レビュー

音楽や書籍に関するフェイバリットの紹介とそのレビュー。

世界は細菌にあふれ、人は細菌によって生かされる/エド・ヨン

2024-02-21 10:32:48 | 日記


ぼくらはマクロなワールドに生きてて、それはもちろん、ミクロなワールドをベースにしてる。
層構造、という言い方が正確に当てはまるかどうかはわからないけど、概念的にも、物理的にも、それは階層を形づくるシステムだ。
岩と水しかなかったこの惑星の最初期、けし粒のような生命が出現すると、その増殖が海底を覆ったものと思われる。
その進行が陸地に達しても、同様だったろう。
目に見えないほどの細密なパウダーとも言うべき生命体(微生物・細菌)は、あらゆる環境に進出して浸透し、物理的マクロな存在の全表面をコーティングし尽くしたんだ。
やがて、そこに植物が出現すると、その露出面も細菌に覆われる。
地表面を覆う細菌のマットの下から草木は立ち上がるわけだから、当然ながら、細菌のフィルムをまとうはめになるわけだ。
さらに動物が現れ・・・以下同文。
ぼくらの世界は、ぼくら自身を含めて、細菌に包まれてる。
動物の体表面を表とすれば、内臓は裏となるが、トポロジカルにはこれは単純なドーナツ構造なので、その体内にも細菌が満ちることになる。
ぼくら人類の、少なくとも外気に触れる(内臓を含む)部分では、細菌のマットが表層部を形成しており、ぼくの肉体そのものが独立した環境となって、ひとつの生態系を維持してるんである。
いやはや、なんというえげつない宇宙観・・・いや、この世界の実相だろう。
ぼくのからだは、小さな生物たちの集まりなんだよ。
しかもそれは、ただの住処となってるだけじゃない。
ぼくと彼女たちとは、共存共栄してるんだ。
彼女たち・・・愛すべき小さきものたちは、この地上に場所を確保するために環境と共進化し、好ましいコミュニティを保つために敵と戦い、宿主にアジャストするために仲間同士で結び合い、勢力を保持し、あるいは拡大し、さらに進化をつづける。
その営みこそが、ぼくの中で行われてる消化と免疫という機能なんだ。
その系こそが、ぼくを生かしてくれてるんだ。
ぼくの中に彼女たちがあふれてる・・・どころじゃなく、彼女たちはぼくの肉体そのものなんだった。
彼女たちの多種多彩・多様な系は、ぼくに個性を与える。
体内に張り巡らされた彼女たちのコミュニティ(マイクロバイオーム=細菌のマット)を他人のものと入れ替えると、人格が変わってしまうほどの、それは自身のアイデンティティでもある。
いやあ、深い・・・
またまた宇宙の深層構造を目の当たりにしてしまった。
科学とは、あるいは世界のリアルとは、どこまでいっても哲学で、ファンタジーで、色即是空で、先が果てしなくつづく迷路で・・・まったく、面白くできてるもんだなあ。

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動物意識の誕生/シモーナ・ギンズバーグ、エヴァ・ヤブロンカ

2023-07-27 10:30:30 | 日記


太古のむかし、石ころが転がって有機物になり、高分子に結合して自律的な運動システムを構築し、営みを洗練させて、ついに意識を獲得した。
素朴な元素と自然法則のみの世界がいかにして、エントロピーを逆行させるがごとき魔法、すなわち「生命」を手に入れたのか?
・・・と深く深く考え詰めてまして、分子生物学やら、脳神経科学やら、生命発生学やらの、「オカルトやスピリチュアルじゃない」真っ当な自然科学書を読み込んでます。
この本は、生命が獲得した神経系(外界への接触→理解・反応システム)による無制約連合学習・・・つまり、感覚情報の一元化とカウンターアクションの果てしない繰り返しによってもたらされた臨機応変な判断能力こそが意識につながった、と論じてます。
体表面全体にめぐらせた各感覚器が集める単純刺激を中枢部で束ね(インプット)、複雑・緻密化させた情報をもとに外への働きかけを決定する(アウトプット)という繰り返しによって、神経系は精緻化・強大化・高度化していき、ついには外界とわたくしとを区別するようになり、自己に至る、というわけです。
生命とは曖昧なもので、どのメカニズムから先が外世界からの独立と言え、どの振る舞いから先が生きるという営みと言え、自律機械の創発がどの階層に達すると自己が完成したと言えるか、ってラインがわりとあやふやです。
高分子(タンパク質や核酸)の集合体たる細胞をたくさん連結させれば生命か、と言えばそうではなく、もぞもぞと原子的な摂食機械がうごめいて自己完結の循環系をつくればそれはパーソナリティの確立か、と言えばそうでもないようで、そこには難しい哲学的な議論が関わってきます。
この本は、アリストテレスの言う理性霊魂(論理的に思考する能力と、客観的世界の概念形成)を神経系の到達点として獲得することこそが、「わたくし」をつくり出す、と論じてます。
生命の発生の瞬間でも、生きるという活動の開始位置でもなく、生物の中に魂が生じたタイミングはいつか、という部分に論点を絞ってるわけです。
興味深いのは、タンパク質間の電気と化学物質のやり取り(脳活動)がオンラインだからこそ、自分という意識は生じ、維持される、と断じてるところです。
感覚器が外界の情報を、例えば「写真撮影」で取り込んだとしても、そこへの働きかけをする頃には外界の状況は変化してるわけで(外敵を発見した頃にはすでに自分は食べられてる、とか、獲物を見つけた頃にはすでに取り逃してる、とか)、意味がありません。
「ビデオ撮影」として外界の動きを捉えても、それは過去の出来事であるために、まだタイムラグが生じます。
判断活動がオンラインであるとは、つまり「未来を予測する能力を持つ」ことであり、ボールをキャッチするには、ボールの軌道の先回りをし、グローブをひろげたところにボールが落ちてこなければならないわけです。
動物意識は、未来を予知してるのですよ。
考える、とはそういう作業なのです。
意識メカニズムをよくここまで洗練させたなあ、生命進化よ、とうなずかされる一冊です。

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神は妄想である/リチャード・ドーキンス つづきのつづき

2022-12-21 10:23:31 | 日記


太古の昔のひとは、太陽を崇めました。
そこにおわす神様に祈れば、多くの実りを与えてくださる「かもしれない」し、恵みの雨を降らせてくださる「かもしれない」ので、そりゃ一心に祈りました。
なんなら、しょじょを何人か殺して捧げものに・・・なんてことまでやってました。
しかし実際には、太陽神さまが祈りに応えてくれたことは、科学的に言えば「一度もなかった」のです。
祈りの価値たるや、絶無!
天候なんて、核融合の力で水素をヘリウムに変換する熱天体と、気圧変化による大気中の水分量の問題にすぎないのですから。
神様はそこにはいなかったわけです。
科学が発展した(人間の知性が宗教のそれをはるかに上回った)現在、「神様に祈れば望みは叶うかも」なんつったら、それはうそであり、事実のねつ造であり、詐欺行為となります。
が、これがなんの問題もなく受け入れられてしまうのがこの社会なのですね、宗教団体のロビー活動ってすごいわ。
これに対し、「神様、いなくね?」「つか、そもそも神様いらなくね?」と問いかけるのが、ドーキンスです。
神様が世界の真実を教えてくれないとなれば、神様の価値ってなに?存在意義ってある?というわけです。
ここからは、宗教の教義というよりも、世界観の話になります。
例えば、少なくない宗教が、ひとが死んだ後は肉体から魂が抜けて素敵なとこへ連れていってもらえるかひどいとこへ突き落とされるかだ、としてます。
これは事実とは言えないでしょう。
そんなとこに往って帰ってきた人物がいない以上は、科学的に立証できませんから(←宗教にとって数少ない付け入るチャンスです)。
しかしこれは、道徳問題として考えることができます。
「いいことをすると天国へ、悪いことをすると地獄へ」問題は、言いかえれば、「神様が見てるからこそ、ひとはいいことをし、悪いことをしない」という、第三者監視システムなのです。
が、この抑止力もすでに科学技術が解決してまして、今や神様の目の仕事は、街角の防犯カメラが代行してくれてます。
ここでも神様は必要とされなくなってるのです。
が、そもそも、「神様が見てるから悪いことをしない」なんて考え方の人物は、善悪観が狂ってますよね。
神様の目(防犯カメラと言ってもいい)なしに悪事に及ぶのがこらえられないというのなら、信者はみんな心根が卑しい人間ということになります。
信者でない人間は、神様に見てもらってなくても悪事を我慢できるのですから。
さらに言えば、地獄の存在は、天国にいった者が悦に入るために設定されたような場所で、教会は「地獄をのぞき見にいく権利」を上層部に発行したり、お金を出せば罪が帳消しになって天国にいけちゃう「免罪符」で大もうけをしたりしてまして、こんな連中がよく道徳なんて言葉を吐けるものだと感心させられます。
バチカンなんて腐り果ててるわ・・・というのが、いやぼくが自説で言ってんじゃなくて、ドーキンスがそういうふうに書いてます(同感ですが)。
こうして、神様なんてクソだからどんな形のものでも拝めりゃいーわ、と既存の宗教への反発で創始されたのが、わりとメジャーになりつつある「空飛ぶスパゲティモンスター教(字面通りの怪物を崇めようというムーブメント)」で、福音書まで書き上げるその諧謔的なバカバカしさによって、多くの信者を集めて(ウケて)ます。
が、こんなカウンター宗教においても、教義の方向性による内部分裂が起き、宗教改革がはじまってるという状況で、やっぱし宗教ってあかんな、どうやっても堕落しやがんな・・・というのが、ドーキンスが出す結論のようです。
さて、いよいよキリスト教における最大の急所である「がんばって祈れば、最後の審判でしあわせな場所が約束される」問題です。
これはもちろん、勢力拡大と奴隷獲得のためのえさ(あるいは脅し)と考えるべきで、真実味はありません。
無宗教の人間がこの文面を要約すれば、「教会の言うことを素直に聞くひとは天国にいけて、従わないひとは地獄に落ちる」と読めます。
そこに理性はなく、考えることを放棄した挙げ句のぼんやりとした雰囲気があるだけです。
ここまで延々と書いてきたことの証左に思えますが、いかがでしょうか?
確たる人間性を取り戻し、奇妙で根拠のないくびきを逃れ、現世にいる間にしあわせを獲得できるように主体的に考えて、今いる環境と時間を自由に生きるべきなんじゃないですかね?(これはドーキンスじゃなく、ぼくの出す結論です)
死んだらどうなるか?のぼくの考え方は極限まで科学的で、くわしくは別のサイトに書いてますので、よかったらご参考にどうぞ。
真理は、宗教とはまるっきり別のところにあるのでした。
おわり。

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神は妄想である/リチャード・ドーキンス つづき

2022-12-20 09:48:48 | 日記


ドーキンスは、神が存在しないことの科学的な立証を試みます。
非常に逆説的ですが、神の存在に科学的な裏打ちを与えれば、すなわち神は存在しないことになります。
神が座した場所に、今度は科学が本尊として置きかえられるわけですから。
というわけで、神様が成したみわざのすべてを、科学で説明します。
例えば、この宇宙を創成したのは神様とされてますが、科学においては、それは「ビッグバン」という現象に帰せられます。
けつろん、神様=科学
人類は神様が誕生させたものとされてますが、科学においては、それは有機物からの創発と適者生存の進化論で説明がつきます。
けつろん、神様=科学
要するに、科学を用いると、神様の介在によるあやふやなごまかしが必要なくなるわけです。
ところが、こうして世界から謎が消えていくと、宗教は困ります。
メシの種がなくなりますから。
そこで、教団による科学の取り込み(教義と最新知識のすり合わせ)がはじまります。
無理を承知で。
「世界のはじまりは数千年前!」と読める聖書ですが、数万年前、数億年前の化石が発見されて世界の長大な歴史が明らかなものとなると、「そんなマジックも神のみわざ!」としてしまう柔軟さときたら。
ビッグバンが確実なものとなってさえ、バチカンは「神が世界を生み出したもうた証拠!」としてしまうので、その胆の太さには脱帽するほかはありません。
懺悔して改心すればいいのにね(つか、懺悔させて改心させてなお殺しまくった科学者たちに謝ってほしい)。
「化石による進化過程のミッシングリンク(例えば、シッポのある種からシッポのない種への移行期に、中間種が存在しない)があることをバチカンは大喜びするが、その間の化石が見つかると、ミッシングリンクが二つに増えたことを大喜びする」という冗談がありまして、なるほど信仰的思考とはかくや、と深く納得させられます。
また、世界で最も権威あるキリスト教学者は、「広島で死んだ人間が一人でも少なかったら、そのために祈る価値が下がっただろう。あの死者の人数は、神に祈るために必要だった」とまで言ってまして、その見苦しいレトリックには際限がありません。
しかし、宇宙の大構造から、ミクロ世界での素粒子の振る舞い、生命進化の綿密なメカニズムまで、たいがいの自然法則が明らかとなりつつある今、果たして神の立場は守られるべきなのか?とドーキンスは張りきります。
神は完全!聖書こそが正しい!科学はそれに反するから死ね!・・・は、もう通用しないことが明白ですので。
神様は決して間違えないものらしいので、間違ってるのは人間の理知の方なのでしょうか?
その点の冷静な判断が欠けてるために、神様を信じ抜く人間が望むのは、科学がこれ以上に発展しませんように!の一点に尽きるわけです。
神様を信じる根拠が、それによって揺らぐわけですから。
神様が間違っちゃうわけですから。
なのに最新科学によれば、神様の知識は(聖書は、とするべきか)明らかに間違ってるので、教団サイドにとっては我慢がならないわけです。
しかしそもそも聖書は、この世界の構造、自然現象の基本法則についてまったく無明な一介の人間が書いた、いわば「創作の物語」です。
世界の謎の解説を神のみわざとしてふんわりと回避してるところにこそ、聖書の真実味があったわけです。
それは、ある時代には通用しました。
が、謎の部分を科学が解明してしまえば、「聖書を信じよ」というサイドの人間には立つ背がありません。
というわけで、現在における宗教の仕事は、まだ解き明かされてない謎探しと、科学へのイチャモンづけが主なものとなってしまうわけです。
つづきます。

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神は妄想である/リチャード・ドーキンス

2022-12-19 10:47:49 | 日記


科学にとって、キリスト教とバチカン、そしてその頭目である教皇は天敵です。
いかなる罵詈雑言を浴びせても飽き足らないほどの煮え湯を飲まされてきましたし、実際的に人類の発展の重荷になって知性の展開を妨げてきた歴史があります。
そんなわけで、遺伝子学の巨人・ドーキンスがひと肌脱ぎ、「俺が言ってやる!」と一冊丸ごとの罵詈雑言をぶちまけてます。
上の教団の名は、「科学」の反義語として使ってもやぶさかでないもので、団体自体が理知の対岸にいると言っていい存在です(自分たちの口からも、「ひとを惑わせる理性を破壊せよ・ルター」「考えることをやめよ・聖アウグスティヌス」などなど、数々の頭の悪い発言が知られてます)。
科学者を「賢い」とするなら、この教団は「進歩を邪魔するバカ」「体制サイドにふんぞり返る問答無用の乱暴者」という、ドーキンスによるキャラづけです。
というわけで、「神」と銘打たれたこの本ですが、ドーキンスの舌鋒の矛先は、もっぱら憎きキリスト教へと向かってます。
現代においては、イスラム教が悪の権化のように(西側では)受け取られがちですが、キリスト教ほど独善と強権で民衆をいたぶり、奪い、殺してきた宗教は皆無で、そのおびただしさの規模は他教と何桁も違ってきます。
中でも、異端思想として最もひどい目に遭わされたのが科学者で、自然の法則を探ろうとしたり(現象に法則などない!自然とは神が自由自在に動かすもの!)、宇宙の真実に迫ったり(天上界は神の司る世界で不可侵!)する者は、容赦なしに拷問、迫害、挙げ句の果てには火あぶりにされてきました。
要するにキリスト教の本質とは、「聖書のみを信じろ!」「教義に反する言動をするやつは死刑!」というファシズムなのです(でした、と言いたいけど、今なお改善には遠いようです)。
人々の知識のすき間を粗探しにし、そこに眠る謎を「神」という概念で満たすことが彼らの企てです。
だから、本当にかしこいひとに余計な仕事(自然法則の理解)をされると困るのですね。
というわけで、科学者は目の敵にされ、徹底的な弾圧を受けるわけです。
当然のごとく、世界最高の知性のほとんどは宗教を疎んじてるというデータが出てまして、これによって、信者同志のカップルから遺伝的に賢い子が生まれる確率は低いというカガクテキな結論も導き出されます(彼らにはキセキを信じるしか方法がないようです)。
いやいや、冗談じゃなく、キリスト教の新知識への拒否感、新文化への排他性、そして聖書への執着といったら、尋常ではありません。
その点をドーキンスは、例によってありったけの証拠を積み上げ、ねちっこく論じ、あらんかぎりのレトリックを尽くしてコケのめします。
これが実に正鵠を射ていて、完全に納得させられ、痛快なのですね。
ぼくら無神論者の溜飲も下がりますが、むしろ、な〜んにも知らずにただ十字架をありがたがって手を合わせちゃってる信者さんにこそ読んでもらいたい本です。
ドーキンスは、腹に据えかねるこの教団の悪事の数々を、世に周知させたいという意欲に突き動かされてるのです。
「違う考えを持つ者を自分たちの立場に服従させようという振る舞いは、いったい何様のつもりなのか」「暴力と脅しで教義をひろめてきた連中の、どの口が道徳的信念を言うのか?」という言葉に象徴されるように、彼の怒りは宗教指導者に向かいます。
歴代教皇(法王)の傲慢、信者の隷属と無知であることの強要、そして部外者に対する迫害のえげつなさ(史実)ときたら、まるでブラックジョークに思えるほどです。
その道徳意識は、完全に内向きのものなのです。
聖書が言うところの「愛せよ」は、信仰の仲間に向けてのみの話で、信仰心のない者への「懲罰」と征服意欲ときたらすさまじいものがあります。
それもそのはず、聖書は、もっぱら「他者を滅ぼせ」の指示書という構成を取ってるのです。
実際に、聖書の「ことごとく滅ぼすべし」の言葉を愚直に行動に移したヒトラーは、神の名においてユダヤ人(キリスト殺しでおなじみ)を誅滅し、良心の呵責を感じることなく皆殺しを行うことができたわけです(教会もまたそんなナチスを支持しました)。
聖書はさらに過激な内容になってまして、中身を少し勉強したぼくも、そのエピソードのひどさ、くだらなさ、訳のわからなさ、気色悪さにはあ然としたものです。
信者はちゃんとこれを読んで理解した上で信仰してるのか、マジで謎ですわ。
しかしこのへんもまた、「聖書は完全なので、読んで、はて?と思う者は勉強が足りんか、解釈が間違ってる!」と教会サイドのレトリックは冴え渡るので、空いた口がふさがりません。
とにかくこの宗教は、「信じよ」が最初にきて、「考えるな」とつづき、「祈りなさい」で決着をつける方法論を金科玉条として頂いてるので、対処のしようがないのですね。
ぬる薬がない。
そして彼らの振る舞いからわかるのは、宗教が愛するのは宗教そのものであり、宗教が罰したいのは反道徳ではなく、反宗教(自分たちにとって気に入らない個人的な思考や行動)であるということです。
彼らは延々と自分の周囲を回りつづけ、進展できないのです。
仏教は、倫理体系、人生哲学としての体裁を採ってますが、キリスト教は、「祈れ」「信じよ」の他にはなにも教えてくれない空疎なものなので、その意味で、人々のオツムから理性を排除する必要があるわけです。
・・・と、ドーキンスは書いてます、ぼくが言ってるわけじゃありません。
つづきます。

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哲学がわかる形而上学/スティーヴン・マンフォード

2022-10-05 11:26:15 | 日記


物理学を学びたいという以上は、哲学方面もかじっておかねばなあ・・・
そう考え、最も先鋭で極端で典型的と思える形而上学とやらに、いよいよ手を伸ばしてみたのだった。
形而上学ってのは、存在の絶対的な根拠を思惟のみによって考究しようという学問。
ざっくり言えば、この世の森羅万象を科学実験抜きで考え詰める試みと言えようか。
「科学実験抜きで」と今言ったのは、単純に形而上学が創始された頃に科学実験なんてものがなかったから、という意味に過ぎない。
つまり形而上学とは、イマジン学(想像してみて・・・)だ。
物理学を含む自然科学は、昔、哲学と一体だった。
というか、哲学こそが科学だった。
科学的根拠なる概念がまだ生まれる前のことだから、当然、頭の中でアイデアを練り上げ、より説得力のある疑似真理を構築していくしかない。
ただ、その作業の中では、神様や魔法などの超自然現象を用いるのは禁じ手。
この世界の舞台裏は、いったいどういう造りになってるのか?
この現象の大元には、いったいどんなカラクリがあるのか?
そのへんを、純粋な理論で説明していきたい。
形而上学は、そんな厳密なルールのやつなのだ(と思う)。
というわけで、古今、「存在」なるものを定義するいろんなアイデアが出されたわけだ。
「円とはなにか?この世に存在する円をすべて集めて捨て去ったら、円はなくなるか?」なんてことから、「全体は部分の集まりか?だとすると生命は、肉と骨で説明できるか?」とか、「無は存在するのか?」「時間はいつ開始されたのか?」「心とは?」なんておなじみのものまで、なかなか興味深い。
が、やはり考え方自体が古めかしく、説明の論拠が「アイデア」であり、帰納も演繹も「曖昧なもの」をベースにした「一般的にはこうであろうから」的な文体が許されるために、軽薄な印象は否めない。
理屈の底に、定理が置かれてないのが致命的。
そんな作業の成果は、物語化され、奇跡と結ばれて宗教になっていくわけだけど、そうした展開の一方で、真実を実験によって立証する「サイエンス」というものが生まれ、自然現象はリアリズムによって説明できるものになっていく。
最新の科学は、哲学が思い描いた世界像に追いつくどころか超越して、宇宙を具体的かつ細密に解明してしまうまでに充実している。
時間・空間の概念や、生命現象、果ては「我思う、故に我あり」までが、現代では素粒子の振る舞いで説明され、広く理解されている。
人間の頭脳の創造性は、実験科学が明らかとした現実に、遠く及ばなくなってるわけだ。
形而上学がたどり着いた摩訶不思議な世界の構造は、量子力学が示すさらに奇妙奇天烈な現実世界に飲み込まれ(すっかり包含された)、圧倒されつつあるのが現状なんではなかろうか?
そんなわけで、「それ知ってる」「それももう解明されてる」「そこもすっかり科学に追い越されちゃってる」とツッコむ作業に明け暮れる、わびしい読書となってしまった。
が、やはり人間のイマジネーションは面白い。
着想から矛盾をひとつひとつ排除していき、自然現象に説明の土台を築こうとした形而上学の作業過程は、途方もない苦労と面白さを伴ったにちがいない。
深い、深いのう・・・考えよる、考えよるわい・・・
高みに立って、そんな読み方をした。(いやらしい読者だ)
が、やはりこの時代においては、古くて甘くてシャビーだ。
この時代に哲学が生き残るのは、やはり難しそうだ。
その説明の多くは、すでに科学がやりきってしまってるのだから。

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科学とは何か?/カルロ・ロヴェッリ

2022-06-11 18:20:54 | 日記


ミレトスのタレスは、どの文献を読んでも「哲学者第一号」「自然科学の開始者」みたいに紹介されてます。
その弟子に、アナクシマンドロスというのがいまして、この人物の思想展開を軸に、神々が統べた世からいかに自然科学が起こり、科学(物理学・数学・生物学)へと変遷を遂げていったのかを考えていきます。
その時代までは、「自然とは神さまの意思の反映である」という考え方が一般的・・・というよりも、そう理解するより他はありませんでした。
雷はゼウスの怒りの表現、日食は不吉なことが起きる前触れ、みたいなやつです。
そこにタレスが現れ、歴史上ではじめて「あらゆる物質は水の変化した形である」と言いだしました。
自然を、神さま抜きに説明しようとしたのです。
ところがタレスは、その結論に考え至ったことをゼウスに生け贄を捧げて感謝するような人物だったので、その弟子のアナクシマンドロスが「結局、神さまかよ!」とツッコんで反抗し、創始したのが科学だったわけです。
アナクシマンドロスは、自然の観察から正確に、「雨は川や海から蒸発した水が大気中で冷えて落ちてくるだけ」「大地は無限のひろがりではなく、巨大な空間に浮かんだ土の円盤(ちょっと惜しい)」として、現象の説明から神さまの介入の一切を取り除こうと試みました。
こうした考え方が広く行き渡ることで、ギリシャ文化は花開き、現代で知られていることの大半はギリシャ時代にすでに理解されていた!というほどの科学的発展を遂げたのです。
ところが、ここでおっちょこちょいなローマが台頭してくるのですね。
ローマ時代は、非難を覚悟で言えば、キリスト教が文化・文明をぶっつぶして、教養をサルのレベルに先祖返りさせた時代、です。
マルクスが「宗教は権威者のためにのみ機能する」と達見を披露してますが、帝国と手を結んだあの教団は、科学を魔女扱いし、徹底的に弾圧したのです。
宗教とは要するに、その教義を「完璧で絶対的で最終的!」と誇ってはばからない、限りなく無知な組織ですから、世界の真実が次々に明らかにされると非常に困るのですね。
特に、教義の反証が出て確たる論理立てをされると、「逆に間違ってる感じになる(実際に間違ってるが)」権威サイドの信用が失われ、恥ずかしい目に遭うことになるので、どうしても許せないわけです。
そこで、こざかしい科学者など殺せ、肉を削いで、八つ裂きで、火に炙って・・・と短絡的な大虐殺をしはじめるわけですが、この行為にも知性はどこにも見出せません。
というわけで、一千年の長きにわたり、科学は虐げられ、教団によるうそ一辺倒の無理強い知識が幅を利かせるせいで、人々はアホのまま過ごすしかなかったのです。
ちなみに、紀元前3世紀のアルキメデスが計算によって小数点以下6桁までを正確に弾き出していた円周率は、ローマ時代になると3,1から先がもうあやふやな数字となってしまいました。
そこにようやく光を差したのが、ルネッサンスと啓蒙思想です。
ルネッサンスという言葉は、新しい芸術運動の勃興という小さな意味に解釈されがちですが、実は「再生」と訳せまして、要するに、ギリシャ時代に育まれた知性と理性を取り戻し、世界の真実をきちんと探ろうではないか、というムーブメントです。
こうしてようやく、地球は回りはじめ、生物は進化を開始したのでした。
科学は、新たな発見のたびに前説を覆すしかないという性質上、「常に間違いつづける」宿命を背負ってます。
しかしそれは、「常に正確性の限界へと更新をしつづける」「真実に近づきつづける」姿勢の裏返しでもあります。
完璧で絶対的で最終的なものは、人類の歩みを止めます。
史上初の哲学を生み出したタレスでしたが、その師の間違いをアナクシマンドロスが修正し、正確性を更新してはじめて、科学が生まれました。
そして、新たな発見と既存の見方の修正に向けて、今日も宇宙の果てを、ミクロの底を、遙かな古代を、果てしない未来をのぞこうではないか、それこそが科学だよ、と著者は叫んでるのでした。

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脳は世界をどう見ているのか/ジェフ・ホーキンス

2022-06-08 10:02:28 | 日記


チャールズ・ダーウィンが着想した進化論は、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」によって近代化され、定着したわけですが、そのドーキンスの理論も、今やすっかり古典化してきました。
それをさらに更新して、現代科学にマッチさせたのが本作と言っていいかもしれません。
当のドーキンスが序説を書いているのも興味深いところです
ドーキンスの著作に、チャールズ・ダーウィンが帯を書く、というくらいの洒落っ気ではないですか。
ホーキンスによる進化論が、ポスト・ドーキンス論と認められた証でしょう(ホーキとドーキでややこしいな)。
ドーキンスは(以前にこのブログでも書いた通り)、生物は遺伝子によって生かされている機械だ、と論じて、世界に衝撃を与えました。
生命とは突き詰めれば遺伝子情報のことであり、その命ずるところに従って、「わたし」は外環境から物質を集めて肉体をつくり上げ、生涯の営みの中で「遺伝子を後世に残す」という作業を行い、死んでいく、という説です。
遺伝子の意図は、遺伝子自体の存続とアップデイトなので、その情報さえ後の世代に継続できれば、「わたし」の肉体さえ使い捨てにできるのです。
要するに、生物がなぜ死ぬのかというと、遺伝子にとって「わたし」のアイデンティティなどさほど重要ではなく、遺伝情報をリレーする途中経過の一部分(一世代)に過ぎないから、というわけです。
これに異議を唱えたのが本作で、著者は「人類が獲得した高性能の脳が、それを拒否しはじめた」としています。
大脳新皮質は、高度な霊長類のみが持つ理性を司る脳の部位で、この新しい脳の一部が、古い脳と戦いをはじめた、と言うのですね。
つまり、原始的な動物は、遺伝子の命ずるところに従って戦い、奪い、犯し、どんな手を使ってでも子孫を残そうとインプットされているわけですが、人類だけがそれを回避しているのだ、と。
例えば、空腹の「わたし」を生かすために、店頭に並んだリンゴを盗んで食らいつきたい、と古い脳は欲求するわけですが、新しい脳である新皮質は、その行為を「だめだよ」といさめます。
目の前に置かれたケーキを食べれば、古い脳の本能は「高カロリーがまかなえる!」とよろこぶでしょうが、新しい脳は「まてまて、太るぞ」とストップをかけることもします。
いい女を見たら、こいつと今すぐせっくすしてえ〜!と古い脳は切望し、ナマでヤって精液ぶちまけてえ〜!とハアハアしますが、新しい脳はそれに歯止めをかけ、まずはまどろっこしく映画デイトから入り、お食事の機会を重ねまして、ついに事に至りましても「ここはまだ子孫繁栄の件は置いておいて、ひとまず避妊具を使っておこうではないか」となります。
要するに、子供なんかつくらない、という、遺伝子サイドから見たらおよそあり得ない反抗に、人類は及びはじめたわけです。
その大脳新皮質がどんなメカニズムで社会の構造理解を進めたのか、という謎解きから、機械知能・AIへとつながっていく最先端技術まで、現代の脳科学を概論的にスケッチした内容となっています。
網羅の幅が広すぎて、語りたいカテゴリーが散らかっている印象ですが、面白く読めました。

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素数の音楽/マーカス・デュ・ソートイ

2019-03-29 19:38:24 | 日記


「フェルマーの最終定理」と「ポアンカレ予想」というスター級の数学問題をやっつけたんで、いよいよ数学界最大の未解決問題である「リーマン予想」を理解してみるかと企てたのだ。
これは、素数の配列に関して、リーマンって昔の数学者が予想したもので、リーマンブラザーズの破綻とはなんの関係もない。
さて、素数とはご存じの通りに「その数以外では割りきれない、数の元素」のことで、小さなものから順に、2、3、5、7、11、13、17・・・と無限にある。
と同時に、その配列の間隔はバラバラで、次に出現するパターンがまったくでたらめなように思える。
上では七つの素数を数え上げただけなんだが、これが進むにつれていよいよバラけていき、例えば数百も間隔が空いた直後、わずか二つ隣に現れたりする(素数がひとつ置かずに隣り合わせることは、偶数が2で割りきれることからして、あり得ない)。
その配列に規則性を見つけましょ、という試みがリーマン予想なんだった。
さて、その前に「ゼータ関数」を理解しなきゃならない。
ギターの弦一本をぽろ~ん、と弾くと、たとえば「ド」という周波数の音が発生する。
ところがこのドの音には、1オクターブ上のドの音(倍音)も含まれてるのだ。
ギターの弦で言えば、開放弦で弾いた音には、全開の音の中に、その倍の周波数の音(波形二分の一=弦のまん中を押さえた音)が含まれ、つまりこれが高い方のドの音だ。
弦の振動が複雑な波形を描くため、こういう現象が起きる。
さらにその振動の中には、解放の三分の一の波形も混じり合う。
三分の一の音とはつまり「ソ」の音階のことで、このために「ド」と「ソ」の音は完全に調和する。
さらにさらに、四分の一の音、五分の一の音、六分の一の音・・・が延々と連なって混じり合う。
ちなみに、この周波数の細切れの中に、レ、ミ、ファ、ラ、シ(と、♭♯同)は含まれない。
完全に割りきれる「ソ」以外の音は、周波数比で小数点以下が無限につづく無限少数になってしまうので、ドの音と正確にユニゾンすることはなく、それぞれの近似値を取って耳当たりがなるべくよろしい音に調整してあるのだ。
道がそれたが、とにかく、ギターのドの音の中には、1+1/2+1/3+1/4+1/5・・・という周波数比が渾然と交わり合ってるんであった。
この調和級数と呼ばれる無限和にはなにか秘密があるぞ、と直感でひらめいたひとがいて、この式を引っくり返していじくりたおした末に、すべての分母を2乗してみた。
するとこれが、なんとπの二乗の六分の一になるではないの。
なんでここに円周率が現れたのかは深淵なる謎なんだけど、やはりここにはなにかある、ってことになる。
こうして、調和級数のすべての分母をx乗して足し合わせたもの=ゼータxとして、こいつをゼータ関数としましょう、となったわけだ。
さて、この式がなにを意味するのかはわからないけど、とりあえず解を、等高線のような三次元の数直線上に並べてみる。
すると、数値のないいくつかの「ゼロ点」が現れた、というんだな。
これが、驚いたことに、素数の配置を示唆してるようなんだった。
パターンの取っ掛かりがまったくなく、ただただ神様が気まぐれテキトーにバラまいただけと見えた素数の配列が、実はゼータ関数の風景の中のゼロ点という規則に従ってた!・・・のかも知れないというのが、ざっくりとしたリーマン予想の中身のようだ。
こう書いてるオレにも、その内容がちゃんと理解できてるわけじゃないが。

数学では、どれだけ膨大なデータを集めて仮説を裏打ちしても、「なので、真実です」とはならない。
物理学あたりなら、「99,9999%程度の実験結果が合致したら認めます」となるところだが、数学においては、完全無欠の100%でないとだめなのだ。
どこにも漏れのない数式こそが真実であり、定理となるんである。
アインシュタインさんの相対性理論は、自然界の現象に照らしてほとんどすべてのケースを説明できるアイデアなんだけど、残念ながら、原子よりも小さな世界では矛盾が生じ得る。
数学にそんな曖昧さは許されない。
ところで、オレの好きな数学ネタがあって、下に書くんで、よく噛みしめて味わってみて。

x=0,9999・・・とする。
両辺を十倍。
10x=9,999・・・
10x−x=9,999・・・−0,9999・・・
9x=9
x=1
ゆえに
1=0,9999・・・である。

つわけで、99,9999・・・%とは100%のことではないのか?というロジックが成り立つんだけど、どこに矛盾があるか見つけられる?
それはまあ置いといて、とにかく数学においては、絶対的な正確さを証明しないかぎり、真実とは認めてもらえないんだった。
リーマン予想によれば、ゼータ関数の風景のゼロ点は一直線に並んでいなければならず、それを少しでも外れた場所にゼロ点が見つかれば、理論は破綻し、定理とは認められない。
この直線上に、ゼロ点が数十億個も(今ではおそらくそれ以上の数が)一直線に並んでおり、しかもひとつの例外もないことは確認されてるわけなんだが、そんなわずかな証拠ではまったく心もとない。
なにしろ、素数は無限にあるんで、10の一千億乗の一千億乗個の証拠を示したところで、その先に素数が永遠につづくかぎり、まるで意味がない。
また道がそれるけど、この「素数は無限にある」と証明したのはギリシャ時代の数学者・ユークリッドで、この背理法のロジックもなかなか面白いんで、一読してみて。

素数は有限個と仮定し、最大の素数をpとする。
pに至るまでのすべての素数を掛け合わせる。
2×3×5×7×11×13×17・・・×p
その数に1を足したものをxとする。
x=(2×3×5×7×11×13×17・・・×p)+1
xは、いかなる素数(カッコ内のすべての数)でも割りきれない。
2の倍数でもなく、3の倍数でもなく、5でも7でも11で割っても・・・のぼりつめて、最大素数のpで割っても、必ず1が余る。
よって、xはpよりも大きな素数である。
したがって、最大の素数は存在しない(素数は無限にある)。

今から二千年以上も前のひとがこんな考え方をしてたなんて、驚きだよね。

で、なんだっけ?ああ、リーマン予想なんだった。
そんなわけで、素数の配列を探るために、ゼータ関数の風景の一直線上にすべてのゼロ点が(無限に!)並んでることを証明したいんだけど、これが十九世紀以来、数学界最大の未解決問題となってるんだった。
巨大な素数の因数分解は、スーパーコンピューターでも解を得ることが困難(事実上不可能)なんで、素数はネット上の暗号としても重宝されてて、逆に言えば、素数の配列が確定されてしまうと社会が大混乱に落ち入る可能性があるため、この問題は「国際間の安全保障上において」と言ってもいいほどにとてつもなく重要なのだ。
どうしても解決したい一方で、解決されては困る、とも言えようか。
ところが、ここで劇的な展開が待ってたのだ。
ゼータ関数をいじくりまわしてゼロ点の散らかり具合いを研究してたある数学者が、ふとその配列を量子物理学者・・・つまり原子の構造を研究してる博士・・・に見せたのだ。
すると、見せられた物理博士はギョッとする。
「これって、素粒子のエネルギー準位の配列と瓜ふたつじゃね?」
この驚くべきペアリングの意味が理解できる?
学術史で最大の幸運と言われるこの出会いによって、「素粒子」と「素数」というまったくの別世界の、偶然では説明できない必然の関連性が明らかとなったのだあ。
「音の素」であるドレミからはじまった冒険の旅は、「数の素」である素数と「物質の素」である素粒子の配置がシンクロしてるという、信じがたい物語に至ろうとしてる。
というわけで、この未解決問題は、今や物質世界の構造にまで迫るものとなった。
しかし、ゼロ点の洗い出しとその方程式の構築は困難を極め、数学者の手に負えない。
が、なんとなんと、物理学者は知ってたのだ!
ゼロ点の探し方を。
ゼータ関数の風景を数学的なドラムの振動数と置き換えれば、その中でゼロ点をほじくり出すのは、ある種の流体の振る舞いを説明する問題の解き方と同じなんであって、つまりその古典的な作法は、すでに物理学者の間で知られてたものなんだと。
そしてそして、その流体力学において、ゼロ点を一直線上に並べて見せた人物こそが、十九世紀の数学者、ベルンハルト・リーマン、そのひとであったんだと。
うあー、一回転して戻ってきたーっ!
研究者はあわてて、リーマンが残した遺稿を調べようと、データを当たったんだそうな。
手に入れたい資料は二種類で、すなわち「ゼータ関数のゼロ点」に関するものと「流体力学」に関するもの。
ところが、出てきた遺稿は一山のみで、すなわち、ふたつは同じ原稿だった。
要するにリーマンは、素数探しにゼータ関数とその風景の中のゼロ点を利用したわけじゃなく、物理学上の問題を解くためにゼロ点の風景をさまよい歩く中で、不意に素数に出会ったらしいのだ。
逆経路だったのね。
というわけで、がぜん盛り上がってまいりました、リーマン予想。
いかなるエンディングが待ち構えてるのかは、乞うご期待。
早く解決してくれ、各方面の学者たちー。

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なぜE=mc2なのか?/ブライアン・コックス&ジェフ・フォーショー

2019-02-14 18:18:02 | 日記


時間と三次元空間とは「時空」って形で渾然一体につながってんだよ、ついでに、質量は光の速度の二乗って係数を掛け合わせることでエネルギーに変換できるんだよ、っつーのが、アインシュタインさんの特殊相対性理論の言わんとするところなんだった。
その内容がうすぼんやりと理解できたところで、今度は「ところで、どこから『E=mc2』なんて式が?」って疑問が発生するのは、当然の成り行きなんではあるまいか。
理屈は、だいたいわかった。
この式の意味するものも、なんとなく理解できた。
が、アインシュタイン博士の思いつきからこの式に至る経緯が理解できない。
だって、まったく不思議なことじゃないの。
空間の都合で時間がゆがむ(なるほど)。
エネルギーが集中すると物質になる(まあいい)。
だけどそこに、光速に光速を乗っけたべき数が関係してくる!
・・・なんでだ?
つわけで、この構造を丁寧に解体し、着想から方法論にたどり着くまでのプロセスを追ったのが、本書なのだ。
中身は純粋に数論的なやつなんだが、噛んで含ませるような語り口のために、眠りに落ちることなく読み進むことができる。
そしてある瞬間から、まるでまじないにでもかかったような気分にさせられる。
なにしろ、わかることしか言われてないために、その当然の結実として、最終的にはすべてが本当にわかってしまうんだから。
高等数学でもなんでもない、中学生でもわかる程度の理屈によって、簡単な公式が難解極まる相対性理論にまで導かれていくんだから。
かいつまんで説明すると、最初はピタゴラスの定理から入る。
おなじみの、直角三角形の斜辺の長さの二乗は、他の二辺の長さを二乗した和に等しい、的なやつね(直角をはさむ二辺がaとb、斜辺がcなら、a2+b2=c2)。
こいつをベースに、光を間にはさんだ時間・空間の振る舞いの関係性と、宇宙の速度の限界値を、ミンコフスキー時空って設定の中で組み込むと、な、な、なんと、魔法のようにE=mc2に到達できるのだあ。
なんか難しく聞こえるけど、そこに出てくるすべての要素が、単純にして当たり前のやつなの。
速度ってのは、距離(空間)÷時間なんで、この世の最高速度を空間内に発生させれば時間との絡み合いを観察できる上に、その最高速度とは質量がゼロの光である、と決め込めば、時空の振る舞いに質量までをも巻き込んで等式(ピタゴラスの)に落とし込める。
オレはまったく個人的な意見として、アインシュタインの言う相対性とは、「光速をこの世の最高速度と決めてしまう!」「そして一切をその基準に従わせる!」ってことだと解釈してんだけど(これはある意味で間違ってるが)、つまりひとつの絶対座標さえ定まれば、全部の説明がつくんだよ、ってのがアインシュタイン博士の方法論なんだった。
とにかくこの本では、誰にでも理解ができるいっこいっこの算数のプロセスを経るうちに、いつの間にかゴール地点に立たされてしまってる。
まったく、狐につままれたような気分なんだが、とにかく、オレはこの公式を理解したらしい。
が、うまく説明もできない。
いやー、もう一回読まなきゃなあ。
読み終えた瞬間に、全部忘れたし。
でも、とにかく、理解はできてるはずなんだ・・・

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