フランスぶらぶら滞在記

中年の元数学教師がフランスでフランス語を初歩から勉強するという悪戦苦闘日記。フランス人や多くの外国人との交流にも注目。

第307日 最後のボルドー大学

2008-05-31 01:31:42 | Weblog
        第307日 最後のボルドー大学

 まだ梱包が終わっていない。結構入れたのだが、まだ迷ってる物もある。日本に持って帰らない物は捨てるか箱に入れるようにしていたが、なかなか片付かない。約束の11時の30分ほど前にすべての箱を梱包し終わり玄関まで運んだ。コリッシモの用紙を8枚書いたので手も痛くなった。時間通りにデニスさんに来ていただき、荷物を2回に分けて郵便局に運んだ。列の後ろに並んで待っていたら、「小包の人はこちらへと促されてきぱきと計量してもらった。途中2~3個量らない物もあったような気もしたのだが、きっと持った感じで判断したのだろう。思い2つの箱は20㎏を超えている。頑張って本などを入れたが、30㎏まで入れたら今度は重くて郵便局まで運べなくなることを心配したのだ。
 スムーズに終わり全部でおよそ150ユーロ(24,000円)だからクロネコヤマトより安い。フランス国内は均一料金だそうだ。その後到着日を訊いたら、月曜日だと言う。フランスの郵便局員はそんなに働き者だったっけ?進藤さんが小包を受け取りに来ていた。
 大学へ向かう。今日も昼間はピーカンである。暑い。ノースリーブの女性が増えてきた。まずシラタキに行ったらモハメドがいたので挨拶して、食事。この間会話したばかりの中国人の女の子にパリ行きの話をした。その後図書館で勉強。dEFLEに顔を出したら、たまたまマダム・ブワイエルとマダム・コッソンに会うことが出来たのでやはりパリ行きの報告をした。ブワイエルは「今から食事に行くから」と言いながらも「おめでとう」と言ってくれた。コッソンは「この間のDELF B1の口頭試問は出来ていなかった」と試験結果を教えてくれながらも「作文の方は良くできていた。この六ヶ月で本当に進歩したわね。」と誉めてくれた。コッソンに誉められるなんてちょっと気持ち悪かったが、ここは素直に喜んでおこう。あまりお世辞を言う人ではないから・・。お礼を何度も言ってDEFLEから戻った。今日も集中力はあまり落ちず。5時ギリギリまで勉強した。ちえちゃん達と別れて、トラムの駅に向かうが、突然の黒雲、そして雨。最近このパターンが多い。しかもトラムがなかなか来ない。やっと来た頃には雨粒が大きくなる。トラムは混んでいる。ベルゴニエの駅に着いた頃には雷が鳴り出す。駅前のショッピでアサミさんと会う。
 そう言えば図書館で一度漢字についてフランス人の女の子から質問された。何度も躊躇しながら僕の所に来て、たった一字だけ質問された。こんなに恥ずかしがり屋のフランス人もいるのだ。
 引っ越しの荷物が片付き、部屋ががらんとし出した。あと2日である。

 Aujourd'hui j'ai envoye 8 cartons ondules a Paris.Apres, J'ai travaille dans le bibliotheque a Bx universite.Pendant jour il fait beau,il fait chaut,mais chaque soir il pluet.
 

第306日 偶然の出会い

2008-05-30 03:46:01 | Weblog
        第306日 偶然の出会い

 ボルドーでの生活もあと4日となった。まだ心が揺れ動いている。それにしても引っ越しの片付けがなかなかはかどらないのはどういう訳か?サラリーマンの中には仕事をしながら1日足らずで引っ越す人もいるというのに・・。今日も箱4つ梱包したがもう入らない。箱を一つ増やすか、スーパーの買い物袋に詰め込んでTGVで運ぶかどっちかしかない。山のように捨てたのに、こんなにものがあるなんて・・。まだまだ修行が足りないようだ。
 ガムテープを少し貼っては、読書、昼寝だから進む訳もないのだが・・。5時を回ったので近くの郵便局へ行って、例のコリッシモの用紙をもう9枚もらう。一応うまく伝わって、「フランス国内だよね?」と聞かれたので、「ボルドーからパリです。」と説明した。
 久々のバリエール・サンジャネスでトラムに乗った。この間知り合ったばかりの韓国人の男の子と偶然一緒になった。彼の知り合いの女性が赤ちゃんをカートに乗せていた。その赤ん坊がよだれをたらす仕草がとてもかわいいと多くの女性が覗いていく。
 彼はボルドーで2年哲学を勉強し、3年生に進級できるかどうか今日発表があったそうだ。韓国では仏語の勉強はやって来ず、こちらで9ヶ月だけやって大学に入ったとのこと。最初「どうして火曜日は来なかったの?」と訊かれたので、「ちょっと疲れたのと、少し熱があったから」と説明した。「コーヘイは寂しがっていたよ」と言うので「それは僕のことじゃなくて、彼女のオレリーと別れるからでしょ?」と二人で納得し合った。
 彼とはオテル・ド・ビルで別れ、僕は日本館へ行く。もうモルガンが来ていて一所懸命に本を読んでいる。「パリに行くことになった。」と伝えたら「へえ~それは良かったね。」と意外にあっさりした返事が返ってきた。男のガブリエルは髪を短く切ったので別人のようであった。今日は4人しか生徒がいなかったので、少し授業を中断して写真を撮ってお別れした。ついでに、お店のマダム進藤と日本館の外観も撮ってきた。実は今日予定されていた僕の送別会(勝手に僕がそう思っていただけ)は急遽中止になったのだ。オーガナイズしてくれた、「こえり」が風邪でダウンしたためだ。彼女の旦那のフランス人も僕に会いたがってくれていたというし、その旦那の友達のフランス人も招待すると言っていたから楽しみにしていた。
アサミさんまで飛び入り参加するとも訊いていた。でも風邪には勝てない。まだフランスにお互いいるわけだし、またの機会もあるであろう。
 トラムでオーシャンへ向かい、歴史マンガを探すが見つからない。仕方がないので中世の絵本を買った。あと封筒。
 帰りはサン・カトリーヌで降り、ぶらぶらとヴィクトワール広場へと歩いた。そうしたら日本語学科の1年生数人と出会った。今からソワレがあってみんなで食事を楽しむそうだ。その内の一人の男の子に、僕のパリ行きを伝えた。どんどん学生が増えてきたので、挨拶をして別れた。まだこんなにボルドーに残っているんだ。もうとっくに実家に帰ってしまったのかと思っていた。確かに今週、試験の成績が発表されているので学生としては気になるのであろう。こちらの進級は本当に厳しいから、2年生は半数近く落とされているはずだ。頑張って欲しい。
 ついでにこの間サンドリンからもらった講義の説明を良く読んだら、評価が試験でなされるものも見つかった。背筋が凍る思いである。今日は少しだけ勉強したが、まだまだだね。

第305日 コリッシモ(Colissimo)

2008-05-29 04:04:22 | Weblog
第305日 コリッシモ(Colissimo)

勉強を我慢して今日は荷造りに励む。とは言ってもすぐに疲れて睡眠。これも早朝目が覚めてしまうからだ。昨晩はやっとトイレの水が止まったので、ぐっすり眠るはずだったのに。まあ月曜日に寝坊しなくてすみそうだけど・・。
 箱詰めしながら重さを量ったら、30㎏というのはかなり入ることがわかった。と言うか、30㎏まで入れたらとても重くなって下までも運べない。デニスさんが車を出して下さるという言葉に甘えることにして良かった。
 エクスからボルドーまでは箱2つだったが、すでにそれらは一杯となり、新たに2つの箱が一杯となった。こちらは15㎏までいかない。この郵便小包のことをコリッシモというのである。
 最後の洗濯もしてジュトンを使い切った。と見たら汚れた靴下が・・。なんじゃいこの無計画性は!と自分に腹を立てても今に始まったことじゃない。
 4つ箱詰めが終わり、夥しいゴミを出して、本日は打ち切りにした。しかし電話帳も封を切らずにそのまま捨てて良いなんて・・。
 日本館に行ったら、日本人のおばさん2人が忙しく作業していた。パリ行きの報告をしたら喜んでくれた。パリにも知人が結構いるそうである。
 一つ目の授業は久々に全員が揃った。進藤さんが昨日に引き続き僕に質問する機会を与えてくれたので、ちょっとひねった質問をした。非難囂々である。高校生3人は相変わらず元気だったが、フォールさんのご主人が高校生の答えに日本語でつっこみを入れたのには驚いた。たくましくなったものだ。最後に快く写真を撮っていただき、別れの挨拶をした。
 二つ目は、久々にジュリアンが登場した。仕事で手を切断したためしばらく休んでいたのだったが、元気そうであった。こちらはクロディーヌ、エマニュエルとジュリアンの3人である。ジュリアンは休んでいたにも関わらず、ずいぶん読める漢字が増えている。密かに勉強しているようだ。女性二人は予習も良くやってきているのにも関わらず、自信がないためか、あまり積極的に答えようとしない。まるで日本人のようだ。「~しておく。」という言い回しをやったが、非常に難しく、僕もどう説明して良いか困った。ここでもまたみんなで写真を撮ってお別れした。
 外は雨が降っている。昼間日本館に向かう時は、かんかん照りで、汗が噴き出し、ブレザーを羽織っていくのをやめようかとも思ったくらいだったのだが、帰りは寒い。実は2時間目の途中から寒くなってブレザーを着ていたら、今度は眠くなった。あれだけ昼間寝ているのに・・。
 日本の省庁にも少し触れた。最近快哉を叫んでいるのは、文科省が財務省に楯突いたことである。少なくとも今まで僕の記憶にはない。文科省の権限は大変弱く、財務省(旧大蔵相時代は特に)の言いなりだったはずだ。教育費の増大と教育水準の向上は結びつかないという財務省のロヂックは破綻している。確かに今まで教育現場は金が無くても、教員の努力によって何とかしてきた。しかしこれ以上の成果を上げるためには、文科省の言う、小中の教員定数を増やしていくのが最も必要なことである。当然人件費はかかる。その分だけでも予算を計上するのは当たり前なのに、まったく旧態依然とした屁理屈をこねる。
 8年前「総合的学習の時間」が新設されても、教員は増えず、それに関する予算もほとんど計上されなかった。つまり今までのスタッフで自前でやれというのだ。よっぽど教員が暇だとでも言いたいとしか思えない。各種の調査でもそうだ。何か問題があれば調査するが、そのための予算は用紙の印刷費と、その機関での集計に関する人件費くらいのものである。クラス担任が集計する仕事はすべてボランティアである。
 ある高校の同級生である小学校の先生が嘆いていた。殺人犯のような凶悪な人間が学校に侵入してきた時、子供を守って、教員が盾になり、命の危険に曝されるのは当然だと校長が話したとのこと。人情的にはわかるが、管理職はそれではいけないのだ。教員を守らないで何が校長であるか。必要だと本当に思うのなら、プロの警備員を雇えばよい。その予算をしっかり獲得すればよい。でなければ、校長自らがガードマンでもすればいい。教員はただで何でもやると思ったら大間違いだ。
 だから今度の文科省のささやかな抵抗は本当に嬉しいのである。

第304日 集中した一日

2008-05-28 04:48:41 | Weblog
        第304日 集中した一日

 昨日コーヘイ君に叱られたためか発奮せざるを得なかった。でも珍しく窓を閉めて寝たので、起きたら何時かわからない。やはり6時前に起きてしまった。デニスさんと10時にランデヴーがあったので、朝ご飯を食べて寝たら9時半過ぎまで寝てしまう。アパートの前でデニスさんを待つ間、ゴルフの素振りをしていたら、高校生の女の子2人連れが来て、「ゴルフスイングを教えてよ?」と言われた。突然のことで、驚いて仏語が出てこない。仕方がないので「Comme ca(こんな風だ)」を繰り返し、お手本を見せる。僕のマネをしながらゲラゲラ笑っている。最初はおちょくられたのかとも思ったが、ちゃんとお礼を言って去っていたので、たんなる暇つぶしの相手にされただけのようだ。っておい。学校は始まってるじゃん。何でこんなとこまで来るかなあ?
 デニスさんが約束通り、段ボールと体重計を持ってきてくれた。駐車スペースが無いので、急いで降ろして、お礼を言って帰っていただいた。
 部屋に段ボールを入れてまず銀行へ。キャッシュカードの暗証番号を忘れたので訊きに行ったのだ。ところが待っている間に、銀行からもらった郵便物の中に暗証番号が記載された用紙を発見した。実際に自動機で使ってみたら無事におろせた。一安心である。それから本屋で頼まれた歴史の雑誌を3冊と絵はがきを購入してから大学へ。日本語学科の図書館へ行く。すでにオレリーがパソコンで何かやっていた。勉強開始。マリオンも来たが、別の中央図書館へ本を借りに行ってしまった。お昼時になったら、コーヘイ君が韓国人の男の子とやってきた。マリオンはまだ帰って来ないがみんなでシラタキに向かう。そうそう図書館の前で、この間ショーイチ君と日本語を教えてあげたイボンヌにも会った。
 エマニュエルもやって来て、僕も入れて6人で食事したが、その韓国人の男の子は数学基礎論のことも良く知っていて、ラッセル、ゲーデル、コーエンのパラドックスの話で盛り上がった。しばしば哲学の話になったが、それは男3人だけでオレリーは半ばあきらめ、エマニュエルとマリオンはまったく別の話をしていた。哲学者の名前をフランス語で言われるとどうもよくわからない。今日名前の出た哲学者は、ニーチェ、ハイデッガー、マルクス、毛沢東とコーヘイ君が心酔する高名な哲学者である。残念ながら僕には初耳であったので、忘れてしまった。ところで昨日の説教の続きがあった。
「昨日あれから頑張ったけどやはり3ページしか進まなかったよ」
「それじゃあ全然ダメですね。真剣に怒りますよ」
「でも君の言うとおり著者の言い回しに少しずつ慣れてきたよ」
「もっとペースを上げないと、絶対に修士論文なんか書けないっすよ。」
「そうだよね~。」
実は昨日野暮用が入ったという言い訳はしなかったが、実際に進んだのは1ページだけだったので、過大申告したのだ。
楽しい食事が終わり、エマニュエルがピアスの穴を開けに行くと言うのでみんなはお付き合いするという。僕は少しやる気になって一人図書館で勉強した。閉館間際に、ちえちゃんに簡単に報告し、たまたま来たレヴィ先生にもお礼を言って帰った。今日が大学へ行く最後の日だと思ったから。実はDEFLEへ成績を送ってもらうための封筒を出しに行くのが今日の目的だった。「これで十分ですね。」と言われ満足。ついでに図書室のお姉さんにパリ行きの報告をしたら、すごく喜んでくれ、また励ましてもくれた。彼女にも本当にたくさん質問し、インターネットで調べてもらったりした。感謝感謝である。
 トラムの中でアンケートを受けた。大変わかりやすい仏語だった。ついでに「日本ではもっと厳しい。今のままじゃ、ただ乗りは減らないと思うよ。」などと余計なことまで口走ってしまったが、「わたしもそう思う。」と賛同してくれた。
 トラムを降り、まずSNCFの店に行く。7月4日の引っ越しの切符を予約するためだ。取れたのは取れたのだがなぜか高い。よくわからない。
 次に郵便局へ行って小包用の用紙をもらった。タダだった。日本館へ行こうとしたら雨が落ちてきたので小走りで行った。
 火曜日は久々の参加である。メンバーがずいぶん変わっていて、知っているフランス人は一人もいなかった。最初に僕が一人ずつ質問をしていつものごとく困らせた。けっこう話せると思うのだが、ちゃんと答えようと意識した瞬間にフリーズするようだ。他人への質問の時の方が上手く答えられていた。このメンバーも元気があり、常に笑いもあって楽しいクラスであった。2度ほど会ったことがある、身長186㎝の女の子もいる。彼女も良くしゃべるがまだ高校3年生でこれからバカロレアを受けると言っていた。
 外は肌寒い。少し疲れたようだ。オレリーからバーベキューの誘いの電話が鳴った。でも体調が今一つなのでお礼を言って丁寧に断った。帰りがけ、進藤さんにTGVの切符の値段について尋ねてみた。結論を言うと、同じボルドー・パリ間でも時間帯や日にちによって値段が異なるのだそうだ。特に利用客が多い時間帯は高く、朝一だったり、夜遅い便は安く買えるんだそうだ。比較のため例を挙げる。
ボルドー → シャルル・ド・ゴール空港 72ユーロ 7h50ー12h07
ボルドー → パリ          106ユーロ13h55-17h20
時間を見ればおわかりのように、シャルル・ド・ゴール空港の方がパリより遠くにある。にもかかわらず34ユーロも安い。これは7時50分発だからみんなが避けるため安いのである。
 まだまだわかっているようでわからんことがたくさんある。それにしても今日は集中力が落ちなかった。午後は一心不乱に勉強したのでかなり進んだ。でも2ページだけだけどね。やっぱり僕はカメタイプかな? 


第303日 叱られる!

2008-05-27 04:52:10 | Weblog
           第303日 叱られる!

 最近夜明けとともに起きてしまう。今朝は6時前であった。ところが二度寝もしてしまう。結局9時に起きた。まず下の管理人室に行って、7月4日、部屋の明け渡しのランデヴーを取った。心配であったが、すでにデニスさんから手紙が行っていたようで、アジェンダを見て、「じゃあ11時ね!」とあっさり決まった。
 部屋に戻ってもう一度メールをチェックし外出。まずトラムに乗って大学へと向かった。なぜかまたナナと遭遇。ナナも引っ越しのため、荷物を運んでいた。トンカチとかトイレットペーパーまで鞄に入れている。お母さんが少しは運んでくれると言っていたが、やっぱりナナも変わっている。僕の読みかけの池波正太郎の本を開いて、一所懸命漢字を読もうとした。でも一行に読める漢字が一つしかないからこれじゃあ到底意味はつかめない。ところがこの無為と思えることを、大学に着くまで延々と繰り返す。そして自分が読める漢字が見つかると喜んでいる。逆にすでに教わったけれど読めないものがあると、「ごめんね、スズキセンセイ」と謝っている。これが語学力向上の秘訣なのかなと感心した。
 さてDEFLEに行って、成績を送ってもらう封筒を出し、「ところでいくらの切手を貼ればいいですか?」と尋ねたら「郵便局で訊いて下さい」と言われた。「何枚紙が入るかによるじゃあないですか?」と補足したら「2枚紙が入るだけです。」と答えてくれた。早速郵便局に行って説明したら「64サンチーム」と言われたが「この日本人は何でこんなこと訊くんだろう?」と不思議な顔して僕の顔を見る。ともかく切手を貼り付けて明日DEFLEに持っていく。
 シラタキに行っても誰もいないので、日本語学科の図書館へ行く。コーヘイ君がもう勉強していた。坂本先生も勉強していたので、パリ行きが決まったことを報告した。オレリーも来て退屈している。3人でシラタキに行った。もう一人昨日カラオケに行ったエマニュエルが来ないので3人でしばらく待った。ちょうど雨が降り出す。オレリーによると今年はちょっと異常で、例年はこんなに降らないという。
 エマニュエルが来たので4人で食べ出す。オレリーがヴェジタリアンだということを初めて知った。フランス人にはあまり多くないと思っていたのだが・・。今日のメニューで肉が食べられないと本当に悲惨である。大きな豆を煮込んだ料理しかない。
 先ほど図書館の中でオレリーに質問をした。金曜日から始めた数学教育の本についてだ。結局オレリーはわからず、コーヘイ君が説明してくれたのだが、僕が「この本読み終わるのにこの調子じゃ2ヶ月かかるよ」と言ったのが発端だった。
 コーヘイ君は「何甘えているんすか、1年間で修士論文書かなきゃいけなんいでしょ?修士の2年生に入ってる場合じゃないっしょ。」と厳しい。
「う~ん。それはわかっているんだけどそんなに速く読めないし・・。」
「この本は日本に帰る前に読み終えなきゃだめ。どうせ日本に帰っている間読まないんだし・・。」と痛いところをつく。
「でも数学の本は証明を考えたり時間がかかるんだよ。」
「哲学だって同じすよ。」
「じゃあどのくらいのペースで読めばいいの?」
「そうですね、週3冊ってとこですかね。まずは日本語の専門書を読んだら?」
「だって日本語の本、面白くないんだもん。」
「翻訳が少しは出てるんじゃないの?」
「数学教育の分野はフランスだけ突出しているから日本語訳は少ないんだよ」
「それじゃあ仏語で読むんすね。」
と徹底的にやられた。
 彼は若くして勉強の仕方が身についている。外国語の専門書を週3冊ペースというのは僕からすると神様か超人の域である。だがコーヘイ君に依れば、作者が持つ文章のスタイルに慣れていけばどんどんスピードが上がるそうである。今まで洋書は(英語とドイツ語しか読んではいないが)スピードが上がる前に降参してしまっていたから、そのスピードが上がるというイメージがつかめない。でも彼の言うようにやっていかなければ、留年もしくは中退確実である。やるしかない。
 さて3人に別れを告げてトラムに乗り、キャフェ・デ・ザールへと向かった。詳述できないが、彼に叱られてへこんだ上に「泣きっ面にハチ」が重なった。もうすっかり立ち直っていたはずが、まだまだだめだということがよくわかった。ブルーになったのをきっかけにして、勉強への集中力を高めた。チェッカとのおそらく最後の待ち合わせである。仏語の質問もあるのだが、僕の同僚からフランス史の教材を頼まれたのだ。一人では心許なかったのでチェッカに助けを求めたというわけである。
 さてキャフェでいくつか質問をした。それと二人で撮った写真を焼き増ししたのでプレゼントした。別に言ってはなかったのに、チェッカはお返しとばかり、アルジェリアのお土産をくれた。
 店を出てまずヴィクトワール近くのインターネット・カフェに向かう。そこでチェッカは電話をかけていた。どこへかけたのだろうか?国際電話かも?
 そのあと僕の願いを聞いてくれて書店「Mollat」へ。だが、ヴィクトワール広場の横をちょこまかと入ってきた、市内周遊バスに二人で飛び乗った。1年暮らしていて初めての体験である。実に細い道ばかり(実際に一方通行ばかりであった)をよく走る。そのうちどこをどう走っているのかわからなくなった。ちょっとしたボルドー市内観光である。最後にこんな素敵なプレゼントをしてくれた。チェッカは別に何も意図していなかったのだと思うけれども。モラに着いて、店員さんにチェッカが質問してくれたが、出されたものはとても高くて手に負えない。結局見つからなかった。チェッカは5時からアルバイトが入っているというが、友達から度々電話が掛かってきた。待ち合わせをしていて今すぐいかないといけないらしい。そんな忙しい合間を縫って来てくれたのだ。チェッカにも感謝。
 僕はここボルドーで何度チェッカに救われただろうか?失恋して地獄の底まで落ち込みそうになっているのを、言い方はきつかったけれど、救ってくれたのもチェッカだった。今日も会うなり、「いろいろ迷惑をかけたね。」と言うつもりが「迷惑をこれからもおかけします」と言っってしまった。つまり半過去で言うべき文を単純未来で言ったのだ。「え~これからも?」と驚いたフリして「いいわよ。いつでも質問しにボルドーに来てね」と返された。サン・カトリーヌ通りを歩いている時も、雨が降り出したので、チェッカの傘で相合い傘で歩いた。しかしチェッカは話しながらどんどん先に行ってしまうので、僕は濡れた上に、チェッカは「あなたはとても年寄りだから歩くのが遅い。」とからかってくる。どこまで本気なのかい、チェッカ!でもこんな楽しいやりとりのおかげで仏語が嫌いにならずにすんだ。
 チェッカと別れて一旦帰宅した後、本を鞄に詰め込んで日本館へ。今週が参加できる最後の授業である。全員揃っていた。相変わらず賑やかなニコラを初めとする面々である。ジュリーは日本語のバカロレアを受けると言って、練習問題を質問された。僕がパリ第7大学に行くと言ったら、みんな祝ってくれた。フランソワは日本での旅行が楽しかったらしく、うきうきしていた。最後に写真を撮ってお別れした。進藤さんが日本に帰る前に食事に行こうと誘って下さった。進藤夫妻にも感謝である。

第302日 カラオケ送別会 5月25日(日)

2008-05-26 06:28:41 | Weblog
    第302日 カラオケ送別会 5月25日(日)

 昨日さぼった洗濯を今日は午前中から取り組む。あまり人の気配を感じない。学生はヴァカンスで田舎に帰ったのかも。
 並行して引っ越しのための整理を始めた。ノートや新聞などけっこう溜め込んだものだ。一つ一つチェックしながら分別していった。大きなゴミ袋に3つにもなったが、まだ要らないものはかなりある。昼はヤキソバ一個。ちょっともたないかな?それというのも、コーヘイ君がオーガナイズしてくれて今日はチバでカラオケをすることになっていたのだ。
 集合は8時だったが、シャワーを浴び、早めに行ったのにすでにみんな来ていた。ソラ先生は博士論文が忙しいとかで来られなくなった。僕とコーヘイ君それにフランス人の女性2人である。この2人はいつも日本語学科の図書館で一緒に勉強している仲間だ。一人はコーヘイ君の彼女でオレリー、もう一人はエマニュエルである。
 お店に入り、まずカラオケの機械の使い方を説明してもらった。実はここの店長は韓国人だと勝手に思っていたが、香港人だということがわかった。
 次に注文するものを決めた。女性陣はあれこれ悩んでいるが、僕とコーヘイ君はビールとビビンバ。これはこの間の反省を元にしたので正解だった。
 さてビールや料理が来る前から歌い出すが、ソングブックを見てコーヘイ君唖然。
 「歌える歌がねえ!」
 「だから言ったじゃないの古い歌しかないって。」
 「でもスマップもないっすか?」
 「キンキキッズすらないんだぜ。」
 「ガビ~ン」
 とか言いながらも、しっかり「津軽海峡冬景色」を歌ってました。
 僕は「いとしのエリー」から始まって、サザンのナンバーを歌いながら、間に演歌をはさみ、「やっぱ演歌はいいのう。C'est le chanson japonais traditionnaire」とフランス人に説明した。
 女の子二人は一所懸命英語の歌を探している。タイタニックのテーマ(セリーヌ・ディオンの歌うもの)までは良かったが、すでに持ち歌はほとんどない。
「私たちの両親の世代の歌だ。」と嘆いている。
「ところであなたのお父さんはいくつ?」とエマニュエルに尋ねた。
「私の父は58歳よ。結婚が36歳と遅かったの。」
「ふ~ん。じゃあ僕の方が少し若いや。」
なんて言いながら、ビートルズの「Yesterday」を歌ってました。
他の3人が困っている間を縫って、僕はどんどん歌わせてもらった。まさかフランスのボルドーでこんなに日本のカラオケを満喫できるなんて・・。
 そのうちビールと料理が来たので、食べながら、飲みながら、カラオケ大会は続いた。とうとうコーヘイ君が「もう無い。」と言い出したので、「昴は知らない?」と比較的新しそうな曲を歌って聴かせてみた。でも彼は首を横に振るばかり。そのうちフランス語の歌をコーヘイ君が発見し、女の子2人に「歌ってみろ。」と歌わせた。その曲は小さな子供が歌う日本でいうと童謡のようなもので、頑張って歌っていたがとても可愛らしかった。
 さて僕は大変満足したが、残りの3人は不完全燃焼のようだ。「フランスにはもともとカラオケはないのであまり歌わない。」と強がりも言っていたが、楽しんでくれたようだ。
 コーヘイ君、そして今日付き合ってくれたオレリーとエマニュエルに感謝。ボルドーでの思い出をまた一つ増やしてくれた。コーヘイ君は水曜日にボルドーを発ちアメリカへと向かう。若さをもらった気がした。

第301日 早口のナナ!

2008-05-25 02:30:33 | Weblog
       第301日 早口のナナ!

 まだパリ行きの疲れが取れていないのか、午前中はメールチェックと読書をしながら昼寝する。懸案の洗濯は明日に回すことにした。食料を片付けなければと思って冷蔵庫の中を見たら、もうほとんど残っていない。逆に買わないとあと一週間は生きていけない。
 やっと出かける決心をした。というのもシャルル・ド・ゴール行きの6月2日と帰りの7月3日のTGVの切符を予約する必要があるためだ。まだかなり前のため安くて驚いた。チェッカがいなくても一人で買えた!しかもけっこう迅速に。
 それはともかく、SNCFに行く前にサン・カトリーヌでナナに偶然出会った。
ご存じのようにナナは日本人の高校生コウタローを恋人としているが、夏休みは日本にいけないことになったらしい。しきりと「うらやましい。」と言う。
「でもコウタローは受験だろ?」
「そうなの、東大を受験するって。」
「ということは僕の後輩になるってこと?」
「えええ???」
「ちなみにコーヘイ君も東大だよ。」
「えええ、本当?ローニンしたの?」
「悪かったね、僕はローニンしました。」
てな会話をサン・カトリーヌ通りで繰り広げた。
 実はナナは早口だ。だから仏語でしゃべられるとあまりよくわからない。すると僕に考える間を与えず日本語で説明するから、頭に来る。でも結局「ゆっくり話してくれ」とお願いできなかった。
「ところで日本から戻ってきたらバイトの関係ですぐにパリに引っ越すんだ。」
「え~意地悪~」
「でもパリ第7大学に入ることも決まったよ。」
「それじゃあまたボルドーに来てね!約束よ!」
「はいはい」
「それといい数学の先生になってね。フランスの数学の先生はとっても怖いから。」
「今までだって僕は優しい先生じゃなかった?」
「日本語は優しく教えてくれたけど、数学はどうかな?」
「そんなの僕にとっては同じさ」
てな会話が繰り広げられ、メールアドレスをナナに渡した。この間のソワレの写真を送るためだ。
 パリに行った時はみんな初めて会う人達だったからわざとゆっくり話してくれたのかな。ボルドーで知人と話してもろくに聴き取れないのが参ってしまう。
 さてデニスさんから教わったお店でガムテープを買い、キャフェ・デ・ザールで勉強。けっこう捗った。おしゃべりに夢中な人達がいたので、切り上げたが1ページは終わった。
 帰りにアジア食材店でうどんを買い、スーパーでもジュースを購入して帰る。
聞き取り頑張らないと!! 

第300日 ルネッサンス(再生)!

2008-05-24 02:50:33 | Weblog
      第300日 ルネッサンス(再生)!
 
 昨晩夜十時に帰宅後、飯も食べないでメールの整理をし、とりあえず1日分のブログを書いた。と言ってもノートに書いたものを打ち込んだのだが、この作業がけっこう辛い。自分の字が読みづらいほど汚いのが原因だ。しかも2泊3日のパリ小旅行中は、緊張していたので疲れをあまり感じていなかったが、ボルドーに帰ったらどっと疲れてしまった。もちろん目的が達成できて安心したのだろうが、ボルドーの人達はなぜかみんな優しげで人懐っこく思えるから不思議だ。しかもみんなのんびりしている。車の音一つとっても、パリはとても攻撃的な走り方をするためかウルサくて仕方がなかった。ボルドーは静かだ。あらためてボルドーの良さがわかった。
 今朝も7時には起きて2日分のブログと、ラボルガの方も3日分一気に片付けた。10時半に一息ついたら眠ってしまい。12時半に部屋を出て3日ぶりのDEFLEへ。まずシラタキで昼食。ミエさん達がいたので、簡単に報告した。その後日本語学科の図書館に行ったら、午後から閉まるとのこと。DEFLEはDELF C1の試験をやっていた。図書室は金曜日なので午後閉館だということをすっかり忘れていた。仕方が無くシラタキに戻って勉強開始。
 2002年に購入して以来ほとんど読んでいなかった数学教育入門の仏語の本を読み始めたのだ。わからない単語がまだけっこうあるにはあるが、文の構造はだいたいわかる。何か受験英語の英文解釈を読んでいる気分である。仏和を引き引き今日はほぼ1ページ進んで力尽きた。予定では1日3~5ページずつ進めないといけないのだが・・。
 帰宅したのが4時。メールの整理をしてまたお昼寝。7時まで眠ってしまった。このブログの後、夕飯を食べて、元気があれば、もう少しだけ勉強する予定。
 ボルドー大学に実質3時間くらいしかいなかったが、多くのことを感じた。大学も完全に休みに入り人気も少なかった。しかしここで多くの人と交わりそして助けてもらった。正直仏語の勉強が嫌いになってもうやめて日本に帰ってしまおうと思ったことが何度かあった。仏語の勉強から読書に逃げてしまった日々もけっこうある。頭では仏語以外は使わない方がいいとわかっているのだが、自分をそこまで律することができない。もし無理したら、頭の中で何かが弾けてしまう気がして怖かったこともある。甘えだといわれればそれまでだが、若い学生達が本当にうらやましく、若い時からフランスに来ていればとも思った。
 だが、日本での教員の経験は生きている。若い学生が僕と同じように大学院に入学を希望しても簡単に通らないだろう。昨日アランから釘を刺された。確かに仏語でもっと書いたり、読んだり話せたりできないといけない。そして自分のやりたいもの(テーゼ)をきちっと表現できないといけない。今日研究書を読んで、どこの国の人も共通な教育に関する危機感・問題意識を持っているのだと感じた。これがわかるというのも教員の経験があればこそだ。もっと自分に胸を張って行く。それこそがルネッサンスだ!

C'est une renaissance de moi!
Hier soir je suis revenu de Paris.J'etais fatigue,mais je me sentais heureux.Je peux entrer aux cours de maitrise 2eme annee du univerisite Paris 7 a partir de septembre prochaine.Je serai un Parisien a partir de juillet prochaine!C'est extraordinaire!
Je vais additioner des phrases francais comme ca pour des etrangeres qui aime ce blog.Merci bien de te lire!

第299日 パリはどうしてパリたり得るか

2008-05-23 16:58:19 | Weblog
     第299日 パリはどうしてパリたり得るか

 朝のニュース番組「フランス2」を堪能し、ゆっくりとホテルを出た。懸案だった近くのコピー屋さんを発見。でも驚いた。何と一枚10サンチームなのだ。ボルドーでは4サンチームだから倍以上だ。メトロの駅も正面にあった。まずは、シャンゼリゼ・クレマンソーへ。シャンゼリゼを昨日とは逆方向にオルセーに向かって歩くが車の騒音がひどい。プティ・パレを発見。しばらくポン・デ・ザールでセーヌの川面を見つめ、「パリはどうしてパリたり得るか」を考えた。
 パリ市内は今日も朝も早よから観光客で溢れている。歩行者のほとんどが観光客だし、二階建てのバス、しかも屋上に乗っている楽しそうな人達もそう、それからバトー・ムッシュにも大勢の人が鈴なりである。この小さな街パリに大勢の観光客がひしめき合っている。物価は当然高い。ではパリの住民はどうしているかという疑問が当然生ずる。中間より上の層はパリ市内のアパートに住み、車やオートバイを持っている。最近自転車が人気である。公共貸し自転車制度が去年から始まっていて便利なのだ。もちろん郊外に一戸建て住宅を持ち、RERで通ってくる人も多い。なんとTGVで2時間かけ、リヨンから通う人までいるそうだ。
 一方貧困層は、ご存じのように、パリ郊外の団地に押し込められている。実は僕が生活する予定の寮は、ちょうどパリ市内から100mほど外に出たところなのだ。パリ市街の持つ華やかさは何もない。夜はちょっと物騒だと思われるが、歩いている人を見た限りそうでもない。日本人女性も数人暮らしているので安心していいと思われる。
 つまりパリ市内は観光客で溢れ、貧しい住民ほど遠くへ追い出されるという図式だ。2001年の9月、パリのホテルで体調を崩し、ヴァカンスが終わって、急にフランス人達が働き出したのを見て、一人取り残された気がした。「もう観光客気分はこりごりだ。ここに根付いて、パリの住民と同じ感覚を味わいたい。」と強く感じた。しかしその恐ろしさがわかりかけてきたのである。開けなければ何でもないパンドラの箱を、少しだけ開け、ちらっと覗いて後悔を始めたようなものだ。
 観光客に戻って、お土産やでTシャツを買った。4枚購入したら「あなた自身のは要らないの?」とマダムが尋ねる。「7月からここに暮らすことになるから必要ない。」と言ったら、「確かに必要ないわね。あなたもパリジャンになるのね。」と返された。「そうだけど、何か変な感じがする」とぼやいたら、「そんなことはないわよ。ところであなたは日本人?日本人は中国人より『礼儀をわきまえている』よね?」と訊かれた。「僕もそう思う。」とだけ答えたら、急に日本語で「ありがとね」と言われた。話せるジャン、日本語!!
 実はここまでは昨日朝食を摂ったブラッスリーで書いている。今日はオムレツを頼んだら、オムレツしか出てこないので、キャフェ・オ・レも注文した。でも料金はボードの通り9ユーロぽっきりだった。支払いの時に、「トータルで9ユーロでいいのか?」と尋ねたら「高いと思うか?」と逆に訊かれた。「僕はボルドーに住んでいるから、ボルドーはもっと安いよ!」と答えたら、「観光客料金だからね」とにこにこして言われた。気持ちの良いギャルソンだった。
 さて絵はがきを探すが、おみやげ屋は高い。10枚2ユーロの新聞売り場まで戻って購入した。いよいよ大学に向かおうとしてピラミッドの駅で地下鉄を待っていたら、電話がかかってきた。今朝出たホテルからだ。「あの~お支払いがまだなんですけど・・。」と言われ、唖然。いつものようにカード決済だと思っていたが、カードで予約を取っただけだったのだ。「今からランデヴーがあるので、それが終わったら必ず戻って支払う。」と約束して地下鉄に乗った。カルネ(地下鉄の回数券)がもう残り一枚となったので買おうとしたが自動券売機で買えと言われよくわからなかった。まだ時間は早いが大学へと向かった。待ち合わせの部屋もすぐに見つけられたが、昼休みで今から閉めると言われウロウロしていたら、ランデヴーの相手、アラン・クズニアックが目の前に現れた。自己紹介したら確かにそうだと言う。しばらく話の出来る部屋を探したが、結局二人でクリストフの部屋に入った。クリストフ・ハッシュは見覚えのある顔なのだが、「何度もご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。」と最初に謝ったら、「別に大したことないよ。」と言ってくれた。話は終始、アランとした。まず大学の説明をしてくれた後、僕の経歴や志望動機について質問された。自分の修士論文の内容を説明しようとしたが、これからやりたいことはまだはっきり決まっていないと言うしかなかった。ちょっと驚いた表情をアランは見せた。
 でも9月から日本の研究者とチリの研究者が来て、修士の授業が進められると言われた。日本の授業のビデオも研究対象なのだそうだ。
 入学手続きが最も心配されていたのだが、「今からマダム・サンドリンのところへ行け。歩いて10分くらいのところだ。」と言われ、クリストフがまず地図をプリントアウトしてくれ、サンドリンに電話までかけてくれた。2人にお礼を言って大学を出た。ビビリオテック・フランソワ・ミッテランを通り越してすぐのできたての綺麗な建物の中にサンドリンはいた。「失礼します。」と言って入って行ったら、気持ちの良い返事が返ってきた。「とにかく今から2人でドシエの記入をしよう。」と早速とりかかった。「とても一人では難しくてできなかった。」とこぼしたら、「それが普通よ。」と言われ、アランやクリストフにも渡した履歴書および志望動機書をサンドリンにも渡したら、それを見ながら、時々僕に質問を振り、手際よく記入していく。
 バシャール君とどうしてもできなかった最終ページの学科の記入もなぜか一発でできた。「何回やってもこのページだけはだめだった。」と僕が言うと、「修士課程の2年生と記入すべき欄に正確に入れないとだめなの」と説明された。パソコンの画面の文字は小さいし、サンドリンの記入の速さには驚いた。さすがは秘書である。
 さて記入が終わってヴァリデをしている間が長かったので、授業料がいくらかかるか尋ねたら274ユーロ(約4万5千円)だという。ついでに授業の予定表もいただいた。月・水の午後にしか授業は無いのだが、3種類の授業を受けることになるそうだ。
 昨年10月にミシガン大学の宮川先生からアドヴァイスをいただいた。そしてボルドー第2大学のマダム・サリン(アランによるとサランと発音するのが正しいらしい。)のところに相談に行ったのが11月の終わりであった。あれから7ヶ月目にしてやっと入学にこぎ着けた。正直長かった。もちろん7月上旬に授業料を支払い、きちんと学生として登録するための第2段階はあるのだが、まさか今日一日で第1段階をすべて突破できるとは思わなかった。ヤッター!バンザーイ!と内心ガッツポーズをしていた。ただ授業について行けるかどうか不安は残る。弾む気持ちを抑えて、現金を引き出し、ホテルへと戻った。一応謝って許してもらった。
 さてまだ帰るには時間がある。自動券売機でカルネを一人で購入でき、午前Tシャツを買ったお店に戻り、もう2枚購入した。ルーブル宮を抜けてポン・ヌフへ。川辺の公園でしばし読書。ここはバトーの発着所にもなっていて、3ユーロという目玉が飛び出るような高いコーラを買って飲んだ。30分ほど時の流れが止まった感のあるこの公園でくつろぐ。
 サン・ジェルマン・デ・プレへと歩き出す。そうしたら、前回アガトゥ、セヴァスチャンとビールを飲んだお店に出た。懐かしい。いつの間にか、カルティエ・ラタンに入ったようだ。サン・ジェルマン・デ・プレ教会を後ろに見て、メトロの駅へと降りる。少し疲れたか足取りが重い。モンパルナスは3つ目だ。だが地下鉄を降りてから、TGVの駅の近くまでが遠い、動く歩道に乗った上、ひたすら歩いてやっと着いた。
 今日のストライキでTGVの便がどうなったか心配であったが、僕の予約したボルドー行きは予定通りだった。印刷物を見ると、他の都市へ行くものに十数本変更が見られた。いつもより構内放送もされていた。
 思うのだが、ここまでしてデモ行進する必要があるのか。そこはフランス人である。人生における優先順位が違うのだ。
 構内でこの文を書いていたら、思ったより早く8番線だとアナウンスがあったので、乗り込むが、遠い。本当にホームの端から端まで歩かされた。座ってチケットを見て驚いた。この帰りの便は確かに1等なのだが、行きの便は2等だったのだ。道理で安いはずである。あの時僕は往復とも1等を頼んだと思ったが、チェッカと係の人が笑っていたわけがやっとわかった。チェッカにははめられっぱなしである。
 サンドリンの働いているオフィスに行って本当に良かった。パリの郊外は今大きく変貌を遂げようとしている。市内の建物はほとんどが建て替えできない。新しく建てることも難しい。高さも厳しく制限されている。よって自動的に郊外に高層建築がにょきにょきと建つことになる。地区によってはスラム化が進み問題になっている。僕の住むところもそのような傾向があると心配していた。鉄道線路の広い敷地を挟んだ地区は、大学もたくさんある文教地区だったのである。メトロの駅のビブリオテックというのも大きな図書館のことである。他にもいくつか図書館があり、足を延ばせば、カルティエ・ラタンなのだ。学習環境としては最高である。
 一等の乗り心地は格別で、向かい席の人も来ないので、足を延ばしてゆっくり眠ったり、読書をした。もちろんこの文も書いた。9時半にボルドー・サンジャンに着いた。薄暮の中の駅はちょっと淋しげで、あと1週間あまりのボルドー生活を思うと感慨もひとしおである。辛いことが数多く思い出された。気を引き締めて帰宅。メールチェック。やった!7月から入寮できる。一時帰国後すぐに引っ越しだ。

第298日 気分はもうパリジャン(Comme un Parisien)!

2008-05-23 14:53:55 | Weblog
  第298日 気分はもうパリジャン(Comme un Parisien)!

 夜明けはなんと6時前!一度目を覚ましたらあまり眠られなかったが、7時を過ぎたらウトウト状態に入れた。テレビをつけっぱなし寝たので、夢の中で仏語が飛び交っていた。
 9時半にホテルを飛び出す。わかりやすいはずのメトロのブロシャの駅が見つからない。道路の反対側に渡り、かなりホテル方向に戻ってやっと見つけることができた。昨日降りた時には気づかなかったのだが、いわゆるメトロの表示が何もない降り口だったのだ。サン・ラザール(アナウンスでは「サラザール」と聞こえる)で乗り換えてオペラで降りた。オペラ・ガルニエの正面に出る。そこからAAA学院を探したら、珍しく直感が合っていて、すんなり見つけられた。まだ10時である。約束の時間まで3時間ほどある。まず薬局を探し、歯磨きセットと櫛を買った。ホテルの部屋に完備していないのだ。髪の毛もぶっ飛んだままなので早く直さなければ・・。しかし高かった。近くのスーパーで買っておけよ!
 次にしばらく歩いたら「大勝軒」というラーメン屋を発見。ここでお昼を食べることにしてもうしばらく散歩した。新聞(パリジャン)を買い、ブラッスリーで朝食(Break Fastの表示)を摂った。気分はもうパリジャンである。
 食べながら新聞を読んでいたら、アメリカ人と思われる観光客に「ルーブルはどっちだ?」と訊かれた。知らない間にルーブルの裏手で休んでいたのだった。
 最初、英語が話せないフリをして、仏語で答えていたのだが、あまり意地悪してもと思い、ちゃんと英語でも教えて上げた。地元民、パリジャンのように!ちょっと気分が良い。少しパリジャンの気持ちが分かった。これだけ多くの人に毎日のように道を尋ねられるのだ。相手が仏語がわからなければ意地悪でもしたくなろうというものさ。
 心配なのは明日の大規模ストライキである。昨日TGVで隣に座ったおっちゃんも言っていたが、大がかりなデモ行進が計画され、地下鉄、TGVなどどこまで影響を受けるかわからないからである。無事にボルドーに戻れますように!
 久々のパリ、そして五度目のパリ。メトロは速くて怖いし、みんな忙しそうに歩いている。ホテルはクリシー通りから奥に入ったところにあるので静かだが、通りに出るととても五月蠅い。すごくストレスが溜まる。僕はすっかりボルドー人になっていたようだ。
 予定通り戻って「大勝軒」で醤油ラーメンを食べた。昨年9月開店したとのこと。店員は若い日本人女性4人組だったが、味は今ひとつだった。新聞売り場でパリの地図と絵はがきを購入。少し早めにAAA学院へ。
 約束の13時までしっかり待たされた。というのも担当の川島さんが本当に忙しく、10分で昼食を詰め込むといった按配だからである。まず校長である興石(おきいし)さんと面談したが、数学に詳しく、学生運動にも活躍した御仁で、あの岡先生とも話をしたことがあるそうである。この方がパリのAAA学院を創設し、現在は上海校も経営しているというなかなかの人物である。
 僕は川島さんと話をするつもりで来たが、この輿石先生との面談がテストだったようで、「一応大丈夫じゃないの?」と合格点が出され、ほっとした。現在教えている信州大学の方に比べて上手に教えられるかどうか心配ではある。生徒の人数は思ったより少なく、高校生のクラスが2人、中学生でも5人程度である。生徒が増えるかどうかは口コミにかかっているそうで、給料にも直接関係するとはっきり説明があった。ただ、日本語だけで授業を進めて構わないと言われ一安心。
 小学生高学年の算数からもしかすると理科に至るまで教えることになりそうだ。川島さんによると、ここのスタッフは全員文系で、しかもほとんどが女性なので、中学受験の算数や、高校受験の数学、そして高校の数学はなかなか教えられず、理科も勉強しながら教えているといった危機的状態なのだそうだ。しかも日本から戻ってきたらできるだけ早く授業を担当して欲しいと言われた。
 面接が終わり、住居担当の佐藤さんから鍵を預かって寮へと向かった。メトロの駅、ビビリオテック・フランソワ・ミッテランからけっこう歩いたが、よく見たら明日行くはずのDIDIREMも同じ通りにあることを発見した。ということは、僕の住む予定の寮から大学まで徒歩で通えるということだ。
 説明されたとおり、高い建物はこの寮しかなく、容易に見つけることが出来た。一応玄関から出てきた住人に確認した。10階に上がり、部屋の中を確認した。ベッド・机・冷蔵庫・タンスなどが揃っている。シャワーも部屋の中にあり、トイレと台所が共用である。偶然コーヒーを温めに来た女性が、日本人でしかもAAA学院の関係者だったので少し雑談した。1階のランドリーはタダで使用できるとのこと。この寮は馬鹿でかいが、もともとSNCFの寮の一部を他の団体にも貸しているそうなのである。警察関係者も入居しているとその女性から聞いた。
 AAA学院に戻る前に、大学の建物を確認した。これで明日も一安心。AAA学院に戻って、お預かりした鍵を返却し、予約手数料を支払い、契約書にサインした。
 まだ時間がたっぷりあるので、ぶらりとルーブル方面に向かう。以前から探していた「サッポロラーメン」の店をやっと見つけることができた。勢い込んで店に入り、おばさんに「食券買うんでしたっけ?」と訊いたら、「何言ってんの?早くそこに座って!」と久々に叱られちょっと嬉しい。店内中央の螺旋階段も懐かしい。餃子と味噌バターラーメンをいただいた。美味しい。僕の後に入ってきた中国人の家族連れにも、日本語で「注文は?」と迫り、ご主人が目を白黒させながら懸命に英語で質問したら、意外にもこのおばさん、流暢な英語で説明し出した。恐るべしである。
 満足してチュイルリー公園へ。芝生の上に座って読書しながら腹の中がこなれるのを待った。セーヌ河畔に降りて散歩。ここでもしばらく川面を見ながら読書。その後セーヌ川から上がって、シャンゼリゼを闊歩した。観光客で溢れている。この季節は一番良いと思う。僕も観光客のフリをしてアイスを食べながら散歩を続けた。ちょっとうろうろしながら、やっとメトロの駅、シャンゼリゼ・クレマンソーを発見。
 ホテルに戻ってAAA学院からの電話を待っていたら、眠ってしまった。近くのスーパーの閉店間際に飛び込んで、ジュースとチップスを買って帰り、今サッカーのユーロクラブ選手権を見ながらくつろいでいる。1-1の延長戦に突入し、結局PKでマンUが勝ったが、チェルシーにも十分チャンスがあった。延長に入ったら両チームとも疲労が目立ち始め、反則が増えたのが残念だった。守備力は今ひとつだと感じた。やはりイタリア勢の守備力はすごいと思う。ロナウドとバラックはやはり目立っていた。久々にサッカーの試合を堪能でき、満足。