テーマは、原題『the sea inside(内なる海)』からも分かるように、“イメージ”のあり方である。
「今日は海が見えなくて残念ね」「いや、目をつぶれば見えるから十分・・・」
主人公のラモンは、かつては水夫として世界中を旅して回っていたが、25歳の時、海の事故で四肢麻痺の障害を負った。以来、部屋の窓から意識を外の世界に飛ばす時だけ自由を獲得する日々。本作は、28年間も寝たきりの生活を余儀なくされていた彼の生と死への旅路を、実話に基づいて描いている。
”イメージ”は、抑圧から解放され、飛び立つような躍動感と、想像力の果てしない旅を続けられる自由の空間。彼の生を支える最も重要な要素であるが、21世紀に生きる私たちにとってもキータームとなる。なぜなら、今日人間が失いつつある“聖なるもの”と唯一繋がっている最後の砦だからだ。
”イメージ”と聖なるものとの繋がりを見てみよう。
動かせるのは首から上だけ。ラモンの頭部は、切断された生首のような状態だ。
私たちはサロメに捧げられた洗礼者ヨハネの斬首を思い出す。ヨハネは善き人であり、数カ月後に生誕するキリストの証人。ヨハネとキリストは合わせ鏡のような関係だ。ヨハネの死は、切断と希望、犠牲と復活を相互浸透させ、西欧人の最も求める“解放と救済”のメッセージを孕む。
ラモンは家族や友人、女性など多くの人たちに愛されていた。人々は彼の頭部を“イコン(聖像画)”に見立てていたのだ。
“イコン”は眼に見えるものであるが、信者にとっては“眼に見えない絶対的な世界が刻印されたもの”。語源的に“エコノミー(配分)”に通じ、見えるものから見えないものへの移行=“イメージ”のありようを示す。
エコノミーとしての“イメージ”には、癒しの力や、象徴秩序の復元力が備わっているので、ラモンの顔=イコンは崇拝や敬愛の対象となるのだ。
切られた首は、一方では死と供犠がもたらす恐怖感を、もう一方では犠牲者と生贄を捧げる者たちとの暗黙の了解から生まれる安心感を、さらには供犠を行うことによってシンボルが得られる喜びを与えてくれる。
ラモンが自由を求めてイメージの世界に飛び立つ時に流れる音楽は、プッチーニのオペラ「トゥーランドット」のアリア。テノールが歌うこの曲「誰も寝てはならぬ」は、オペラの物語の核をなし、斬首の恐怖や犠牲、ファーストキスによる愛の勝利など、“イメージ”のあり方及び本作の物語の隠喩となっている。
頭部の切断は、イメージ(頭部)と現実(頭部以外の身体)、生と死、女と男、肉体と魂、意識と無意識、正義と法、普遍性と特異性などの分断を意味する。誰もが分離されることを望まないのに、切断(ギロチン)は神の行為のように上から降りてくる。
本作の素晴らしさは、こうした両犠牲を抱えて生きる、人間の根源的な姿を描いているところにある。
ラモンは自分の尊厳と自由を守るために尊厳死を望むが、手足の自由がきかないので、1人では望みを遂げられない。父や兄、義姉、甥、2人の恋人、尊厳死支援団体の人たちのそれぞれが、彼の死を巡って複雑な気持ちを抱く。
彼は言う。「他人の助けに頼って生きるしか方法がないと、自然に覚えるんだ。涙を隠す方法を」。「僕を本当に愛しているのなら、手を貸してくれ」と。
だが、彼を愛してはいても、神や法、宗教、執着心、喪失の悲しみなどに縛られて、誰もが手を貸すことをためらう。
「死は誰にでもいつかは訪れる。なぜ死を恐れる?感染しないのに」「僕は生きるために死ぬ」「自由のために命を捨てた人たちがいる」「死後は無の世界だ。明日は雨だ、と言うのと同じ。未来は予測できない」・・・。
死を生の切断ではなく、不可視の世界への移行として捉える彼の台詞は示唆に富む。
ラモンは生と死のあいだを生きる人間の象徴である。私たちは、頭部も死も、自分のそれを見ることはできず、“イメージ”によって獲得するしかない。つまり、生と死のあいだを“イメージ”によって繋ぎとめることが大切なのだ。
一瞬にして生と死を分かつギロチンによって切り落とされた首でさえ、生と死の境界地帯で、僅かな時間(可視の世界から不可視の世界への移行の時間)を生きるとされる。
斬首=言葉(頭部によって生成される)の切断=“イメージ”を膨らませること=感応力の復権・・・“イメージ”こそ、他者(の痛み)に思いを馳せる切り札となるのだ。
後にラモンの恋人になる村の女・ロサの子どもが、ラモンを見て「あのおじさん本当は動けるよ」と言うのは、子どもの鋭い直観力から出たものである。
「過去は捨てて未来=死について語ろう」と言うラモン。「過去は怖くない、未来=死は怖いが、恐怖は考え方を変える」と応えるフリア。彼女は、不治の病に悩む尊厳死援護の弁護士だ。
アプローチは異なるが、“死から生を考える”という人生観が一致し、初めて彼の死に直接手を貸してくれる(彼を本当に愛してくれる)人が現れる。彼女は彼が書いた詩集の出版を勧め、発刊日に共に死ぬことを提案する。著書のタイトルは『地獄からの手紙』。
しかし、ここでも神の(?)ギロチンが降りてくる。フリアは夫に説得されてラモンと一緒に死ぬことを諦め、辛くても生を全うすることを選択する。
出版のために訪れた印刷所で、断裁機が降りるのを見つめるフリア・・・。
結局、フリアの代わりに、ロサが“ラモンを本当に愛してくれる人”になる。
そう、すべてのものごとはただ記号が置き変わるだけ。未来が予測できないように、絶対的なものは何もないのだ。
おびただしい反復がなされる。
ラモンの水夫時代の写真や事故当時のシーンに多用される女性の姿/事故以後彼と直接関わる4人の女性/彼が後に続く人たちのために尊厳死裁判に赴く途中、眼にする男女のカップル、犬の交尾/妊婦になったジュネの腹、赤ん坊/甥に抱く自分の息子のイメージ/ロサへの言葉「子どもに生きる力をもらえ」・・・。
これらは、女と男、生と死、大人と子ども、現実とイメージといった“二項対立”の解体から愛へと至るプロセスを示している。
女性の姿の多用は、女性の方が“産む性”として生と死により深く関わるため、聖なるものを保持しつつ、そのつなぎ目のところにいると考えられるからだろう。
本作は海のシーンで始まり、海のシーンで終わる。海は母の胎内の“イメージ”だ。
死ぬ自由を選択したラモンは、フリアから手に入れた青酸カリを飲み、“内なる海(母の胎内)”へと向かう。
生きる自由を選択したフリアは、廃人となり現実の海を見ている。
フリアと置き変わったロサにラモンは言う。「死後の世界は直観みたいなもの。僕は君の夢(イメージ)の中にいる。愛し合おう。約束する・・・」と。
脚本も演出も文句なし。観客は、映像や音楽の深さ、美しさに浸りながら、”イメージ”について、尊厳死について、愛について、etc.について、さまざまなことを考えさせられる。
観た後、誰かと語りたくなる作品なのに、上映館の少ないのが残念だ。 ★★★★★
海を飛ぶ夢
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「今日は海が見えなくて残念ね」「いや、目をつぶれば見えるから十分・・・」
主人公のラモンは、かつては水夫として世界中を旅して回っていたが、25歳の時、海の事故で四肢麻痺の障害を負った。以来、部屋の窓から意識を外の世界に飛ばす時だけ自由を獲得する日々。本作は、28年間も寝たきりの生活を余儀なくされていた彼の生と死への旅路を、実話に基づいて描いている。
”イメージ”は、抑圧から解放され、飛び立つような躍動感と、想像力の果てしない旅を続けられる自由の空間。彼の生を支える最も重要な要素であるが、21世紀に生きる私たちにとってもキータームとなる。なぜなら、今日人間が失いつつある“聖なるもの”と唯一繋がっている最後の砦だからだ。
”イメージ”と聖なるものとの繋がりを見てみよう。
動かせるのは首から上だけ。ラモンの頭部は、切断された生首のような状態だ。
私たちはサロメに捧げられた洗礼者ヨハネの斬首を思い出す。ヨハネは善き人であり、数カ月後に生誕するキリストの証人。ヨハネとキリストは合わせ鏡のような関係だ。ヨハネの死は、切断と希望、犠牲と復活を相互浸透させ、西欧人の最も求める“解放と救済”のメッセージを孕む。
ラモンは家族や友人、女性など多くの人たちに愛されていた。人々は彼の頭部を“イコン(聖像画)”に見立てていたのだ。
“イコン”は眼に見えるものであるが、信者にとっては“眼に見えない絶対的な世界が刻印されたもの”。語源的に“エコノミー(配分)”に通じ、見えるものから見えないものへの移行=“イメージ”のありようを示す。
エコノミーとしての“イメージ”には、癒しの力や、象徴秩序の復元力が備わっているので、ラモンの顔=イコンは崇拝や敬愛の対象となるのだ。
切られた首は、一方では死と供犠がもたらす恐怖感を、もう一方では犠牲者と生贄を捧げる者たちとの暗黙の了解から生まれる安心感を、さらには供犠を行うことによってシンボルが得られる喜びを与えてくれる。
ラモンが自由を求めてイメージの世界に飛び立つ時に流れる音楽は、プッチーニのオペラ「トゥーランドット」のアリア。テノールが歌うこの曲「誰も寝てはならぬ」は、オペラの物語の核をなし、斬首の恐怖や犠牲、ファーストキスによる愛の勝利など、“イメージ”のあり方及び本作の物語の隠喩となっている。
頭部の切断は、イメージ(頭部)と現実(頭部以外の身体)、生と死、女と男、肉体と魂、意識と無意識、正義と法、普遍性と特異性などの分断を意味する。誰もが分離されることを望まないのに、切断(ギロチン)は神の行為のように上から降りてくる。
本作の素晴らしさは、こうした両犠牲を抱えて生きる、人間の根源的な姿を描いているところにある。
ラモンは自分の尊厳と自由を守るために尊厳死を望むが、手足の自由がきかないので、1人では望みを遂げられない。父や兄、義姉、甥、2人の恋人、尊厳死支援団体の人たちのそれぞれが、彼の死を巡って複雑な気持ちを抱く。
彼は言う。「他人の助けに頼って生きるしか方法がないと、自然に覚えるんだ。涙を隠す方法を」。「僕を本当に愛しているのなら、手を貸してくれ」と。
だが、彼を愛してはいても、神や法、宗教、執着心、喪失の悲しみなどに縛られて、誰もが手を貸すことをためらう。
「死は誰にでもいつかは訪れる。なぜ死を恐れる?感染しないのに」「僕は生きるために死ぬ」「自由のために命を捨てた人たちがいる」「死後は無の世界だ。明日は雨だ、と言うのと同じ。未来は予測できない」・・・。
死を生の切断ではなく、不可視の世界への移行として捉える彼の台詞は示唆に富む。
ラモンは生と死のあいだを生きる人間の象徴である。私たちは、頭部も死も、自分のそれを見ることはできず、“イメージ”によって獲得するしかない。つまり、生と死のあいだを“イメージ”によって繋ぎとめることが大切なのだ。
一瞬にして生と死を分かつギロチンによって切り落とされた首でさえ、生と死の境界地帯で、僅かな時間(可視の世界から不可視の世界への移行の時間)を生きるとされる。
斬首=言葉(頭部によって生成される)の切断=“イメージ”を膨らませること=感応力の復権・・・“イメージ”こそ、他者(の痛み)に思いを馳せる切り札となるのだ。
後にラモンの恋人になる村の女・ロサの子どもが、ラモンを見て「あのおじさん本当は動けるよ」と言うのは、子どもの鋭い直観力から出たものである。
「過去は捨てて未来=死について語ろう」と言うラモン。「過去は怖くない、未来=死は怖いが、恐怖は考え方を変える」と応えるフリア。彼女は、不治の病に悩む尊厳死援護の弁護士だ。
アプローチは異なるが、“死から生を考える”という人生観が一致し、初めて彼の死に直接手を貸してくれる(彼を本当に愛してくれる)人が現れる。彼女は彼が書いた詩集の出版を勧め、発刊日に共に死ぬことを提案する。著書のタイトルは『地獄からの手紙』。
しかし、ここでも神の(?)ギロチンが降りてくる。フリアは夫に説得されてラモンと一緒に死ぬことを諦め、辛くても生を全うすることを選択する。
出版のために訪れた印刷所で、断裁機が降りるのを見つめるフリア・・・。
結局、フリアの代わりに、ロサが“ラモンを本当に愛してくれる人”になる。
そう、すべてのものごとはただ記号が置き変わるだけ。未来が予測できないように、絶対的なものは何もないのだ。
おびただしい反復がなされる。
ラモンの水夫時代の写真や事故当時のシーンに多用される女性の姿/事故以後彼と直接関わる4人の女性/彼が後に続く人たちのために尊厳死裁判に赴く途中、眼にする男女のカップル、犬の交尾/妊婦になったジュネの腹、赤ん坊/甥に抱く自分の息子のイメージ/ロサへの言葉「子どもに生きる力をもらえ」・・・。
これらは、女と男、生と死、大人と子ども、現実とイメージといった“二項対立”の解体から愛へと至るプロセスを示している。
女性の姿の多用は、女性の方が“産む性”として生と死により深く関わるため、聖なるものを保持しつつ、そのつなぎ目のところにいると考えられるからだろう。
本作は海のシーンで始まり、海のシーンで終わる。海は母の胎内の“イメージ”だ。
死ぬ自由を選択したラモンは、フリアから手に入れた青酸カリを飲み、“内なる海(母の胎内)”へと向かう。
生きる自由を選択したフリアは、廃人となり現実の海を見ている。
フリアと置き変わったロサにラモンは言う。「死後の世界は直観みたいなもの。僕は君の夢(イメージ)の中にいる。愛し合おう。約束する・・・」と。
脚本も演出も文句なし。観客は、映像や音楽の深さ、美しさに浸りながら、”イメージ”について、尊厳死について、愛について、etc.について、さまざまなことを考えさせられる。
観た後、誰かと語りたくなる作品なのに、上映館の少ないのが残念だ。 ★★★★★
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私も一瞬サロメのことは思い出しました。
いやー、おもしろいです。
また読みに来ます。(^^)
なんて、深い解釈なんでしょう。
なるほどなあとうなってしまいました。
自分の書いてあることが恥ずかしくなりました。
また、見せていただきに来ますね。
斬首やギロチンのイメージとはユニークですね。四肢麻痺の人には酷な言葉のような気もしますが。
独創的な感想で面白かったです、またヨロシクw
大事なものを見ていないね。
そういう人生でだいじょうぶかな?
この作品は素晴らしいと感じたところは同じです。(^^)
また遊びに来ます♪
尊厳死に関して、生死を決める判断が非常に難しいと思います。
これからの永遠のテーマになっていくような気がします。
「sea inside」=母なる胎内としたら、「海を飛ぶ夢」と言う邦題はもったいない気がしますね・・・
胎動を聞くラモンの姿、海辺の子どもと戯れるラストシーン、全てがつながっていくような気がしました。死と生もまた。