消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.170 ハイエク、シカゴ大学、モンペルラン協会

2007-09-26 23:41:06 | 金融の倫理(福井日記)


 モンペルラン協会(Mont Pelerin Society)は、市場経済と開かれた社会(open society)の促進を目的として設立された国際組織である。

 一九四七年四月一〇日、フリードリッヒ・ハイエク(Friedrich Hayek)がスイスののモン・ペルランに世界から三九人を招待した。招待された人のほとんどは経済学者であったが、歴史学者、哲学者もいた。国家の現状、古典的自由主義(classical liberalism)の運命にならんで、世界を覆うマルキストやケインジアンたちとの闘争が会議のテーマであった。

 招待された人たちの中にはヘンリー・サイモンズ(Henry Simons)、ミルトン・フリードマン(後に会の会長になった)、元、米国のフェビアン協会員でフェビアン社会主義者であったウォルター・リップマン(Walter Lippmann)、「ウィーン・アリストテレス協会」(Viennese Aristotelian Society)の指導者、カール・ポッパー(Karl Popper)、オーストリー学派の経済学者、ルードウィヒ・フォン・ミーゼス(Ludwig von Mises)、一九四〇年~四六年の英国王立協会(the British Royal Society)会長を務めた後、イングランド銀行理事(senior official)、ジョン・クラッパム卿(Sir John Clapham)、オーストリー・ハンガリー帝国皇帝(the Austro-Hungarian throne)の末裔、オットー・フォン・ハプスブルク(Otto von Habsburg)、四〇〇年の伝統をもつイタリア出身の「ツルン・ウント・タクシス」(Thurn und Taxis)家の末裔でバイエルン(Bavaria)に本拠をもつ同名の老舗企業のマックス・フォン・ツルン・ウント・タキシス(Max von Thurn und Taxis)等々、錚々たる顔ぶれであった。

 中世の貴族、現在の上流階層、そしてオーストリー学派、つまり、上流階級にとってのよき時代のよき伝統を継承する面々だったのである。

 古典的自由主義とは、現代的な民主主義や共和主義を指すのではなく、貴族たちがもっていた高尚な心の自由を意味する概念であるように思われる。
 
 ここで、閑話休題。

 "Thurn und Taxis"のことである。この一族は、ハプスブルク家に代々仕えてきた大富豪である。

 ただ、正確な発音をまだ発見できないでいる。調べた資料はすべてこの原語のままで表記されている。ここでは、「ツルン・ウント・タクシス」と表記することにする。この三語で一つの姓である。

 一三世紀、イタリア、ロンバルディア(Lombardic)地方のベルガモ(Bergamo)近くに「タッソー」(Tasso)という家族がいた。タッソーとはアナグマの意味である

 一族のルジアーノ・デ・タシス(Ruggiano de Tassis)イタリアで郵便会社を設立し、一四八九年には、ジアンネット・デ・タシス(Jeannetto de Tassis)が、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝、マクシミリアン一世(Maximillian I, 1459~1519)から郵便業務の長に任じられ、以後、一族は馬による郵便配達の技術を発展させ、一五一六年にはブリュッセル(Brussels)に拠点を定め、ローマ、ナポリ、スペイン、ドイツ、フランスと、ヨーロッパ一円の郵便業務を独占した。いまでも一族の名前を冠した駅馬車ゲームがドイツでは人気がある。

 一六二四年、一族は伯爵(count)に列せられる。そして、一六五〇年一族の姓を「ツルン・ウント・タシス」に変えた。「ツルン」とは、塔を意味するイタリア語の「トレッタ」(torretta)がドイツ語の「ツルム」(trum)になり、さらに訛って「ツルン」(thurn)になったのだろうと推測される。「タクシス」とは文字通り「税金」の意味であろう。一族がハプスブルク家の徴税業務を請け負っていたことの名残であろう。

 レーゲンスブルク(Regensburg)にある一族の館は、英国のバッキンガム宮殿よりも大きい。邸宅の庭は夏になると一般市民に開放され、ミック・ジャガー(Mick Jagger)やマイケル・ジャクソン(ichael Jackson)などの演奏会が開かれている。

 一八六七年、郵便事業はプロイセン政府によって国有化されたが、ビール醸造所を買い占めた。いまでも、バイエルン州に一族の名前を冠したピルスナー系のビールは有名である。一九八八年にはノンアルコールのバイスビアー(白ビール)をライ麦から醸造することに成功している(Wikipedia、http://www.geocities.jp/regensburg_palme/rgbg/thurnundtaxis.htmlhttp://structure.cande.iwate-u.ac.jp/miyamoto/writing/essayreport/germtrv.htmhttp://www.austria.info/xxl/_area/540350/_subArea/570574/home.htmlなどのよる)。

 もうお分かりであろう、ハイエクの理想とする自由主義とは、ナポレオン以前の皇族たちも享受できる自由だったのである。

 フリードマンの義兄にアーロン・ディレクター(Aaron Direcor, 1901~2004)がいる。アーロン・ディレクターの妹、ローズ(Rose)とフリードマンは一九三八年に結婚している。ディレクターは、経済学におけるシカゴ学派を隆盛させた功労者であると言われている。

 一九〇一年、ウクライナ(Ukraune)チャルテリスク(Charterisk)に生まれ、米国に移民した後、第一次大戦後、エール大学(Yale University)入学、第二次大戦中、戦争省(the War Department)と商務省(the Department of Commerce)に勤務、一九四六年シカゴ大学ロー・スクール(the University of Chicago Law School)に採用される。著作は少ないが、シカゴ大学の発展に大きな貢献をなしている。一九五八年にはノーベル経済学賞受賞者(一九九一年)ロナルド・コース(Ronald Coase)と協同してthe Journal of Law & Economicsを創刊した。シカゴ大学はすでに一八九二年からthe Journal of Political Economy をもっているが、ディレクターは、法と経済学の接合を目指したのである。

 ディレクターが、米国の出版社のことごとくが断っていたハイエク(Friedrich Hayek, 1899 ~1992)の『隷属への道』(Hayek, F.[1944])をシカゴ大学から出版させた。



 
当時、ディレクターはまだシカゴ大学ではなく、上記のようにワシントンに勤務していたが、シカゴ大学出版部とのコネクションがあったし、なによりもすでにシカゴ大学にいたフランク・ナイト(Frank Knight)と親しかった。このこともあって、シカゴ大学出版部にこの本を出版させたたのである。

 ディレクターは、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(London School of Economics=LSE)に留学していて、そのときにハイエクと面識ができた。ディレクターは、同時にモン・ペルランの開催に協力することになる。とくにシカゴ大学のメンバーをこの会の会員に勧誘することに成功した。シカゴ大学関係では、上記のフランク・ナイトとジョージ・スティグラー(George Stigler)がいた。もちろん、ディレクターも会員であり、その強い勧誘でフリードマンも会員になった。そして、フリードマンは、第一回のの会議に招待されたのである(http://www.pbs.org/wgbg/commandingheights/shared/minitextlo/int_miltonfriedman.html)。

 

 引用文献

Hayek, Friedrich[1944], The Road to Serfdom, Routledge Press; the University of Chicago Press.
     ハイエク、F. A.、西山千明訳『隷属への道』春秋社、一九九二年。


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