第155日 年の瀬の思い出
もうすぐ日本では大晦日を迎えるであろう。こちらはクリスマスが終わっても一月の中旬までクリスマスの飾り付けは残るし、セールもやっている。年末年始海外で過ごす人の出国ラッシュが昨日と今日らしい。こうやって初めて海外で年の瀬を過ごすのに矛盾しているが、日本で過ごした方がいいと思う。恒例の紅白を始めとする番組もこちらでは見られない。何となく正月気分が味わえない。雑煮はどうしようか?とりあえず炊飯器があるのでご飯は食べられるが・・。僕にとっては2年続いた伊勢参り(?)がやはり楽しみだったからである。恒例の若さまとのゴルフ・麻雀対決も楽しかったしね・・。まあ日本におけるほとんどすべてを振り切ってフランス入りしたわけだから、楽しいところだけいただこうというのは心がけとしてはまずかろう。
明日の大晦日はチェッカとのエションジェがあっていいのだが、元旦はとりあえず何もない。と言って誰かを誘って何かするだけの企画もない。昔に戻って初日の出を拝みにマラソンでもするかな?といったところ。
さて昨日幼少の思い出を書いたら、弟との齟齬が生じた。ちょっと意外だった。お互いにボケが始まったか、それとも記憶間違いか?気にしても仕方がないが、脱線してもう少しだけ書く。
いつだったか、年が改まる瞬間を目にしてやろうと思っていくつか試みたことがある。大晦日の夕暮れをずっと眺めていたけれど格別変わったことはなかった。お袋に「もうご飯だから家に入りなさい。」と叱られたくらいである。そう言えば我が家は大概大晦日に大掃除をしていたのだが、これが大変だった。小さい頃は夕方までかかったような気がする。年を経るにつれて要領がよくなったのか、適当にやったのかわからぬが、午後三時にはほぼ終了していた。餅つきは三十日の行事だったかしらん?我が家には石臼があって、この餅つきは大変だった。杵が重くて小さい頃はつけなかったが、小五くらいから少しずつやらせてもらえるようになった。これも一家総出で半日仕事である。ただつきたてのお餅はもうこたえられないくらい美味しくて、そのためには何としてもつき終わらないといけないのであった。雨が大敵である。大掃除は中止になるからいいのだが、餅つきはそうはいかない。雨の中、納屋の下でつく餅はつき方が不十分になることが多かった気がする。
話が脱線した。次は徹夜して、新神なるものの正体を見てやろうと思ったのだ。我が家は紅白の前に年越しそばを食べる。つまり夕食後、まもなく食べてしまうのである。紅白が終わり、行く年来る年が始まるとみんな寝てしまうのだが、その年だけは頑張って起きていようとした。NHKが1時半ころ終わった後、応接間でラジオを聞きながら頑張って起きていたが、「新神」なるものはとうとう現れなかった。ふらふらの状態で朝食を摂る時にオヤジに尋ねたら、「とっくに来ているよ。」といつものオヤジとは比べものにならないくらい上機嫌な上に、すっとぼけたことを言う。お袋と姉貴が馬鹿笑いしていた。元旦に(日曜日と祝日のすべても)日の丸を門柱に掲げるのは僕の仕事であった。よく忘れてオヤジに殴られていたが、日の丸の先につける玉をいつだか僕が割ってしまった。すごく叱られると思ったが、なぜか叱られなかった。しかもそれ以降旗を出さなくてもいいことになった。オヤジが丸くなったのかどうか僕にはわからない。
とにかく元旦の朝食ほど大事なものはない。雑煮を食べ、おせちの卵巻きを食べ、オヤジからお年玉をもらうのである。一年の楽しみがほぼこの一瞬に集約されていたと言っても過言でなかった。残りの364日はひたすらオヤジから叱られるのである。叱られなかった日は無い。ひどい時は一日二度叱られた。最悪である。部屋の持ち物はすべて庭に放り出され、家の中にも入れてもらえない。しかも子供を閉め出しておいて当のオヤジは忘れていることが多かった。この時だけはお袋が仏様に見えた。お袋にもよくいたずらをして叱られていたからである。
だから学校の先生はみんな優しく思えた。まず普通に話が通じるのだからたまらない。オヤジときたら、まず子供の言い分にいっさい耳を貸さない。まずゲンコツありきなのである。子供にしたら理由もわからずただ殴られるのである。一切説明はない。殴られた理由は自分で考えろというのがオヤジの方針であった。明治・大正生まれはみんなそうやって躾けられてきたのだろう。
でもオヤジが正座して書見台を使って読書したのを見たことがない。新しもの好きだったオヤジは早くから西洋机と椅子を買って、電気スタンドで読書していたらしい。それに反してお袋はいつも座り机だった。
もうすぐ日本では大晦日を迎えるであろう。こちらはクリスマスが終わっても一月の中旬までクリスマスの飾り付けは残るし、セールもやっている。年末年始海外で過ごす人の出国ラッシュが昨日と今日らしい。こうやって初めて海外で年の瀬を過ごすのに矛盾しているが、日本で過ごした方がいいと思う。恒例の紅白を始めとする番組もこちらでは見られない。何となく正月気分が味わえない。雑煮はどうしようか?とりあえず炊飯器があるのでご飯は食べられるが・・。僕にとっては2年続いた伊勢参り(?)がやはり楽しみだったからである。恒例の若さまとのゴルフ・麻雀対決も楽しかったしね・・。まあ日本におけるほとんどすべてを振り切ってフランス入りしたわけだから、楽しいところだけいただこうというのは心がけとしてはまずかろう。
明日の大晦日はチェッカとのエションジェがあっていいのだが、元旦はとりあえず何もない。と言って誰かを誘って何かするだけの企画もない。昔に戻って初日の出を拝みにマラソンでもするかな?といったところ。
さて昨日幼少の思い出を書いたら、弟との齟齬が生じた。ちょっと意外だった。お互いにボケが始まったか、それとも記憶間違いか?気にしても仕方がないが、脱線してもう少しだけ書く。
いつだったか、年が改まる瞬間を目にしてやろうと思っていくつか試みたことがある。大晦日の夕暮れをずっと眺めていたけれど格別変わったことはなかった。お袋に「もうご飯だから家に入りなさい。」と叱られたくらいである。そう言えば我が家は大概大晦日に大掃除をしていたのだが、これが大変だった。小さい頃は夕方までかかったような気がする。年を経るにつれて要領がよくなったのか、適当にやったのかわからぬが、午後三時にはほぼ終了していた。餅つきは三十日の行事だったかしらん?我が家には石臼があって、この餅つきは大変だった。杵が重くて小さい頃はつけなかったが、小五くらいから少しずつやらせてもらえるようになった。これも一家総出で半日仕事である。ただつきたてのお餅はもうこたえられないくらい美味しくて、そのためには何としてもつき終わらないといけないのであった。雨が大敵である。大掃除は中止になるからいいのだが、餅つきはそうはいかない。雨の中、納屋の下でつく餅はつき方が不十分になることが多かった気がする。
話が脱線した。次は徹夜して、新神なるものの正体を見てやろうと思ったのだ。我が家は紅白の前に年越しそばを食べる。つまり夕食後、まもなく食べてしまうのである。紅白が終わり、行く年来る年が始まるとみんな寝てしまうのだが、その年だけは頑張って起きていようとした。NHKが1時半ころ終わった後、応接間でラジオを聞きながら頑張って起きていたが、「新神」なるものはとうとう現れなかった。ふらふらの状態で朝食を摂る時にオヤジに尋ねたら、「とっくに来ているよ。」といつものオヤジとは比べものにならないくらい上機嫌な上に、すっとぼけたことを言う。お袋と姉貴が馬鹿笑いしていた。元旦に(日曜日と祝日のすべても)日の丸を門柱に掲げるのは僕の仕事であった。よく忘れてオヤジに殴られていたが、日の丸の先につける玉をいつだか僕が割ってしまった。すごく叱られると思ったが、なぜか叱られなかった。しかもそれ以降旗を出さなくてもいいことになった。オヤジが丸くなったのかどうか僕にはわからない。
とにかく元旦の朝食ほど大事なものはない。雑煮を食べ、おせちの卵巻きを食べ、オヤジからお年玉をもらうのである。一年の楽しみがほぼこの一瞬に集約されていたと言っても過言でなかった。残りの364日はひたすらオヤジから叱られるのである。叱られなかった日は無い。ひどい時は一日二度叱られた。最悪である。部屋の持ち物はすべて庭に放り出され、家の中にも入れてもらえない。しかも子供を閉め出しておいて当のオヤジは忘れていることが多かった。この時だけはお袋が仏様に見えた。お袋にもよくいたずらをして叱られていたからである。
だから学校の先生はみんな優しく思えた。まず普通に話が通じるのだからたまらない。オヤジときたら、まず子供の言い分にいっさい耳を貸さない。まずゲンコツありきなのである。子供にしたら理由もわからずただ殴られるのである。一切説明はない。殴られた理由は自分で考えろというのがオヤジの方針であった。明治・大正生まれはみんなそうやって躾けられてきたのだろう。
でもオヤジが正座して書見台を使って読書したのを見たことがない。新しもの好きだったオヤジは早くから西洋机と椅子を買って、電気スタンドで読書していたらしい。それに反してお袋はいつも座り机だった。