倭人の文身 2014-05-24 06:15:56 | 邪馬台国 倭人の文身は装飾ではなく、宗教的な神秘的なもので、雲南省から揚子江畔に分布したものが、日本に伝播したものです。 その源流はインドシナ族で、苗族などの文化・習俗の伝播したものです。 鳥居龍蔵氏 『有史以前の日本』『苗族調査報告』
『魏志倭人伝の記録の正確さ』を証明 2014-05-24 06:15:38 | 邪馬台国 『魏志倭人伝』の記録を元に、多くの研究者が発掘された入墨のある黥面や埴輪について研究論文を発表しています。 これらの論文により『魏志倭人伝の記録の正確さ』が証明されました。 設楽博巳氏(東京大学教授)の「男子は大小となく皆黥面文身す-倭人のいでたち」と『イレズミからみえてくる邪馬台国』の要点を紹介します。 「3世紀のイレズミ絵画」に「同種の絵画で最も古いものは岡山県倉敷市上東遺跡の後期後半~中葉、すなわち2世紀の土器絵画」とし、「香川県善通寺市の仙遊遺跡の石棺の蓋に線で彫られた顔」を紹介しています。 1:善通寺市の仙遊遺跡出土 2:愛知県安城市の亀塚遺跡出土、 3:茨城県下館市の女方遺跡出土
黥面の特徴的分布 2014-05-24 06:15:36 | 邪馬台国 ① 2~4世紀にかけて、全国で20遺跡、29個体に描かれた43個の人面絵画が類例として知られています。 ② 人面絵画の共通項は、頬から目頭を通って額に抜ける二つの向かい合う弧線、目尻からでている弧線、虹彩のない目です。 ③ 特徴的分布。 岡山県の平野部と香川県善通寺市、愛知県と岐阜県の境目あたりと愛知県安城市付近の濃尾平野に集中しています。 ④ その間の近畿地方からは一つも出ていません。 ⑤ 線刻人面絵画がなかった近畿地方にも、5~6世紀になり顔に線刻のある埴輪が登場します。弥生時代の入墨はありません。 ⑥ 『古事記』に2ヶ所、『日本書紀』に6ヶ所、合わせて8ヶ所の黥面や文身の記述があります。 5~6世紀のある程度の史実を反映しています。 死刑の代わりの刑罰としての入墨例の報告もあります。 ⑦ 8世紀には公的には、入墨の習俗は無くなりました。
2~3世紀の岡山県南部の黥面-1 2014-05-24 06:15:19 | 邪馬台国 設楽博巳説では、「三世紀の黥面絵画の分布のかたよりは、邪馬台国を近畿地方に置き、その東西に狗奴(くな)国と投馬(つま)国を置いて考えたときに、はじめて意味をもってくる。」としています。 しかし、岡将男氏の『吉備邪馬台国東遷説』で完結すると考えます。岡山市埋蔵文化財センターも、「全国的に多く出土する遺物ではないが、岡山県南部で比較的多く発見」と報告しています。 岡山市 鹿田遺跡 人面土器 弥生後期 高杯 縦 5cm 総社市 一倉遺跡 人面土器 弥生後期 小形鉢 縦 5cm 田益田中遺跡(岡山市西花尻)でも黥面土器の砕片が出土しています。
2~3世紀の岡山県南部の黥面-2 2014-05-24 06:14:59 | 邪馬台国 岡山市 津寺遺跡 黥面土偶 弥生時代後期 『入墨=男性』 倉敷市 上東遺跡 人面土器 弥生後期後半~中葉 紀元1~2世紀頃
古墳・縄文時代と弥生時代の入墨の違い 2014-05-24 06:14:50 | 邪馬台国 古墳・弥生・古墳時代の入墨の変化に注目。 縄文・弥生・古墳時代の入墨の変化は、変化ではなく渡来元の違いと考える。邪馬台国は弥生時代である。 丸谷憲二説
楯築弥生墳丘墓 弧帯紋石人面 2014-05-24 06:14:49 | 邪馬台国 倉敷市 楯築弥生墳丘墓 弧帯紋石人面 弥生後期 人面の楯18cm 近藤義郎説(岡山大学教授)では、「御神体となっている弧帯紋石の顔は、人面の内、目を恐ろしく強調し、頬に入墨状の線を描く邪視文の人面である。」としています。 楯築遺跡は2世紀後半の日本全体の中で最大規模の弥生墳丘墓です。 大量32Kgの朱・特殊器台・5個の立石に注目しています。
香登のお歯黒と入墨 2014-05-24 06:14:47 | 邪馬台国 お歯黒に使用していた黒い色素は、入墨にも使用されていました。 香登のお歯黒の特徴 硫酸鉄(ローハ)とヌルデの木にできる五倍子の粉とを混合していた。 混合物は水を入れると真黒となり、之を房楊枝で歯に塗っていた。 科学的根拠を持った手法であった。山賀礼一説(大阪大学名誉教授) 一般的な黒い色素は「タンニンと鉄の化学反応を利用」していた。 従来の香登のお歯黒起源説 「唐僧鑑真和尚持参の日本隋一の特殊産業である」。 岳陽先生 鷹取田一郎説(台湾総督官房文書課 元お歯黒禁裏御用達家) 『香登のお歯黒』 島村 平成元年 香登お歯黒研究会 魏志倭人伝に「裸国・黒歯国有り」との記録があり、お歯黒は邪馬台国の時代からありました。
間違いの原因調査-1 2014-05-24 06:14:39 | 邪馬台国 3月27日の山南公民館での講演後の指摘 『大伯は「たいはく」と読めるのでは』を調査しました。 「、」が無くなった理由⇒漢音で読むと「たいはく」です。 最初は呉音で「太伯(たいはく)」と表示され、時代が変わり漢音で「大伯(たいはく)」と表示されました。 ① 大伯の「伯」は手元の辞書では「ク」とは読めません。 大伯(たいはく)の大の字が似ているとして、「大伯(オオク)」と読み間違えた人がいます。 ルビを付け間違えた文献を確認して下さい。 『邑久町誌』の著者は、参考文献のルビの付け間違いを発見できませんでした。 『日本書紀下』黒坂勝美編 2004 岩波文庫復刻版
間違いの原因調査-2 2014-05-24 06:14:17 | 邪馬台国 ② オクとタイハクの、二つの地名を一つの地名と間違えた人がいる。 日本書紀の一次資料にルビは付いていません。ルビが無いことが、読み間違えた人が居るの根拠です。つまり、オクの近くに「大伯(たいはく)」地名がありました。全く別の二つの地名を一つの地名と間違えた人がいたわけです。 「日本書紀下」『神道体系古典編』昭和58年 神道体系編纂会
『邑久町史』は何時から間違えたのか。 2014-05-24 06:14:13 | 邪馬台国 太伯(たいはく)地名は吉備国の古代史上最も重要な地名です。 紀元250年頃の地名は「タイハク」でした。 しかし、「オホク」のルビが正しいと思い込み、疑問に感じなくなってしまいました。 『邑久郡誌第一編』 大正6年 ルビ無し 『改訂邑久郡史上巻』 昭和28年 ルビ無し 『邑久町史』 昭和47年 ルビ有り 間違い発生 製作を京都の白鵬会に依頼しています。 間違えた原因 『邑久町史』の著者が備前国の太伯論争を知らなかった為、疑問に感じませんでした。 邑久町長の刊行の言葉もミスしています。
宮崎県諸塚山の太伯山伝承 2014-05-24 06:14:12 | 邪馬台国 諸塚山は高千穂町と諸塚村との境界にある標高1342mの山。太伯山とも呼ばれるそうです。 諸塚山の太伯名は、「太伯を祀ったことから太伯山とも呼れていた」という伝承があるそうです。 間違いとする根拠 宮崎県の弥生時代出土の黥面は縄文様式に近いものです。 ① 宮崎県百出塚(むかでづか)古墳出土の黥面埴輪。 ② 宮崎県下郷(しもごう)遺跡出土の黥面土器 2世紀弥生後期。