地名学では、邪馬台国は岡山です。

岡山市に隠された地名「大伯(タイハク)」があります。大伯地名と鯨面出土で邪馬台国に直結します。

太伯と邪馬台国 『倭人は太伯の子孫説』 邪馬台国吉備説 論争参戦 

2014-05-24 06:25:41 | 邪馬台国
太伯と邪馬台国 『倭人は太伯の子孫説』 邪馬台国吉備説 論争参戦


日本人の祖先が呉の太伯である」という記録は、大宰府天満宮蔵の国宝に指定されている古文書『翰苑』に記録されています。

「倭人は太伯の子孫説」とは、記紀成立以前に中国を訪問した倭国の外交使節が「私達は太伯の子孫であると名乗っていた」との記録です。「呉」とは春秋時代の呉です。この裔が呉太伯です。太伯は句呉(こうご)と号し国を興し呉の太伯と呼ばれました。


倭人は太伯の子孫説の要点

魏は朝鮮半島の北部に楽浪・帯方郡という植民地を持っていました。
帯方郡から1万2千余里、離れたところに女王卑弥呼の邪馬台国がありました。

① 邪馬台国から来た使者たちは、「自分たちは太伯の子孫である」と名乗っていました。

② 邪馬台国の風俗を見ると、男は身分の高さに関係無く、皆入墨をしていました。
  男は一定の年齢になったら全員が入墨をしなければいけない決まりがありました。
  「文身點面 猶(なお)太伯の苗と称す。」『魏志』では「黥面文身」です。點面とは顔の入墨のことです。

③ 『史記』趙世家に「黒歯雕題」とあります。つまり「黒い歯をして額に入墨」をするのが呉人の風俗です。
   お歯黒に使用していた黒い色素は、入墨にも使用されていました。

④ 『翰苑(かんえん)』にたどり着くことなしに邪馬台国説を発表している説は全て間違いです。

邪馬台国の決定条件は3点のみです

① 太伯地名があること
② 邪馬台国を証明する「2~3世紀の線刻人面絵画」が古墳より出土していること

「黥面文身」については、設楽博巳氏(東京大学大学院考古学研究室教授)の論文『男子は大小となく皆黥面(げいめん)文身す-倭人のいでたち』と『イレズミからみえてくる邪馬台国』が一番重要です。    
  設楽博巳氏の古代の入墨研究により特徴的分布が確認されています。
  2~3世紀の線刻人面絵画出土は吉備国のみです。




  3世紀に愛知・岐阜・静岡に移動し、3~4世紀に群馬・千葉・茨城へ移動しています。
  
③ 「お歯黒伝承」があること
  香登の「お歯黒」に注目しました。


この3点の決定条件が有るのは吉備国のみです

つまり、邪馬台国は「岡山県の平野部と瀬戸内海をはさんだ香川県の海岸部」となります。

『魏志倭人伝』のみでは、邪馬台国は見えません。
『翰苑』の「日本人の祖先が呉の太伯である」という記録に林羅山(儒学者)が注目し、徳川光圀の『大日本史』の執筆動機として知られています。

このブログでは隠された地名、太伯の場所を明確にし、隠される原因となった江戸時代の厳しい「太伯論争」を明らかにしています

『倭人は太伯の子孫説』の発想の過程を全て公開しております。

邪馬台国論争の開始

2014-05-24 06:25:40 | 邪馬台国
邪馬台国論争が本格的に始まるのは、新井白石の1716年成立の『古史通或間』です。「魏志は実録に候」と述べています。
  「邪馬台国大和国(やまとこく)説」⇒「筑後国山門(やまと)郡説」。
本居宣長は『古事記伝』で邪馬台国(やまたいこく)と読み、大和朝廷とは繋がらず、九州にあった小国「九州熊襲説」を説いています。

この二人が邪馬台国研究の先駆者です。
明治、 大正、昭和、平成に渡って延々と続く論争の原点です。
明治時代は、内藤湖南(畿内大和説・京都帝国大学)・白鳥庫吉(北九州説・東京帝国大学・1865~1942)の白熱の論争があったそうです。
現代まで長く尾を引く邪馬台国論争は、二人の論争がスタートとされています。

「邪馬台国東遷説」は和辻哲郎(東京大学・1889~1960)が最初です。
邪馬台国は九州に存在し、後に東遷して大和朝廷になったという説です。

邪馬台国畿内説では『吉備国・投馬国説』とされています。

何故、決着しないのか

2014-05-24 06:25:39 | 邪馬台国
江戸時代からの論戦が何故、決着しないのか。 その理由は簡単です。
邪馬台国で無いところを、一生懸命探しても何も出てこない
製造工場で顧客クレームがあり、クレーム原因を調査している。
クレーム発生原因で無い所を一生懸命に調査している状態です。
関係の無い場所をいくら熱心に調査しても、クレーム発生原因が分かるはずがない。
この当たり前のことに気がつかない研究者がいかに多いことか。
これが、邪馬台国論争の現実・真実です。

岡山県史 古代説 『プロは、これが限界』

2014-05-24 06:25:39 | 邪馬台国
考古学上の成果に基づく吉備社会のあり方と、「倭人伝」の記述する三世紀の倭人社会のあり方との間に、何らかの接点を求める必要に迫られる。 (平成2年)

岡山県史古代説です。これが、岡山県の考古学者の限界です。 『プロの限界』です。
岡山県史古代説を補説しました。

昭和51年 国宝『翰苑』復刻出版のことば

2014-05-24 06:25:38 | 邪馬台国
昭和51年1月 大宰府天満宮宮司・文化研究所所長 西高辻信貞氏

当宮所蔵の『翰苑』は、アジア史研究、ひいては古代史研究のなかで重要であり、また「幻の史書」としても高名である。・・・現代では、その解読の困難な『翰苑』に、和文読みの解読本ができることは、古代史、特にアジア史との関連のなかで、一般の研究者から深い理解を得られるとともに、古代大宰府の持つ意味や、文化の伝統を誇る大宰府天満宮の歴史にとっても、非常に重要な意味をもつものと私は考えている。

邪馬台国論への採用
和田英松・橋本増吉博士以下の論文に採用されたとあるが、一般には知られていない。

『魏志倭人伝』と『翰苑』

2014-05-24 06:25:38 | 邪馬台国
『魏志倭人伝』のみを調査しても、邪馬台国の位置はわからない。
邪馬台国の位置決定には、もう一つの古文書『翰苑』が必要である。
「大宰府天満宮」蔵の国宝『翰苑』の解読である。
『魏略』逸文五収載『翰苑(かんえん)』巻第三十 『翰苑』は、「幻の史書」として高名であり、660年以前に成立している。
『翰苑』の「倭人は太伯の子孫説」の地名学による解読が必要です。


『日本書紀私記零本』「姫氏国名者。倭国之名也。」

2014-05-24 06:25:37 | 邪馬台国
南宋の金履祥(仁山・1232~1303)の『通鑑(つがん)前編』への記録。
全18巻。 編者の金履祥は朱子学者。
「日本いう。呉の太伯の後なりと。けだし呉亡んで、その支庶(ししょ:傍流)、海に入って倭となる。」  周の王族の姓は姫氏であった。そのため、周から出た呉も姫姓であった。

『日本書紀』は平安時代に、721年~965年の7回の講書が行われた。
『日本書紀私記』は、 『日本書紀』を講した博士の私記です。
『日本書紀私記零本』に『姫氏国名者。倭国之名也。』と記録されています。
「倭国が「姫氏国と呼ばれていた」という記録です。 
 承平度の講書(936~943年)初見説があります。

太伯論争 消された大伯地名

2014-05-24 06:25:37 | 邪馬台国
『翰苑』の「倭人は太伯の子孫説」の地名学による解読が必要です。
何故、岡山市の太伯地名に研究者が注目しなかったのか。

その理由は、研究者が江戸時代の水戸学による激しい太伯論争を知らなかったためです。
岡山市立太伯小学校に歴史を捏造した太伯地名の由来碑が設置されています。


大伯地名から見える邪馬台国

2014-05-24 06:25:36 | 邪馬台国
① 邪馬台国には「太伯地名と線刻人面絵画」が必要です。
② 太伯地名と線刻人面絵画分布は一致しています。
③ 『魏志倭人伝』の記録を元に、多くの研究者が発掘された入墨のある黥面や埴輪について研究論文を発表しています。
④ 設楽博巳氏(東京大学教授)の論文「男子は大小となく皆黥面(げいめん)文身す-倭人のいでたち」に注目しました。

  「3世紀のイレズミ絵画」に「同種の絵画で最も古いものは岡山県倉敷市上東遺跡の後期後半~中葉、すなわち2世紀の土器絵画」と、「香川県善通寺市の仙遊遺跡の石棺の蓋に線で彫られた顔」とあります。



講演記録-1 山南公民館 郷土史を楽しむ会

2014-05-24 06:25:35 | 邪馬台国
平成26年3月27日(木) 岡山市立山南公民館 郷土史を楽しむ会
テーマ
『太伯と邪馬台国 「倭人は太伯の子孫説」の紹介』2時間講演。
私の纏めは「、」が有ったか無かったか。「、」が無かったら太伯小学校の由来碑がベストです。
「、」が有ったと考えると邪馬台国に結びつきます。
「、」が有ったか無かったか。「大か太か」小学生でも参加できます。「おおいに議論しましょう」でした。
参加者は14人でした。
参加者は誰も太伯伝承を知りませんでした。

講演後の参加者の意見

2014-05-24 06:25:34 | 邪馬台国
① 「、」の有無だけで、こんなに話が違うのか。しかし、始めて聞く話だ。にわかには信用できない。
② 『「、」の無い大伯でも、タイハクと読めるのでは』との指摘がありました。

岡山県立図書館へ直行しました。大修館書店の『大漢語林』を確認しました。
「大」の漢音は「タイ」、呉音は「ダイ」です。
つまり、最初は呉音ですから太伯と書き、漢音の時代に「、」の無い大伯(タイハク)と表記が変更されました。
国語学の問題になりました。




講演記録-2 吉備芸文会

2014-05-24 06:25:33 | 邪馬台国
平成26年4月23日(木) 吉備芸文会 テーマ 『太伯と邪馬台国 倭人は太伯の子孫説』の紹介-Ⅱ
『吉備邪馬台国東遷説』の岡将男氏、「テレビせとうち」の大田弘之氏にも聞いていただきました。
講演後、「辞書を正しいと考えるな」という指摘が有りました。
しかし、「大伯の読みについては、辞書は正しい。」という結論でした。

講演記録-3 環座の会例会

2014-05-24 06:25:32 | 邪馬台国
平成26年5月9日 第33回HIRAKIN環座(わざ)の会
  岡山プラザホテルにて。参加社 130社

  講演会
講師 先史古代研究会 丸谷憲二
テーマ ① 『太伯と邪馬台国 倭人は太伯の子孫説の紹介‐Ⅳ』
      ② 『草ヶ部 大廻り小廻り山城の考察』 予告編


講演記録-4 先史古代研究会例会

2014-05-24 06:25:31 | 邪馬台国
平成26年6月度 先史古代研究会 例会
  平成26年6月19日(木)13時~
  ゆうあいセンター2階 研修室分室1
  テーマ
  『太伯と邪馬台国 倭人は太伯の子孫説』- 
邪馬台国吉備説 論争参戦
この説は、先史古代研究会の定期活動の中から生まれた全国にPRすべき新説です。

吉備国に邪馬台国   瀬戸内市(旧邑久郡)の歴史 

2014-05-24 06:25:24 | 邪馬台国
平成26年2月11日に先史古代研究会の高島訪問シリーズとして、岡崎春樹説により「幸(高)島」を案内していただきました。
著書が参加社全員に贈呈されました。
本のタイトル『吉備に邪馬台国』に参加者は驚きました。
岡崎春樹氏は『太伯と邪馬台国は、皆が知っている常識』 として丁寧に説明していません。
しかし『倭人は太伯の子孫説』は地元の人は誰も知りません。 (平成26年3月27日の山南公民館での講演で確認)
太伯(タイハク)地名は、吉備国の古代地名として最も重要な地名です。