角材で家を建築するようになった

しかし、現在のように製材などはなかった

角材にするには、はつりという大きな手斧で丸太を角材にした

それを正確にするには 舞い手斧で仕上げたという

また、大きな直径1メートルの材は、立引のおがというのこぎりで角材にした

そのため普通 家は、五間家といっていた

前面の巾が約9㍍、奥行が五㍍の家を母屋といい、隠居は、巾5㍍、奥行3㍍

動力のない時代、家を一軒建築するのには、約三年もの日数を要したという